ピエロに餌をやるのは、私の仕事だ。昔は、どこの遊園地でもピエロを飼っていた。赤いゴムのような分厚い唇の間から鋭い白い牙を覗かせ、くちゃくちゃと好物を咀嚼するピエロの鮮やかな縞模様の衣装は、腹の辺りまで真っ赤に染まっている。私は額の汗を血塗れの手で拭って、チェーンソーで食べやすく解体した餌を次々と放ってやる。
「何でピエロって、人しか食べられないんだろうねえ」
私が首を傾げて呟くと、餌やりをぼんやりと見守っていた『ピエロもどき』が、横から口を挟んだ。
「そういう生き物だから、じゃないですか」
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今日は朝から小雨が降っている。遊園地はがらがらに空いている。
ピエロは何も答えず、放られた死体の腕に齧り付いて、固い腱の筋を力任せに噛み千切った。血の飛沫が飛んで、『ピエロもどき』がひゃっと悲鳴を上げて後ずさった。
「ピピ、ゆっくり食べな。今日はお客さんなんて来ないんだから」
正確には、今日も、だ。ピエロの真っ白い顎から、血が滴り落ちて雨粒と混ざる。連日の雨の所為で、ここ数日、ろくに客の姿を見ていない。例え天気が良くても、この古ぼけた遊園地が客で一杯になることなんて、まずあり得ないのだけれど。
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ピエロランド。それがこの遊園地の名前であり、私たちの職場の名前でもあった。昔はピエロを多頭飼いしていて、そんじょそこらの遊園地には負けないくらいの数を誇っていたらしい。
ピエロのピピは、赤と青の縞模様の傘をさして、園内を散歩している。身長が三メートルを超えているのは、竹馬に乗っているからだ。まるで高下駄のような竹馬を、縞模様の長いズボンの下に隠して履いているため、傍目には異様に足の長い化け物のようにも見える。濡れた地面を不安定な竹馬で悠々と歩く姿は、滑稽と言うより優雅ですらあるのだが、私に賛同してくれる者は少ない。
ピピの髪はくしゃくしゃの天然パーマで、曇り空にも鮮やかなコバルトブルーの色をしている。真っ白い肌は陶器のようにつるんとして、毛穴は全く見当たらない。球体のように真ん丸で、てらてら光る真っ赤な鼻と、分厚くて耳の辺りまで裂けた真っ赤な唇。黒い大きな星柄で囲まれた目はかなり小さく、近付いて良く見ると白目の部分が存在しないというか、全体がぬいぐるみの目のように黒目だけで構成されているのがわかる。赤と青の縦縞のダブルスーツに巨大な蝶ネクタイを締め、揃いのシルクハットを小粋に掲げる様は、さながらお伽の国からやって来た風変わりな紳士といった具合だ。
彼がいつからこの遊園地に居るのか、どこから来たのか、私は何も知らない。『彼』と言ったが、男かどうかさえ、はっきりしない。ただ、百九十センチの身長と、細身の割にがっしりした肩幅から、勝手に『彼』なのだろうと判断しただけだ。
「っていうか、ピエロに雄とか雌とかあるんですか?」
「そりゃあるだろうさ。生き物である以上は、な」
『ピエロもどき』の問いに、『指輪売り』が答えた。指輪売りは園内で週に一回開催されるフリーマーケットの常連で、その名の通り、古い指輪や中古のアクセサリーなどを売っている。
「けどな。ピエロの赤ん坊ってのは、俺は見たことがねえな」
指輪売りの老人はそう言うと、短くなった煙草を美味そうにふかした。煙草の煙は、彼の日焼けした顔の上のくすんだ口髭と同じ色をしている。
銀の指輪をはめた指輪売りの手は、ごつごつと節くれだって血管が浮き出していた。ピエロもどきの手は、指が短くてぽっちゃりしている。私の手は、タコと傷だらけで指がひょろ長い。
