長編8
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じょきなん

歌を歌いながら、長い畦道を歩いた。

左右には湖のように広い田んぼと、向こうには雲のように大きな森があるだけだ。

村から森までを渡り切るまでに人を見るか見ないか予想し合い、たいてい見ることはなかった。

「またあかりちゃんの負け」

「今日は通ると思ったのに」

ただし夜は絶対に一人で歩いてはいけない。

<この世のものでないものを見る>とハッキリ言われていた。

私はそれが幽霊のことだと思い、たまにその話をしては友達とワクワクしていた。

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この日はななちゃんと一緒にみのりちゃんの家に泊まった。

みのりちゃんは何か事情があってあまり学校に来ない。

それが理由なのか分からないけど、夜に親がいない日があった。

そんなとき、この仲良しの三人はこうしてお泊り会をしている。

家は畦道の森の方面にあって、学校が終わってすぐにみのりちゃんの家に向かった。

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いつものようにテレビを見ながら私が<喉がかわいた>と言うと、

みのりちゃんは<気分がよくなる飲み物がある>と言って冷蔵庫を開け、缶をテーブルに置いた。

「これは何?」

「お父さんが毎日飲んでるから、絶対においしいはず」

子どもは飲んじゃいけないらしい。

私は怒られるのが嫌だったので飲まないことにした。

他の二人は飲んだ。<まずい>と言ってほとんど手つかずで終わった。

ただそのせいか、しばらく経つと話し方がだんだん変になった。

どうでもいいことで笑うようになった。それはそれで楽しかった。

唐突に<ジュースを買いに行こう>と、みのりちゃんが言った。

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人気のない外はとても暗かった。

二人は陽気にはしゃいでいる。どことなく不気味な風が吹いていて、買いに行くのをためらった。

私は一番後ろから付いていった。そして自販機は電気が付いていなかった。

こんな時間に買いに来たことがなかったから分からなかった。

そもそも自販機というものがこの村のこの場所にしか無くて、使い方を知らない人の方が多い。

みのりちゃんの親は偉い人らしくて、こういうものを他所から仕入れてくるらしい。

とにかく二人は何がおかしいのかケラケラと笑い、みのりちゃんは尻もちをついた。

私が<もう帰ろうよ>と言ってみのりちゃんを起こし、家に戻ることになった。

そのとき、自販機の裏側から、ざっ、と音がした。動物でもいるのかと思い、ゆっくり覗き込んだが違った。

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人だ。クマのように大きな男の人が、背を向けて田んぼの中に立っている。

背中には何に使うのか、見たこともない大きな鎌があった。

それが稲刈りをする道具なら良い。ただこのときはとても稲なんかを刈る物に見えなかった。

そもそもあんな形をしていただろうか?

何よりも立ったまま動かず何をしているのだろうか?

三人だから幽霊は出ないはずと私は自分に言い聞せた。

誰も口を開かず、様子を見ている。

そして男の人がしゃがんだかと思うと、鎌を地面に振って何かを刺した。

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<ぼちょ>

<びち>

<ち>

と音がなり、みのりちゃんが<うっ>と声を漏らした。

そして誰が言うでもなく、皆、足音を立てずにそこから離れようとした。

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<そこで>地面が揺れたような感覚の後、<なにしてる>という声が背中にぶつかった。

私たちは表情を失い、一様に振り向いた。先ほどの男がまた立ち上がっている。

ゆっくりとこちらに来た。

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農家のような作業着を着た古臭いおじさんだったけど、クマに見えてもおかしくなかった。

「あっちの村の連中か」

おじさんはポケットに手を突っ込み、赤茶けた顔は油だか汗だかにまみれ、砂利みたいなヒゲが生えていた。

帽子の影からは動物じみた鋭い目が瞬きもせずこちらを見ている。左のポケットは何か入れているのか、歪な形に膨らんでいた。

おじさんは<おまえらいくつだ?>とまた暗く低い声で聞いてきた。

ななちゃんが消え入るような声で<12>と答えた。するとおじさんは更に近づいて、皆の顔を一人ずつ覗き込んだ。野生動物のように臭かった。

「おめえら、オレのじょきなんを邪魔したな。オレのじょきなんを」

「なに」

三人とも戸惑った。

おじさんがポケットから出した手にはビンが握られている。飲み物のようだけどその中には、赤い芋虫のような、膿のような、とにかく良くない塊が入っていた。

そのまま口に向かい、中の液体ごと、その塊が男の口に滑り込んだ。

ゴクリという音の後、こちらにまた顔を近づけ、深呼吸するように鼻を鳴らす。またしても、手入れされていない動物園を思わせるニオイがした。

ななちゃんはぎゅっと目をつぶって、たぶん息を止めている。

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おじさんは鎌をふらふらさせて言った。

「ちゃんと見とけ。おめえらのせいで出しきれなかった。じょきなんは一度始めたら最後までやらなきゃなんねえ。そうすれば沢山が天国に行ける。だからおめえらのうちの誰かが、終わるのを確かめろ。もしできなかったら俺はおめえらのせいで病気になったことになる。そうなればおめえらの親に連絡して、命を払ってもらう。ご迷惑をおかけしましたと言ってもらう」

