遊園地の人喰いピエロ 6

長編19
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遊園地の人喰いピエロ 6

世の中はうまくいかないようにできている。そう思わずにはいられない瞬間が、人生では何度も訪れる。

 私はレイタの右腕を見つけた時にそう思ったし、頭の中ではきちんと神様に毒づくことを忘れなかった。ふやけたポップコーンや造花の破片に混じって窪んだ地面の水たまりに沈んでいたのは、肘の辺りから切断された人の腕だった。見覚えのある火傷の痕は、血に塗れた傷口よりも痛々しい。

 幸いなのは、と、私は腕を拾うべきか迷いながら考える。幸いなのは、人間はそう簡単には死なないということだ。麻酔無しで手足を切断されただけで、大量に血を流しながら激痛に悲鳴を上げショックを起こしてあっという間に死ぬ・・・と、いうのは映画や漫画でしか起こり得ない。勿論放って置けばいずれそうなるだろうけれど、思ったよりもずっと時間が掛かるはずだ。

 真っ赤な傷口はまだ新しそうだった。触ってみると、微かにだが、まだ温もりのようなものが残っている気がした。身体を離れてから、そんなに時間が経ってない。レイタは、まだ生きている。

「レイタ! 返事して!」

 私に殺されたい。ピピに食べられたい。レイタの願いはそれだけだった。仮にもホスピタル・クラウンの癖に、その程度の願いも叶えてやらないでどうする。

 もう一度名前を呼ぼうとしたけれど、怒鳴り声と悲鳴に掻き消された。ガレージの中で聞いた声と同じだったかどうかはわからない。スカートのポケット越しに剃刀を握りしめて、私は息を吸った。吐いた息は、あの頃みたいに真っ白だった。

 行かなくちゃ。

「レイタ・・・」

レイタの名前を呼びながら走っても、叫ぶ傍から空に吸われてしまうみたいだった。夜の遊園地は静かすぎるし、暗すぎる。ジェットコースターのレールはぐにゃぐにゃ曲がった竜の背中みたいだし、明かりの消えた観覧車は月に照らされて不気味に大きな丸い影を作っている。ミラーハウスもアーケードゲームの屋台も、入ったら二度と出られない迷宮と化している。

レイタと私は、似ているのかもしれない。レイタの絵では両親は並んで描かれていたけれど、今思えばあれはどちらとも、母親の顔だったのではないだろうか。泣きそうに歪んだ目に、ぶるぶる震えているような唇。顔全体が悔しいと叫んでいる。私とピピが出かけて行った時も、同じ顔をしていたから良く覚えている。

レイタの右手は・・・今はもう主から切り離されて冷たく転がっているあの右手は、母親に潰された。きちんとした稼ぎがあったのは、レイタだけのはずだ。いくら目立ちたくないとは言え、そんなことをすれば後々困るのは自分たちなのに。

「目立ちたくない、なんてただの建前さ。要は、嫉妬なんだよ」

 白い部屋の白いベッドの中で、レイタはそう言って微笑んだ。初めて入った時、レイタの部屋は本当に真っ白で、余計なものが何も無かった。毎週私たちが尋ねて行くようになって、少しずつ変わって行ったのだ。棚の上にはピピがあげたウサギの縫いぐるみが上がっているし、私が貸した漫画本が本棚に並ぶようになった。

「子どもの頃は何も買って貰えなかった。スポーツも、音楽も、勉強も。何かしら理由を付けて、やんわり反対されるんだ」

自分の子の才能を喜ぶどころか、嫉妬する。うまく行きそうな時に、邪魔をする。そういう親は、残念ながら少なくない。

 レイタの母親も、今のレイタと似たような育てられ方をしたらしい。だからと言って息子の可能性を潰す理由にはならないとは思うけれど、とにかく彼女は自分の奪われた過去に未練があった。レイタだけが自由に趣味を持って、才能を開花させて行くのに耐えられなかった。父親はと言えば、家の事情には全く関心を持たず、ただ給料を持ち帰るだけの役割だったと言うのだから呆れる。

