日曜日が本番のはずだった。過去形で言うのは、私が既に失敗した後だからだ。コーヒーカップに乗っているわけでもないのに、景色がぐるぐる回転している。ここがガレージの中だということは、薄暗さと黴臭い匂いでわかった。どうやら、公用車の後部座席に寝かされているらしい。喋ろうとすると吐き気がして、急激に頭がぼんやりして来た。
「すみません。でも、つのむしさんの為なんです」
泣いているような笑っているような顔でそう言った男は、くしゃくしゃのピンクの鬘を付けている。ピエロのメイクをしたままあんな顔をするなんて、ピエロもどきはやっぱり偽物ピエロだ。
「ミゾグチレイタを呼んできます。車は、俺が出しますから」
何を言っているのだろう。レイタを呼んで来る? 私が、これからレイタを殺さなければならないのに。
私は何も喋れなかったけれど、ピエロもどきには私の言いたいことがわかったらしい。メイクの下で顔をくしゃっと歪めると、裏返った掠れ声で叫んだ。
「だって・・・ミゾグチレイタと一緒に居る時のつのむしさんは、あんなに楽しそうだったじゃないですか」
楽しかった。
確かにそうだ。
でも。
ピエロもどきが背を向けた。ピピよりも地味で、ずんぐりした背中が遠のいていく。私は身体を起こそうとしたけれど、どうにもならなかった。手足がふわふわ浮かんでいるみたいだ。頭の中がアイスクリームみたいにどろどろに溶ける。
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ピピ。
早く行かないと。
ピエロは、自分じゃ餌を捕れないから。
私が、殺してやらないと。
レイタとの約束。
日本最期のピエロ。
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色んなことが頭の中に浮かんで、浮かぶ傍から消えて行った。
いつの間にか、夢を見ていたらしい。
私は大きな鞄を持って、メリーゴーランドの前に座り込んでいた。天気は、やっぱり雨だった。夕方の空は厚い雲に覆われ、遠くでは雷が鳴っている。吐く息が白かった。
煙るように濃い霧雨の向こうから、誰かがやって来るのが見えた。
近づいて来る影は、かなりの長身だ。私は警戒して、メリーゴーランドの支柱にしがみ付く。
現れたのは、派手な衣装のピエロだった。赤と青の縦縞のスーツは、燕尾服のように裾が二股に分かれている。胸には巨大な赤い蝶ネクタイ、髪の毛は鮮やかなコバルトブルーだった。
「誰?」
間が抜けているとはわかりつつも、私はそう質問する。
あの頃の私は、ピエロが喋れないなんて知らなかったのだ。
「誰?」
答えが無かったので、もう一度聞いた。コバルトブルーの髪をしたピエロは、茶目っ気たっぷりに首を傾げると、私の目の前で指を左右に振った。
瞬きする間も無かった。まるで魔法のように、ピエロの手の中に真紅の花が咲いたのだから。
「・・・凄い」
造花を取り出す手品なんて初歩中の初歩だと言うけれど、ピエロの手品はそんな子供だましとは別物だった。プラスチックとビニールでできた蕾が、まるで生きもののようにぱっと花開く。ふわり、と、香料の良い匂いが雨の中に漂い出す。ピエロが僅かに指を動かすと、真紅の花は一瞬で消えうせ、真っ白い鳩に変わった。自分の目が輝き出すのを、私はもう止められない。鳩が勢いよく飛び立った後で頭に手をやると、そこには消えたはずの真紅の花が飾られていた。
「凄い。こんなの、初めて見た」
私はこみ上げる笑いを押し殺しながら、ピエロに惜しみない拍手を送った。紳士のように勿体を付けたピエロの動きが、どうにも可笑しくて堪らない。
「お礼に、私も凄いの見せてあげる」
どうしてそんなことを思ったのか、今でも良くわからない。多分、多少どうかしていたのだろう。私は悪戯っ子の気分でくすくす笑って、旅行鞄の留め金を外した。はち切れそうな程ぱんぱんだった鞄が、爆発したみたいに勢いよく開く。
造花の芳香も、雨の匂いも掻き消して、強烈に生臭い臭いが溢れ出した。雨水と混じった赤い河が、私とピエロの足元を静かに流れる。ほんの一時、雨の音以外、何も聞こえなくなった。
「びっくりした?」
祖父が死んで以来、私は元家族の厄介者だった。鞄の中には、元父と元母をバラバラに刻んでぐちゃぐちゃに混ぜ合わせたものがぎっしりと詰まっていた。
叩き潰された二つの生首は、どちらも馬鹿にしたような笑みを浮かべている。最期まで私を格下だと思い込んでいたのだろう。元両親の望むことは何一つできずにあざ笑われて来た私だけれど、どうやら人殺しの才能だけはあったらしい。