ピピの手が一番繊細だ。白いすらりとした指と、コバルトブルーの爪。もちろん、マニキュアなんかじゃない。ピピはこの奇麗な指でトランプの手品をしたり、風船を配ったり、派手な色の造花を取り出して、私の髪に挿してくれたりする。
「よお、切符切りの姉ちゃん。ピピは男だと思うか?」
指輪売りが私に向かって声を掛けた。私は雨に濡れて光っている模造宝石の指輪を選んで、老人の手に紙幣を渡した。
「どっちでも良い。ピピはピピだから」
折角のフリーマーケットの日だというのに、雨のせいで客足が途絶えている。出店しているのも、この指輪売りだけだ。
ピエロはいつの間にか増えて、いつの間にかいなくなる。昔からそうだったらしい。どうやって増えるのか、どうして消えてしまうのか、そもそも死ぬということがあるのか。誰も深く考えた者はいない。追求した者もいない。あれだけ居たピエロが何故減ってしまったのか、その理由さえわからない。増えすぎたピエロを譲ったり、足りなくなった分を補充したりといった取引も、今は行われなくなって久しいのだと言う。そもそも本物のピエロを飼っている遊園地が、現代日本にどれだけ残っているのだろう。
「もう他の園には『ピエロもどき』しか居ませんよ。と言うか、お客さんは昔から『本物』と『もどき』の区別が付いてませんから」
『ピエロもどき』がそう言って、毒々しいピンク色の鬘をくしゃくしゃと掻いた。ピエロもどきは人間の変装だから、髪の毛は当然かつらだし、肌も白粉を塗っているだけだ。目の周りの模様も、大きな唇も、ただ顔の上に描いているだけ。赤い丸い鼻はプラスチックの偽物で、人間の鼻の上に装着しているのだとか。
「今は餌の問題もありますしね。うちは『つのむし』さんが良くやってくれてるから、どうにか一匹だけは維持してますけど」
本物のピエロは絶滅危惧種に等しいだろう。しかし、国では保護して貰えない。私はピピの黒い目を見つめる。ピピは茶目っ気たっぷりに首を傾げて、細長い風船でプードルを作ってくれた。
本物のピエロに、悲しいという感情は無い。
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つのむし。それが今の私の呼び名だ。本名は、忘れてしまった。
子どもの頃、家の近所に怪しげな男が昆虫を売りに来たことがあった。『つのむし』という看板を掲げ、何が入っているかわからない白い箱を並べて売っている。虫売りの男は歯の無い顔でにやりと笑い、どんな『つのむし』が入っているかはお楽しみだ、と言った。
つのむし。角のある、虫。子どもだった私は、クワガタやカブトムシなどの高価な虫を期待した。異様なほど安かったその箱を抱えて帰り、喜び勇んで蓋を開けたところ、飛び出して来たのは台所の害虫だった。後から祖父が、俳句手帳という本を持ってきて、つのむしとはゴキブリの別称であることを教えてくれた。
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ゴキブリが季語だなんてなあ、と、笑って私を慰めてくれた祖父も、数年前に旅立ってしまった。一人きりで生きるのにも、もう慣れてしまったけれど。
「ねえ、『ピエロもどき』。メリーゴーランド動かして」
私がそう言うと、『ピエロもどき』は素直に「はい」と答えて、旧式の機械を操作しに掛かった。雨の日に問題なく遊べるのは、この古いメリーゴーランドとミラーハウスくらいのものだ。最新の遊園地とは異なり、室内で遊べる遊具が極端に少ないので、天気の影響をまともに受けてしまう。
「そんな呼び方しなくたって。俺の名前なら、何度も教えたじゃないですか」
