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日常の中の、ちょっとした息抜き

長編10
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日常の中の、ちょっとした息抜き

戦場は過酷を極めていた。飛び交う銃弾と血の雨、悲鳴と呻き声に紛れて味方の指示も聞こえない。

 噛まれて死ぬ。人は死ぬ。血の匂いにむせ返る。だが、敵の数はあまり減ったようにも見えない。戦っている相手は、人ではない。かつて人だったものの残骸だ。腐りかけの、血に飢えた残骸。

ゾンビは死なない。頭を潰さない限り。心臓を抉ろうと腹に向こうの景色が見える程の大穴を空けようと、平気で立ち上がってこちらまで歩いて来ようとする。彼らには痛覚が無いのだ。

今のところ、人間側が不利だな、と理人(リヒト)が思ったところで、西の空に黄色い旗が出ているのに気付く。教会の上にぽっかりと浮かんだお日様色の旗は、乾いた風に嬲られてぱたぱたと揺れている。

「おーい」

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西部開拓時代の町を模したセットの陰から飛び出して、リヒトは声を張り上げながら両手を振り回した。

「休憩だ、休憩!」

 西部劇のカウボーイが着るような、古臭い革のベストに色あせた黒いシャツ。穴の開いたジーンズ。自分でも随分滑稽な格好だとリヒトは思う。まあ、この場にいる奴らは皆、敵味方を問わず滑稽な格好をしているのだが。

「マジで?」

 別のセットの陰からひょっこり顔を覗かせて、リヒトの親友であるテッドはその大きな目を瞬いた。相変わらず日本語は上手い。瞬きをすると、本当に目が零れ落ちそうになる。瞼が半分腐りかけているからだ。

 海の向こうの国からの留学生、テッド。

 本当なら、皆の人気者になれたはずの親友。

「いつの間にかそんな時間か。全然気づかなかった」

 テッドの歯は半分以上が欠けている。良くそんな歯で人に噛みつけるものだと、リヒトはいつも感心してしまう。

ついでに言うと、テッドは髪の毛もほとんど無い。肌は腐りかけの鼠色だ。

「久しぶりに盛り上がったな」

 リヒトはジーンズの埃を払うと、胸ポケットから煙草の箱を取り出してテッドに差し出した。テッドは頷くと、その腐りかけて骨の覗いた指で煙草を一本取って歯の無い口に咥えた。

「座ろうや」

 テッドが、セットの脇にぞんざいに積み重ねられた木箱に向かって顎をしゃくった。西部劇のセットには必ずと言って良い程山積みの木箱が付いてくるが、何の意味があるのかは二人とも知らない。

 背中合わせに腰かけて、煙草を吸う。リヒトの吸う煙は健康なピンク色の肺に吸い込まれてしまうため見た目にはわからないが、テッドの吸う煙は胸に空いた穴の肋骨の隙間から狼煙のように立ち上る。

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「お前、また腐ったな。凄い匂いだぜ」

 リヒトが眉をひそめると、テッドは歯の無い口でゲラゲラ笑った。

 人間とゾンビ、ゾンビと人間。

 親友で居続けるには、いささか難の多い二人である。

「お前こそ。随分煙草の質が落ちたぜ」

 テッドが指摘すると、リヒトの整った眉がますますハの字になる。

「腐った舌でわかるのかよ」

「あたぼうよ。こっちには鼻だってあるんだ」

「鼻も腐ってるんじゃねえのかよ」

 リヒトが不機嫌なのは、テッドの言っていることが正しいからだ。

「最近、めっきり給料を減らされてよ。たまったもんじゃねえや」

 リヒトが溜息と共にぺっと安物の煙草を吐き出すと、テッドは零れそうな目をもう一度瞬いた。

「まだ良いじゃねえか。俺らなんかずっと前からノーギャラだぜ」

「お前らは良いだろ。食い物も住むところもタダなんだから」

 リヒトが恨めし気にテッドを見る。テッドは外で寝たって野犬に襲われる心配が無いし、腹が空いたらその辺の人間に噛みつけば良い。テッドに限らず、ゾンビは皆そんなものだ。

「だってリヒト、お前よぉ。食い物やる代わりに一生タダ働きしろって言われて、納得できるか?」

「だよな、ごめん。俺らはエジプトの奴隷じゃねえや」

 古代エジプトの奴隷はピラミッド建設の間、パンとビールだけはふんだんに与えられたらしい。それは、それとして。

「あーあ、昔は良かったよなあ」

 テッドが抜けた歯の間から息を漏らした。肺が腐っているため、当然息も臭い。

「そうだなぁ。ゾンビとの戦闘も、随分高値で取引されたし」

 リヒトも同意する。

「人間が死ななくなる細菌、だっけ? そんなもん、あるわけねえって思ったけどよ」

「はは」

「本当にあるんだもんな。『絶対ありまぁす!』って叫んでた学者、良くテレビに出てたよな」

「ははは」

「んで、細菌とやらは実際にあったけど、驚くなかれ不老不死の妙薬ではなく、死んでも死にきれなくなる悪魔の発明でした、っていう」

「はははは」

 細菌に感染した者は死ななくなった。いや、医学的には完全に死んでいるのだが、何故か魂が死体から抜けないのだ。

 細菌の発見者である学者がどうなったのかは知らない。

 ただ、良くある映画のように、増えに増えたゾンビが手当たり次第に人間を襲って大パニック……には、ならなかった。

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「ゾンビ映画なんて嘘っぱちだ。自分がゾンビになって初めてわかったぜ」

