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私は学生時代登山部だったのですが、クラスで一番親しい友人が釣りサークルに入っていて、誘われるまま、当時ふた月に一度は釣りに出掛けていました。社会人になってからも海にはよく行っていたのですが、渓流釣りには何となく行きそびれていたので、昨年5月の連休明けに、店が忙がしくててんてこ舞いだったRさんを、慰安のつもりで誘ってみたのです。
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彼は即座に、やんわりと断りました。
「渓流釣りか~やっぱり止めときましょう」
「渓流釣りか~」と言った時の表情が満更でもなかったので、「捕ったばかりのイワナ、塩焼きにして熱燗をクイ。最高だけどな」と試しに餌を撒くと、
「最高だろうなあ」軽く食い付きます。
どうやら川魚が苦手という訳でもなさそうなので、断る理由を尋ねてみました。
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「川とか海とか、苦手なんすよ」
彼はそう言うと、まだ小学二年生だった頃の話をしてくれたのです。
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物心がついた時からRさん、他人には見えないモノが見えていて、かなり苦労していたようです。
彼の祖母に多少霊感があったらしく、幼い頃はそれが大きな救いでした。もしも身内に理解者が一人もいなかったら、いわく「小学校に進むまでに確実に発狂していた」との事。
特に海は大の苦手で、夏期に催される臨海学校などは彼にとって、まさに地獄に堕ちろと言わんばかりの行事だったのです。
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それでも、お化けが怖いからといって参加しないわけにはいきません。
彼は笑います。
「前の日から氷水ガブガブ飲んで、わざと腹出して寝るんです。だけど全然効かなくて。一年の時は効いたのに」
行きのバスの車内からもう、海との闘いが始まります。私には到底理解出来ないのですが、海を意識しただけで、潮のかおりと共にどこからか不気味な囁きが聞こえてくるのだとか。
陸の幽霊との違いは、大雑把に言えば、化け物率の高さだそうです(笑)。
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「宿舎に着くなり顔面蒼白ですよ。昼間っからこれかよ!!一体どこで寝ろっていうんだよ!!て感じ。その頃はもう、何言っても信じちゃくれないと判ってたんで〈殺すなら殺せ!!〉って心境」
半ばやけくそで浜辺に出ますが、遠目からでも、(引きずり込んでやる)と、殺る気満々の腕がいくつも見えます。
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Rさんはトイレに隠れようとしますが扉の下からはみ出した髪の毛を見、松の木陰に身を隠そうとすれば、そこには首の長い女がいたりして右往左往していました。
そんな時ばったりと、常々クラスで気になっていた愛ちゃんと出くわします。
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「R君泳がないの?」
「……」
怖くて泳げない、とは口が裂けても言えません。
そうでなくても変わり者扱いで、いつもハブられていたRさんに、何かと気を使ってくれる彼女にまで馬鹿にされたら人生終わりです。
「今から泳ごうと思ってたとこ」
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男のプライドだけで波に近付いた彼ですが、頭の芯からぎょっとしました。
死体が浮いていたのです。
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赤黒くパンパンに膨れ上がったそれは猛烈な悪臭を放っていました。皮膚は溶けたようにズルズルであちこちが剥がれ落ち、頭はブヨブヨ。魚に食われたのか眼球は無く、舌は飛び出しています。髪の毛は全て抜け落ちて、男女の判別が出来ないほどの腐乱死体でした。
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Rさんは後ろにいる愛ちゃんに「見ちゃ駄目!!」と言おうとして振り返ります。
その時、不思議な事が起きました。
突然、周囲全ての動きが停止したのです。彼自身は普通に動けるのに。
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愛ちゃんはあらぬ方向に目を向けたまま、声を掛けても微動だにしません。呆然としていると、なんと今度は目の前で愛ちゃんが消失します。驚いて周囲を見渡すRさん。浜辺には人っ子1人いなくなっていました。
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「宿舎も、屋台も、ビーチパラソルも、そのままあるのに誰もいないんですよ。焦ってると、どこからともなく話し声がしてきたんです。聞き耳を立てるとそれ、外国語かと思うほど訛ってる方言丸出しの男の声なんです。だけど、不思議な事に何言ってるのか、はっきり解るんですよ」
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「人間が紛れ込む事もあるんだな」
「あれを見ちまったか」
「良かったなあ、たまたま俺たちが通りがかって。下手すりゃあの子、基地外にされるで」
声のする方に目をやると、三角の帽子を目深に被った集団がRさんの方に顔を向け、口々に何か言っています。見たこともない衣装に身を包み、手には皆、先っぽに飾りの付いた長い棒を持っていました。
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Rさんはきょとんとするばかりです。ただ、怖さは微塵も感じません。
すると中の一人が歩み出て来て帽子のひさしを上げ、目で合図します。
「坊主、よく見ろ。ありゃあドラえもんじゃねえぜ」
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「ドラえもん?!」すかさずツッコミを入れる私。
「良かった~スルーされたらどうしようと内心びくびくでしたよ。実は僕、それから2、3年はドラえもんだと思ってて、そういえばゴンジイ、あの時、面白い事を言ったよなあ、て」
「ゴンジイ?」
「そのおじさんの名前ですよ。土左衛門ですね。ドラえもんて体型があれだから、そう聞こえたってのもあるんですけど。馬鹿でしょ?」
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「Rさんは時々、話にネタはさむから油断できない」
「ちゃんと聞いてるかどうか、チェックしてるんすよ」
脱線しましたが、私とRさんが長話する時は大抵アルコールが入っているので、いつもこんな感じで話が進んでいきます。
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Rさんは愕然としました。死体だった筈のソレが手足をばたつかせているのです。ただの穴だった眼窩には、いかにも悲し気な大きな瞳が宿っています。
「苦しかったろ?今、楽にしてやっからな」
一番背の高い男が一言そう言うと、胸の前に手を合わせ、信じられないほどの透き通った声で読経を唱え始めました。
他の男たちが長い棒をソレに振りかざします。
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シャリーン!!シャリーン!!シャン!!シャン!!シャン!!シャン!!シャン!!