私は、ピエロもどきの本当の名を知らない。聞いても、すぐに忘れてしまうのであまり意味は無い。
メリーゴーランドは、客がいなくても日に何度かは動かさなければならない。機械の仕組みが云々というよりも、何十年も人を乗せて回って来た白馬たちの機嫌を取るためだ。ゼンマイ仕掛けの巨大オルゴールは、案外気難しいのである。
白馬の脇腹には、ひじ掛け用のレバーが付いている。昔は、女児もズボンではなくスカートを履くのが一般的だったのだろう。私は古着のワンピースの裾を抓むと、本来の用途に従って馬の背に横座りした。跨ることができなくても、ひじ掛けが丁度良い場所にあるため、身体を安定させるのは容易い。
ぎぎぎ、と軋む音を立てて、歯車が回転し始める。最初はゆっくり、どんどん早く。雨に煙る景色が、視界の端でぐるぐる回る。気取った表情の白馬。ビロウド張りの馬車。金細工のゴンドラ。白馬は、一匹ずつ表情が違う。馬車の座席は赤いビロウド、ゴンドラの座席は青いビロウドだ。いつ見ても、その贅沢な凝りように半ば感心し、半ば呆れてしまう。天井を見上げれば、教会のフレスコ画のような天使の絵が一面に描かれている。天井からこちらを見下ろす天使は、一様にラッパを咥えている。白馬の回転に合わせて天井も回るので、本当に天使が飛んでいるように見える。
このメリーゴーランドは、ピエロランドの自慢だ。何十年も昔、外国の遊園地にあったのを安く譲ってもらったのだと言う。顔に当たる小雨の粒を感じながら、私は一時だけ、白馬に横座りする淑女の夢を見る。機械仕掛けの天使の囀り。ピピの奏でるアコーディオン。古びた遊具の、古びた夢――。
ぱち、ぱち、ぱち。
拍手の音が、音楽を遮った。
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丁度時間が訪れ、白馬たちの回転が止まる。オルゴールに合わせてアコーディオンを弾いていたピピが、声のした方に黒い瞳を向けた。私が淑女らしくない仕草で白馬から飛び降りると、メリーゴーランドの前に、高校生くらいの女の子が立っているのが見えた。
「驚いた。雨の日のお客さんだ」
ピエロもどきが呟く。私は少々気まずい思いで、ぎこちなく笑った。客がいないのを良いことに、従業員が遊具で遊んでいるなんて、あまり褒められたものではない。
「すみません。綺麗な音がしたから・・・アコーディオン、上手なんですね」
女子高生が、恥ずかしそうに小声で呟く。長い髪を肩の辺りで二つに結わえ、コンビニで買うような透明な傘をさしている。紺色のブレザーの制服は、どこそこのお嬢様学園のものだ。
「乗る?」
努めて自然を装って、私は彼女に話しかけた。女子高生が、躊躇いがちに視線を上げる。その目の中にある種の期待が籠っているのを、私は見逃さなかった。平日の日中、それも雨降りの日に、学校をさぼってまで遊園地に来るなんて、何かわけがあるに違いない。
「でも・・・」
「お金なら気にしないで。どうせ誰もいないし、入園料は払ったんでしょう?」
本当は、私が入り口で切符切りをしなければならないのだが。自動券売機で券を買わず、ずかずかと施設内に入り込める日本人は少ない。女子高生も平均的な日本人だったらしく、素直に小さな切符を差し出した。入園料、学生五百円。
「さあ、乗った乗った。今日は貸し切りだよ」
ピエロもどきが陽気に言って、女子高生を急き立てる。彼女は少し遠慮したものの、結局私が乗っていたのと同じような白馬を選んで、やはり横向きに腰掛けた。私はすぐ隣の白馬を選んで、今度は男のように跨った。裾の長いフレアスカートなので、下着が見えてしまう心配は無い。ピエロもどきと私は、視線だけで短い会話をする。
――やりますか?