 笑うのを辞めて、テッドが少し真面目な声で言った。

 生きる屍になったからといって、直ちに自我が失われるわけではない。各々の個性や意識はきちんと残っている。考えてみれば、腐った手足や顎を動かして人を襲うことはできるのに、腐った脳味噌では何も考えられない、というのもおかしな話ではある。

「頭吹っ飛ばされても死なねえんだもんな」

 テッドの頭の左側は綺麗に吹っ飛んで、つぶれた頭蓋骨の間からどろりとしたピンクの脳味噌が覗いていた。じっと見ているとそのぶよぶよした脳みそからぬるりとウジ虫が顔を覗かせ、リヒトは慌てて目を逸らす。

 なまじ意識がある分、彼らゾンビは悩むこととなった。人の肉は食いたい。だが、自分のかつての友人や恋人や家族を襲うのは抵抗がある。だが、空腹は耐え難い。いっそ死にたいと思っても、感染者は飢え死にすることすらできないのだ。

「空腹自体錯覚なんだってよ。俺らは消化器官も味覚も死んでるんだから」

 テッドが吐き捨てるように言う。

「ふざけんなっての。人の肉は確かに美味いし、腹だって減るんだ」

 ゾンビ差別だ、と呻くテッドを見て、リヒトは苦笑した。

「怒るなよ。お前らのお陰で、俺は生きてられるんだから」

 ゾンビ騒ぎは、リヒトが考えていたよりもずっと早く終結した。細菌を死滅させる良い薬が開発されて、それでお仕舞い。

 だが不幸なことに、既にゾンビになってしまった感染者に対しては全く効果が無かった。学校で予防接種を受けた日のことを、リヒトは今でも覚えている。健康な子供だけが集められて薬の接種を受け、とっくに体が腐り始めたクラスメートはトラックに乗せられて何処かへ連れていかれた。

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「あーあ。こんなところで、お前と再会したくなかったぜ」

 テッドが大げさにため息をついて、リヒトの西部劇風のポケットから煙草を勝手に抜き取った。

「こっちの台詞だっての。お前、十三歳の時のまんまじゃねえか」

 体は大分腐ってしまったが、テッドがテッドであることにリヒトはすぐに気づいた。テッドがトラックで連れ去られてから五年、リヒトも大概な人生を送って来たが、親友を見間違える程落ちぶれてはいなかったわけだ。

「死んだら年取れねぇんですよ、お生憎様。……なあリヒト、この煙草本当に不味いぞ。何入ってんだ?」

 テッドや他のゾンビたちが何処へ連れていかれたのか、リヒトはずっと疑問だった。あの日以来、リヒトの人生は全て思うようにいかなくなってしまったような気がする。テッドのせいだとは全く思わないけれど、それでも突然親友を失って戸惑っている十三歳のリヒトに対し、碌な説明も釈明も無く『忘れろ』の一点張りだった大人たちにも責任の一端はあるはずである。

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「俺はさ、テッド。ずっとお前を探してたんだぜ」

 テッドの顔を見ずに、リヒトはそう言った。

 十三歳のままのテッドと、十八歳のリヒト。再会すべきではなかった、というのが世間の見方だろう。

 けちな悪事を繰り返し、リヒトは世間で言うところの大人になった。金に困って荒れていたところに、今の仕事が舞い込んだのだ。

 何の仕事かなんて考えもしなかった。

 ゾンビ映画なんて、一連の細菌騒ぎ以降『不謹慎だ』の一言で廃れてしまっていたのだから。

「禁止されると見たくなるのが人間でね。しかも小細工ゼロ、本物の元・人間を使った純正ゾンビ映画だぜ? 面白くないわけが無い」

 テッドが歯のない口で笑う。

 リヒトのようなはみ出し者の人間たちが連れてこられたのが、この砂漠だ。西部劇のこともあれば、軍服を着て戦争ものを模したゾンビ映画を撮ることもある。

当然、非合法の闇映画だ。

 その分、裏では高値で取引されていた。

 演技は必要無い。セットの中に放たれたゾンビたちと、ただ命がけで戦ってくれさえすれば良い。怪我をしても、死んでも、自分自身がゾンビになってしまっても。何一つ文句は言わないと、そういう契約でリヒトは働いている。

 何人、人が死んだだろう。リヒトは親友の昔から変わらない笑い顔を見つめた。自分と一緒に連れてこられた人間のはみ出し者たちは、トロい奴から順にゾンビに食われて行った。テッドだって、何人も食ったに違いない。でも、リヒトはテッドを恨むつもりは全く無い。うまく説明できないが、生きるとはそういうことだろう。

