「村井さん、書類の確認お願いします。ーーー村井さん?」
戸田の声にハッとし、村井は現実へ帰った。
あぁ、悪い、ありがとう、と告げると渡された書類を確認した。オフィスは忙しそうに喧騒に包まれている。
「開業時期が2ヶ月早まったとの事だったので、行政への提出書類も作り直しましたよ。あのドクター、こっちの苦労も何もわかってないから参りましたよ。」
「まったくだな、ありがとう。後でゆっくり見とくよ。まぁお前の事だから大丈夫だろうけどな。」
「それより村井さん、大丈夫ですか?だいぶ疲れてますね。」
「まぁな。ここのところ、ずっと休み無しだよ。案件が倍になったんだ、仕方ないさ。」
村井は目頭をぐっと抑えながらそう言うと、天井を仰ぎ大きく伸びをする。
「吉野さん、どうしちゃったんすかねぇ。あの人がいなくならなきゃ、村井さんもこうならなかったのに。」
戸田はそう言うと、村井の前のデスクへ視線を仰ぐ。そこには誰も座っておらず、書類が山積みになっている。
「まぁ、そう言うなよ。何か事情があるんだろ。さ、仕事だ仕事!」
村井は、クリニックの開業コンサル会社に勤めている。新規開業を検討している医者からの依頼に対し、コンサルタントとして物件探しから職員の採用まで、開業の支援を行うというものだ。
その中でも、吉野という男は部署内ではエースの呼び声が名高かった。村井とは同期にあたり、互いに切磋琢磨しながら成長し合い、エースの座を争ってきた。特段仲が良い訳ではないものの、何か困った事があれば互いに助け合ったりする様な間柄であった。しかし、吉野は謎の失踪を遂げ、会社を無断欠勤している状況が1ヶ月も続いている。吉野が抱えていた案件を村井が引き継ぐ事となり、多忙な毎日を強いられているのだ。
ーーー吉野、お前はどうしちまったんだ。
村井は不在のデスクを見つめ、大きく溜息をついた。案件を引き継ぎ多忙になった事よりも、ただ単純に吉野の身を案じていたのである。
その日の午後、村井は物件の内見に出かけた。クライアントは耳鼻科医で、不在の吉野から引き継いだ案件であった。提携している不動産会社や内装業者等と連携し、物件探し・内装工事の橋渡しをするのも仕事である。
約束の時間より少し早くに到着した村井は、先に物件を確認しようと現地へ向かった。駅より8分ほど歩き路地を抜けると、雑居ビルが現れた。若干寂しそうな雰囲気はあるが、空きテナントである一階部分は広々として使い勝手がよさそうである。すぐ近くには薬局もあり、悪くなさそうだ。
「村井さんでしょうか?」
自分の名を呼ぶ声の方へ向くと、初老であろう短髪の男が近づいてきた。
「ええ、そうですが。」
「私、内見同行させて頂くエム・エステートの本谷と申します。」
本谷と名乗る男はニコニコしながらそう言うと、名刺を差し出した。
“お客様第一主義の、まちの不動産屋さん”とまざまざと記載してある。
村井も遅れた様に慌てて名刺を取り出した。
「あぁ、失礼しました。コンサルタントの村井です、お世話になっております。」
「村井さん、今日は宜しくお願いします。吉野さんから引き継がれたと伺っていますが、お元気そうですか?」
「あ、ええ、まぁ相変わらずですよ。御社にはいつもお世話になっていたようで、これから宜しくお願いします。」
挨拶もそこそこに、2人は早速解錠し中へ入った。
配管やコンクリートが剥き出しの状態で、廃墟のような雰囲気が滲み出ている。
「本谷さん、以前ここは心療内科だと聞いていましたが、撤退理由は何だったんでしょう?」
「申し上げにくいんですが、当時の先生がここで自殺してしまいましてね。曰く付き物件なんですよ。ほら、メンタルクリニックはよくあるでしょう、患者につられて先生自身が病んでしまうパターンが。真面目な先生でしたからねぇ。」
天井を仰いで本谷はそう言いながら、言葉を続ける。
「医療機関物件という特殊性上、人の死亡有無は特段珍しい事ではないですが、先生が自殺されたという話はなかなかないですからねぇ。それを今日いらっしゃる先生がどう思われるか、ですが。」
うーん、と村井は唸ると、奥の診療室のドアを開けた。埃が軽く舞い、ハンカチで口元を抑える。当時使っていたであろうデスクや椅子、ベッドなどそのまま置かれていた。スケルトン状態ではないとはいえ、お世辞にも褒められない状況である。村井は踵を返し、本谷の方へ顔を向けた。
「ちょっと本谷さん、申し訳ないですが、こんな状態じゃドクターに勧められませんよ」
「いや、申し訳ありません。なかなか借り手がつかないので、清掃や復帰のコスト採算が厳しくて。しかし内装工事が入れば何も問題ないですし、復帰後のパースをお持ちしているので大丈夫かと。」
「そういう事じゃなくて、印象の問題ですよ。そこのロッカーにホウキがあるので、軽く掃除しましょう。」
「わかりました、私はフロアをやりますのでーーー」
本谷はバツが悪そうに慌ててホウキで掃き始める。
やれやれ、まったく、と村井は溜息をつくと、スーツを脱ぎシャツの袖を捲る。診療室のデスクを動かしていると、壁際からキラッと光の反射を感じた。
光の方に目をやると、高価そうな鏡がそこに立てかけられていた。
随分と立派な姿見で、淵にはアンティークのような銀の装飾が散りばめられている。
何となしに鏡を覗き込むと、そこに映ったものに村井は驚愕した。
ーーー吉野が、映っている。
見間違い等ではなく、失踪中の吉野がそこに映っているのだ。
正確には映っているのではなく、そこにいる、という表現が正しいのかもしれない。
村井はあまりの出来事に声が出ず、ただただ呆然としてしまった。吉野は村井に向かって何やらパクパクと口を動かしているが、何も聞こえない。そして、下を向いたかと思いきや、村井に指を指した。
ーーー何がどうなってるんだ
村井がそう思った刹那、ぐるんと大きく視界が歪んだ。
たまらず倒れ込みふと前へ目をやると、吉野が村井を見下ろす様に立っていた。またもや、吉野は何やら口を動かしていたが、相変わらず何も聞こえない。しかし、その表情を見て村井はひとつの確信を得た。
ーーーこれじゃ、まるでーーー
次の瞬間、ガラスの割れる大きな音が鳴り響くと、慌てた様に本谷が診療室へ飛び込んだ。
「大丈夫ですか!?お怪我はありませんかっ?」
「あぁ、大丈夫ですよ。それよりすみません、この鏡、不注意で割ってしまったみたいで。」
「良かった。安心しましたよ、吉野さん。」
separator
「吉野さん、この書類チェックお願いします。」
「おお、悪いな戸田、仕事色々と振っちゃって。助かるよ。」
「いや、これくらい問題ないですよ。それより、村井さんどうしちゃったんですかねぇ。もう無断欠勤してずいぶん経ちますよ。村井さんさえいれば、吉野さんもこんな忙しくなかったんですけどね。」
「いなくなった奴の事考えたって仕方ないだろ?それより、どう成果を上げるかを考えなきゃな。村井の分もしっかりやらねぇとさ。」
「さすが、皆勤賞のトップセールスマンは違いますね!あれ、手、怪我したんですか?」
「あぁ、昨日ちょっとな。何ともないよ。それより、仕事だ仕事。」
オフィスは、相変わらず喧騒に包まれていた。
作者タカミヤ