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そこは、窓のない部屋でした。
白い壁に囲まれた六畳ばかりのその部屋には、新品のパイプベッドに時代がかった木製のワードローブ、姿見と、小物の納められた棚、あとは小さな文机があるばかりでした。
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私はパイプベッドの上で目を覚まし――いえ、我に返ったというべきでしょうか。眠っていたかどうか、私には確信が持てなかったからです――とにかく私の記憶はそこから始まりました。
それより以前の記憶が、私にはなかったのです。
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どうしてこの白い部屋にいるのか。
それより以前はどこにいたのか。
いえ、そもそも私がどこの誰であるのかという、ごくごく当たり前のことですら、わからなくなっていたのです。
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これが世に云う記憶障害というものでしょうか。
私は白いゆったりとしたシャツに、紺色のプリーツスカートを身に着けていました。服装に乱れや汚れはありません。
転んで頭を打ったとか、酒に酔って寝込んでいたとか、悪い人にかどわかされて酷いことをされたとか、そんなこともないように思われるのです。
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さてそうなると、いよいよ私には自分の置かれたこの状況がわかりません。
なにが不思議といっても、そんな状況であるにも関わらず、私自身にそれほどの焦りも不安もなかったということです(もちろん完全になかったとは言いませんが)。
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もうすぐ、誰かがやってくる。
ベッドの正面の壁にしつらえられた、ぴったりとした白いドアを開けて、もうじき誰かがこの部屋にやってくることを、何故か私は確信していました。
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果たしてそのとおり、不意にドアが開きました。
そして、私と同じくらいの年頃の青年が、おずおずとした様子で部屋の中に入ってきたのです。
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「――気分はどうだい?」
青年は私に尋ねました。
優しげな声でした。私を気づかう響きがありました。
彼は私を傷つけたりはしない、そう確信を持ちました。
まるで初めて親鳥を見た雛のように、そのことは私の中にごく自然に刷りこまれたのです。
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「ええ、平気です、ありがとう。ところで貴方は――?」
私は自分の発した言葉に、少なからず驚きを覚えました。
私は、自分に記憶がないことを彼に訴えるより先に、彼の名前を聞きたいと思っていたのです。
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青年はアサギと名乗りました。
「アサギ――。素敵なお名前ね」
私は嬉しくなりました。その名前の持つ響きに胸を打たれていたのです。
そして、同時に悲しくなりました。
そんな素敵な名前を持つ彼に対し、私は名乗るべき名前をどこかに落としてきていたのですから。
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「名前が、思い出せないの……」
うつむいた私に、アサギは優しく微笑みました。
「じゃあ、君に名前をあげるよ。
そうだな……。
……アイ。
アイっていう名前はどうだい?」
なんという嬉しい贈り物でしょう。
彼が私にくれた名前は、乾いた砂に水が染み込むように、すっと私の中に受け入れられました。
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「私はアイ――」
試しに口に出してみました。
唇はごく自然にその名前を紡ぎ出しました。
まるで、ずっと昔から口にしていたかのように。
案外、私の失くしてしまった本当の名前は、それだったのかもしれません。
それほど、しっくりくるのです。
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「僕はアサギ、君はアイ。――おそろいだね」
私が首をかしげると、彼は小さく笑いました。
「浅葱(あさぎ)色も藍(あい)色も、どっちも青の種類なのさ」
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彼がそう言った瞬間、私の視界――ふと見上げた真っ白な天井――にぱっと色が咲きました。
浅葱色――薄い青緑色。浅い海の水の中のような色。
藍色――浅葱よりも濃い青色。夜明け前の空のような色。
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気付くと天井は、もとの白い天井でした。
私はきっと、どちらの色も知っていたのでしょう。だから、彼の言葉で色が見えたのです。
その後、私は彼に記憶がないことを話し、彼は私がどうしてこの部屋にいるのかを話して聞かせてくれました。
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「――この部屋、窓がないだろう?実はここは、地下のシェルターなんだ。
この国は今、紛争状態にある。君はシェルターの入り口近くで倒れていたんだよ。
見たところ怪我はなかった。ただ、意識が戻らなかったからね。シェルターの中に運び入れて、介抱していたんだよ」
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なんということでしょう。
こうしている今も、地上では銃弾の雨が降り注いでいるというのでしょうか。