――もちろん
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私が頷き返すと同時に、ピエロもどきは機械を作動させた。白馬たちに命が宿り、天使のラッパが音楽を奏でる。
最初はゆっくり、どんどん早く。
どんどん。どんどん早く。
馬の回転速度は変えられる。ピエロもどきは楽器が苦手だが、こういうのは大得意だ。景色が回る。ぐるぐる回る。雨で停止しているコーヒーカップよりも、もっと早く。ぐるぐる回る。メリーゴーランドの前でアコーディオンを弾くピピの前を、白馬で通り過ぎたと思ったら、一瞬後にはまたコバルトブルーの髪が見えている。女子高生はもう、白馬の首にしがみ付くのがやっとだ。私はにやりと笑ってピピに手を振ってから、女子高生に向かって声を張り上げる。
「笑って! 記念撮影!」
白黒映画で見るような大げさなカメラを構えて、ピピはおどけた仕草で女子高生に手を振った。女子高生はやっとのことで顔を上げると、猛スピードの白馬の上でどうにか笑顔らしい表情を作った。
私が乗る白馬は男の子用、女子高生が乗る白馬は女の子用だ。男の子用は、スカートに配慮したひじ掛けが付いていない。そして、男の子用は女の子用の後ろを追いかける作りになっている。
「笑って! ほら、撮るよ!」
私の馬は、女子高生のすぐ後ろを走っている。私はワンピースの下からするりと警棒を取り出すと、女子高生の頭をがつんと殴った。
紺色の制服が崩れ落ちる。我ながら早業だ。落馬しても、メリーゴーランドの回転は止まらない。陽気な音楽に合わせ、ぐるぐるぐる。白馬の背が赤く染まる。負傷した名馬といった風情だ。
「やりました?」
ピエロもどきが、興奮と恐れの混じった声で叫んだ。音楽が小さくなり、ゆっくりと吸い込まれるように消えて行く。私は少しふらつきながら白馬から飛び降りると、落馬してぐったりとゴンドラに寄り掛かっている女子高生に近付いた。
精一杯の泣き出しそうな笑顔を浮かべて、彼女はこと切れていた。ゴンドラのビロウド座席に、血の染みは付いていない。完璧だ。
「頭がい骨がちょっと凹んじゃったけど。重要なのは表情なんだし、こんなもんよね」
私が満足して頷くと、ピエロもどきはうんうん言いながら女子高生の身体を運び出しに掛かった。血の跡は雨が洗い流してくれる。
「何でピエロって、笑顔の死体しか喰えないんでしょうねえ」
ピエロもどきの言葉に、今度は私が笑って答える。
「そういう生き物だからじゃない?」
大分前、まだ私が下手くそだった頃、行方不明者を探して刑事がピエロランドに来たことがあった。あの時は、流石に私も焦った。
ピピが太ってしまう。
デブのピエロは、ピエロもどきだけで沢山だ。
結局のところ、その心配はいらなかった。刑事は無念の表情を浮かべて死んだので、ピピが食べてくれなかったのだ。首を斬り落としても、細かく刻んでも、ピエロにはわかってしまうらしい。
「あの刑事、最終的にどうしたんでしたっけ?」
「サーカスに譲ったみたい。ライオンの餌にするって」
サーカスもピエロを飼っていた時代があるため、こういう失敗には理解がある。だがその月の給与明細を見てみると、手間賃のつもりか、きっちり二万円が引かれていた。
「今はサーカスも減ってますし、苦労しますね」
「しょうがないよ。ピエロは自分じゃ餌を捕れないんだから」
ピエロに人は殺せない。ピエロにできるのは、人を笑顔にすることだけだ。橋の下のホームレスは、ピピがおどけてお手玉をするのを見て、顔をくしゃくしゃにして笑っていた。私は、ホームレスの頭をビール瓶でがつんとやるだけで良かった。人生で久しぶりに大笑いできたのだから、ホームレスもさぞ幸せだっただろう。
