中編3
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耳鳴りの丘

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灰色の空を背負う小高い丘に、男が一人、立っている。

薄汚れた茶色いコートの裾(すそ)を、吹きすさぶ風になびかせながら、立ち尽くしている。

辺りは一面、ひざ丈ほどの枯れ果て乾いた雑草が生い茂っている。

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そこらここらにぽつぽつと、真っ黒な枯れ木と岩がうわっている。

枯れ木は、頭のいかれた前衛舞踏家のように、枝と幹を奇妙にくねらせている。

岩は、行き倒れた旅人がそのまま伏して丸くなったかのようである。

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冷たく激しい風が、ざわざわと、ぼーぼーと、ぎりぎりと、草と岩と枯れ木を奏でる。

まるで亡者の声のように。

男の立つその丘は、耳鳴りの丘と呼ばれていた。

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男は老いていた。

若干黄を帯びた銀色の毛髪と髭が、彼の頭を覆っていた。

背は少しだけ曲がっている。

焦点の惚けた瞳は、水面のように荒野を映していた。

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男は裕福だった。

誰もがうらやむ程の富と栄誉を持ち、彼を囲む人々から、尊敬と愛情を受けて生きてきた。

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それは男の意思の他に、めぐりあわせもあったのだろう。

若い頃の彼は気力、体力、野心と云った多くのものを持ちあわせていたが、代わりに金も栄誉も持たぬ、貧しい青年だったのだから。

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老いた彼は手にしたすべてを捨て、この丘にやってきた。

そして粗末な、隙間だらけのほったて小屋を、終(つい)の住処に定めた。

小屋の横に作った、猫の額ほどの畑に芋を植え、その作物と、乾いたパンと、わずかばかりの葡萄酒で、残り少ない命を繋いでいた。

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生き続けるための最低限の行動以外、男にすることべきことはなかった。

だから、1日の大半を、男はこうして丘に立ち尽くすことに費やすのだった。

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風が吹く。

枯れ草が海原になる。

荒野の丘に、男以外の命はない。

虫の一匹、鴉(からす)の一羽も、男の目に映る景色の中にない。

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どれ程の時間が過ぎただろう。

陽の射さぬこの丘では、時の流れは曖昧模糊としている。

観測する者がなければ、時間はただ連面と、濁った河のようにドロドロと、流れ過ぎるばかりである。

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不意に彼方の草むらから、何かがゆっくりと頭を覗かせた。

起き上がり、立ち上がったのだ。誰かが。

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男は夜明け前からこうして景色を眺めていた。

だから誰も、彼に気付かれることなく、その景色の中に入ることは叶わない。

しかしその誰かは、あたかも初めからそこにいたかのように、今、ゆっくりと荒野に立ち上がった。

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黒い人影。

長い髪の女だった。

女は、表情もわからぬ遠くから、男の方を向いて立っていた。

女の口が微かに動く。

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――恨めしい

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男の目にはそう云ったように視えた。

荒野に強く風が吹く。

風が長く伸びた彼の前髪を巻き上げ、一瞬視界を奪う。

再び戻った視界の中、女は先ほどの位置から大きく男に近付いた位置に立っていた。

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――貴方は私を裏切った

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あれは、かつて男が若く貧しかった頃に、愛し合っていた女である。

男は野心のために女を捨て、別の女と添った。

女は命を断った。

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死んでしまえば贖罪は叶わない。

死んでしまえば再び出逢うことはできない。

だから彼は此処に来た。

命のないこの丘にやって来た。

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女の口が動く。

風が強く吹く。

ざわざわと、ぼーぼーと、ぎりぎりと、草と岩と枯れ木が啼(な)く。

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男は怖れるでもなく、厭(いと)うでもなく、只、女を映し続ける。

これが男の望んだ最期である。

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嗚呼――まったくもって愚かしく、滑稽な光景であった!

男はすでに耄碌(もうろく)していたのだろう。

男が、彼女の憎しみをもってまで繋ぎ止めたかった恋しい女の姿、それは男の身勝手な幻想だ。

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彼女は男の前にはいない。

彼女は男の背後にこそいた。

この冥府に繋がる丘に、足を踏み入れたその時から、男の背後を片時も離れずとり憑いていた。

とっくに出逢えていたと云うのに、まだ幻想の女を追っている。

愚かな――男だ。

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ざわざわ、

ぼーぼー、

ぎりぎり。

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女は彼の耳元で、怨嗟の言葉を囁き続ける。

どうして自分を捨てたのか、と。

貴方を愛していたのに、と。

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愚かな――女だ。

滑稽だと云うのだ。

老いた男の耳はもう、何も聴こえてはいなかったのだから。

耳鳴りの丘が、風に啼く音すらも。

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