「世間体とか普通の生き方とかが、僕には良くわからない」

 私にだってわからない。私は、私の元両親の顔をうまく思い出すことができない。思い出そうとすると、どうしてもレイタの描いたレイタの両親の顔になってしまう。

 メリーゴーランドには、まだ明かりが灯っていた。ぼんやりとした光に照らされて、ギャロップのポーズの白馬が静かに並んでいる。

 ――がり。――

 嗅ぎ慣れた血の匂いが、ぷんと鼻を突いた。私は足が冷たいのも忘れて、濡れた地面の上に立ち竦んだ。

 ――こり、こり、こり――

 メリーゴーランドの傍らに、懐かしい縞の衣装が見えた。コバルトブルーの長髪を靡かせ、ピピがこちらに背を向けて立っていた。上等な革靴は、爪先から踵まで真っ赤な水溜まりの中に沈んでいる。濡れた地面に、微かな赤い足跡が残っていた。

「ピピ・・・?」

ピピが振り向いた。分厚い赤い唇と真っ白い陶器のような顎を伝い、真紅が流れ落ちる。ダイヤのように小さな牙が濡れていた。

「レイタ、居るの・・・?」

 メリーゴーランドも観覧車も、遊具は全て動きを止めている。陽気な音楽も止まっている。だから、ひとつひとつの音が昼間よりもはっきり聞こえる。昼間と変わらないのは、景色だけだ。メリーゴーランドの明かりの中、昼間のように・・・そう、昼間と同じように、私には全ての出来事がくっきりと見えている。

 牙が肉を噛んだ。皮膚がゴムのように伸びてから、ぷつんと切れた。噛み千切られた筋肉の筋が収縮する。破れた血管からとくとくと熱い血が流れて行く。

ミゾグチレイタは、ピピの腕の中に抱かれていた。目を閉じて眠っているみたいだ。不規則な呼吸が聞こえる。レイタの半開きになった唇から、溜息のような音と共に、真っ赤な血が溢れ出した。

 自分の目が信じられなかった。ピエロは、自分では餌を捕れないはずだ。人が殺してやったもの、それも笑顔のまま息絶えたものでなければ、食べることができない。

「化け物・・・!」

 泣き声にも似た怒鳴り声が聞こえた。ピエロもどきが、ピピの背中に折れた棒切れを突き立てていた。

「化け物め。どうして、どうしてお前は・・・」

 棒切れが地面に落ちた。ピピの背中に空いた穴は、一滴の血も流さないまま、あっという間に塞がってしまった。ピエロは傷付かない。血も流さない。そういう生き物だ。

「つのむしさんにだって、幸せになる権利はあるだろ。俺だって・・・俺だって、つのむしさんが・・・」

 ピエロもどきが膝を付いた。メイクをしない顔を、涙が伝い落ちる。ピエロもどきの周りには、刃の欠けたチェーンソーやねじ曲がったバールがいくつも散らばっていた。全て、私の仕事道具だ。たった今突き刺した棒切れも、折れた鉈の柄の部分だと今更ながらに気が付いた。今度、弁償して貰わないと。

「畜生」

 ピエロもどきが地面を叩いた。ピピはピエロもどきの顔を見ようともせず、ただがりがりと狩ったばかりの餌を齧っている。

「おかしいだろ、こんなの」

 指輪売りが、無表情にピエロもどきを見つめていた。古着売りも、ガレージに居たはずの編み物売りまで揃っている。いつの間にやって来たのか、私はさっぱり気が付かなかった。