ばふっ、と音を立てて、ピピのカメラが煙を上げた。まるでトーキー映画の一場面だが、乗り物の上での記念撮影は遊園地のお約束だ。
「あんな古いカメラ、どこに隠してたんでしょうね」
「知らない」
色とりどりのお手玉も、レトロなアコーディオンも、ピピが時々私にくれる造花の類も。遊園地の経費で買ったことは一度もない。
ピエロは、色々な道具を隠し持っている。そういう生き物だ。
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最後の雨が上がってから、数日間はお天気の日が続いた。今までも晴れの日が無くはなかったのだけれど、日曜日が雨降りで月曜日が快晴、という意地の悪い天気だったので、雨の無い休日は珍しい。
久しぶりの忙しさに慣れることができず、閉園前には私もピエロもどきもぐったりしていた。ピピは一輪車に乗って園内を走り回ったり、子どもたちに風船を配ったり、朝から夕方まで大活躍だった。今は一輪車に乗ったまま玉乗りをするという荒業に挑戦して、帰宅前の客に思い出を作ってやっている。あんなに危ないことをしても、本物のピエロは決して失敗しない。
「つのむし、何か買ってかないか?」
フリーマーケットの常連が、私に向かって声を掛けた。あの野球帽の老人は『古着売り』だ。以前ワンピースを買ってやったので、気を良くしたのだろう。私はだらだら歩いて、フリーマーケットの会場に近付いた。多くの店は、既に後片付けの途中だった。売り手が一杯やりに行ったまま戻って来ない『指輪売り』の店と、この『古着売り』の店、そして図々しそうなおばさん客と値段交渉中の『編み物売り』の店だけが、まだ商品をシートに広げたままでいる。
「米兵行きつけのキャバレーで買い付けたんだ。新作だぞ」
古着の新作、という言い方はいかにもおかしい気がしたが、特に指摘はしないまま、私は古着売りの巨大なボストンバックの中身を掻き回した。彼は商品を並べたりしない。バッグやトランクに大量に詰め込んで、客が漁るのに任せるスタイルだ。
「キャバレーの女の子が着てたってこと?」
思いきり丈の短い花柄のワンピースに、臍が丸見えのビキニのような上下スーツ。全く売れていないのは、商品が日本人の好みから大きく外れているせいだと思う。
「向こうの女は、似合うも似合わないも気にしねえから。着たいもんを着たいように着る」
私は人目を気にする保守的な日本人なので、シンプルな青いスカートと、革のジャケットを選んでお金を払った。
「あんたが飼育係になってから、ピピは変わったな」
「そう?」
「ええ。どこがどう、とは言えないけど、何となくね」
編み物売りの老婆がころころと笑って、今しがた編みあがったばかりのセーターをその場に置いた。指輪売りも、古着売りも、編み物売りも、私がピエロランドで働き始める大分前から、ここに居る。何年も、ひょっとしたら何十年も、ピピを見ているのだ。
「餌は足りてるか?」
周りに人がいないことを確かめて、古着売りが声を潜めた。
「やばくなりそうだったら、俺に言え。消えても誰も気にしねえような連中なら、腐る程用意できる」
皆、ピピが大好きだ。ピピの陽気な仕草や見事な玉乗りなんかを見て、仏頂面でいられる人間の方が珍しい。
私に課せられた責任は重い。ピピは、日本最後のピエロなのかもしれない。ピエロが全くいない世界、というのは、うまく言えないけれど、何だかぞっとする。いつも笑顔で、手品や一輪車乗りが得意で、風船の玩具やキャンディーなんかをいくらでも出すことができて、怒ったり悲しんだりするような余計な感情が無くて、ただひたすら皆を喜ばすことのできる、そんな本物のピエロが日本からいなくなってしまう、というのは。良くない、気がする。遊園地の外の世界も、何かが変わってしまう、気がする。
