長編27
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日曜日は最高の終末

本日の予報。サクラ市内東区域、ゾンビ出没率30パーセント。西区域25パーセント、南区域70パーセント、北区域は立ち入り禁止区域となっております。繰り返します、北区域は立ち入り禁止です。外出の際は、十分お気を付けください。繰り返します……。

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《1》

明日香の『買い物』に付き合ってくれることになったのは、結局いつものメンバーだった。「よし、入るか」

 軽く伸びをして、優が言った。妙に嬉しそうに見えるのは、いつも真面目に学校へ行く面々が、朝から優と行動を共にしてくれているからだろう。

 朝早くからしっかりと化粧を済ませ、唇をピンク色に塗って頬紅まで付けている。顔をそこまで作るなら、義手と義足も少しは磨けば良いのに。鋼鉄製のロボットのように四角い義肢はところどころ錆が浮いていて、ペンキの塗装も剥げている。そもそも優ぐらい綺麗な子なら、却って何も塗らない方が良いと明日香は思う。

「本当に、気を付けないとね。今日は、明日香がいるんだから」

 鞄の中身を確かめながら、赤い帽子を目深に被ったミホが言った。通学中と言っても誰も疑わないセーラー服姿だが、学生鞄の中には、教科書もノートも入っていない。代わりに、傷薬やナイフが忍ばせてあった。流石は学校一の優等生、偽装工作も完璧だ。彼女の兄も、別段怪しまずに送り出したに違いない。

「大丈夫だよ。いざとなったら、僕が守るから」

 信也は今日も、男物の学生服だ。武器は、持ってきていないらしい。

「……本当に、いいの?」

 全員の顔を見回して、明日香は不安そうに言った。これから入ろうとする区域の前には、プラスチックの札が立ててある。風雨にさらされ、札に書いてある文字の判別は難しかったものの、どうにか読むことができた。

『北区域』

「立ち入り禁止ってことにはなってるけどさ。今日は出現率も低いし、朝早くから忍び込めば警備員にも見つかりにくいし」

 朝はそれぞれが忙しい。学校へ行く者、仕事へ行く者、今日一日をどう過ごすかで頭がいっぱいになっている人々は、日常から切り離された北区域という場所にあまり注意を払わない。こう結論付けるのは、いささか乱暴すぎるだろうか。しかし、北区の主要な出入り口を担当する警備員は、暇にまかせてこくりこくりと船を漕いでいた。

「北区は、今じゃ誰も出入りしない。たまに、いいもん落っこちてるんだぜ」

 宝探しに行く子どものような表情で、優が楽しそうに言う。睫毛の長い大きめの目が、好奇心できらきら輝いていた。

「そう……」

 明日香はあまり気乗りのしない顔で頷くと、『立ち入り禁止』の看板に手を掛けて、幾重にも張り巡らされた有刺鉄線を乗り越えた。背の高い草の茂る森の中、飢えた獣のような呻き声が聞こえた。

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《2》

《サクラ市立第二東中学校、図書館に保存されている文書……サクラ市初代ドクター、ジェームズ・D・ベルフェゴールの記録書より》

全てを伝えるとすれば、最初から順序立てて書かなければならないだろう。町の住人、警備隊員や学生や、私の仕事仲間である看護師たち、学校の教師たちから聞いた話。

 町で耳にした噂話や、私が百余年あまり生きて来て実際に体験した出来事もある。うまくまとめようとすると、どうしても私の独自の解釈や推測が混じってしまうことは許していただきたい。耳で聞いた話は、できる限り脚色無く書き写し、また、学生や警備隊員たちから渡された日誌の内容は、そのまま載せようと思う。

 近いうちに、私は遠い故郷へ向けて旅立つことになる。その前に、この町……サクラ市と呼ばれる、人口二百人足らずの小さな町で起こった、些細な事件の顛末を書き残して行きたい。外見も性格も酷く個性的な住人達、歪ながら均整の取れていたはずのこの町で、一体何が起こったのか。

 町の外から『彼ら』がやって来たことは、市にとって必然の出来事だったのか。

誰が悪いのか、誰が被害者なのか、私はここではっきりさせようとは思わない。運命の歯車を狂わせたのは、私だったかもしれないし、違っていたのかもしれない。これを読んだあなたが判断してくれれば良い。

