〈「鷺山(さぎやま)みの」について〉
昭和四十年五月三十日、対象者の自宅にて聞き取り
対象者 金田(かねだ)かや
続柄 姉
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まぁ。
みののことを教えてほしい、ですか?
懐かしい名前ですねぇ… 。その名を聞くのも、思い出すのさえ、何十年ぶりかのことですよ。
実の妹のことなのに、薄情なものですね。でも、あの子がお嫁にいったのは七歳の時のことで、それ以来六十年以上、一度も会っていないんです。勘弁してください。
あぁ。お嫁にいったといっても、正確には婚約した、ということですよ。昔のことではありますが、さすがに十にもならない子供を結婚させたりはしません。
ただみのは、婚約後そのままあちらのお家で、行儀見習いということで住み込むことになりましたので、嫁入ったも同然でした。
えぇ、かわいそうでしたよ。まだまだ親が恋しい年頃でしょうに、たった一人でねぇ。
うちを離れる日、先方の用意してくれた晴れ着姿で出て行く姿は、こう言っちゃ悪いけど、まるで人質とか生贄とか、そんな感じに見えましたよ。見ているだけの私もなんだか恐ろしく感じたんだから、あの子はどれだけ心細かったでしょうねぇ。
あら、とりとめなく話してしまってごめんなさいね。これだから、歳をとるのは嫌ねぇ。
順を追って、お話ししますね。
貧乏人の子沢山とはよくいったもので、うちは六人兄弟でね。
みのは末から二番目の子供でした。長子の私とは、十歳ばかし離れていたと思います。
みのはおとなしい子でねぇ。大きな声を出して泣いたり笑ったりするところを、私は見たことがなかったですよ。
一方で、みのは少し変わったところがありました。巫女の血筋というんですか? 普通はわからないものを、見たり聞いたりできるようでした。
あら、巫女の血筋といったところで、うちは先祖代々農民ですよ。みのは特別だったのでしょうねぇ。
ほんの小さい頃から、なにもないところに笑いかけたり、反対に怖がったりね。それから失せ物探しが得意で、親や周りの大人から重宝されていました。
あの子が七つの時でした。明治三十年、いえ、三十一年だったかな?
突然ね、縁談が持ち上がったんです。
さっきも言ったように、まずは婚約だけという話でしたけどね。なんでも、お相手になる方がみのと年の頃が合うんですって。
相手は、明星新報の坊ちゃんでした。
明星新報、ご存知でしょ? あの新聞社。ほら今、県庁の近くに大きなビルを建ててるじゃないですか。あそこのお坊ちゃんですよ。
当時はまだ会社を興してすぐのことでしたけど、それにしたって、なんだってうちなんかに? と当然両親は不審がりました。
だって、おかしな話だと思いません? うちはただの貧しい農家で、そんな会社を興すような方とのお付き合いは、当然なかったんですから。
お話を伺うとね、なんでもうちの「鷺山」という名字が良かったんですって。
私も子供だったから詳しいことはわからないんですけどね。相手の方は、「カラスに負けない強い名前が欲しい」と言っていたそうですよ。「鷺山」の「鷺」は、白い鳥でしょう?
「カラス」っていうのがなんのことなのか、それはわかりませんけどね。験担ぎのようなものでしょうか。
だから、結婚したらうちの籍に入るというんです。もちろん、新聞社のお坊ちゃんが農家に婿入りするはずがないから、書類の上だけですけどね。
そうまでして「鷺山」の名が欲しいなんて、なんだか怪しいじゃないですか。
でもねぇ… 。うちは貧乏で、ろくに学校にも通わせられなかったものですから、いっそお金持ちのお家にいったほうが幸せなんじゃないかと… 。家を離れることにはなるけれど、行儀見習いということは、きちんとした教養も身につけられるだろうし。両親はそう思って、婚約を承諾したんです。
それ以来、みのとは会っていません。私だけじゃなく、家族の誰もがね。
えぇ、盆暮れ正月、全然里帰りをさせてくれなかったんです。あんまりでしょう?