「ピエロは陽気な人気者だと? ふざけるな。ただの血に飢えた、人喰いの化け物じゃないか!」

 ピピは人を食べる。でも、そういう生き物に生まれたのはピピの責任じゃない。私達だって、豚や牛は躊躇いなく食べる。

「例え、そうでもな」

 指輪売りが、煙草の煙を吐き出して言った。

「この世界にはピエロが必要なんだ。俺達は、それを守らなくちゃいけねえ」

 指輪売りの隣で、編み物売りが微笑んだ。

「ピピが選んだのよ。私たちは、ずっと待ってたの」

 ミゾグチレイタには、まだ辛うじて息があった。ピピがレイタの首筋から口を離す。急に興味を失ったように、レイタの身体を固い地面に放り投げた。

「つのむしさん・・・」

 ピエロもどきが、私を見た。他の皆も、私を見ていた。私はピピの腕をすり抜けてレイタの元に駆け寄ると、剃刀の刃を食い荒らされた喉元に突きつけた。レイタが息をする度、喉と口の両方から冗談みたいに血が噴き出す。

「笑え」

 震える声で、私は言った。

「笑ってよ。じゃなきゃ、ピピが食べられない」

 途中で辞めた、ということは、やはりお気に召さなかったということだろう。ならば私は、餌係としてできることをしなければ。

 レイタの目は、まだ綺麗なままだった。もうどれだけ見えているかはわからないけれど、私が居るということは理解できたみたいだった。ゆっくりと、二回瞬きをする。形の良い唇は血まみれで、ピエロの赤い口とそっくりだった。

 ――もう、絵は描けない

 レイタの唇が、微かに動いた。わかっている。私は頷く。視界がぼやけたのは、きっと涙の所為なんかじゃない。レイタの右手は、肘から先が千切れて無くなっている。下手くそな色の無いピエロの絵だって、もう二度と描けない。

「笑ってよ」

 もう声も出せない相手を怒鳴り付けながら、私はずたずたの喉に剃刀を押し当てる。青白い頬に触れてみると、怖いくらいに冷たかった。何度も何度もやって来たことなのに、こんな気分になるのは初めてだった。レイタがもう一度瞬きする。聞こえている。なら、頼むから形だけでも笑ってほしい。

「絵なんてどうでも良いから。ピピの為に笑って」

 レイタの唇が、もう一度動いた。私はぼやける両目を拭って、必死に唇の動きを読もうとした。

 ――キスしてよ

 レイタの目に、意地悪そうな光が灯る。こんな時なのに、私の心臓はまたどくどくと脈打ち始めていた。

 ――そしたら、笑ってあげる

 夜の遊園地は、どうして昼の遊園地と別の世界になってしまうのだろう。二人並んでキャラメル味のポップコーンを食べて、レイタが私の手にキスをして。あの日にレイタが語ったのは、確かに夢物語だったのだ。ピエロもどきがどう足掻いても、絶対に叶うはずの無い空想だった。

 今は現実。

 私は、ピピの餌係だ。

 私はすっかり冷たくなった身体の上に屈み込むと、血だらけの唇に自分のを重ねようとした。

 瞬間、凄い力で引き離されるのを感じて、私は剃刀を地面に落としてしまった。

「・・・ピピ、どうして」

 ピピに抱き締められていると気付くのに、時間が必要だった。青と赤の縞の衣装は、綿菓子の甘い香りがする。コバルトブルーの爪が、優しく私の髪を撫でた。振り払おうとしたけれど、ピピの両腕はしっかりと私を捕まえていて、どう頑張っても離れなかった。

「離して」

 ピピの顔を見上げて、私は叫んだ。

「笑った顔じゃないと食べられないんでしょ? だから・・・」

 ピピの目は、今日も優しかった。赤い分厚い唇は、陽気に笑っている。でも、ピエロの笑顔が悲しそうに見える時もあるなんて、私は知らなかった。

強く抱き締められているはずなのに、苦しいとは思わない。ピピは赤い造花を出すと、私の髪に飾った。ふたつ、みっつ。私の頭は、血塗れの花輪を乗っけているみたいになった。

「ピピ・・・」

 どうしてだろう。ずっと離れ離れだったような気がする。でも、きっともう大丈夫だという気がした。

頭にこんなに花を乗せた私は、さぞかし滑稽に見えることだろう。レイタにも見せてやろうと、私はとびきりの笑顔で振り返った。

 レイタはもう、息をしていなかった。

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ピエロがどうやって増えるのか、詳しいことは何もわかっていない。確かに、説明は難しい。彼らは、どこからともなくやって来るのだ。