今後新人類たちが生きて行く上で、少しでも道標のようなものになれば幸いだ。

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《3》

 学校は、いつまで学校として存在しているのだろう。そもそも、本当に必要なのだろうか。明日香には、その答えはわからない。

屋上には誰もいなかった。柵から身を乗り出すと、風が甘い香りを運んで来る。サクラ市、なんて、この町はいつからそんな風に呼ばれているのだろう。町の至る所に植えられたその木は、丁度見ごろを迎えてピンク色の花でもこもこと雲のように膨らんでいる。

 明日香は溜息を吐くと、汗ばんだ額を汚れた袖で拭った。最後に身体を洗ったのがいつだったかなんて、とっくに思い出せなくなっている。

 きっと、どうにかなる。どうにかする。阿方はそう言っていた。でも、そんな気休めを信じるには、明日香は大人になり過ぎた。サクラ市第二東中学校。教室のうちいくつかを小さな子供向けに開放しており、託児所と小学校も兼ねている。

 ここに通いたい、と言った時、父親代わりの阿方には随分反対された。いつまでも直らない子ども扱いを思うと、可笑しいと同時に悲しいような、奇妙な気持ちになる。

 明日香を一人前の大人と認めてしまうことは、弟の勇を否定することになる。弟。いつからだっけ、と、明日香は遠い記憶を呼び起こそうとしてみた。明日香が今よりもずっと幼い頃から、阿方と勇は一緒に居る。

でも、あの頃はもう一人、仲間が居た。

「何やってんだよ、明日香」

 聞き慣れた甲高い声に振り返ると、弟が怒ったような顔でこちらを見つめていた。

「勇」

「阿方は仕事探しに行くってさ。夕方まで、帰んないと思う」

 勇はぶっきらぼうにそう言うと、ぼさぼさに伸びた髪を掻き上げた。

「お前、本当にここに通うのかよ」

 一度も、姉と呼んで貰ったことは無い。明日香は寂しげに微笑むと、風に吹かれて舞い散る花弁に手のひらを伸ばした。

「綺麗なところね」

「俺、やっぱり信じらんないや。こんなところに、竜二兄ちゃんが居るなんて」

 竜二。その名前を聞くと、明日香は今でも胸が締め付けられた。ある日突然、彼は明日香たちの前から姿を消した。以後十年、戻って来ていない。

「ここで間違いないって、阿方さんは言ってたわ」

 明日香はきっぱりと言って、眼下に広がる街を見つめた。

 サクラ市。辿り着くのには随分時間が掛かった。旧人類の地図は、最早役に立たない。新人類は旧人類の作り上げた町や建物を全て乗っ取ったばかりか、独自の社会を作り上げ、住んでいる場所の名前まで勝手に変えてしまった。

「学校は明日から来なさいって、ここの校長先生に言われたの。小学生用の教室もあるけど、勇はどうする? 友達ができるかも」

「うえっ」

 勇は吐く真似をして、顔をしかめてみせた。

「奇形人間のミュータントだろ。あんなのと友達になれるかよ」

 勇の新人類嫌いは昔からだ。明日香は頷くと、もう一度町を見下ろし

てから踵を返した。

 広い町だが、人口は二百人足らず。街として機能している部分は、明日香たちが住む予定の地下街を加えてもごく僅かだ。

「勇。あなたも、変な真似はしないでね。ミュータントに敵だと思われたら、この町には居られないんだから」

 ノーマル、と呼ばれる旧人類が社会の中心で、ミュータントを迫害していた時代も、確かにあったのだと言う。でも、遠い昔の話だ。

「……媚びは売りたくないけど、仕方ないから」

 言い訳のように呟き、明日香は屋上へ続く階段を早足で降りた。後をついて来る勇の足音がとても幼く感じて、明日香は少しだけ泣きそうになった。

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《4》

学校は、いつまで学校として存在しているのだろう。ミホは時々不安になる。不安になったところで、どうにもならないのだけれど。

「……で、あるからして、今もって尚、ゾンビ化の有効な治療法は見つかっておらず……」

 退屈な空気の漂う午後の教室に、退屈な教師の声が響く。学校はもう、中学校までしかやっていない。大学なんてとっくの昔に最後のひとつが閉めてしまったし、高校に通うには料金が掛かる上、隣町まで行かなくてはならないから、この街の子供たちは皆、小学校兼中学校のこの建物で勉強している。給食は出ないけれど、学費だけは無料だ。