一年目はまだ我慢しました。あちらのお家に慣れないうちに里心をつけたら、余計みのがかわいそうだから、と。
でも、二年目になってもまったく先方からは連絡がなくて。三年目になってもう耐えられないと、近所の人に頼んで手紙を書いてもらったんです。一度でいいから里帰りをさせてほしい、それがダメなら会いにいきたい、とね。
ひと月ほどして、返事が返ってきました。
みのは亡くなった、と。たったそれだけ。
いつ死んだのかなぜ死んだのか、それすら書いてなかったんです。
両親や兄弟たちは愕然としていましたし、私も同じ思いでした。
でもね… 。私はどこかで「あぁ、やっぱり」という気持ちもあったんです。
というのもね、みのは何度か、私の夢の中に出てきたことがあったんです。
ひどく怯えた様子でね、「姉やん、この家は怖い。怖いものがおる」と泣いているんですよ。でも、夢の中では私は声を出せなくて、体も動かなくて。泣いているあの子を、ただ見ていることしかできなくて…。
さっきも言ったように、みのにはなにか不思議な力があったようですが、私はなにもないただの凡人ですから。ただの不安な夢と片付けてしまっていたんです。
父は当然、先方に抗議に行きました。ですけど、門前払いを食らってしまったようです。
というのもね、みのが婚約した時、両親はかなりの額のお金を受け取っていたようなんですよ。結納金、という名目でね。でも、嫁入りの準備なんてものはすべてあちらがしたんだから、ようは手切れ金だったんでしょう。
うちはそのお金があったから少し暮らしぶりが楽になって、末の弟を上の学校に進めることもできました。それもあってね、強く言えなかったんですって。
でもね。お骨も貰えず帰るしかないのか、と思ったとき、家の中から女の人が一人でてきて、『これ、みのさんの』と櫛を一つ手渡してくれたそうなんです。
みのが生前使っていた櫛を、形見にと分けてくれたんですよ。
その方は、みのの義理の姉だとおっしゃったそうです。みのの婚約者だった坊ちゃんには年の離れたお兄さんがいるという話だったから、きっとその人の奥さんだったんでしょうね。優しそうな人だったそうで、おそらくあの家で、みのの死を悼んでくれた唯一の人なのでしょう。
ですが父が、みのはなぜ死んだのかと問うても、それはわからないと首を振るばかりだったようです。
その櫛ですか? 母が亡くなったとき、お棺に一緒に入れてもらいましたよ。やはり、母が一番みののことを悲しんでいましたからね。
……今の、明星新報の社長の名前、ご存知ですか? 鷺山某、というんですよ。
あれは、うちの名字ですよ。みのから奪ったものです。
だからね、ささやかですけど、私は明星新報は絶対読まないって、決めてるんですよ。
世間じゃ評判が良いようですけどね、裏で何をしてるか、わかったもんじゃないですよ。あれは。
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〈「白鳥(しらとり)ハツヱ」について〉
昭和四十一年八月二十日、対象者の自宅にて聞き取り
対象者 白鳥祐三(しらとりゆうぞう)
続柄 甥
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はい。
白鳥ハツヱは、確かに僕の伯母ですが。
しかし教えてほしいと言われても、僕自身は会ったことはありませんからねぇ。父から伝え聞いた話だけですが、それでもよろしいですか?
