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3歳になる娘を連れて、近所にある公園まで散歩に出かけた。
公園に着くと、普段は閑散とした遊具置き場の前に、ちょっとした人だかりができていた。
「ママ、あれなあに?」
娘が私の袖を引いて尋ねてくる。
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娘は最近、とても質問魔だ。
目にするもの、耳にするものでわからないことがあると「あれはなに?これはなに?」と私に尋ねてくる。
娘の質問を受けるとき、私は毎回、小さな驚きを感じるとともに少し緊張する。
彼女の質問はときたま、実に本質的であったりするからだ。
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「どうしてお魚は海に住んでいるの?」
「どうしておばあちゃんの手はしわしわなの?」
「どうしてマナちゃんは夜眠くなるの?」
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私が頭を悩ませていると、旦那が横から助け舟を出してくれるが、この助け舟も時に泥船だったり幽霊船だったりするから注意が必要だ。
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「(塩鮭を指して)このお魚は食べるとしょっぱいだろう?
お魚は塩味になるために海に住んでいるんだよ」
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「お風呂にずっと入ってると、マナも手の指がしわしわになるだろう?
おばあちゃんはずーっとお風呂に入ってて、戻らなくなっちゃったんだ」
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「ケータイの充電と同じさ。
朝起きた時、マナのお尻にも電源コードが刺さっているのに、気づかなかったかい?」
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そんな時、私は旦那のみぞおちにパンチを入れて黙らしてから、娘の質問に答える。
だが、私の答えより父親の答えの方が娘にとってしっくりくるらしく、娘の中に妙な知識が蓄積されていく。
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この娘も将来、旦那のようにひねくれた人間になってしまうのだろうか。
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「ねえママ、あれは?」
娘が再び私の袖を引く。
少しぼんやりしていたらしい。
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「そうだねえ。なんだろうね」
実際、この公園であんな人だかりができていることなど、初めてのことだった。私にもわからない。
なので私たちは、そちらに近寄ってみることにした。
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人だかりの中には知った顔が何人もいた。
いつも公園で一緒に遊んでいるママ友たちだ。
彼女たちは子供と一緒に、ある方向を見つめている。
顔には笑みを浮かべて。
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皆の視線の先には、ひとりのピエロがいた。
派手な色の服を着て、顔を白く塗りたくり、頬に紅い雫型のペイントをしている。
真っ赤な付け鼻、オレンジ色のパンチパーマ(カツラだろう)、頭には丸いボーラーハット。
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彼はおどけた笑顔で観衆の方に歩いてこようとしたが、不意に何かにぶつかったかのように後ろに身を引いた。
驚いた顔をしながら、おそるおそるといった風に、先程ぶつかった辺りに手を伸ばす。
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なにもない空中で、手の平がピタリと止まる。
まるで見えない壁に触れているかのように。
彼はそのまま真横にペタペタと手を這わす。
壁はどこまでも続いているように見える。
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「あ、マナちゃんのママ。こんにちは」
ママ友のひとりがこちらに気付いて声をかけてくる。
「こんにちは。面白いですね、これ。
パントマイムって生で見るの私初めてかもしれません」
「私も。見て、子供たちったら真剣。
流しの大道芸人だと思うけど、今日は子供が大人しくって助かるわ」
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見るとマナも、ピエロの一挙手一投足を見逃さぬまいと、目を皿のようにしている。
実際、彼のパントマイムは見事だった。
透明の壁に始まり、階段やはしごを登ってみたり、見えない台風の中、体を煽られながら前進してみたり、水の中に潜ってみたり。
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また、犬や猫、蛇やリスといった動物たちと戯れる仕草をすると、彼の動きを通して、だんだんいもしない動物が視えてくるかのように感じられた。
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手や体の仕草の他にも、視線や表情も大切なのだろう、と素人ながら考えた。
それらの組合せで、ありもしないものの大きさや重さ、手触りや臭いまでもが、観ている人間にリアルに伝わってくるのだ。
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彼の芸は終盤に差し掛かっているようだ。
こういった大道芸の最後には、見物人からおひねりを回収する時間が設けられているはずだった。
マナも私も楽しませてもらったし、別にケチるわけではないのだが、顔見知りのママ友たちの手前、どの程度の金額を渡すのが妥当なのだろうと、ひそかに考え出した時だった。
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shake
「わーん」
最前列で観ていた幼児が、不意にけたたましく泣き出した。
あらあら、と思っていると、
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shake
「いやー」
shake
「あー」
shake
「うわー」
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観衆の前列から、子供たちの悲鳴と泣き声が、次々に連鎖していった。
マナは?
隣りを見ると、娘も声は上げないまでも、視線をあらぬ方向に向けて固まっている。
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視線。
そう、視線だ。
子供たちは、先程まで熱心に観ていたピエロの方ではなく、顔を上げ、空を観ている。
空を。
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鳥?
飛行機?
ミサイルかしら?
親たちも釣られて空を仰ぐ。
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何もない。
空にはぽつりぽつりとちぎれ雲が浮かんでいるばかりで、目につくものは何もなかった。
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しかし、口々に泣き叫びながら、ある子供はじっと空を見つめている。またある子供は親にすがりついている。暴れている子供もいる。
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親たちは困惑した。
そして、それまで場の注目を一身に集めていたピエロの彼こそ、大いに戸惑っていた。
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観衆の注目を自分よりも集めているものは何だ、とその正体を確かめるべく、背後を振り返ったピエロ。
彼も子供たち同様に、そのまま固まってしまう。
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不意にピエロの体がゆっくりと空へと浮かんでゆく。
そして、地上から10メートルも上空でピタリと静止すると、
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shake
sound:36
ポキリ
そんな鈍い音が聴こえた気がした。
実際は聴こえていないのだけれど。
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首が真横に折れていた。
右肩に側頭部がくっついている。
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shake
sound:36
ゴキリ
shake
sound:36
パキリ
shake
sound:36
メリメリ
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彼の手が、足が、腰が。
あらぬ方向に捻れていく。
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見えない。
けれど視える。
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プロのパントマイマーの冥利につきただろう。
その場にいる誰もが、「見えない」巨大な何かの腕を、たしかに「視た」のだから。
彼の体を張ったパントマイムのおかげで。
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shake
どさり
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彼が空から落ちてきた。
巨大な何かが、壊れた玩具に興味をなくして、打ち捨てたかのように。
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ねじくれまがった彼の体。
観衆は蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
私もマナの手を引き、いつのまにか駆け出していた。
足をもつれさせながら駆けるマナが、背後でつぶやいた。
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「ママ、あれはなに?」
私は、なんと答えればよいのだろうか。
【了】
作者綿貫一
こんな噺を。