実行する上で、問題がふたつ。
ひとつ、ミゾグチレイタは『いなくなっても誰も困らない人間』ではない。ひとつ、彼は心底死にたいわけではない。
死ぬ前にやっておきたい事は無いかと尋ねたら、遊園地で遊びたいと答えた。レイタの絵が評価されて以来、今まで彼が友達だと思っていた連中は友達ではなくなってしまったらしい。でもモテそうなのにね、と、私が言うと、レイタは意地悪く笑って言った。
「クラスの女子は面倒臭い。悪口と噂しか言わない、若い癖におばさんみたいな奴ら」
年齢的には私の方が五年程上なのだが、こう言われては仕方ない。私が案内できる遊園地なんてピエロランドしか無いけれど、レイタはつい最近までの病弱っぷりが嘘のようにはしゃいでいた。
「早く早く!」
パジャマ以外の服を着た彼を見るのは初めてだった。目立たずに、という教育が功を成したのか、ありきたりな白いシャツにありきたりなジーンズ、肩には飾り気のない鞄を下げている。これは人込みで見失ったら終わりだな、と考えたが、場末の遊園地はいつも通りの寂しい客入りだったので、さほどの心配はいらなそうだった。
「何から乗る? 観覧車は最後かな。つのむしは、何が一番好き?」
素人のホスピタル・クラウンでも、多少は効果があるらしい。
今日のレイタは、若き天才画家でも自殺願望の塊でもなく、ごく普通の年頃の少年だった。いや、今日は、というより、日に日にそういう姿に近付いて行っていると言った方が正しい。最近は、食べても吐かなくなった。歩いても貧血で倒れることが少なくなった。異様に長かった睡眠時間も、段々と正常に戻りつつある。
「つのむし、今日は何時まで大丈夫なの?」
「夕方までかな。一応休みは貰ったけど、ピピにご飯あげないといけないから」
休日でも、日に一度はピエロランドへ来なくてはならない。ピピと一緒ならば一泊くらいは出張に行けるかもしれないが、基本的にピエロは外の世界では生きられない。
「君の生活はピピが中心なんだね」
メリーゴーランドのビロウドの椅子に腰かけたレイタは、外国の童話の挿絵みたいだった。顔が妙に綺麗だから、嫌でも他人の視線を集めてしまう。
晴れの日のメリーゴーランドは、金色が強烈すぎて、目がちかちかする。天井のラッパを吹く天使と、誇らしげに駆ける白馬が、馬車に乗ったレイタと私の周りをぐるぐる回る。
何でも乗ったし、何でも楽しんだ。完全な客の立場でピエロランドに来るのは、そう言えば初めてかもしれない。
メリーゴーランドよりも早く回転するコーヒーカップは、景色の色が全部混じって見えた。降りた後でふらふらになっているレイタをからかったら、拗ねてしまったのでアイスクリームでご機嫌を取った。ジェットコースターも、今日は動いている。落下の瞬間は、二人揃って歓声を上げながら万歳をした。ミラーハウスでは歪んだ自分たちの虚像に声を上げて笑ったし、ゴーカートを暴走させては、映画の中で見たような悪者の台詞を言い合ってふざけ通した。
「遊園地って、不思議だ。そう思わない?」
ベンチに並んでポップコーンを食べていた時、レイタが急にそんなことを言った。
長く働いているせいで、私は感覚が麻痺している。でも、そう言われて周囲を見回すと、なるほど確かに不思議な光景には違いない。
良い大人がカラフルな風船を持って嬉しそうに歩くのも、安っぽいベニヤ板の城の模型の前で笑いながら記念撮影をするのも、遊園地でしか見られない光景だ。ここでは、大人も子供も関係ない。ピエロのお面を被ろうが、道の真ん中で強烈なピンク色の綿菓子を食べようが、外の世界でやったら気が変になったと思われる行動すべてが許されている。
「ここは日常とは切り離されている。外の世界の常識は、ここでは通用しない。現実に現代日本の中に存在する施設なのにね」
外の世界から見た私たちが、所謂まともな大人でないことは認めなければならないだろう。スーツを着てネクタイを絞め、満員電車に毎日乗って、会社では営業や事務の仕事をする。私も指輪売りもピエロもどきも、そんな経験は一度も無い。
「ピエロは、遊園地の中でしか生きられない」
レイタが呟いて、キャラメル味のポップコーンを噛み砕いた。さっきから、キャラメルがたくさんかかった部分ばかり食べている。
「君もそうなのかな」
口の端で笑ったレイタを横目に見ながら、私はキャラメルのかかっていないポップコーンを口に運ぶ。
「多分ね。私、人殺ししかできないし」
「僕もだよ。絵を描くしかできなかった」
二人で顔を見合わせて、笑った。
「できることがなくなっちゃったからね、僕は死ぬしかないんだ」
レイタの明るい『冗談』に、最適な返事が見つからなかった。
人間はピエロ程器用じゃない。一人の人間にできることなんて、たかが知れている。住む世界が世の大人よりもずっと狭い私に、レイタを止める権利なんて無い。