はい、それなら。ちょっと待っててくださいね。えぇっと……あぁ、これだこれだ。
ほら、この女性が、伯母のハツヱです。隣の子供が、五つ離れた僕の父ですね。
この写真は、おそらく伯母が女学校に入学した時に撮ったものでしょうね。明治三十年四月。当時はそう気軽に写真を撮れなかったでしょうから、うちにある伯母の写真は、これ一枚だけです。
伯母は、えぇっと、明治十五年八月生まれ。ハハ、眉目秀麗、明朗快活なり、とありますね。
このノートはね、僕の父が作ったものなんです。嫁いで家を離れ、若くして亡くなってしまった伯母のことを忘れないように、と。まぁ回顧録のようなものでしょうか。
しかし、父はお姉ちゃん子だったようでね。かなり伯母のことを持ち上げて書いているようです。まぁ、話半分に聞いてください。
うちは今でこそ、食料品から日用品まで扱うなんでも屋ですが、父が子供の頃は味噌の製造と販売を商いにしていました。
「白鳥屋」という屋号は、店を始めた高祖父が鳥が好きだったから、というわりと安直な理由で付けられたんだとか。明治八年に平民苗字必称義務例が出された際に、屋号として近所に定着していた「白鳥」を、正式に名字としたそうです。
商売は順調だったようですが、明治三十一年、父が十一歳の時に、家長で店の主でもあった父親、僕の祖父ですね、が、不慮の事故で急死してしまいましてね。
父は一応跡取りでしたが、当時はまだ子供です。当然、店を支える職人たちは幼すぎる跡取りを不安に思い、次々暇乞いをしてきました。引き留めようにも、味噌作りにも店の経営にも今まで口出しを許されなかった父の母親、つまり僕の祖母では、なにもできなかったそうです。
結局、残ってくれた数人の職人たちと共に、店の規模を縮小してなんとかやっていくしかありませんでした。
もちろん、伯母のハツヱも通っていた女学校を退学せざるを得なかった。
ところがそんな窮地にね、まるで降って湧いたように、ある縁談が持ち込まれたんだそうです。
そのお相手というのがね、なんとあの、明星新報の跡取りだったんですよ。ほら、昨年県庁の隣に大きな本社ビルを建てた、あの新聞社。
当時はまだ新興の会社でしたが、名は知れていたそうですよ。その新聞さえ読んでいれば世の中の情勢はわかったも同然、女子供にもわかりやすく小難しい書き方は避けてくれる、なんてね。
相手の方のお名前は、墨村明夫(すみむらあきお)さん、といったそうです。
縁談の条件は破格といえるものでした。傾きかけた店だけでなく、成人するまで長男、つまり僕の父の援助もしてくれるというんですから。
当然、家の者は願ってもないことだと、諸手を挙げて賛成しました。
でも、ちょっとおかしな話だと思いませんか? 上り調子の企業の御曹司が、落ち目の商家の娘を妻にと請うなんて。もちろん、お相手と伯母は会ったこともないんですよ。
やはり、裏があってね。まぁ、そんなにたいそうなものではありませんが。
それが、「白鳥」という名字でした。うちの名字を名乗らせて欲しい、と言うんですよ。
仲人を務めたのは、相手方の叔父であり、明星新報の創始者でもある、墨村新(すみむらあらた)という方でした。その方がうちに来た時に熱弁していたそうです。
『カラスに負けない強い名前が欲しい』
とね。
先程も言ったように、うちの名字「白鳥」にまったく由緒はないんですよ。先方の言う「カラス」がなんのことかはわかりませんが、まぁ、黒に対する白という、験担ぎのようなものなんでしょうかね。
確かに、先方の「墨村」という名字は、黒いものを連想させますしね。
名乗らせて欲しいといっても、うちにその名を禁ずるものではありませんでしたからね。我が家に不利益はないんですよ。
結局、多少の不信感はありつつも伯母は墨村家へ嫁いでいきました。戸籍上は、先方がうちに婿入りという形になるんですが。明治三十一年、父親の死から一年経たないうちでした。
その時のことを、父はよく僕に話してくれましたよ。
涙で滲んでよく見えなかったけれど、伯母は晴れ姿だというのに浮かない顔で出ていった、とね。
嫁いでからの伯母が、実家に里帰りすることはなかったそうです。