 最初に気付いたのは、ピエロもどきだった。ピピとは全く別の、オレンジの衣装を着たピエロを見たと言う。見間違いかと思ったら、餌やりの時にひょこひょこと玉乗りをしながら現れた。

 ピピよりも大分小柄だったが、やっぱり肌は陶器のようにつるりとしていて、丸くて赤い鼻も分厚い唇も、ずらりと並んだ小さな牙まで全く同じだった。あちこちで玉乗りを見せたり、宙がえりをしたりと、まるで昔からピエロランドに居たかのように振舞っている。ピピは特に関心も無さそうだったが、追い出すつもりも無いらしかった。

次に現れたのは、ピンクの水玉の衣装を着た女性型のピエロだった。どうして女性型かというと、衣装の胸の辺りが大きく膨らんでいるからだ。良い身体をしている、と指輪売りが一人で喜んでいて、編み物売りから呆れた目で見られていた。

その後も、ピエロの増加は続いた。青いとんがり帽子のピエロに、お揃いの緑の衣装を着た双子のようなピエロ。それから先はもう数えていないけれど、昨日餌やりのときに数えてみたら、十二匹も居たので驚いた。ピエロというのはいがみ合わない平和的な種族のようで、ここまで増えても、喧嘩しているのを見たことが無い。新参者は立場もわきまえているらしく、餌やりの際も、ピピが最初に食べ終わるまで大人しく待っている。

「懐かしいな。昔みたいだ」

 指輪売りがそう言っていたのを、私は忙しく切符を切りながら聞き流した。ピエロの増加に伴い、遊園地はぐんと忙しくなった。日曜日ともなれば親子連れやカップルが押しかけ、ピエロの芸に歓声を上げるか、ピエロと一緒に記念撮影をしている。

 おそらく、これが本来のピエロランドの姿なのだろう。当然餌の量も増えてしまい、今はそれが悩みの種となっていた。他のピエロはピピ程食欲旺盛でも無かったのだが、それでも一日に三人以上の死体は必要だ。私とピピは昼の間中忙しく働いて、夜になれば餌の確保の為に町中走り回らなければならなかった。

 そして、こういう噂というものは、割とすぐに広まるものだ。

 外国から来たというそのお客さんは、上等の背広に立派な口髭を蓄え、どこの馬の骨とも知れない私に丁寧な握手を求めた。

「ピエロを、譲って頂きたいのですが。勿論、ただでとは言いません」

 日本語があまりに上手だったため、私は少し拍子抜けしてしまった。ピエロランドには英語を話せる大人なんか居ないので、私もピエロもどきも、このお客さんのことを聞いた時は大いに慌てたのだ。

「譲るって言われても・・・上に聞いてみないと」

 私は間抜けに頭を掻いて、せめて髪だけは梳かしてくれば良かったとどうでも良い後悔をした。私はピエロランドのオーナーでもなければ、経理を任されているわけでもない。備品の発注や補充くらいならやっているけれど、飼っているピエロの売買なんて、私が勝手にやってしまって良いものだろうか。

「ピエロの権利は、全て世話係にあります」

 至って真面目な顔で、外国の紳士はそう言った。

「昔からそう決まっているのです。ですから、あなたさえ良いと言って頂ければ」

 紳士はさらさらと万年筆を走らせると、長方形の紙を私の前に置いた。小切手。映画なんかでは良く見るから、それがどういうものかは知っている。でも、ここまでゼロの並んだ実物を突きつけられると、大抵の日本人は腰を抜かすと思う。