「困ったことがあったらいつでも言ってね。つのむしちゃんは、私達にとっては孫みたいなものなんだから」
編み物売りが、皺だらけの暖かい手で私の両手を握った。支えてくれる人がいる、というのは、嬉しい。
「ありがとう。絶対にピピを飢えさせたりしないから」
私は約束して、編み物売りの手を握り返した。
夕日に長く影を引いて、一輪車に乗ったピピが戻って来るところだった。私が手を振ると、ピピは一輪車を漕ぎながら紳士的に帽子を取ってお辞儀した。帽子の中から飛び出した紙吹雪が、色とりどりの雪のように辺りに舞い落ちる。
「こら、ピピ! 商品にゴミを落とすな!」
古着売りが紙吹雪を手で払って、慌ててトランクの蓋を閉めた。私と編み物売りはその様子を見て、声を上げて笑った。
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全ての生物がそうであるように、ピエロだって食事をしなければ生きて行けない。肉食動物に草ばかり与えたら死んでしまうだろうし、アレルギー等が原因で特定の食べ物しか受け付けない人間に、頑張って克服しろと言うのは無知の極みだ。
「鰻がもうすぐ絶滅しそうなんだってなあ」
指輪売りが、遊園地の管理室で新聞を広げて言った。此処は所謂バックヤード、裏方なので、関係者以外は立ち入り禁止ということになっている。ところが、指輪売りはいつも平気でここに入り浸っている。
「俺が鰻しか食えない人間だったら、優先的に食わして貰えるかな?」
「そういう生き物が居るとしたら、そっちもいずれ絶滅するでしょうね。実際、餌となる生物が消えた所為で数を減らしてしまった動物は多いんですよ」
メイクを落としたピエロもどきが相槌を打つ。ピエロの仮装をしていない時のピエロもどきの顔を、私はやっぱり覚えることができない。街でばったり会っても気付かないだろう。
「つのむしさん、今日も外食ですか?」
「そうするしか無いみたい。冷蔵肉のストックも無くなっちゃった」
私は冷蔵庫の中を確かめてから、頷いた。天気が良くてお客さんがたくさん来た日は人目がありすぎるし、逆に雨降りだと誰も来ない。この間の女子高生のような幸運には、なかなか恵まれないのだ。
「また、橋の下のホームレスか?」
指輪売りが浅黒い顔を上げる。
「最近行きすぎたから、辞めとく。橋下にピエロが毎回居たら怪しまれるし」
良い餌場ではあったのだが、昔の刑事のような失敗は金輪際避けたい。そうでなくても安月給なのだ。
「他にも、何件か候補はあるから。たまにはそっち回ってみるよ」
ピエロを何匹も飼っていた頃は、餌に困ることも今よりずっと少なかったらしい。意外な話に思えるが、時代を考えれば当たり前なのかもしれない。少子高齢化社会の今よりも子供が路上に溢れていたし、大人たちの管理もずっと杜撰だった。
フリーマーケット常連客の話によると、ピエロランドは定期的に無料開放を行っていたと言う。家の無い子、親のいない子でも、お金を払わずに園内に入って、好きな遊具で遊ぶことができた。そういう子供たちが、一人や二人いなくなっても、注意を払う者は誰もいなかった。彼らは様々な理由で笑顔を失ってしまっていたのだから、最後に笑うことができたのは幸運だったと思う。
今現在も、そんな境遇の子供が全くいないわけではない。
いや、子供に限ったことでも無いだろう。
「おじさん、風邪引くよ」
路上で眠りこけている酔っぱらいに、私は愛想よく声を掛ける。酔っぱらいはバーコードの禿げ頭を揺らして「ああ」とも「うう」とも付かない声を上げてから、赤く充血した目で私とピピを見た。別段、驚いた様子は無い。
「ピエロ? ああ、ピエロか・・・」
飲み屋の変わった呼び込みか、でなければ幻覚だとでも思っているのだろう。一人で納得したように頷いて、また居眠りを始める。
