長編8
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Blue maple

緑色が好きだった。

まだ雪が溶け始めて間もない春先の、薄く柔らかい楓の枝葉を見上げるのが好きだった。

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夏の日差しは黄色くて、冬の日差しは白色で、春の日差しは、淡いレモン色をしている。

その淡いレモン色の光が、芽吹いたばかりの、若草色をした楓の葉に透けていき、黄緑色の色彩を写す。

そのひとつひとつの薄緑色は、互いに寄り添うように、掌の形の若葉を重ね、夜空のような、暗い影を凝らす。

1枚2枚3枚4枚…折り重なれば重なるほど、色彩は増えて、日差しの中で、夜空のような仄暗い影も深くなる。

春の光、楓の若葉、透ける影、その総てが緑色を彩っている。

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そして風が吹き、葉と葉の間をかき分けた木漏れ日が、手や指の隙間から溢れるように、小さく、キラキラと光る。

そんな限り無いグラデーションは、昼の青空の下で深緑色のプラネタリウムのように美しい。

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まだ芽吹いたばかりの、春先の若葉だからこそ見ることの出来る景色。

それを、程よく冷たい木の根本から見上げるのが大好きだった。

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……あの冷たい風に触れる度、そんな光景がフラッシュバックする。

何より好きだった、緑色の景色。

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でも……

秋の鮮やかな紅葉よりも好きだったそんな光景も、今となっては、重く、暗澹としている。

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今、目の前には死体がある。

目には見えない、死体がある。

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木々に囲まれた暗い影の中、君を失った僕は独り、冷たく青々と茂る楓の下で淋しい風に包まれる。

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◯◯◯

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僕は昔から、やり返せない人間だった。

友達に意地悪な事を言われても、悪ふざけの延長で叩かれても、納得出来ない事があろうとも、「お前こそ!」なんて言わないし、正当防衛を謳って殴り返そうともしなかった。

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良く言えば平和主義、悪く言えば、ただのチキン。

やり返したらこっちも相手と同罪になるから。さらにやり返されたら面倒だから。

そんな理由を自分に言い聞かせていたけれど、実際のところは、「やり返さない」のではなく、「やり返せない」のが、僕だった。

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だから、そんな女々しい性格の僕はクラスの中でいじられ易い立ち位置にいて、それはだんだんと積み重なって、やがてイジメと言えるものとなってしまった。

小学生の頃も、中学生の頃も、大体クラスの中で誰かの上に立ちたい男子が、動物園のボス猿の如く威圧的な言葉や行動で自分より下の男を探す。

運動も勉強も別段得意という訳でも無い僕は、他者と競争したがる男子の特性に捕まり、その力の序列誇示の為の玩具にされた。

しかしそれは、よく漫画やドラマで見るような壮絶なものではなく、朝学校に来たら自分の机に罵詈雑言が刻まれるなんてことも無ければ、自分の持ち物がトイレに捨てられるなんて事も無かった。

上履きに画鋲が入れられていたことは…1度だけあったが、それが原因で僕が保健室送りになると、熱血先生のホームルームが1時間以上延長したせいか、次からは誰もやろうとしなくなった。

思えば、イジメによる流血沙汰は、後にも先にもその一回きりだった。

どちらかと言うと、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』で主人公のジョバンニが、ザネリとその取り巻きにいつもイジメられている様子と似ていた。

「ジョバンニ、お父さんから、ラッコの上着がくるよ」そう、会う度すれ違う度に言ってくるような、

側から見たら、それはただ揶揄っているだけだとか、いじっているだけだとか、そう思うかもしれない。

だけど、彼らは確かに悪意を持ってそう言ってくるのだ。証拠に、その取り巻きたちは、いつもニヤニヤと厭な笑い顔を作っている。

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僕は下の名前が女っぽいから、よくそれをネタに揶揄われていた。

「ナエギ…、カオルです……」

自己紹介で、自分の名前を言うのに、声が小さくなるのは、それがコンプレックスになってしまっているからだ。

その様子が余計に女々しくて、だからクラスのいじめっ子たちは僕を「かおるちゃん」なんて、ばかにしたように言ってくる。

強く言い返せない僕は、そのニヤついた顔を見ないように、小さく俯いて、聞き流そうとするしか無かった。

それが5年間、中学卒業までの15年生きてきたうちの5年間も、小学校高学年の頃からずっと、僕を苦しめて来た。

僕のする一挙手一投足を、わざわざネタにしようとしているのだ。下手な事なんて出来ない、下手な事なんて言えない。

僕は生まれたうちの3分の1を、そうやって辛い思いに苛まれ続けた。

当然なにをするにも怖くて動けないし、周りの人間を信用することなんて、出来なかった。

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だから、そんな僕が進学先に農業高校を選んだのは、至極自然なことだった。

普通科と違い、専門色の強い特別な高校。その学校の「動物化学科」という場所を僕は受験し、そして、入学した。

元々勉強は得意じゃなかったし、人間が信用出来ない分、ヒト以外の動物が好きだった。

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ヒト以外の動物の心だったら、僕は聞き取ることが、出来たから……

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◯◯◯

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樽見農業高校の動物科学科は通称A科と略される。ちなみに、アニマルのAだ。