私はなんと幸運だったのでしょう。アサギのような優しい人間に助けてもらえただなんて。
幾度感謝の言葉を口にしても、言い足りないほどでした。
しかし、アサギは少し困った顔をして、私にそれを止めさせるのでした。
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「いいんだよ、気にしないで。
とにかく、しばらくはここで安静にしておいで。そのうち何か思い出すだろう。
僕は少々やるべきことがある。また様子を見に来るからね。
ああ、そうだ――」
部屋を去り際に、彼は私を振り返りました。
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「この部屋の外には、決して出てはいけないよ。
さっきも言ったけど、外は今、非常に危険なのだからね」
ドアがぱたんと閉まりました。
彼が出るなと云うなら、私はその禁を破ろうなどとは思いません。
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こうして、私と彼の生活が始まったのです。
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白い部屋での暮らしは、変化に乏しいものでした。
ここには何しろ、時計すらないのです。今が朝なのか、真夜中なのか、それすら私にはわかりません。
だからでしょうか。私の記憶は戻らないまま、意識もなんだかぼんやりしてしまい、眠っているのだか、目覚めているのだか、なんだか一向に判然としないのです。
私にとって、アサギがこの部屋のドアを開ける瞬間こそ覚醒の時であり、彼と過ごす時間こそが色の付いた時間だったのです。
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彼は様々な話を私にしてくれました。
空の話、花の話、水の話。
私は寝物語をせがむ子供のように、もっともっとと駄々をこねました。
彼の語るそれらの話には、いつも鮮やかな色が付いていました。
多くの場合、それはとりどりの青色でした。
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み空(そら)色、花色、水縹(みはなだ)。
深藍(ふかあい)、紺碧(こんぺき)、千草(ちぐさ)色。
鴨頭草(つきくさ)、瑠璃色(るりいろ)、勿忘草(わすれなぐさ)。
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不思議なのは、私がそれらの色味を、残らず白い壁や天井に、幻のように見ることができたということです。
私はきっと知っていたのでしょう。その色たちのことを。
自分の名前さえ忘れてしまった、この私が。
どこで生まれたかさえ思い出せない、この私が。
それはなんとも、奇妙にあべこべな話ではありませんか。
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――ある日のことです。
アサギは私に、一冊の古い本を渡してくれました。
それは分厚い植物に関する本でした。
と云っても、写真や挿し絵に色はなく、墨一色で書かれた本です。
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それからというもの、私はその本を読みふけりました。
それはもう、寝食を忘れるほど――そういえば、私はいつ寝て、いつ食べていたのでしょう?――とにかく夢中になっていたのです。
彼が私にくれたものです。
一番初めに贈ってくれた、アイという名前は、何度反芻(はんすう)したかわかりません。
それほど、彼のくれたものは私にとって大切なものになるのです。
一頁一頁、じっくりと。
一文字一文字、舌の上で転がすように読みました。
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ですので、最後の頁に挟まった、その写真を私が見つけるまでに、けっこうな時間が経っていたと思われるのです。何しろじっくり読んでいましたものね。
その写真に写っていたのは、青々とした葉が生い茂る木々が道の両側に立っている、公園のような場所でした。
そして、その公園に、二人の男女が笑顔で立っているのです。
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二人は笑顔でした。
男性は女性の方に手を回し、女性は首を男性の方にかしげて寄り添っていました。
幸せそうな二人でした。きっと彼らはお付き合いをしているのでしょう。
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見覚えのある顔でした。
この白い部屋に来る以前の記憶がない私が、見覚えのある顔と言ったら、そうはありません。
その二人は、アサギと私だったのです。
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ああ、これは一体どうしたことなのでしょう。
アサギはかつて、私にこう云いました。
私はシェルターの入り口に倒れていたと。介抱するために担ぎ入れたと。
私たちが顔見知りで、それも深い仲であったことなど、彼はおくびにも出していなかったのです。
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私はひどく混乱しました。
一体彼は、何を考えているのでしょう。
私は一体、何者なのでしょう。
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訊きたい。知りたい。尋ねたい。
私の感情は胸の中でぐるぐると渦を巻きました。
それでも、私の口からアサギへの問いかけは出てこなかったのです。
口にすればこの関係は壊れてしまう、歪んでしまうと恐れる気持ちから、私は訊きたくとも訊けなかったのです。
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しかし、この自分の気持ちを裏切る行いこそが、良くなかったのかもしれません。