その代わり、たくさんの手紙を送ってくれたようでね。父はそれらをすべて、このノートと一緒に大切に保管してありますよ。
内容ですか? 僕も全部見たわけではないですが、大抵は家族の健康を案じるもの、それから自分は大丈夫だから心配しないように、といった感じかな。
父によれば、伯母は自分の身より他者を思いやるような性格だったそうです。手紙には、そういった伯母の性格がよく表れていましたよ。
里帰りをしなかった理由は、よくわかりません。父は、墨村の義両親がそれを許してくれなかったからだと憤っていましたし、やはりそれが大きいのだろうとは思いますが、本当のところはなんとも。
せめて子供でもできれば、里帰りもしやすかったのでしょうがね。
…えぇ、伯母は子供には恵まれなかったようです。といっても、結婚期間は三年ほどでしたが。
嫁いで三年ほどで、伯母は亡くなったそうです。
死因は、自殺とか。
はい。穏やかではない話ですよね。
伯母の訃報は、御主人である明夫氏が、直接我が家を訪ねて伝えてくれたそうです。ですがそれは、もう納骨まで済んだ事後報告でした。うちは伯母の実家だというのにね。
突然のことに、当然父は食ってかかりました。ですが明夫氏は、自ら命を絶ってしまった理由はわからないと、泣きながら頭を下げるばかりだったそうです。
そうです。明夫氏は泣いていた、と聞いています。
伯母があちらの家でどういった扱いを受けていたのか、自殺の原因がそこにあるのかどうかはわかりませんが、少なくとも夫婦仲は悪くはなかったのではないでしょうか。
…えぇ、知っていますよ。
明夫氏も、自殺されたんですよね。
確か明星新報の記事が一緒に……そう、これこれ。
自社の社長の突然の訃報にしては、小さすぎる記事ですよね。不祥事として、本当は公表したくなかったのかもしれません。
明夫氏の死は、伯母が亡くなってから十年ほど経ってからのことです。後追いというには時間が空きすぎている。
ですが僕にはどうしても、明夫氏が伯母の後を追ったように思えてならないんですよ。
父も、おそらくそうだったんだと思います。
父は墨村家のことも明星新報のことも毛嫌いしていましたが、明夫氏のことだけは一目置いているようでした。伯母が亡くなった後も、店と自分への援助が途切れなかったのはあの人のおかげだろう、とね。
それ以外で、褒めるようなことは何も言いはしませんでしたが。そこは、お姉ちゃん子のプライドなんでしょうかね。
さて。僕が知っている伯母の話は、こんなところです。お役に立てましたか?
…この手鏡ですか。これは伯母の形見にと、明夫氏が置いていってくれたものです。うちにある伯母のものといえば、この手鏡と写真、あとは手紙くらいですね。
写真ですか? 撮ってもらって構いませんよ。父も、伯母のことを多くの方に知ってもらうのを望んでいると思います。
明星新報について?
うーん、さっきも言ったように父は毛嫌いして購読していませんでしたけど、僕自身はわかりやすいし親しみやすくて好きですよ。
自宅は別の新聞ですが、店の事務所では明星新報をとっています。うちの広告も時々載せてもらってるんですよ。
まぁ、色々噂されていることも知っていますけどね。大きな会社は、そんなものじゃないですかね。
作者カイト
時間があちこち飛んですみません。
前作は、現代に生きる主人公(鷺山仁)の視点で書いていますが、今回の話は、昭和四十年代に生きる登場人物が過去を回想する形で進めています。
「新聞の話」
http://kowabana.jp/stories/32276
「カラスの巣」
http://kowabana.jp/stories/32291
「カラスの親・一」
http://kowabana.jp/stories/32309
「カラスの親・二」
http://kowabana.jp/stories/32310
「カラスの親・三」
http://kowabana.jp/stories/32323
「カラスの親・終」
http://kowabana.jp/stories/32305
「カラスの城」
http://kowabana.jp/stories/33330