「ピピは、僕を食べてくれるかな」
「笑ってたらね。痛くしないように頑張るけど、失敗したら我慢して笑って」
死体になったレイタを想像してみる。まず切り落とすのは、頭だ。良い夢を見て眠っているような、そんな顔で死んでたら良い。それから、脚。男のくせに私と同じくらい細い脚で、辛い道のりを歩いて来たのだから労わってあげよう。そうだ、お腹の中身を出すことも忘れちゃいけない。レイタの心臓はきっと小さくて、ピピは一口で飲み込んでしまうだろう。肝臓も肺も、若いからピンク色でお菓子みたいに良い形をしているはずだ。
「これは?」
レイタが火傷の痕の残る右手を上げた。指の関節がつっている。白い肌をぼろぼろにした火傷は、爪の先まで変形させて、手の甲から手首までずっと続いていた。
「知ってる? 天ぷら油って、熱いんだよ。僕の母が家で天ぷらを作ろうとしたのなんて、あの一回きりだけどね」
レイタは自分の過去を嘆かない。レイタの才能も人生も、全部家族に滅茶苦茶にされたのに、まだ一つ屋根の下に住んでいる。
「死ぬのは僕の復讐だ。ピエロに喰われるなんて、世界で一番派手な死に方だと思わない?」
「世界で一番地味だよ。骨も残らない」
ピピが今まで食べた人間は、本当に存在していたのが疑わしいくらい、何の痕跡も残していない。持ち物やアクセサリーは残るけれど、それだってフリーマーケットでどこの誰ともわからない相手に売ってしまえばお終いだ。
「でも、芸術的だ」
レイタは食い下がった。私は、白くて味のしないポップコーンばかりが残ったカップを所在なく見つめる。
「僕はピエロに食べられて、ピエロの中で永遠に生き続ける。君の隣で。消えていなくなるわけじゃないんだよ」
芸術家っていうのは、皆子供っぽい。何処か、ピエロと似ている。私は、どうしてそんな事をする気になったかわからないけれど、レイタの火傷をした手に自分の手を重ねた。ざらざらした感触だ。
「その手は、最後に切り落とすよ」
レイタの綺麗な目を真っ直ぐに見つめて、私は言った。ピピの目とは全然違う。ピピに見つめられると安心するけれど、レイタに見られると途端に心臓が暴れ始めるのだ。だから、自分からそんな危険なものを見つめ返す気になった理由がわからない。
「その火傷が無かったら、レイタは私に会わなかっただろうから」
きっとそうなんだろう。レイタが私とピピのことを思い出したのは、彼が少しでも『死』に惹かれたからだ。もしもレイタが健康なままだったら、あの日に見た餌やりの光景だって、きっと夢かなんかだったと思い込んでいたに違いない。
私とピピの絵は、埃を被ったまま忘れ去られる。或いは、気の迷いで制作した悪趣味な空想画として酷評される。レイタは空虚で正確な風景画ばかり描くようになって、そのまま名のある大人の画家になって、世間で言うところの成功者の人生を歩んでいたはずだ。
「君とピピに会えて、良かった」
握り合った手に、レイタが唇を落とした。柔らかくて冷たい感触が伝わって、私の背中がざわっと泡立つ。ませた真似をするとか、年下のくせにとか、まともな大人なら言いそうな言葉は、全く私の口から出てこなかった。
「もしも、だよ。こういう形じゃなく出会って、僕は絵が描けて、君は人殺しだけれど僕は殺さなくって、僕は君の絵をたくさん描いて・・・考えるだけ無駄かな」
「空想は自由だから」
ぎこちなく顔を背けて、私はどうにかそれだけ言った。
何となくだが、レイタのその空想の中には、ピピが居ないような気がした。成功者の人生に、ピエロは必要無いのかもしれない。
がしゃん、と金属的な音が響いて、私たちは顔を上げた。
「ピピ・・・おい、ピピ! どうしたんだ」
ピエロもどきが、何か叫んでいる。一輪車が倒れていた。色付きのプラスチックのボールが、赤い煉瓦の地面を転がっている。
倒れた一輪車の横に、ピピは真っ直ぐに立っていた。本当ならば一輪車に乗ってボールをお手玉しなければならないのに、全くやり直そうともしないで、両腕をだらりと下げたままじっとこっちを見つめている。ピピを取り囲んでいた子供たちが、突然芸を投げ出したピエロを驚いた顔で見上げている。
「ピピ、動け。やり直すんだよ、ほら・・・」
ピエロもどきが、慌てて両手を振り回す。
相変わらず笑顔を浮かべてはいたものの、ピピは私たちから視線を逸らさなかったし、動こうともしなかった。子供たちが、白けたように顔を見合わせる。
「ピエロも、失敗するんだ」
レイタがぽつりと言った。そんなはずは無い。
ピエロもどきは自分がお手玉を始めようとしたものの、不器用なのでボールを全て落としてしまい、泣きそうになっていた。そんなピエロもどきを見ても、ピピはやっぱり固まったままだった。