「我がサーカスには、もう一匹もピエロが居ないのです」

 固まったまま何も言えない私の前で、紳士は恥ずかしそうに額の汗を拭った。

「全世界が深刻なピエロ不足なのです。今に、このピエロランドにはピエロを買いたいという注文が殺到するでしょう」

 何だか大変なことになっているらしい。私は平静を装って咳払いをしてみたけれど、多分却って間抜けに見えただけだった。

「あの、多分、餌の問題とかもあると思うんですけれど」

 小食とは言え、ピピ以外のピエロにも餌は必要だ。外国の紳士は頷いて、私の前に地図を広げた。あちこちに、小さな赤いバツ印が付けられている。

「一部の収容所と契約を結んでいます。世界中で公演を行うので、餌はその都度、現地で受け取ることになっております」

 死んでも誰も困らないような犯罪者を餌にするということか。流石、大規模な組織は考えることが違う。

確かに、これならピエロ達がお腹を空かせることも無さそうだった。それに、こんな狭いピエロランドに押し込んでいるよりは、世界中を飛び回って芸を見せ続ける方が面白そうだ。

「それで、どのピエロを?」

 私が尋ねると、紳士は目を細めて窓の外を見つめた。オレンジ、ピンク、青、緑、色とりどりの衣装を纏ったピエロ達が、思い思いに客と戯れている。でも、紳士の視線は一点に固定されていた。青と赤の衣装に、コバルトブルーの髪。私は慌てて、小切手を紳士の方に突き返す。

「駄目です。ピピは、譲れません」

 あれだけピエロが増えても、一番の人気者はやっぱりピピだ。一番スタイルが良くて、芸も上手い。今も、一輪車で走り回りながらナイフとボールをお手玉して、その合間に帽子を取っては観客たちに挨拶を送っている。

「そう仰ると思いました」

 紳士は苦笑して、私の顔を見た。

「あのピエロを手懐けられるのは、あなただけでしょう。しかし、あれは素晴らしいピエロだ」

 私はピピしかピエロを知らなかったので、ピピが格別芸達者だと思ったことは無い。人間にピピの真似をしろと言っても無理なことはわかっていたけれど、ピエロとは皆あれくらい器用なものなのだと思っていた。改めて見てみると、ピピ以外のピエロには苦手分野もあるようだ。オレンジの小柄なピエロは玉乗りか宙返りでしか移動できないし、緑の双子ピエロは一匹だけだと何をして良いのかわからず、客の前でもただぼんやりと突っ立っている。

 ピエロの優劣は何で決まるのだろう。何故、この紳士の立派なサーカスにピエロが居なくて、ピエロランドのような昭和の遺物みたいな寂れた遊園地にピエロが集まるのだろう。

「あくまで、一説によれば、なのですが」

 紳士の青い目が、私を捉えた。何か珍しいものでも見るような、妙な視線だ。観察されているようで、居心地が悪い。

「ピエロに愛された者の存在が・・・ピエロが、本来得るはずの無い感情を得ることが・・・」

 紳士の言う意味が、私には良くわからなかった。私は、余程不思議そうな顔をしていたのだろう。紳士ははっとしたように口を噤むと、再び額の汗を拭った。

「忘れてください。ただ言い伝えられているだけの、根拠も何も無い噂ですから」

 何億円積まれても、ピピを手放すつもりなんて無い。私は一度突き返した小切手を引き寄せると、少し迷ってからゼロを二つ消した。これだけあれば、多分十分だ。看板を塗り直すこともできるし、壊れた遊具を修理することだってできる。

「ピピ以外のピエロでしたら、ご自由に」

 紳士は小切手にさっと目を走らせると、鞄を手に立ち上がった。

「本当は、ピピとあなたを両方引き抜いて来るように言われたんです」

 まだ諦めきれない様子で、紳士が言う。

「あれほどのピエロを飼い慣らせる逸材は、世界中探してもそうは居ないでしょうから」

 ピピと一緒にサーカスで世界中を飛び回る。それはそれで魅力的な案ではあったけれど、私達にはピエロランドが合っている気がした。それにピピは、収容所から運ばれて来る餌なんて食べたくもないだろう。

 結局紳士は、オレンジの玉乗りピエロと、緑の双子ピエロを連れて帰った。三匹も持って行きやがった、と、指輪売りは呆れていたけれど、どうせまた増える予感はしていたので、私は気にしなかった。

