1631年、徳川家光が幕府の長として国を治めていた。
日本は、海外との縁を頑なに結ばず、所謂≪鎖国令≫が発令していた江戸時代。
元号にして寛永8年。日本の歴史で一番の国内文化の繁栄を叶えた。
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「妙、妙や。もうお客様がいらっしゃるよ。」
『はい、母さん。』
娘の名前は【妙】という。城下町に暮らす町娘だ。
娘は一緒に暮らす、母【菊】と共に染物屋を営んでいた。腕の良さがたいそう評判で客は昼夜問わずひっきりなしに出入りしている。かの家光公でさえも御用達の、江戸随一の染物屋であった。
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「妙ちゃんは、今日もめんこいなあ。」
「俺んとこに嫁に来ないかい?」
娘はとても美しい容姿をしており、そんな風に口説かれるのも日常茶飯事である。
『いやですよ、旦那。私には愛すべき人がおりますから…。』
娘は、そういう。
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「妙、今帰ったよ。」
娘の顔が綻ぶ。頬が紅く染まり、小走りに彼の元へ駆けて行く。
『おかえりなさい…!』
「ああ、ただいま。江戸の町は今日も酷く暑い。」
そう云って、額の汗を袖で拭う男。
男の名は【吉丸】という。娘が愛して止まない男だ。
『湯浴みでもされてはどうですか?汗を流せば、さっぱりします。』
「そうさせて貰おう。妙は本当に気が利くな。」
男は、娘の頭をそっと撫でる。
(ああ…愛しい…なんて愛しいのだろう…顔を見るだけで、声を聞くだけでも、胸が張り裂けそうに痛むのに、触れられた場所から火をふいてしまいそう…)
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吉丸の湯浴みを物陰から覗く娘。
その顔は正しく<女の顔>
そんな娘を見守る菊は、困ったように微笑むのであった。
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ある夜___
菊は、娘を呼び出した。
「妙や。お前は___ 」
そこで娘は話を遮った。母が何を言おうとしているのか、痛いほどに分かっている。
『母さん。それ以上は言わないで…分かっているの。分かっているから…』
涙を堪えようと俯き、震える肩を菊が撫でる。一言も発さず、ただ静かに撫でるのであった。
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翌朝、吉丸は出掛けて行った。
娘はポツリと呟く。
『次は、いつ帰って来るのかしら…。こんなにも恋い焦がれているのに、貴方は…』
娘の愛しい男は、仕事のついでと外で女を漁る浮気者であった。
ある日は違う女、またある日は違う女、またある日は違う女__
娘が街で吉丸と知らない女の姿を見かける度、胸を抉られるような気持ちになった。
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一度、問うたことがある。
『どうして、そんなに女ばかり…!!』
吉丸はそっと笑む。
「あれは、商売相手さ。俺が愛しいのはただ一人だよ。」
その言葉だけが、娘を辛く苦しい、胸の爛れるような嫉妬から救ってくれたのであった。
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吉丸の仕事は≪大名飛脚≫と呼ばれる、各藩が主に国許と江戸藩邸を結んで走らせた飛脚である。長ければひと月、ふた月は家へ戻れない。吉丸を待つ間、娘の心は悲しみと愛しさに暮れ、涙で枕を濡らす日々を送った。
「俺が愛しいのはただ一人だよ。」
そう云って自分に微笑んでくれた__。
あの夜を胸に、娘はいつ帰るか分からない男の帰りを待つのであった。
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吉丸が仕事へ出てから約2週間ほどが経った。
客に仕上がった品物を届けに行く道中、娘は見てしまった。
どこの誰だか分からない女に腕を回され、親し気に笑みを浮かべて歩く吉丸の姿を。
その後の記憶は混濁していた。いや、正しく言えば無い。
頭から布団を被り、先刻見た光景の記憶を消そう消そうとかぶりを振る。
流す涙も枯れ果てては、怒る感情も失せていた。
今、娘に残る想いは、愛しい男が早く帰って来ること。その手で抱きしめて欲しい。その厚い胸板に寄り添いたい。その唇で私を癒して…私の心を癒して欲しい…
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その頃から、娘は店に顔を出さなくなった。
正しく言えば、客商売など出来る精神状態では無いと、菊が図らったのだ。
その判断は、嬉しくもあり同時に悲しくもさせた。
『私の価値なんて、もう…とうになくなってしまったのではないか。愛する人に裏切られ、仕事も満足に与えて貰えず、母は私をまるで気が狂った鬼の子のような目で見る。』
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そんな娘の脳裏にひとつの考えが過る。
決して過ってはいけない、禁忌に触れる行為だ。
翌朝、城下町はある事件で賑わう事となる。
団子屋の看板娘が、昨夜、何者かの手によって惨殺されたというのだ。
その殺され方は、人がしたものとは思えない程惨たらしいもので、与力に至ってはあまりの惨さに吐いてしまう男共も多数いたという。
その話は、床で伏せる娘の耳にも届いた。
いや、娘はとうに知っていた。
その娘こそが、この事件の犯人なのだから。
娘は込み上げる笑いを必死に堪えた。
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ああ、あの馬鹿女。この手で殺してやった。綺麗な面は小刀で何度も何度も切ってやった。お前があの人を愛しそうに見る、その視線。二度と見れないように、2つとも抉って犬っころに食わせてやった。愛の言葉を囁いたであろうその舌は切り取って、小さく裁断して、今は池の鯉の餌よ。あの人の声を聞いて微睡んだその耳は引き千切って、私が食ってやった。あの人に二度とその姿見せないように、綺麗に皮を剥いで、塩をぬり込んで、死ぬ前に酷い苦痛を合わせてやった。でもね、お前よりも、私の心の方が何倍も何十倍も痛いんだ。それを思い知れ。思い知れ。
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娘は心の中でそう語る。
その時の娘の表情は、例えようのないほどに恐ろしいものだっただろう。
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吉丸が家へ戻って来た。
「…ただいま。」
菊が一目散に駆け寄る。
「大丈夫かい…?災難だったねえ…」
吉丸は、力なく笑む。
「妙はいるかい?長く、床に伏せていると聞いた。」
菊は表情を曇らせる。
「あの子は心の病さ。もう手に負えやしないよ。」
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吉丸は、真っ直ぐに妙の籠もる部屋へ足を進める。
トン、トン、トン___
この足音は…!!