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ピエロがどういう生き物なのか、実際のところは全く良くわかっていない。幾らでも玩具を取り出せる理由も、血で汚れた衣装がいつの間にか綺麗になっている理由も、彼らがいつの間にかいなくなってしまう理由も。ピエロが病気か、それに近い状態になったところで、人間にはどうにもできない。
ピピの食欲が落ちていた。前は一日に大人一人か、少ない時でも半分くらいはぺろりと平らげていたのに、最近では更に半分にしても残してしまう。骨も肉も細かく砕いて、ミンチにしたものを私が両手に乗せて口元まで持って行ってやらなければ、一口だって食べてくれない。
「病気なのかな」
「まさか。ピエロが病気になるもんか」
指輪売りはそう言ったが、自信は無さそうだった。
「いつから、こうなったんだ?」
メリーゴーランドの台座に腰掛けたピピは、ぐったりと頭を垂れて俯いている。ただでさえ細身なのに、前よりも痩せてしまったみたいだ。コバルトブルーの長髪は艶を失い、赤と青の衣装までが土埃に汚れて色あせている。
「つのむしさんが休んだ日から、ですね」
ピエロもどきが、言いにくそうに口を開いた。
「俺の言うことを聞かないのは前からだったんですけど・・・急に一輪車から飛び降りたと思ったら、そのまま固まってしまって」
だとしたら、私のせいだ。でも、私が休暇を取ったのはあの日が初めてでもない。
「何だか、昔のピピに戻ったみてえだな」
古着のトランクを抱えた古着売りが、心配そうにピピの顔を覗き込んだ。
「今日の昼間もな、子供にびっくり箱を見せたんだが・・・中からとんでもなくグロテスクな人形が飛び出してよ、ガキが大泣きして帰っちまった」
その光景は私も見ている。そんなに泣かなくても良いのに、と思ったが、笑わせるのが天才的に上手いピピが子供を泣かせるなんて、そう言えば珍しいことだ。
「そうね。昔はもっとこう・・・悪趣味とまでは言わないけれど、人を選ぶような芸をしていたわね」
編み物売りが苦笑する。火を噴いたり、棺桶みたいな箱に入った私に剣を突き刺したりする芸は、今も時々やっている。
「もっと過激なやつさ。自分が火達磨になって、観客を追い回したりするんだ。カップルに渡した風船が爆発した時は、どうしようかと思ったぜ」
古着売りが、苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「女の方は煤で真っ黒な顔で泣き叫ぶしよ、男の方はピピに食って掛かるんだが、ピピの方がでかいもんですっかり腰が引けててよ」
それはそれで面白い。想像すると、つい笑ってしまう。でも、昔のピピがそんなに悪戯好きとは知らなかった。
「今のピピは、何て言うか・・・ロマンチックに、なったわね」
毛糸の帽子を被った編み物売りが、嬉しそうに目を細めた。
「リボン付きの花束を出す手品なんて、昔は絶対やらなかったのよ」
信じられない。今は頻繁にやっている。客が全く居ない時間帯でさえ、私に花束を渡して来るのだから、私の部屋は順調に造花に浸食されつつある。
「昔は昔、今は今だ」
指輪売りが、古い指輪を嵌めた手を左右に振って言った。
「今のピピの餌係は、つのむしなんだ。つのむし、ピピに何が不満なのか聞いてみろ」
指輪売りに言われる前から、私には答えがわかっていた。最初から、わかっていたはずだ。私はピピの手に自分の手を重ねる。ピエロの手は優しく温かいはずなのに、今のピピの手は酷く冷たい。
「ミゾグチレイタ」
黒い小さな、微かに潤んだようなピピの瞳の中に、私の青白い顔が映っていた。
「ピピは、レイタが食べたいんだね?」
ピピがゆっくりと頷くと、ピエロもどきがへなへなと崩れ落ちた。
「そんなあ・・・」
「そういう契約だったから」
私がぴしゃりと言うと、可哀想なピエロもどきは項垂れてしまった。自分の似顔絵(と、彼は未だに思い込んでいる)まで描いて貰ったのだから、尚更諦めきれないのだろう。
「ホスピタル・クラウンをやらせたのは俺だ。いざとなったら、、俺が泥を被る」
落ち込むピエロもどきを無視して、指輪売りが珍しく真剣な表情で言った。レイタは小柄だから解体は楽そうだけれど、そこそこ名前も知れているので、浮浪者のように簡単にはいかない。
「何も心配するな、つのむし。お前が頼りなんだ」
いつかは、こんな日が来るとわかっていた。ホスピタル・クラウンの契約なんて表向きでしか無かった。もしもレイタの手が治ったら、なんて、そんなことは考えるだけ馬鹿らしい。
「・・・つのむしさんは、本当にそれで良いんですか?」
レイタの顔が瞼に浮かんだ。レイタは私の絵を描いて、私はレイタを殺さない。どこか遠く、遊園地でもレイタの家でも無い場所で、二人で並んでポップコーンなんか食べたりして。
幻を打ち消すように、私はわざと大げさに何度も頷いた。
作者林檎亭紅玉