酪農や養鶏といった畜産だけではなく、イヌやウサギといった愛玩動物、野鳥、そして肉加工に乳加工と、動物が関係する幅広い分野を学習する。

そんなA科の1番最初の実習といえば、先生に連れられての校内散策だ。

後々の実習で使う事になる農場職員室と更衣室に始まり、動物舎、動物学習棟、ET舎、牛舎、鶏舎、厩舎(きゅうしゃ)とまわっていく。

実習服も身に付けず、制服姿でメモ帳片手に集団で歩いた。

空はよく晴れていて、歩道脇の若草が、柔らかに揺れている。

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「(おなかすいたー)」「(ねぇあそぼー)」

ふと前の方から、子供のような声が聞こえた。

動物舎の前で、南側に飛び出た柵の前を歩いていた時のことだ。

この建物は、東西に小部屋が並んだ造りをしていて、その部屋にはそれぞれ黒い柵だったり、フェンスだったりが飛び出している。

そこには東から順に、ニワトリ、キジ、ウサギ・モルモット、ヤギ、イヌ、動物舎の入り口を挟んでウマ、マウスが飼育されていた。

声が聞こえたのは、動物舎の入り口を直ぐ左のフェンスの方からだった。

そこはイヌの飼育スペースで、既に好奇心旺盛な女子たちが人集りを作っていた。

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建物の壁には『コロ』と名前が書いてある。

見ると、墨のように黒くて艶やかなラブラドールレトリバーがしっぽを振ってくるくると歩いている。

女子たちがその様子に「かわいい」を連呼して、名前を呼んでは手を振っている。

そのまま動物園のようだったが、この学科を受けている以上、やっぱりみんな大の動物好きなんだなと、改めて思った。実習担当の先生も、表情が柔らかくなっていた。

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「(ねぇあそぼうよー)」

また同じ声がした。

女子たちの方からでは無い、この黒いフェンスの中から聞こえる。

少しふてくされたような、でもこっちの手を引っ張りたいような、そんな無邪気な声に、僕も思わず顔が綻んでしまうのがわかった。

近所を散歩している子たちと同じで、イヌはやっぱり、無邪気で人懐っこい子が多い。

僕はどちらかというとネコ派だったが、イヌのこういう素直な可愛さは、勿論好きだった。

この学校で飼われているラブラドールレトリバーのコロも、とても素直な感情をしている。

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僕には、何故かそれがわかる。

どういう訳か、僕には動物の心の声を聞き取ることが出来た。いつからそうだったかは分からないけれど、だからより一層、僕はヒトよりも、動物の方が何十倍も信用出来た。

くりくりした目のコロの紹介が終わり、そのまま実習担当の先生の案内のもと、僕らは次々に動物たちを見てまわった。

のんびりと過ごす動物たちは、それぞれ個性があって、僕はそんな彼らを、もっとよく知りたいと思った。

今日のこの紹介だけだと、かなり簡略的だったから、もっとゆっくりと耳を傾けて、触れ合いたかった。

間も無く授業終了の時間だからと、教室へ戻る集団の後ろで、僕はひとり胸を膨らませていた。

クラスメイトは、あの動物が可愛かったねと、歩きながらざわざわ喋っている。

はるか頭上を行く雲を追うように、僕も厩舎の前を通り過ぎて行った。

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……と、その時だった。

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「(ほう、1人サルの匂いが混じっているね……いや、正確には、サルでは無いけれど)」

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……違う。

ぴたりと足が止まってしまった。

背筋をつぅと、冷や汗がなぞった。

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「(おや、私の声が聞こえるのかい。これは珍しいね……)」

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……違う。これは、動物の声だけど、動物の声じゃない。

後ろから聞こえる声、肉声では無いその声は、少なくとも、人間の声じゃない。

だけど絶対、動物でも無い。

心に直接響くように聞こえるけれど、動物はこんな…流暢に喋らない。

だとしたらじゃあ……なんなのだ。

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怖い。

足が硬直したまま震え出した。

怖い。

この恐怖は未知に対する不安から来るものだ、そう焦って結論付けた全然冷静じゃない冷静な自分が叫ぶ。

そいつがありもしない安心を見つけようと、見なきゃいいのに、首が後ろを振り向いてしまった。

いや、もしかしたらあの声の主に、無理矢理首を動かされたのかも知れない。

あんなにもゆっくり首は動いたのに、僕は目を閉じることも出来なかった。

そこには誰も、なにも居なかった。

居なくて僕はほっとして、居なくて僕は戦慄した。

なにも無い空間で声は、くすくすと笑う。

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「(なんだ、私の姿はみえないのか。これは余計に珍しい……いや、異常だ)」

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男のようにも女のようにも聞こえる声、子供のようにもそれなりに歳を重ねたようにも聞こえる声、全てが曖昧で、不可解な声だった。

だけどどこか美しい、それが余計に怖かった。

初めて聞くはずのその声に、懐かしいと思うのが怖かった。

はるか上空の雲が、太陽に重なり影が落ちる。

何故か判らない涙が、頬を伝う。

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「(まぁどうでもいい事さ。

ようこそ、農業高校へ…“異常者”さん……)」

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美しい声が、耳を撫で回す。

冷たい風が吹き、青々と茂る楓が、サワサワと揺れていた。

『異常者』、かつて僕を虐めていたうちの誰かが、1度だけ、僕に向けた言葉。

僕が自分を卑下する時に、誰も居ない場所で卑屈になった僕が自分自身へ向けて呟く言葉、

「僕は異常者だから……」

揺れる楓の隣には、花の散った椿が見える。

またひとつ吹く風に、椿はカラカラカラと固く渇いた音をたてた。

固い音が鳴ったのは、椿の葉が四角い石の塔に触れていたからだった。

それが家畜慰霊碑だというのを僕が知ったのは、暫く経ってのことだった。

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