「ゾンビウイルスがどこから来たのかは不明です。爆発的な増殖を遂げたウイルスは現在、空気中のどこにでも漂っております。ウイルスに汚染されていない地は、地球上どこを探しても存在しないでしょう。感染力は非常に強く、駆除の方法は、未だ不明です……」

 生徒に年齢制限は無い。入学に特別の手続きが必要なわけでもない。勉強したいと思えば、誰でも来て良いのだ。来なかったとしても、責める大人は誰もいない。鞄を持って制服を着て、教室で他愛の無い話をして、たまに寄り道して家へ帰る。そのリズムを守っている限り、どうにか自分は普通の生活を送れているのだと思い込むこともできる。

「ゾンビウイルスに感染しても、すぐに症状が出るわけではありません。十年か二十年、もっと長ければ四十年近い潜伏期間を経て、ウイルスは活動を開始します……」

 教師の額には、一角獣のような白い角が生えている。頭がい骨が変異したもので、季節の変わり目にはぽろりと落ちて新しいものに生え変わるらしい。

「ウイルスに最初に侵される場所は脳、人間の司令塔とも言える場所ですね。初期症状として、眩暈や倦怠、記憶力の低下、不眠などが見られます。更に症状が進むと、動きが緩慢になり、痛みに対し非常に鈍感になります。次第に人の言葉を理解できなくなり、うめき声だけを断続的に発するようになります。症状は進行することはあっても、決して治癒することはありません。教科書の三十二ページを開いてください。そう、図3の写真です。素人目にも、脳が変質しているのがわかりますね……」

 教室はコンクリートに覆われている。ここは三階だというのに、窓を外側から叩く音がしている。生徒たちは皆慣れてしまったのか、誰一人顔を上げようともしない。窓には板が幾重にも打ち付けられており、容易に破ることはできない。

「この病気が恐れられるのは、死に至るからではありません」

 教師が、窓の方にちらりと目をやった。木の板に、薄らといびつな影が映っている。窓枠にしがみ付いた『それ』は、奇妙なうなり声を上げながら、足の先で割れない窓を何度も蹴っていた。

 ――うがあ……があ、ぐおお……――

「ウイルスは凄まじい速さで脳を乗っ取りますが、それが終わると、途端に活動を鎮静化させます。正常な運動機能は失いますが、全く歩けなくなることもありません。痛覚が無いので、却って厄介だと考えた方が良いでしょう」

大柄な担任教師は拳を握り、窓枠を思いきり殴り付けた。どん、と衝撃が壁を震わし、不格好な影は真っ逆さまに落ちて行った。

「末期症状である異常な食欲、凶暴性……人間としての尊厳は消え失せ、ただ本能のまま、彼らは生き続けるのです。下手をすると、かつての人間の平均寿命程度には生き続けられるとまで言われています……」

 奇形。ミュータント。フリークス。今ゾンビと化している人間たちに、どれだけ酷いことを言われて来たかわからない。彼らを可哀想だとは思わないし、ゾンビを死なせることに躊躇いは無い。その点について、ミュータントの意見は大体一致している。

「皆さんも当然、ウイルスのキャリアではあります。しかし、心配はいりません」

こんな授業の、何処に意味があるのか。ミホは内心うんざりしながら、肘を付いた両手の上に顎を乗せる。

「なぜなら、私たちは『新人類』だからです」

クラスの生徒たちが、どこか疑いを含んだ目で教壇に立つ教師を見つめた。二十人程いる生徒たちは、それぞれに個性的だ。手足の多い者、少ない者。全身の体毛が真っ白で、肌だけが石炭のように黒い者。舌が異様に長く、先が枝分かれしている者。ミホはいつも、つばの広い真っ赤な帽子を被っている。授業中も、それは外さない。

「『新人類』である私達は、ゾンビウイルスに対する抗体を持っています。しかし、『旧人類』……俗に『ノーマル』と呼ばれる彼らには、抗体が無い。彼らの時代は、もう終わりを告げています」

 かつての人間の一般的な姿を、ミホは頭に思い浮かべた。友達の優は、まともな義肢を付ければ近い形になる。信也だって、良い線を言っていると思う。

「ウイルスの出現から、約百年。『ノーマル』は減少を続け、現時点ではごく僅かな人数しか残っておりません。いずれ全ノーマルがゾンビ化し、自我を失います。その後にこの地球上で生きていくのは、私達新人類なのです。皆さん、誇りを持ってください。私達には、生きる理由と未来があるのですよ」