この日を境に、彼の私を見る目が変わりました。
なんと云うのでしょうか。
これまで気づきもしなかったのですが、以前の彼の眼差しには、私に対するある種の期待が込められていたようなのです。
それがなくなって初めて気が付きました。
代わりに彼の瞳に浮かび上がってきたのは、深い、暗い色をした、あきらめの感情でした。
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私はただ、これまでの関係が続くことを願って口をつぐんだだけなのに。
一体、私の何がいけなかったのでしょうか。
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やがて、彼がこの部屋を訪れる間隔が、開いてきたように感じました。
先にも云いましたが、私の意識は彼の訪れとともに覚醒するのです。
彼が部屋の扉を開けなければ、私は時計もないこの部屋の中で、あいまいな時間を過ごすだけなのです。
ですから、彼の訪問の間隔が開いてきたと思うのも、ひょっとすると私の思い過ごしかもしれなかったのですが。
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そんなある日、ある変化が起こりました。
私のいるこの白い部屋に、見知らぬ人間が二人、訪ねてきたのです。
一人は小さな男の子でした。
「あなた、なんていう名前なの?」
「僕はコンだよ、アイお姉ちゃん」
私の名前を知っている。この子は一体誰のでしょう。
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「コン……くん?」
「そう、紺(こん)だよ」
この子もやはり、青の名前を持つ人間でした。
そして、もう一人の人間は、コンが小さな体で押す車椅子の上に座っていました。
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白髪の老人でした。
真っ白な、伸びた頭髪。山羊のような白いひげ。うつむき、顔は見えません。
入院患者が着る白い病衣からは、枯れ枝のような細い手足が覗いています。
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はじめ、彼は眠っているのかと思いました。
ところがおもむろに顔を上げたかと思うと、長い前髪を透かして、私の顔をじっと見つめてきたのです。
しばらくの間、私と彼は見つめあっていました。
いえ、一瞬のことだったかもしれません。
彼は、糸の切れた操り人形のように、首(こうべ)を垂れました。
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「じゃあねお姉ちゃん、もう来ることはないから」
コンはそう言うと、車椅子を押して部屋の出口の扉の前まで歩いて行きました。
なぜでしょうか。無性に悲しい気持ちになりました。
胸をかきむしりたい、大声を上げて叫びたい、そんなやるせない気持ちでした。
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shake
「行かないで!」
今まさに扉の外へと出て行く二人を、私は弾かれたように立ち上がって追いかけました。
そう、扉の外へ。
『この部屋の外には、決して出てはいけないよ』
そう、アサギに言われていた、部屋の外へ。
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shake
その時です。
後ろから、強い力で身体を引っ張られました。
私は思わずのけぞりましたが、その力の作用は一瞬のことで、すぐに前進する力が勝って、私は前のめりに倒れ込みました。
私の身体は部屋の外にありました。
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なんだったのだろうと背後を見ると、私の背後には長い一本の紐のようなものが部屋の中、ベッドの脇の壁までつながっていました。
紐のもう片方は、私の背中につながっています。
なんでしょう、これは。
いつからこんなものがつながっていたのでしょうか。
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ああ、それより私は、アサギの言いつけを破ってしまいました。
一時の感情に、まかせて、アサギとの、約束を、破ってしまったのです。
アサギ、は怒るでしょうか。
私、を責めるでしょうか。
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私は彼に、微笑みか、けてほし、かったのです。
はじめ、て出逢った、と、きのように。
たと、え、彼が私に、なにか、を隠していた、としても。
わたし、は。
アサギ、を。
あ、い――
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「――父さん?ああいや、クローンなんだから親子じゃないって言ってたっけ。
ねえ、アサギ?アイは止まっちゃったよ?
貴方との約束を破って、部屋の外に出て、電源ケーブルを引き抜いて止まっちゃった。
この子はどうして急にこんなことしたんだろうね。
そんな命令、入ってもいないはずなのに。
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貴方も貴方だ。
昔死んだ恋人――青子だっけ?と同じ姿かたちをしたAI(人工頭脳)なんか作って、何をしたかったんだい?
この60年間、一体なにを。
ねえアサギ、聞いてるかい?
寝てるのかい?
ねえってば――」
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問いを繰り返す少年。
背後には真っ白な箱型の建物。
その開け放たれた扉の前に倒れた少女。
辺りは何もない、ひたすら広がる草原。
冷たい風が吹き、草花を揺らす。
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彼らの頭上には雲ひとつない空。
白くまぶしい太陽。
紺碧の、空。
作者綿貫一
こんな噺を。