言っていることが半分も理解できない。

すると突然、おじさんはななちゃんの頬を殴った。嫌な音がした。

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「おめえは帰れ。役に立たん」

ななちゃんは泣くことも忘れたように呆然としている。

自分が動かないと時が進まないかのように、おじさんは微動だにしない。

ななちゃんは引きずるような重い足取りで街の方へ歩いていった。

一度も振り返らずに。

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次におじさんはみのりちゃんを見た。

「おめえはそこで見ていろ」

みのりちゃんは目だけを泳がせ、返事をしなかった。

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おじさんは背を向けて声を出した。

「こい」

私に言っているのだと分かった。

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田んぼ同士の間に、絶対に入ってはいけないと分かるような、形すら分からない古い小屋があった。

扉はブラブラと開いたまま揺れている。

私はおじさんの10歩くらい後を追い、もう逃げられないと悟って中に入った。

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何か粉っぽいものが漂っており、歩くと体中に何かが触れてゆく。

扉がきしんだ音を出し、閉まると一切の光が入らない暗闇だった。

おじさんは何も言わず、どこにいるのかも分からない。

私は少しの間そこに立ち尽くしていた。

何でもいいから叫びたかった。それをすると殺される気がした。

もう、自分が生きているのか死んでいるのか分からなくなってきた。

次第に息が荒くなってくる。パニックが起きかけている。

頭がグラつき、おそらく倒れかけていたそのときだった。

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<ぼちょ>

<びち>

<ち>

またあの音だ。

すぐそこで何かが起きている。

おじさんが何かしている。

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「ここに手を入れろ」

突然の声で肩が震えた。

「なに?」

私は暗闇に手を差し出した。何もない。

「下だ」

手をゾンビのようにフラフラさせる。

もっと下かと思って膝を付いた。ザラついた感覚がした。

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「ぐ」

温かいものに当たった瞬間、指先から全身に向かってどっと冷や汗が出たのが分かった。

「そこだ。もっと先に進め」

何か、とんでもないものに触れているような、言いようのない気味悪さを感じた。

糸が切れていくような感触がする。

「なんなのこれ」

「もっとだ」

「熱い」

進むたびに熱くなり、恐怖が増していく。

熱いスープに手を浸したように感覚が変わった。

自然と涙が出てきた。

すると固い感触があった。

「そこを握れ。つぶれるくらいに」

私は無意識に<いやだ>と答えた。

「やれ」

唾を飲んだあと、震える手でその固いものを掴み、ぎゅっと握った。

それは弾力があるようだった。力を抜くとすぐに<やれ>と声がするので、何度も何度も握った。

まるでそれは息をするように動いていたけど、生き物でないことは確信した。

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「やれ」

「はい」

腕が疲れてきたが、おじさんの声が私を無理やり動かした。

私の握っていたものは、だんだん力を失ったように、弾力を失っていた。

「やれ」

「はい」

「やれ」

ずっと頭の中に声がした。

私は握り続けた。

学校のテストで居残り授業を受けて、手首を痛めるまで計算ドリルをさせられた日を思い出した。

そういえばあのときの先生みたいだ。

怖い。

「やれ」

それは私の気持ちすべてを氷づかせ、一切の余地が無い圧力だった。

「はい」

私はその声を頼りにした。

つぶした部分が元に戻らなくなってきた。

もう元に戻らない。

自分の体の感覚が消えていく。

小さな声がした。

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「この畦道に出る霊を知っているか」

それはおじさんの声なのに、おじさんではないほどにか細かった。

「うん」

「おまえが責任を取って殺せ」

「なんで」

「おまえたちのせいだ。奴は自由になった。どこへでも行けるようになった。おまえの家族も死ぬぞ。

俺の体は呪われた連中の血肉でできている。なぜだか知らんがこういうのが魔除けになるらしい」

「何のこと」

「すぐに分かる」

「幽霊は今どこにいるの」

「外にいる子どもに取り憑いている」

おじさんは何も言わなくなった。

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気が付くと日が出ていた。

私は眠っていたようで、ふいに目を開けると生臭いニオイが鼻を突き抜けた。

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おじさんが目を見開いて、仰向けになっていた。

私の右手は、おじさんの、切り開かれた胸の奥に差し込まれていた。

「ああ」

赤か黒か分からない色に染まった鎌がそばにあった。

近くで鳥が鳴いていた。

「あかりちゃん」

その声で、背後にみのりちゃんがいるのが分かった。

私はぼうっとしながら、まだ手を抜かないでいた。

そしてふいに考えた。

「なにしてるのあかりちゃん」

「じょき、じょきなん」

「なにあかりちゃん」

「ごめんね」

「あかりちゃん」

私は目を合わせられなかった。

ただとにかく、みのりちゃんの爪が異様な長さに伸びていたのが分かった。

私は手を抜き、おじさんの鎌を握った。

「ごめんね」

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畦道を歩いた。

鎌から血が滴っている。

右手の感覚が無い。物は掴めるのに。

もうみんなと同じように笑える日は来ない気がした。

おじさんの言葉が頭を離れない。

みのりちゃんはいない。

ななちゃんになんて言えばいいんだろう。

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ふと村の方に目をやると、何人かが忙しそうに走り回っているのが見えた。

そこでやっと私は自分たちのしたことの重大さを思い知らされた。

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どうしてみのりちゃんが、昨日の夜からずっとそこにいたと思ってしまったのだろう。

Concrete
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