黒いビーズを縫い付けたようなピエロの目には、嘘も悲しさも怒りも無かった。突然、コバルトブルーの爪が潰れた肉塊を拾い上げ、ダイヤのように白い牙ががりがりと骨ごと噛み砕いた。ピエロの分厚い唇と白い顎を血が滴り、煌びやかな衣装の胸元が真っ赤に濡れる。血塗れのピエロを見ても、私は驚かなかった。
「ゆっくり食べなよ。取ったりしないから」
遊園地なんて来たのはほとんど初めてだし、ピエロのことは何も知らない。きっと、これが普通なんだろう。骨も、髪の毛も、溶けかけた食べ物の入った胃袋も、服の切れ端も、何もかも。全部、全部、ピエロの中に穏やかに消えて行く。先ほどまで紳士然としていたピエロが、動物のようにがつがつと貪る様が可笑しくて、私は再び膝を抱えて笑い転げた。何てユーモラスな生き物なんだろう。これを知らずに生きて来たなんて、随分損をしていたみたいだ。
「やっと餌係が見つかったか」
気が付くと、薄汚れた服を纏った老人たちが、私とピエロを遠くから取り囲んでいた。野球帽を被ってボストンバックを持った古着売り、毛糸の帽子とベストを身に付けた編み物売りに、銀の指輪をはめて無精髭を生やした指輪売り。指輪と無精髭の老人が、欠けた歯を見せて笑った。
「ようこそ、ピエロランドへ」
雨は、いつまでも降りやまなかった。
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雨。
煙る夕方の空。
天井を雨粒が叩く音。雨水が床を打つ音。雨漏りしているらしい。今度、ピエロもどきに修理して貰わないと。
・・・ピエロもどき?
私は痺れた両手を無理やり動かして、どうにか起き上がった。途端に胃の中がひっくり返るほどの不快感に襲われ、車のシートに寄り掛かって呻き声を上げる。意識が覚醒するのは、案外突然だったりする。何度か吐こうとしてみたが、出て来るのは酸っぱい唾液ばかりだった。目に浮かんだ涙を拭うと、雲っていた視界がはっきりして来た。ガレージの中は暗い。今は何時だろう。
「ピピ?」
小さな声で呼んでみた。転がり落ちるように車から降りて、歩けるかどうか試してみる。何とかいけそうだ。
「ピエロもどき? 何処?」
ふざけるな。久しぶりに、そう叫びたい気分だった。
ピエロもどきに渡されたコーヒーを、特に疑いも無く飲み干したところまでは覚えている。ワンピースは皺が拠っていて、靴は片方しかはいていない。鏡を見ていないので何とも言えないが、酷い顔をしているはずだ。チェーンソーは。鉈は。バールは。私の愛用していた『餌取り道具』が消えている。これもピエロもどきの仕業だろうか。ふらつきながら二、三歩歩くと、ガレージの隅に人影が見えた。壊れかけの揺り椅子に腰かけて、編み物売りが編み物をしている。
「おばあちゃん。ピピ、知らない?」
喋ると吐きそうだったが、我慢するしかなかった。派手な色のセーターを編んでいた編み物売りは、私を見るとにっこりと微笑んだ。
「大丈夫よ。心配しないで」
何もかもわかっているような顔で言って、再び編み物に集中する。
「もう大丈夫なの。皆、ずっと待ってたのよ」
皆、とは、フリーマーケットの常連たちのことだろうか。大丈夫と言ったって、この状況の何が大丈夫なのだろう。
メリーゴーランドの傍で出会ってから、私はずっとピピの餌係として働いている。あれから何年経ったのかもわからない。私がピピに初めて与えた餌は私の元両親で、彼らはとっくに消化されてしまっただろうけれど、そもそもピエロは排泄をしないので考えようによっては彼らはまだピピの中に居るわけだ。
「急がなきゃ。レイタと約束してるの」
レイタは、私が殺さなくてはいけない。私が殺して、ピピに食べさせてやらなくては。それが仕事だから。
編み物売りが再び口を開く前に、ガレージの外から悲鳴が聞こえた。間を置かず、何かが割れるような鋭い音が響く。私は片方だけ残った靴を脱ぐと、底に仕込んでおいた剃刀を剥ぎ取ってスカートのポケットに入れた。心もとない道具だが、無いよりましだ。
「行かなきゃ」
ガレージのシャッターは閉まっていたが、出入り口の鍵は開いていた。裸足で外に飛び出すと、雨に濡れた地面が酷く冷たい。空はもう群青に変わっている。ピピに餌をやる時間は、とっくに過ぎている。何でだろう。ほんの半日離れただけなのに、ピピが酷く懐かしい。
「ピピ!」
ピピに無性に会いたかった。私はピピの名前を叫んで、雨の中を駆け出した。編み物売りの老婆は、追いかけては来なかった。
作者林檎亭紅玉