「おじさん、ちょっと起きてよ。ほら、見て」
私は無邪気を装って酔っぱらいを揺すり起こすと、後ろで風船を膨らまし始めたピピを指さした。ピピが大げさに胸を反らして息を吹き込むと、赤い風船が見る間に膨らんで行く。風船は細い腸詰のような形になって、ピピの手の中でふるふると揺れていた。
「何の動物が好き?」
ピピが素早く手を動かすと、風船は捻じれたりくびれたりしながら形を変えて、最後は八本脚のタコになった。
「はは、ははは」
酔っぱらいが酒臭い息を吐いて、少し笑った。
「タコか。禿げ課長にそっくりだ」
十中八九、この酔っぱらいも似たような仇名で呼ばれていると思うのだが。ピピは今度は青い風船を膨らまして、同じように捩じった。数秒後、ピピの手の中には青い蝶が居た。
「凄いな」
酔っぱらいが目を見開く。
「どうやったんだ?」
「もう一回やるよ。さあ、手元を良く見て」
禿げた中年男の目が、子供の目に変わっていた。魔法のように動くピピの手を、好奇心一杯に息を飲んで見守っている。今度は黄色い風船だ。さあ、何を作るのだろう。酔っぱらいの口元に、薄らと笑みが浮かぶ・・・。
「一丁、上がり」
私はふざけて呟くと、乗って来たライトバンの後ろに血塗れの死体を積み込んだ。
「勘弁してくださいよ。全く、大胆なんだから」
手伝わされたピエロもどきが、息を切らしてぶつぶつ言う。
「この際だからいくつか『非常食』も確保したいの。もたもたしないで、次の場所まで運転してよ」
血の付いたバールを振って私が命令すると、ピエロもどきは「へーい」とやる気の無い返事をして運転席に潜り込んだ。ピピの手の中には、出来上がったばかりの向日葵の花があった。
オートロックのマンションも、コツを掴めば忍び込めないことは無い。綺麗に掃除された部屋の中の、唯一別世界のように汚いクローゼットの中には、人間未満の存在が閉じ込められていた。
「ピピ、赤ちゃんだよ。可愛いね」
放置されていた赤ん坊の首根っこを掴むと、餓死寸前の痩せた身体つきに似合わず、鋭い泣き声を上げる。私が慌ててピピに手渡すと、ピピは長い両腕の中に赤ん坊を抱き込んで、揺りかごのように揺らし始めた。ピエロというものは、子供の扱いに長けている。ピピは勿体ぶった仕草で小さなラッパを取り出すと、陽気な曲を演奏し始めた。どす黒い顔の赤ん坊が、きゃっきゃっと笑い声を上げる。慈しむような黒い瞳を見ていると、ピピは本当に優しいピエロなのだと感心してしまう。
私は赤ん坊の首に手を伸ばすと、力を込めてごきんと捻った。赤子の手を捻るような、とは良く言うが、首となると結構力が居る。
「バスルームで食べてね。後片付けが大変だから」
手足がぐにゃぐにゃになった小さな死体は、ピピの大きな口の中に二口程で飲み込まれてしまった。鋭い牙の間から真っ赤な血が滴って、風呂場のタイルの上にぽたぽたと落ちた。
「ピエロランドの大道芸でーす」
公園で大声を上げれば、暇を持て余した若者たちがわらわらと集まって来る。朝が来れば憂鬱な月曜日になってしまう、その前に少しでも日曜日の余韻に浸ろうと、無理矢理な笑みを浮かべて。
基本の風船芸にお手玉、トランプの図柄が変わる手品に、炎を飲み込んでみせる少し危険なものまで。若者たちはわっと歓声を上げて、示し合わせたように一斉に写真を撮った。私は彼らの中の一人に目を付けて、観衆が飽きて去り始めるまで、延々と見世物を続けた。
「ねえ、楽しかった?」
最後に残った一人に、私は馴れ馴れしく声を掛ける。
「別に」
ずっとスマートフォンを見つめたまま、碌に芸を見ていなかった青年がぼそりと言う。面倒そうに立ち去ろうとするのを、私は圧力を込めた笑顔で引き留めた。
