茹だるような暑さもピークを迎えつつある、8月の上旬。俺は不思議な経験をした。
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25歳の頃、考え方がまた幼稚だった俺は、上京を夢見て、日夜両親と喧嘩をする毎日だった。田舎の小さな豆腐工房を営んでいる実家の一人息子だった俺には、職業選択という道はなく、豆腐屋の3代目として名を残すことが、生まれた時から決まっていたのだ。そんな敷かれたレールの上を走る人生に嫌気がさしていた故の上京への夢は、底知れず俺の気持ちを荒ぶらせた。
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その年の冬、父との口論の末に生まれて初めて母を殴ってしまった。
俺と父の喧嘩の仲裁に入った母の頬に不可抗力で俺の拳が入ってしまったのだ。
切れた唇から鮮血が床にポタリと落ち、一瞬呆然と床に座り込んだ母は、頬を撫で、泣き出すかと思ったが、母は俺を優しく見上げ、告げる。
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「浩ちゃん、母ちゃんは大丈夫。大丈夫やけ。」
俺に掴みかかる父を振り払い、絶縁覚悟で家を飛び出した。
最期に見た父の顔は怒っているのか、悲しんでいるのか、良く分からなかった。
母の小さな背中を、俺は見ることが出来なかった。
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あれから15年。
東京に就職して、何とかやりくりしていた俺は、既に実家との縁を完全に絶っていた。
携帯も買い替え、新しい住所は教えず、何もかもの痕跡を消して生きて来た。
最初のうちは、小さなホームシックにもなったが、仕事や私生活に追われ、自然と家族を思い出す時間と余裕もなくなっていた。
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そんなある夜のこと。
何故かクーラーが故障し、部屋はじっとりと暑く、窓を開けても寝苦しい夜を過ごしていた。
「…暑い。」
何度目かの寝返りの後、あまりの寝苦しさに俺は身体を起こし、冷蔵庫の缶ビールを開けた。
冷たいビールが喉を通っていく感覚は、とても心地よかった。
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____♪
携帯の着信音が鳴る。
時計を見ると、深夜の2時を少し回ったところだ。
「誰だよ。こんな時間に。非常識だな。」
≪非通知≫と表示されている液晶画面を何秒か見つめ、通話ボタンを押した。
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「もしもし?」
「…………」
「もしもーし?悪戯電話か?」
「…………」
問いかけても返事がない。
舌打ちをし、電話を切ろうとした時、向こう側から声が聞こえた。
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「…浩ちゃん。」
思わず携帯を床へ落としてしまった。
15年経とうが、忘れるはずの無い。それは紛れもない母の声だった。
俺は携帯を手に取り、再び耳へあてる。
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「…母さん?」
「浩ちゃん、久しぶりね。元気にしとる?」
「…まあ、うん。そこそこに。」
「そうかい、それは良かったよ。」
どうして母が俺の携帯電話の番号を知っているのか。
何故、こんな時間に?
そんな疑問はいくつも脳内を飛び交ったが、俺には伝えたいことがあった。
この15年間、伝えられなかったことだ。
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「母さん。」
「ん?何?」
「俺、その…」
「浩ちゃん、母ちゃんは大丈夫。大丈夫やけ。」
その言葉に、あの日の記憶が鮮明に脳裏を駆け巡った。
考えるよりも先に言葉が出た。
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「母さん、本当にごめん。俺、あんなことするつもりは無かったんだ。言い訳にしか聞こえないと思うけど、偶然あんな風に母さんを殴る形になっただけで、俺は…俺…」
「分かってるよ。」
母さんの優しい声が心地よく響く。
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「虫も殺せないような、アンタが、母ちゃんを殴るわけ無い。偶然が重なっただけ。」
「母ちゃんね、浩ちゃんが大好きよ。」
「アンタは、気が小さいくせに、変に強がって。」
「あの一件をずーっと気にしてるんじゃないかって、あたしゃそれだけが心配で。」
気が付くと俺の頬は涙で濡れていた。
何度も何度も、電話越しの母に「ごめん、ごめん。」と呟いた。
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「…母さん、次の休みに俺、実家に帰るよ。」
「そうかい。それは嬉しいねえ。お父さんも喜ぶよ。」
「絶対、帰るから…」
「待ってるからね。浩ちゃんの大好きな夏みかんを用意してるから。」
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ピピピピッ__ピピピピッ__
目指しましの音で目を覚ます。
昨夜のは夢だったのだろうか。
テーブルには開いたままでぬるくなった缶ビールが置かれていた。
床には充電の切れた携帯が転がっている。
…夢でも良い。会いに行かなくては。
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それから3日後、休日を使い、俺は15年ぶりになる故郷へと帰ることになった。
新幹線に揺られながら、通り過ぎる街並みがビルから山々へと変わっていく様子を見ていた。
新幹線を降りた後は、ローカル線、バスを経て、ようやく実家に着いた。
庭には、眩しいくらいにオレンジ色に光る夏みかんがいくつも生る木が植わっている。玄関の前には、母が趣味で植えた色とりどりのパンジーが咲いていた。
一呼吸を置いて、俺は玄関の扉を叩く。
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少しして、扉が開くと懐かしい両親の顔がそこにはあった。
「おかえり、浩ちゃん。」
笑顔で俺を迎える母の姿。
「久しぶりだな。」
ぶっきらぼうに言葉を投げる父の姿。
15年の歳月で、2人は随分と歳を取ったように感じた。
「…ただいま。」
そういって、俺は15年ぶりの我が家に足を踏み入れた。
