(はー、美味しそう!いただきま~す!)
部活帰りの高校生、桜町伊月が凍てつくような寒さに包まれた道を歩きながら、コンビニで買ったホカホカの肉まんを食べようとしていた時だった。
「うわっ!?」
突然、伊月の体に強い衝撃が加わる。あまりの痛さに思わず肉まんを地面に落としてしまった。
痛みが加わった方向を見ると、胸まではあるであろうボサボサ白髪のおじさんが、肉まんを口にくわえて、腕と足を使い、まるで猫のように走り去っているところだった。
「ま、待てーーーーーっ!!!」
せっかく買った肉まんを見知らぬおじさんに奪われた伊月は肉まんをおじさんから取り返そうと、痛みを忘れて走り出す。
人間の体は四本足で走るのに適していない筈なのだが、おじさんは凄まじい速さで駆けていく。伊月は捕まえるどころか、おじさんを見失わないように追いかけるので精一杯だ。
(何でこんなに速いんだ、このじじい~!!)
伊月は心の中でおじさんに悪態をつきながら、必死に追いかける。そこに伊月より少し年上の男性が家から出てきた。伊月はこれはチャンスだと思い、その人に聞こえるよう大声で言う。
「すみません!!その人を止めてくれませんか?俺の肉まん盗んだんです!ほら、口にくわえているでしょう!?」
「え?ほ、本当だ…!」
おじさんより前の位置にいた男性が、すかさずおじさんの前に立ち塞がる。予想外の阻みにビックリしたのかおじさんが飛び上がった。その間に男性がおじさんを取り押さえ、伊月がおじさんとの距離を一気に縮める。
「観念しろー!!ドロボー!肉まんを返せーっ!」
「……ウゥウウウウアァ!!」
突然、大人しくしていたおじさんが奇声を発した。驚いた男性が押さえている手を僅かに緩めてしまう。その隙におじさんが力付くで拘束を解いた。ボトリと肉まんが地に落ちたのも気にせずに、おじさんがまた逃げ出す。
「あ、肉まん……じゃない!逃げるな~!」
一瞬、肉まんに気を取られている間におじさんの姿を見失ってしまった。男性が申し訳なさそうに「逃げられちゃったね…。」と言う。伊月は「そうですね…。」と力なく言葉を返す。気を抜いた瞬間、一気に疲労感が沸いてきた。地面に落ちているくわえ続けられてボロボロの肉まんを見てため息をつく。
(はぁ…食べたくないけど、勿体ないから食べるか…。)
伊月は男性にお礼を言い、少し涙目になりながら家に続く道を歩き出した。
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「ということがあったんだけどさ…。」
伊月はあの時の大変さを思い出したのか、少し疲れた顔で笑いながらそう話を締め括った。すると、ずっと黙って伊月の話を聞いていた友達の根岸一好が
「俺、その人、知ってる!」
と言った。思いがけない展開に伊月は目を丸くする。
「え、マジ?」
「うん!その人、猫おじさんだよ。」
「猫おじさん?」
伊月が首をかしげる。一好がそれについての記憶を辿るように少し黙ったあと、話し出した。
「猫おじさんはね、元々は妻と子供がいる……まぁ、どこにでもいる普通のおじさんだったんだってさ。だけど、ある朝『もう人間として生きるのに疲れました。私は猫になります。』と手紙だけを置いて、いなくなったらしいよ。」
「へぇ…。」
「でね、勿論奥さんと子供は心配するじゃん?そしておじさんが一日帰ってこなかったので、警察に捜索願を出したんだ。……数日後、おじさんは隣町で見つかったんだけど…もう分かるでしょ?」
「…うん。」
伊月は一好が次に言うであろう言葉がもう分かっていた。あのおじさんの末路を見てしまっているから。
一好が少し声のトーンを落とし、囁くように言う。
「本当の猫みたいになってたんだって。」
「そうか…。」
「で、そうなっちゃったおじさんに奥さんはどう思ったのかは知らないけど…。すぐ離婚したんだって。子供はもちろん奥さんの方に渡されたらしいよ。」
伊月はおじさんの奥さんと子供の気持ちを想像していたたまれなくなった。極めて普通だった夫が…父が異常者になってしまっていた事にどれ程の衝撃、悲しみを感じたのだろう。伊月には分からない。分かる訳がないのだ。経験したことがないから。
「実はこの話には続きがあるんだ。といっても、本当かどうか怪しいんだけど…。俺の友達の友達の友達のお兄さんが、猫おじさんが住んでいる家に入ったんだって。」
伊月は真偽の程は定かではないが、あの猫おじさんの家に入ったという友達の友達の友達のお兄さんの勇気というか…無謀さに少し呆れたが黙っておく。
「猫おじさん、ああなっちゃったからさ…。もちろん中は荒れ果ててたんだって。でね!その人はある物を見つけたんだって。」
「ある物…?何?猫になる為の方法の本とか?」
「ううん、違うよ。」
一好が少し間をあけて言う。
「……入れ替わりの薬と書かれている紙が貼ってある瓶だったんだって。」
「入れ替わり…?まさか!猫おじさんは精神とか何かが狂って猫みたいになったんじゃなくて…猫と入れ替わって…だから…。」
伊月はあまりの恐ろしさに震える。猫になりたいという執念の深さに戦慄した。あの人は精神が猫になるだけではダメだったのか。体まで猫になりたいと思う程、人間というものをするのに疲れていたのかと。
一好がそんな伊月を落ち着かせるように口を開く。
「まぁ、もう一回言うけど本当かどうかは分からないからさ。そんなに深く考えなくていいと思うよ。」
伊月は返事をしなかった。伊月は後悔の念に駆られていた。
(肉まんぐらい食べさせてあげたら良かった…。)
人として生きていることに、恐らく一生気づかないであろうあの可哀想な「猫」おじさんに。
作者りも