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灰色の空を背負う小高い丘に、男が一人、立っている。
薄汚れた茶色いコートの裾(すそ)を、吹きすさぶ風になびかせながら、立ち尽くしている。
辺りは一面、ひざ丈ほどの枯れ果て乾いた雑草が生い茂っている。
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そこらここらにぽつぽつと、真っ黒な枯れ木と岩がうわっている。
枯れ木は、頭のいかれた前衛舞踏家のように、枝と幹を奇妙にくねらせている。
岩は、行き倒れた旅人がそのまま伏して丸くなったかのようである。
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冷たく激しい風が、ざわざわと、ぼーぼーと、ぎりぎりと、草と岩と枯れ木を奏でる。
まるで亡者の声のように。
男の立つその丘は、耳鳴りの丘と呼ばれていた。
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男は老いていた。
若干黄を帯びた銀色の毛髪と髭が、彼の頭を覆っていた。
背は少しだけ曲がっている。
焦点の惚けた瞳は、水面のように荒野を映していた。
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男は裕福だった。
誰もがうらやむ程の富と栄誉を持ち、彼を囲む人々から、尊敬と愛情を受けて生きてきた。
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それは男の意思の他に、めぐりあわせもあったのだろう。
若い頃の彼は気力、体力、野心と云った多くのものを持ちあわせていたが、代わりに金も栄誉も持たぬ、貧しい青年だったのだから。
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老いた彼は手にしたすべてを捨て、この丘にやってきた。
そして粗末な、隙間だらけのほったて小屋を、終(つい)の住処に定めた。
小屋の横に作った、猫の額ほどの畑に芋を植え、その作物と、乾いたパンと、わずかばかりの葡萄酒で、残り少ない命を繋いでいた。
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生き続けるための最低限の行動以外、男にすることべきことはなかった。
だから、1日の大半を、男はこうして丘に立ち尽くすことに費やすのだった。
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風が吹く。
枯れ草が海原になる。
荒野の丘に、男以外の命はない。
虫の一匹、鴉(からす)の一羽も、男の目に映る景色の中にない。
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どれ程の時間が過ぎただろう。
陽の射さぬこの丘では、時の流れは曖昧模糊としている。
観測する者がなければ、時間はただ連面と、濁った河のようにドロドロと、流れ過ぎるばかりである。
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不意に彼方の草むらから、何かがゆっくりと頭を覗かせた。
起き上がり、立ち上がったのだ。誰かが。
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男は夜明け前からこうして景色を眺めていた。
だから誰も、彼に気付かれることなく、その景色の中に入ることは叶わない。
しかしその誰かは、あたかも初めからそこにいたかのように、今、ゆっくりと荒野に立ち上がった。
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黒い人影。
長い髪の女だった。
女は、表情もわからぬ遠くから、男の方を向いて立っていた。
女の口が微かに動く。
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――恨めしい
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男の目にはそう云ったように視えた。
荒野に強く風が吹く。
風が長く伸びた彼の前髪を巻き上げ、一瞬視界を奪う。
再び戻った視界の中、女は先ほどの位置から大きく男に近付いた位置に立っていた。
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――貴方は私を裏切った
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あれは、かつて男が若く貧しかった頃に、愛し合っていた女である。
男は野心のために女を捨て、別の女と添った。
女は命を断った。
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死んでしまえば贖罪は叶わない。
死んでしまえば再び出逢うことはできない。
だから彼は此処に来た。
命のないこの丘にやって来た。
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女の口が動く。
風が強く吹く。
ざわざわと、ぼーぼーと、ぎりぎりと、草と岩と枯れ木が啼(な)く。
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男は怖れるでもなく、厭(いと)うでもなく、只、女を映し続ける。
これが男の望んだ最期である。
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嗚呼――まったくもって愚かしく、滑稽な光景であった!
男はすでに耄碌(もうろく)していたのだろう。
男が、彼女の憎しみをもってまで繋ぎ止めたかった恋しい女の姿、それは男の身勝手な幻想だ。
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彼女は男の前にはいない。
彼女は男の背後にこそいた。
この冥府に繋がる丘に、足を踏み入れたその時から、男の背後を片時も離れずとり憑いていた。
とっくに出逢えていたと云うのに、まだ幻想の女を追っている。
愚かな――男だ。
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ざわざわ、
ぼーぼー、
ぎりぎり。
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女は彼の耳元で、怨嗟の言葉を囁き続ける。
どうして自分を捨てたのか、と。
貴方を愛していたのに、と。
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愚かな――女だ。
滑稽だと云うのだ。
老いた男の耳はもう、何も聴こえてはいなかったのだから。
耳鳴りの丘が、風に啼く音すらも。
作者綿貫一
こんな噺を。
聖蹟桜ヶ丘に「耳すまの丘」ってのがありましたね。
ジブリ映画の聖地の……。