 話し終えると同時に、間の抜けたチャイムが鳴った。生徒たちがぱらぱらと言葉を交わしながら、帰り支度を始める。

 新人類。花柄のペンケースを鞄に放り込みながら、ミホはその言葉を反芻する。教師が何と言おうと、人間の美的感覚というものは百年程度では変わらない。自我を失ってはいても、ゾンビは美しいとミホは思う。

「ミホちゃん、一緒に帰ろう」

 一足先に荷物を纏め終えた信也が、笑顔で声を掛けて来た。信也と一緒に居ると、クラスの女子は大抵、軽蔑した目でミホを睨んで来る。が、別に実害は無いので、あまり気にしてはいない。

「今日は、圭介さんのとこに行くんだっけ?」

「うん。だから、途中までね」

 兄は今日、西区域の病院の警備に当たっている。

 校庭の隅で、教師が窓から突き落とした『もの』がひくひくと痙攣しているのが目に入った。まだ辛うじて人間の形は保っていたものの、首が妙な方向にねじ曲がり、折れた肋骨が胸を突き破って、地面に血だまりを作っている。

「拾ってく?」

「……いらない。古いと食中毒の原因になるって」

 ゾンビはどこにでもいる。兄は、今日も忙しいに違いない。

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《5》

 しまった、と舌打ちして、明日香はひそひそと囁きながらこちらを伺っているミュータント達を睨みつけた。

 学校の先生は、あんなに優しそうな人ばかりだったのに。いや、だからこそ油断した。所詮自分たちははみ出し者だ。やすやすと新人類の仲間に入れるなんて、思っていない。

 明日香が学校へ行くことを決めてから、勇はずっと不機嫌だった。本当は授業の様子も見ておきたかったのだけれど、すぐにチャイムが鳴ってしまったので仕方が無い。帰り道、勇はろくに口も利かなかった。独りで公園に行かせてしまって、本当に良かったのだろうか。明日香は立ち止まって、解けたスニーカーの紐を結び直した。最近、勇とはあまり遊んでいない。寂しかったのかもしれない。だが、不機嫌にむくれた弟と公園で遊ぶ気にもなれず、つい単独行動を許してしまった。

 学校の教師たちの話によると、と、明日香は貰ったばかりの手描きの地図を見ながら考えた。公園は東区域と呼ばれるところにある。今明日香が居るのは、真逆の西区域……通学路でもある商店街だ。いや、元・商店街か。窓が割られ、看板は倒され、並んでいた店は酷い有様になっている。空っぽな店舗ばかりが並ぶ中、まだ商品が残っている店がひとつだけあった。空気の抜けた細いタイヤに、錆びたハンドル。近づくと、古い油の臭いがつんと鼻を突く。

 果たして、自分に乗れるだろうか。明日香は、いかにも不安定そうなペダルをそっと足で押してみた。竜二がまだ仲間だった頃、彼に乗り方を教わったことはある。ただし、たったの一度だけ。荷台に乗せてもらったこともあるけれど、あの後すぐにその自転車は壊れてしまい、その後は一度も手に入らなかった。

 だが、迷っている暇は無い。明日香は自分を遠巻きに見つめているミュータント達を再び睨みつけると、軋むハンドルに手を掛けて自転車を押した。幾分抵抗はあったが、一応まだ使えるようだ。これに乗れば、歩くよりも早く目的の場所に辿り着ける。

 頭に、勇の顔が浮かんだ。生意気を言っても、子供は子供だ。不愉快なミュータント達の居る土地で、一人ぼっちにさせるわけにはいかない。

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《6》

 砕けた道路に足を取られそうになって、ミホは小さく溜息を吐く。セーラー服に革靴といった学生らしい格好は、この通学路には相応しくないらしい。

コンクリートの道路を突き破って茂る雑草、ポストには蔦が絡みつき、何十年も放置された工事現場では巨大な桑の木が育っている。目に付く建物の半分は倒壊しているが、大抵は新人類の仕業で、ゾンビが悪いわけではない。痛覚が無い分厄介だ、と先生は言っていたけれど、元旧人類のゾンビの力なんてたかが知れている。ああいうことをするのは、自我があって道具を使うことのできる『新人類』達だ。