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通された居間は、15年前と何一つ変わっていなかった。
微かに香るこの匂いは豆腐工房から来る大豆とにがりの香りだ。
何もかも懐かしく感じた。
台所から切った夏みかんを運んできた母。
俺はそれを一口頬張る。
涙が出た。
腕で零れる涙を拭いながら、夏みかんを次々に口内へ放り込む。
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「父さん、母さん、本当にごめん。ごめんなさい。ごめんなさい。」
何度も謝る俺の手を母が握る。
俺の頭を父が撫でる。
「ふふっ…全く困った子だねえ…」
「お前、男のくせに泣くんじゃない。みっともねえ。」
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ようやく俺は、この家の家族に戻れた瞬間だった。
いや、両親からすれば、15年前から変わらず、俺は家族の一員だったんだろう。
子供のように泣きじゃくる俺に、両親はずっと寄り添い、言葉を掛けてくれた。
夕方になり、俺は次の日の仕事もあるからと帰り支度を始めた。
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「浩ちゃん、これ持って帰んなさい。」
そういって母が持たせてくれたのは紙袋に入った夏みかんだった。
「たまには、帰って元気な顔見せろよ。次は泣くんじゃねえぞ?」
そういって茶化す父に「うるさい。」と小さく笑った。
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玄関まで見送りに来てくれた2人に俺は言った。
「父さん、母さん、ありがとう。」
笑顔で頷く2人。俺は玄関の扉を閉めた。
家に背中を向けた時、ふわりと風が俺の頬を撫でた。
もう一度振り返った眼前には、崩れた民家が建っていた。
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「…え?」
扉が壊れ、埃まみれで、所々に蜘蛛の巣がはってある、今にも崩れそうな民家だ。
あれほど眩しく実っていた夏みかんの木も、ただの枯れ木として腐りかけた枝をもたげている。
俺はその民家に足を踏み入れた。
「父さん?母さん?」
呼びかけに帰って来る声は無い。
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「浩一ちゃんかい?」
後ろで声がした。
振り返ると、そこには1人の70代くらいの女性が立っていた。
「浩一ちゃん!いやあ、えらい大きくなって…!」
「………」
「秋江おばちゃんよ!覚えてない?」
その人は、俺の家の近所に住む人だった。
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「あ、あの…父さんと母さんは…」
混乱の渦に突き落とされた俺は、そう問うことが精一杯だった。
秋江さんの表情が曇る。
「信二さんと涼子さんは5年前にね…。信二さんが心筋梗塞で急に倒れちゃって、すぐ亡くなったのよ。涼子さんは信二さんの後を継いで、豆腐工房を切り盛りしてたんだけど、無理がたたって、その翌年に亡くなったの。」
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身体が震えた。声が出ない。
フラフラと秋江さんの前を通り過ぎたところで、全身の力が抜けた。
ドサッ___。
夏みかんが入っていたはずの紙袋の中身は空だった。
どうして、何で、さっきまで、一緒に、笑って、泣いて、どうして___。
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秋江さんは俺の肩をそっと叩いた。
「ついておいで。」
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秋江さんに案内されたのは、両親の墓前だった。
抜け殻のように、墓を見つめる俺に、線香を手向けながら秋江さんが話す。
「2人ともね、浩一ちゃんが大好きだった夏みかんを大事に大事に育ててたよ。」
「今は、東京で仕事が忙しいから帰って来れないんだ。」
「来年の夏にはきっと帰って来る。」
ってね、ニコニコしながら話してたよ。
枯れたはずの涙がまた、溢れる。
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秋江さんは、続けた。
「浩一ちゃん、たまにはこうやって帰って来てやってね。2人とも、浩一ちゃんが大好きなんだ。」
俺は頷くことしか出来なかった。
秋江さんは静かにその場を去って行った。
残された俺は、両親の墓前でさめざめと泣きながら、何度も墓石を撫でた。
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「浩ちゃん、大丈夫よ。」
母の声がした。
「浩一、もう泣くんじゃねえ。」
父の声も聞こえる。
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周りを見回す。2人の姿があるはずもない。
ふと、傍らに置いていた紙袋が視界に入った。
夏みかんが入っている。
俺は、一つ掴み、皮を剥いて食べた。
甘くて、少し酸っぱくて…懐かしい実家の夏みかんの味だ。
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「浩ちゃん、また夏みかん食べに帰っておいでね。」
「今度は綺麗な嫁さんでも連れて来い。」
両親の声に俺は小さく頷いた。
これは、夏が見せた幻だったのか。
ゆらゆらと見える蜃気楼のような錯覚だったのか。
紙袋を持つ手に掛かる、優しい重みを感じ、俺は両親の墓を背に歩き出しながら約束をした。
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……
「父さん、母さん。また来るよ。」
作者雪-2
暑い夏の果物と言えば、夏みかん。
そんな夏みかんをモチーフにした創作を考えてみました。
…なんとなく物足りない気もするのですが…。
皆様が楽しめるような作品になっている事を祈って…!!
※誤字脱字などがあればご指摘よろしくお願いします※
同タイトルでリクエストに応えて下さいました。
ざわわ様より
【夏みかん】http://kowabana.jp/stories/29638
Thanks.
↓7月アワード受賞作品↓
【トモダチ △】怖40
http://kowabana.jp/stories/29158
↓8月投稿過去作品↓
【曾祖母ちゃん】怖24
http://kowabana.jp/stories/29409
お時間のある時のお目汚しになればと思います。