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久しぶりに、日曜日に雨が降った。客入りが落ち着いたのも久しぶりだ。誰もいないメリーゴーランドの白馬は、それでも気高い目つきで前を見据えている。

「初めて会った時のこと、覚えてる?」

 ピピは何も言わない。ピエロは、人間の言葉を喋らない。ただ、優しく見つめ返すだけだ。

 ピピ、という名前も、私が付けた。最初は名前なんて無かったのだけれど、ピエロ、と呼びかけると、ピエロもどきまで一緒に振り返ってしまうのが不便だった。今現在、ピエロランドにおいて名前を持っているピエロはピピだけだ。

 サーカスにピエロを売って以来、本当に色々な注文が来るようになった。出来の悪いピエロで良いから安く売ってくれというものから、金に糸目を付けないからピピを譲ってくれというものまで様々だ。世界を挙げてのピエロ不足というのは、本当らしい。あれから何度もピエロを売ったけれど、面倒だから取引の金額はピエロもどきに決めさせている。今のところ一度も苦情は来ていないので、ピエロもどきには商才があるのだろう。ピエロランドが格別に裕福になったわけではないけれど、少なくとも色あせた看板や壊れかけの遊具は無くなったし、私たちの給料にも多少は色が付いた。

「これってさ、レイタのお陰かもしれないって、ピエロもどきは言うんだよね。ねえ、レイタはどう思う?」

 サルビアの花壇は、咲き誇る花弁で真っ赤に染まっている。私は花壇の縁に腰掛けて、真紅の花びらを指先で突いた。ミゾグチレイタは、この花壇の下に埋まっている。指輪売り達は反対したけれど、私がどうしてもと頼み込んでここに埋葬して貰ったのだ。ここからなら、メリーゴーランドが良く見える。私に殺されるという願いも、ピピに食べられるという願いも叶わなかったから、せめて遊園地の中にだけは居場所を作ってあげたかった。

「レイタが描いた私の絵、貰っちゃった。誰にも見せてないし、別に良いよね?」

私たちはきっと、これで良かった。今でも時々、胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われることはある。でも、レイタと一緒に過ごした日々は、私の中では既に遠い思い出だ。

私は、絵を描かなくなってからのレイタしか知らない。レイタも、あの絵に描かれた血塗れの私しか知らなかった。夢のような日々は奇麗なガラス玉のようなものだから、濁る前に壊れてしまったのは、きっと幸運だったのだろう。

聞くところによると、あの後レイタの家は随分と大変だったらしい。行方不明になったのが未成年な上、虐待の疑いもあったとして、警察が頻繁に自宅に出入りしていたようだ。

指輪売り達がどんな手を使ったのかは知らないけれど、警察はピエロランドにば一度も来ていない。

「つのむしさん、困りますよ。こんな所でさぼってちゃ」

傘を差したピエロもどきが、困った顔で私を見下ろしている。とは言えしっかりメイクをしているので、本当に困り顔なのかどうかはわからない。

「客がいなくても、ピエロ達は好き勝手動き回るんですから。ピンクの女ピエロ、見ませんでした?」

 雨に煙る遊園地の中を、鮮やかな衣装が行き来する。餌の時間には体内時計でもあるみたいにきちんと集まるのに、それ以外の時間は、かなり勝手気ままなのがピエロらしい。

「私は見てないなあ。ピピはどう?」

 私の隣で竹馬に乗っていたピピが、遠くに向かって手を振った。すると、五分もしないうちに、ピンクの衣装を着たピエロが、肉感的に腰を揺らしながら歩いて来た。

「便利ですね・・・」

「私が頼むと、すぐに呼んでくれるの」

 ピピはあれ以来、ずっと私の傍に付いている。今までもそうだったけれど、最近では一人で動き回ることがほとんど無くなった。特に忙しい休日の午前中なんかは、切符売り場の近くで子供に手品を見せながら私の仕事が終わるのを待っている。そして、相変わらずピエロもどきの言うことは全く聞かないらしい。