「噛まれてもゾンビにならない薬って、今は改良版も出てるんだろ?」

 テッドが首を傾げると、傾いだ首の骨がかくんと音を立てた。

「リヒトは貰ってないのか?」

「言えば支給されるけど。薬代は、給料から差っ引かれるから」

「ああー……」

 最近は、純正ゾンビ映画業界も下火である。騒ぎが集結して五年も経てば、『不謹慎』熱も冷めるものだ。筋の無い殺し合いばかりが続く『本物の』ゾンビ映画よりも、筋があって特殊メイクのゾンビが暴れまわる『偽物の』ゾンビ映画の方が、今は人気を集めているらしい。

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「いくらゾンビでもさ。完全に腐っちまったり、体を滅茶苦茶にされて動けなくなったら、焼却炉で焼いてもらえるんだ」

 テッドがぽつりと言った。

「焼いて、焼かれて、真っ白な骨になって。俺たちの魂は、やっと体を離れてくれる。そうなって、ようやく死ねるんだ」

 リヒトが覚えているように、テッドも初めてここに連れてこられた日のことは良く覚えている。

 ゾンビ化の兆候が表れ始めた人間たちは、全てトラックに押し込まれてこの砂漠に連れてこられた。

 荷台から降ろされた途端、ゾンビたちはもっと困惑する指令を聞かされることになった。

 殺せ。人間を食い尽くせ。

 今から、この砂漠に人間の屑どもを連れてくる。まっとうな世に迷惑を掛ける屑どもだ。死んだって誰も悲しまない奴らだ。そいつらを、思う存分食い尽くしてやれ。

「五年だぜ。五年の間、何回も人間が連れてこられた。連れてこられるのは屑ばっかりだって聞いてたから、俺も平気で食ってたんだけどさ」

テッドが人間として扱われた最後の日、トラックの荷台に縋りつくようにして追いかけて来てくれたのはリヒトだけだ。だが、その姿もだんだんと小さくなり、やがて見えなくなった。

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「あーあ。まさか、その屑人間の中にお前が混じってるなんてよ。五年ぶりの再会だってのに、感動する暇も無かったぜ」

 テッドが骨の出た両手を挙げて大げさに嘆いてみせる。

 こいつは昔からこういう奴だった。リヒトは思わず吹き出しそうになるのを堪えて、不味い煙草のフィルターを噛み潰す。

「別に良いだろ。多分俺ら、こういう生き方しか向いてないんじゃねえの?」

 リヒトは、テッドが今までに食ってきた人間とは明らかに違っている。リヒトがどんな人生を歩んだのかは知る由も無いが、少なくともリヒトは、ここに来てから一度もゾンビに噛まれていない。

 人間も、ゾンビも、動きの鈍い奴から死んで行く。

 食われ、撃ち殺し、隠れ、引き裂かれ。設置されたカメラで何本も映画を撮られながら、リヒトとテッドは今日まで生き延びた。今ではリヒトも隠れたゾンビの微かな臭気さえ察知できるようになっているし、テッドも銃を持った人間たちに音もなく近づく術を身に着けている。

「おい、そろそろ休憩終わるぞ」

 リヒトが煙草を持った手で教会の上を指すと、丁度黄色い旗がするすると降ろされて、真っ赤な旗がするすると挙がるのが見えた。

「ありゃ。そんじゃ、撮影再開と行きますか」

 テッドは腐った足で器用にぴょこんと立ち上がると、強張った背骨をばきばきと鳴らした。

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「いつものあれ、やる?」

「当然」

「そんじゃ、十歩数えてスタートな」

 テッドが歯の抜けた口と落ちかけた目でにっと笑った。

 一般的に、ゾンビは人間よりも走るスピードが速いし力も強い。ゾンビとして生き延びてきたテッドなら猶更である。だがその一方、人間としてゾンビと戦ってきたリヒトも、銃の腕にはそれなりに自信がある。

 互いに背を向けて、ゆっくりと振り返らずに十歩だけ歩く。

「1……2……3……」

 リヒトとテッドのことは、他のゾンビも人間も皆知っている。生き抜いてきた二人に対する尊敬の念もあるのだろう。

 だから、この瞬間は誰も邪魔しない。黙って見守ってくれている。

「4……5……6……」

 十歩目で、リヒトはテッドに向かって引き金を引く。テッドは、リヒトに牙をむいて襲い掛かる。

 十歩数える前に引き金を引いたら、どうなるんだろう。リヒトは時々、そんなことを考える。でも、多分しないだろう。理由は、テッドもそんなことはしないだろうから。

「7……8……」

 もしかしたら、今日こそはどちらかが死ぬかもしれない。それでも、二人は今、ここに居る。

「9……」

 互いに背を向けて数を数える、一歩一歩のこの瞬間。

 この、日常の中の、ちょっとした息抜きの時間が。

 リヒトは、たまらなく好きなのだ。

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