娘は勢いよく布団から飛び起きた。
ガラリと襖が開くと同時に、娘は待ちわびた瞬間を得る。
「ああ、会いたかった…本当に…とれだけ、どれだけ待ちわびたか…一日千秋とは、まさにこの事…もっと私に貴方様の温もりを感じさせて下さい…。」
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吉丸の身体を痛いほどに抱きしめる娘。
しかし、吉丸からの反応は無い。
「…?」
不審に思った娘は、吉丸を見上げ、小首を傾げる。
娘を見下ろす吉丸の表情は、いつものような温かさは無く、唇を噛みしめ小さく震えていた。
「一体どうなされたの___ 」
「妙。」
娘の言葉を男が遮る。
次に言われた一言に、娘は全身の血液が凍り付いたような錯覚に囚われた。
「何故だ。何故、俺の妻を殺した。」
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吉丸は己に抱き着く娘を付き飛ばし、叫んだ。
「何故だ!!何故殺した!!」
娘の脳内には、言い訳の言葉など何もなかった。あるのは、ただ一つ。確かな愛だけ。
娘はゆっくりと身体を起こす。
「いやですよ…。何を仰るかと思ったら…。そう言えば昨夜、団子屋の娘が殺されたそうですね?よもや、その事を仰っているのですか?あれは貴方にとって、なーんの関係もない、ただの小娘ではありませんか。」
ケタケタと笑う娘に吉丸は詰め寄る。
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「ふざけるな。あいつは、小花は2年前から俺の妻だ!!お前だって、知っているだろう!!」
「存じませぬ。」
吉丸の言葉を遮るように娘は続けた。
「小花?どなたでしょう?どうせ、貴方の浮気相手のうちの1人なのでしょう?今まで、散々自由にさせて来て、もう我慢の限界だと、手を下したまで。死んだ女の名前が小花だったなんて今、初めて知りました。」
「お前、何言って…」
吉丸の背筋に冷たい汗が流れる。
そんな吉丸に詰め寄る娘。
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「私は、凄く寛大なんです。貴方の罪の全てを赦して来た。大丈夫、これからも、私が貴方を責めることなどありません。」
そう云って、娘は静かに男に口づけた。
その僅かな油断を男は見逃さなかった。娘の付けていた簪を髪から抜き、娘の首へ思い切り差し込んだ。
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「っあ…」
小さく声を上げ、娘は床へと崩れ落ちた。
簪の刺さった部位を撫で、力任せに引き抜く。
止めどなく溢れる鮮血。息をする度にヒューヒューと音がした。
コプリと泡の混じる血を吐き床に崩れる娘。
吉丸は娘の首から引き抜いた簪を虚ろ気な目で見つめる。
絶命寸前の娘の隣に膝を付き、男は言った。
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「ずっと、付けていたんだな。あの祭りのからずっと。」
虫の息の娘は静かにほほ笑む。
「あたり、前…じゃな…ですか…私、の…ったか、らモノ…」
男は娘の赤く濡れた頬に手を添える。
「どうして、こんな…。」
その声は震えていた。
娘は、頬に添えられた手に、己の手を重ね、握る。
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「兄、さま…お慕、…ぃ、してお…ま___ 」
最期の言葉を口にすることなく、娘は死んだ。
残された男は、泣くべきか、仇をうったと笑うべきか。
しかし今はただ単純に、最期になる兄妹の一時を過ごしたいと切に思ったのであった。
日本が繁栄の全盛期を迎えていたこの時代。
そんな時代の、城下町で起こった、ある兄妹の歪みすれ違った愛情のお噺し。
作者雪-2
今日から9月ですね。
何故か凄く涼しくて、昨日はクーラーをOFFして寝れるくらいでした。
この後に迫る”残暑”に恐怖を感じている私です。
さて、今回のお話しは江戸を舞台にした昔ばなしでした。
いや、特に理由は無いんです…!!
ちょっと雰囲気が出るかな、なんて思っただけなんです…!!
遊び心だったんです!!
それにしても…やっぱり私はBAD ENDが大好きなようです。
この報われない救われない感じが堪らなく…
読むのも書くのも大好きです。前回の高評価作品【夏みかん】は奇跡の作品でしたね(´-ω-`)
自分でも、何故あんな感じの作品が書けたのか…ある意味この夏一番のホラーです。
↓7月アワード受賞作品↓
【トモダチ △】怖45
http://kowabana.jp/stories/29158
↓8月投稿高評価作品↓
【夏みかん】怖49
http://kowabana.jp/stories/29459
お時間のある時のお目汚しになればと思います。