「ピピがこうなったのって、やっぱり・・・」

 言いかけて、ピエロもどきは口を噤んだ。私が腰かけているのが、レイタの墓であることを思い出したのだろう。

 レイタの母親は、あれから一度だけピエロランドに来た。あの幼稚な怒りの表情はもう無かったけれど、穏やかになったと言うよりは、単に表情の作り方を忘れてしまったみたいだった。私とピピを見て何か言いたそうにはしていたけれど、声の出し方も忘れてしまったらしい。メリーゴーランドをぼんやり見上げて、一時間もしないうちにとぼとぼ帰って行った。

「いつか指輪売りさんが、ピピは男だと思うか、って、つのむしさんに聞きましたよね」

いつの間にか、ピピが竹馬から降りて私の後ろに立っていた。ピピが指を鳴らすと、私の頭に花が咲く。今日は水色。

「俺は、ピピは男なんだと思います」

 ピエロもどきが、私と微妙に距離を取っていることに気付いた。ピピのことを、やけに気にしている。

「ピエロは、人間とは違います。生殖機能だって、ありません。・・・だから、・・・」

 ピピの手が私の手を取った。指が長くてつるりとしたピピの手には、人間のような皺が一本も無い。レイタの手を握った時みたいに心臓が暴れたりはしなかったけれど、心地よい暖かさが雨で冷えた身体に伝わって、随分安心するのがわかった。

「だからきっと・・・他の方法を知らないんです。ピピが髪に花を挿すのは、つのむしさんだけなんですよ」

 ピエロもどきが私を、私たちを見つめた。ピエロのメイクに、悲しそうな顔は似合わない。

「フリーマーケットの老人たちは、知っていました。一番喜んでいるのは彼らですよ。望み通り、ピエロを増やすことに成功したんですから」

 常連たちも相変わらずだ。今日は雨だけれど、広場に敷物を広げて、テントや傘で雨を凌ぎながら商いを続けている。客もちらほらとは居るらしく、値段交渉の声がここまで微かに聞こえて来る。指輪売りの欠けっぱなしだった前歯に、金色の義歯がはまっていた。客が増えたのは、彼らにとっても良いことだったようだ。

「つのむしさんは、本当に幸せですか?」

 ピエロランドの経営は上向いている。餌の調達が少し大変になったくらいだが、ピピに手伝って貰えばどうという事は無い。それに、今は世界中に『お友達』が居るわけだから、いざとなったらいくらでも協力して貰える。

「幸せだよ?」

 私がはっきり答えると、ピエロもどきはますます悲しそうな顔になった。ピエロのメイクが笑っているから、結果的に泣き笑いの表情になる。それが何ともおかしくて、私はつい、笑ってしまう。

「俺は売れない大道芸人でした。でも、つのむしさんが居たから、ここで働こうと思ったんです」

 雨が上がりそうになる。雲の切れ間から顔を出した真っ白い太陽が眩しくて、私はきゃっと叫んで笑いながらピピの影に隠れた。ピピの衣装は甘い綿菓子の匂い。ピピが私の髪に、スミレの香りのする紫の花を追加する。まるで花の妖精だ。古着のワンピース姿の妖精なんておかしいけれど、遊園地ではどんなに馬鹿みたいなことをしたって許される。

「ピピ、大好き」

 ピピが私を抱き上げた。手品の時以外で抱き上げられたのは初めてだ。空が近くなって、背の高いピピと私が同じ目線になる。

 虹だった。大空を横切るような巨大な虹が、ピエロランドのジェットコースターと観覧車を跨いで、巨大なアーチを作っている。数少ない観客が歓声を上げて、一斉に携帯電話やカメラを取り出すのが見えた。

「凄い。この手品、どうやったの?」

ピピの優しい黒い瞳に、虹の七色が映っていた。その瞳が、何かを言いかけるように少しだけ揺らいだ気がした。

 ――ずっと、一緒に居よう・・・

 絵具で描き上げたように鮮やかな虹は、随分長い時間を掛けてゆっくりと消えて行った。残された青空は、ピピの髪の毛と同じ鮮やかなコバルトブルーだった。

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