「コピ・ルアクって知ってる?」
家で妻が作ってくれた夕飯を食べていると、目の前に座った彼女が、そう話しかけてきた。
nextpage
今夜のメニューは、カレーに、付き合わせのピクルス、バジルを混ぜ混んだお手製ウインナーにサラダ、それにコーヒーだ。
妻は大のコーヒー党で、彼女に付き合っているうちに、僕もコーヒー無しでは生きられない体になってしまった。
夕食の時でも、コーヒーが欲しくなる。
nextpage
「コピ、なんだって?知らないなぁ、なんのことだい?」
僕はウインナーを頬張りながら、妻に応える。
ジューシーで薫り高く、とても旨い。
nextpage
「コピ・ルアクはコーヒー豆の一種よ。
とっても美味しいんだけど、希少で、ちょっと高価な豆なの」
妻は得意気な顔になって言った。
nextpage
「インドネシアの島々で作られていて、『コピ』はコーヒーを表すインドネシア語、『ルアク』はジャコウネコの現地での呼び名よ。
直訳すると『ジャコウネココーヒー』になるのかしら」
nextpage
ふうん――カレーライスを口の中に掻き込んで、モゴモゴと相づちを打つ。
カレーもレトルトではなく、凝り性な妻の手作りだ。体中の汗腺が開くような辛さ。混ぜ込まれた各種スパイスの薫り。旨い。
nextpage
「このコピ・ルアクなんだけど、ちょっと変わってるの。
このコーヒーが持つ、独特の複雑な香味は、ジャコウネコのおかげで出来上がるのよ。
というのは、ジャコウネコが餌として食べたコーヒーの木の果実、その『消化できずに身体から排出された』種こそ、コピ・ルアクのコーヒー豆になるからなの」
nextpage
それってつまり――僕が口に含んでいたコーヒーをゴクリと飲み込むのと同時に、妻が言った。
「そう、コピ・ルアクはジャコウネコの糞から出来てるの。」
彼女はどーだ、といった表情で笑った。
nextpage
「一説には、ジャコウネコの腸内にある消化酵素や、腸内細菌による発酵のおかげで、コーヒーに独特の香味が加わると言われているの」
何が本当かはよく知らないけど、と最後の最後で主張をぼやかす妻だった。
nextpage
「で、お味はどう?」
「これ……そのコピ・ルアクなのかい?」
ニンマリ笑う妻。
nextpage
確かに、これまで一度も飲んだことのない味と香りのコーヒーだとは思った。
僕は嫌いではないが、好き嫌いが別れそうな味だな、と思った。
猫の糞から出来ている、と言われても、コーヒーの形で出されるなら抵抗もなかった。
nextpage
「私もあなたも猫好きだから、このコーヒーにも舌が合うのかもしれないわね。
好きなモノの身体から出てきたモノなら、美味しく感じるのよ、きっと。
ところで、今日のソーセージ、美味しい?」
nextpage
妻が笑顔で訊いてくる。
妻の手作りソーセージ。
分厚くて、噛むとたっぷりの肉汁と、練り込まれたバジルの香りが口の中に溢れ出す。
nextpage
「……美味しかったよ」
僕の皿の上に三本出されたソーセージ。そのうちの二本はすでに胃の中だ。
そうよかった、と妻が微笑む。
nextpage
「私、頑張って作ったのよ?まだおかわりあるから、たくさん食べてね。
ところで、ピクルスはどうだったかしら」
nextpage
キュウリに人参、セロリにミニトマト。
妻が手製で漬けたものだ。
ほどよい発酵具合。
食べやすいように、小さめにカットしてある。
nextpage
「……美味しかったよ」
皿の上にはミニトマトのピクルスだけが残っている。
あとはすでに胃の中だ。
そうよかった、と妻が微笑む。
nextpage
「ミニトマトは形が崩れないようにするのが意外に大変なの。残さず食べてね。
ところで、カレーはどうだったかしら」
nextpage
体中の汗腺が開くような辛さ。
混ぜ込まれた各種スパイスの薫り。
細かく砕かれた具材。
nextpage
「……」
うつむいた僕の顔を覗き込む妻。
nextpage
「あら?美味しくなかった?」
「……いや、美味しかったよ」
重くなった口を動かし、なんとか応える。
そうよかった、と妻は微笑んだ。
nextpage
「なあに、黙りこんじゃって。
あ、もしかして、今日出した料理を私が……コピ・ルアクしたと思ってる?」
僕はじっと彼女の顔を見つめる。
妻はそんな僕の顔を見て、プッと吹き出した。
nextpage
「やだなぁ、そりゃ、話し出したタイミングとメニューが誤解を招いたかもしれないけど、あなたに出す料理にそんなことしないよぉ」
くっくっと喉を鳴らして笑う妻。
nextpage
「キッチンに証拠もあるから、あとでちゃんと見せてあげる。
やだなあ、青い顔しちゃって」
nextpage
「違うんだよ……」
そう、違うのだ。
僕が気になっているのは、テーブルの上に並んだ料理のことじゃない。
nextpage
自分だけデザートにコーヒーゼリーを食べている妻に尋ねる。
「……それ、美味しいかい?」
「ええ、美味しいわ」
nextpage
「……それ、いつ作ったんだい?」
「今日の昼、あなたが会社に行っている時よ」
nextpage
「……君、昨日の夜、『精が付くのよ』って、僕に無理矢理何か飲ませたろ。
……あれ、コーヒー豆じゃあなかったかい?」
「コーヒー豆だったわ」
nextpage
「けっこうな量だった。おかげで胃の中がゴロゴロしたよ」
「大変だったわね。あなた、寝ながらうなされてたわよ。可愛かったわ」
nextpage
「おまけに今朝はトイレが詰まっていたのだったね」
「詰まっていたわ。間の悪い故障ね。もう直っているわよ」
nextpage
「……それ、美味しいかい?」
「美味しいわ。
それに良い香り。
大好きな人から出てきたモノは、きっと美味しく感じるのよ」
そう言って、妻はコーヒーゼリーを口に運んだ。
作者綿貫一
……暑いですねえ。
こんな、噺を。