「この辺ももう、取れるものは全部取りつくしちゃった感じだね」

 信也が、崩れかけたアーケードを見上げて言った。

「トーキョーが壊滅して、人間はみんな地方に流れちゃって。ここもちょっと前までは普通の商店街っぽかったのに」

 商売をする人間がいなくなれば、当然の結果として店は荒れる。ほんの数十年前まで、経済の中心にいたのは『ノーマル』だった。しかし抗体を持たない彼らは、ウイルスの脅威の前に次々と倒れ、元はノーマルのものだった店は、怒り狂った新人類……『ミュータント』の襲撃に合った。

「なんだか、もったいないね」

 赤い帽子越しに、ミホは店舗のなれの果てを見つめた。

「自業自得だよ。優がノーマルにどんな目に合わされたか、ミホちゃんも知ってるだろ?」

 長い黒髪を髷のように後ろで束ねた信也は、女顔の少年とも、男勝りな少女とも取れる顔立ちをしている。

「そう言えば優、今日も学校に来なかったね。具合でも悪いのかな?」

「まさか! 単に勉強したくないだけだろ」

 けらけらとおかしそうに笑う友人の顔を、ミホはまともに見上げることができない。赤い帽子の幅の広いつばを引っ張り、目の周辺を覆い隠す。まともな顔で生まれた兄を、恨むつもりは無い。兄はミホのために町中を駆けずり回って、両目がすっぽり隠れるこの帽子を探して来てくれた。服や嗜好品などの生活物資は、常に不足している。

「あれ? あの子……」

 商店街の真ん中で、信也がふと足を止めた。皺の寄った上着を羽織った少女が、錆びた看板のぶら下がった店先から、自転車を運び出そうとしている。

「この辺の子じゃ、ないよね……」

ノーマルのものだった空き家からものを取っていくことを、盗みとは呼ばない。信也が違和感を覚えたのは、その少女の外見だった。欠けている部分も無ければ過剰な部分も無く、尻尾や角といった余計な器官も無い。この辺ではあまり見ない顔つきの少女は、ミホたちの視線に気付いたのか、不機嫌そうに顔を上げた。

「何? ノーマルがこういうことしちゃ、いけないの?」

 年は、ミホたちとそう離れてもいないだろう。長く真っ直ぐな髪を背に垂らし、黒目がちな一重瞼の瞳をしている。肌は一目で栄養不良とわかる程に青白く、薄い唇も同じくらいに青ざめていた。

「ううん、そうじゃなくて」

ミホが慌てて首を振った。ゾンビ化していないノーマルを見るのは、随分久しぶりだ。

「あの……それ、やめた方が良いと思って」

 躊躇いがちに、ミホは赤い帽子のつばを少しだけ持ち上げた。

「その自転車、乗らない方が良いよ。見た目は綺麗だけど、壊れてるかもしれないし……」

 言うべきか、言わざるべきか。ミホは、少しの間躊躇った。

 自転車が横転している。タイヤが空回っている。ひしゃげた籠と、投げ出された荷物が見える。そして……。

「明日香の弟が怪我したら、大変だから」

 ミホが瞬きすると、自転車は奇麗な姿のまま、そこにあった。黒髪の少女が、怪訝な顔でミホを見つめている。

「変ね」

 間を置いて、呟くように少女が言った。

「私、名前を教えたかしら? それに、弟が居るって言った?」

 ああ、やっぱり。ミホは、自分の言葉を後悔した。信じて貰えないことは、わかっていた。いつだって、結果は変わらない。

「困ったわね。私、できるだけ急いで公園に行きたいんだけど」

 拍子抜けするほど素直に、明日香と言う少女は自転車から手を離した。

公園は東区域だ。どうしよう、とミホは思った。今日はこれから、西区域に行かなくてはならない。西区域の病院では、兄が警備員として働いている。学校が午前中で終わる日は、弁当を届けるのがミホの役目だ。

「待って。一緒に行きましょう」

言葉を発してから、ミホは慌てて付け加えた。

「私も、公園に行こうと思っていたところなの」

 明日香の目が驚きで見開かれ、その一瞬後に、どうにか笑顔らしいものが浮かんだ。

「ミュータントが、親切にしてくれるなんて思わなかったわ」

 明日香が、皮肉っぽく口元を歪める。

「変かしら? ノーマルが、ミュータントだらけの町にいるなんて」

 かつてはノーマルが大手を振って町を歩いていたはずなのに、今や異端なのは彼女の方だ。ひそひそと言葉を交わす者や、まだゾンビ化してもいないのに、大げさに避けて歩く者も居る。