「知らない楽器だと思って見てましたね。迫力があって、それでいて優しい。読経の声がまたいいんです。水平線のずっと先まで届きそうな澄み切った声で。オフコースの小田和正が歌ってる感じ」
「おおおマジか」
「あれ聴いたから断言しますけど、ダミ声じゃ成仏出来ません。やっぱ爽やかじゃないと」
「今日のRさん面白過ぎ」
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シャリーン!!シャリーン!!シャン!!シャン!!シャン!!シャン!!シャリーン!!シャリーン!!シャン!!シャン!!シャン!!シャン!!
何万、何十万の鈴が一斉に打ち鳴らされているような、錫杖の荘厳な調べに呼応するかのように、おぞましいとしか言い様の無かったソレがみるみる生前の姿に戻っていきます。裸だったのにいつの間にかスーツまで着ていました。
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ふと沖に目を向けると、水面からいくつもの光の玉が舞い上がり、天に昇っていくのが見えます。
空は雲ひとつなく光輝いていました。
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Rさんは幼いながらに感動して見ていると、
「おい小僧、お前はいつまでここにいるんだ?」
隣に立っていた男が話し掛けてきました。
「今日と明日の2日」
Rさんが答えると、
「怖くて泳げねえだろ?」
とおじさん。
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Rさん思いっきり頷きます。
「よっしゃ、わしらがな、安心して泳げるようにしてやる。夜もちゃんと眠れるようにな。どんな化け物がおってもな、お前には一切近付けんように守ってやる」
「ホントに?!」
目を輝かせるRさんの頭を優しく撫でながら男は言ったそうです。
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「この先、怖い事があったら<ゴンジイ助けて>と心の中でお願いしろ。いつでも構わん。その代わりと言っちゃあ何だが、お前が死ぬ時、仲間になれと頼みにいくかも知れん。いいか?」
Rさんはここぞとばかり、ちぎれんばかりの勢いで首を縦に振ったのです。
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「気付いたら一人浜辺に座ってボーとしてました。少なくとも一時間は行方不明になっていた筈なのに騒ぎにもなっていません。愛ちゃんも、何事も無かったように普通に泳いでたなあ」
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それからのRさんは事あるごとにゴンジイを呼びつけ、召使のようにこき使ったそうです。
「小学生の間だけですけどね。中学に上がってからは流石に遠慮してます。姿は見せないんですけど、<来たよ>の合図にシャリーンと一回錫杖を鳴らしてくれるんです」
「じゃあ渓流釣りの時ゴンジイ誘いましょうよ」と私。
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「釣りするから来てくれって?(笑)。実は僕、見なくてもすむ方法をゴンジイに教わって知ってるんです。でも、苦しんでいる霊を見ると無視できなくてついつい話を聞いちゃう。だけどそれやると次から次へと、もう、キリがないんです。だから、霊の多そうな場所には、なるべく近付かないようにしてるんです。彼らみたいに、まとめて成仏させられる力があればいいんでしょうけど」
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「Rさん優しいからな」
「普通の感情があれば、誰でもそうなると思いますよ。子供の頃はただただ怖かっただけですけど、今は、悪霊なんて、ほんの一握りしかいないって判ってますから」
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私は気になっていた事を尋ねてみました。
「もしもスカウトに来たら、Rさん、どうするつもり?」
彼は笑って答えません。
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「ゴンジイたちはまるで、自らの意志で地獄にとどまる地蔵菩薩ですよ。彼らは永遠に錫杖持って歩き続けるでしょう。楽したいなんて、これっぽっちも考えちゃいない。ま、その時に天涯孤独だったら考えますよ」
(Rさん、お地蔵さんになっちゃうのかな)私はふとそう思い、何故かその時、無性に寂しくなったのを覚えています。おかしいですよね。石になる訳でもないのに。
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「川も化け物が多いの?」
何となくしんみりしていた私ですが、何気なく呟いたその一言が、思わぬ展開を呼ぶ事になります。
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「化け物化け物言いましたけど、海に出る化け物ってほぼ100%、元は人間だったって判る姿かたちで出るんです。さっき話した土左衛門の幽霊もそうですけど」
「え?川は違うの?」
「川っていうより山ですね。◯◯(私)さん、スクリームって映画、観た事あります?」
「はい!?」想定外の質問に思考が付いていきません。
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「口をパッカリ開けた、骸骨の成り損ねみたいなマスク被って人殺すやつ」
「ありますけど…ムンクの叫びみたいな」
「それです、それそれ。◯◯さんが僕を誘ったの渓流じゃないすか?」
「……」
「渓流ていったら、山の中、入っていくじゃないですか」
Rさんは煙草に火を点け、フーと煙を吐き出すと苦笑いを浮かべ、こう言ったのです。
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「僕、見たんですよ。とんでもないモノを」
作者オイキタロウ
ラーメン屋シリーズ第三弾です。多少書き直しました。次回予告も付けました(笑)。