「そう? その割に、最後まで残ってくれたよね」
「別に・・・虚しくなんないのかって、思って」
私よりも、大柄な体格のピピの方を怖がっているらしい。ピピは人を傷つけたりしないのに、と思うと、私はおかしくて堪らない。
「虚しいって、どうして?」
「今時大道芸人とか、底辺だろ。プロのサーカスに入るような能力も無いくせに、こんなところで小銭かき集めて喜んでさ」
確かに、ピピの帽子の中には若者たちが投げ入れてくれた小銭がたくさん溜まっていた。でも、これはピエロランドの利益になるわけじゃない。コンビニの募金箱にでも放り込んで帰るつもりだ。
「なるほどね。けど、私たちも一応プロだし。少しは楽しんで貰いたかったな」
私は拗ねたように言って、青年の様子を伺う。
「掛けでもしない? 今からあんたの為にだけ、簡単な手品をやってあげる。あんたが楽しめなかったら、今日の稼ぎは全部あげるよ」
青年の喉がごくりと鳴って、重そうに膨らんだピピの帽子を見下ろした。小銭の中には、紙幣も何枚か混じっている。
「つまんなかったらそう言って。そしたら、あんたの勝ち」
青年が何か言う前に、私は気取って指を鳴らした。ぱちん、という音に合わせて、ピピがトランプを操る。宙を舞うカード。ただの紙なのに、生きた鳥のように飛び回って見える。
ピピは空中で何枚かのカードを選び取ると、残りをもう片方の手で受け止めた。選んだカードは、ハートのクイーンとスペードのクイーン、クラブのクイーンにダイヤのクイーンだった。
「クイーンばっかりかよ・・・」
言いかけた青年の前で、ピピがカードをくるりとひっくり返した。コバルトブルーの爪でカードの裏側を叩き、もう一度くるりとひっくり返す。青年が息を飲んだ。ダイヤのクイーンの絵が、深夜に放送されるアニメキャラのイラストに変わっていた。
「嘘だろ。どうやった」
青年が叫ぶ。ピピは人差し指を左右に振ってから、スペードとクラブのカードにも同じような『魔法』を掛けた。二つのカードのクイーンは、やはりアニメキャラのイラストに変化した。
「待てよ。最後は・・・当ててやる」
青年の目に光が灯るのを、私は見逃さなかった。
「ハートのクイーンは・・・」
口角を上げて手品にのめり込む青年の頭を、私はバールで殴り付けた。ピピの手に残ったカードは、ハートのクイーンのままだったので、結局何のアニメキャラを期待していたのかはわからなかった。
「このアニメ、俺も知ってますよ。結構面白いんです」
ピエロもどきが、嬉しそうに言う。
「俺としちゃ、ハートのクイーンはやっぱり・・・」
「さ、帰るよ。夜が明けちゃうから」
私はピエロもどきをせかして、ピピと一緒にライトバンに乗り込んだ。車内にはむせるような血の匂いが漂っていた。
「冷蔵庫、入るかな」
「指輪売りが溜め込んでるビールを取り出せば・・・って言うかあの人、何で勝手に冷蔵庫使ってるんですか」
会社にも家にも居場所が無い、可哀想な酔っぱらい。生まれたことさえ隠されている、望まれなかった赤ん坊。友達が一人もいなくて、他人を羨む以外何もできない若者。
いなくなっても、探してくれる人は誰もいない。時と共に風化して、忘れ去られて行く。世の中よ、平和であれ。
月曜の朝っぱらから解体作業があるのは憂鬱だったので、私はライトバンの中で仮眠を取ることにした。ピピの肩に頭をもたれさせると、ピピは奇麗な指先で私のぼさぼさの髪をそっと撫でた。
ピピがそんなことをするのは初めてだったので、私は少しだけ驚いた。
作者林檎亭紅玉
完全創作。某文学賞に応募して見事落選しました。紙の本と違って途中で辞めると続きから読むのしんどいよな、と思ったので、今回は細切れで投稿いたします。
フリー画像使わせていただきました!!
何か遊園地の景品っぽかったもので・・・