「ミホちゃん、本気?」

 ミホまでが奇異の目で見られているのに気付いて、信也が耳打ちした。

「公園はすぐそこだし、大丈夫だから」

 同じ人間だ。言いたい人には、言わせておけば良い。ミホは笑って、明日香の隣に並んだ。彼女を放っておいたりしたら、却って兄に怒られるような気がした。

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《7》

目覚ましが鳴っている。優は気だるそうに身体を捻ると、汗と体液で湿ったシーツの上を転がって天井を仰いだ。安いアパートの天井は僅かにたわんでいて、黒い染みがそこかしこに広がっている。何日か前に振った雨の跡だ。過剰摂取したアルコールと、深夜の激しい運動のせいでぼんやりする頭の中に、目覚ましの機械的な音ががんがん鳴り響く。

「うるさい」

 優が目覚ましの方を睨むと、ピンクのプラスチック製のそれはかたんと音を立てて後ろに倒れた。螺子でしっかり止めてあったはずの蓋が外れ、単三の電池が二つ、ころころと転がり出る。

「うん? 朝?」

 優の隣で寝ていた竜一が、欠伸をしながら身を起こした。痩せた身体に、優の趣味で伸ばしっぱなしにさせている長髪がへばり付いている。当人の感覚では朝なのだろうが、とっくに太陽の位置は高い。

「おはよう、優」

 優の身体に覆いかぶさるようにして、竜一はそっと唇を重ねた。いつもの挨拶だ。息は酒臭いし、こんなぼろアパートでそんな陳腐な真似をされても滑稽なだけなのだが、これは竜一の趣味なので優は何も言わない。

「竜一は、午後から仕事だっけ?」

「うん。警備隊って、時給良いんだよね」

 別に行きたいわけではないが、稼がなければ生きていけないのだから仕方ない。おかしなことに、こんな時代になってもまだ、力を持つものは金なのだ。

「いいよ、自分でできる」

 竜一はタオルで優の身体を拭いてやろうとしたが、優は先天的に短い腕を振って、それを払いのけた。優は何だって一人でできる。だけど、義足も義手も付けていない優はとても小さくて、どうしても何かしら世話を焼きたくなってしまう。

「それより、コーヒー淹れろよ。喉かわいたんだから」

「かしこまりました、お姫様」

 竜一は笑いながら杖を手探りすると、雑多に敷いた布団から立ち上がって、すぐに眉を潜めた。

「痛……!」

「あ、ごめん……」

 畳の上には、目覚ましの蓋を止めていた螺子が、尖った部分を上にして転がっていた。螺子を踏んづけた足を摩りながら、竜一が少しだけ恨めしそうに優の頬を突く。

「こら。また、壊したな」

「うるせえんだもん」

「優はちょっと壊し過ぎだぞ。前も窓割ったじゃないか」

「あれは……その、悪かったってば」

 竜一の手には、ざっくり切れた傷痕がまだ薄く残っている。目の見えない恋人に、ガラスだらけの部屋を掃除させるなんて、流石にあんまりだったとは思う。

「いいよ。別に怒ってない」

 竜一は優しく笑うと、もう一度優の唇に自分のを重ねた。そのまま、くすぐるようにしてそっと肌の上に指を這わせる。

「馬鹿、スケベ。何触ってんだよ」

 優が笑って身体をくねらせた。シーツが捩れ、互いの身体に絡みつく。柔らかな曲線を描く乳房と、薄く縊れた細い腰。触れるだけで良い。触れるだけで、竜一には優の全てがわかる。竜一が本日警備を担当する、西方面のゾンビ出没確率は25パーセント。出勤前に少しくらい体力が減ったって、別に構いはしない。

 

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《8》

公園に足を踏み入れた途端に聞こえて来た言葉は、子供から発せられたものとは思えないくらい悪意に満ちていた。

「死ね、ばーか」

「出てけよ。ノーマルのキケイ人間」

 小さな公園の真ん中で、幼い悪口と共に石つぶてが飛んだ。石を投げた少年の口は耳まで裂け、いびつな形の黄色い歯がずらりと並んでいる。甲高い声で笑う少女には、鼻が無かった。代わりに魚のエラのような切込みが頬に口を開けていて、少女の口の動きに合わせてぱくぱくと開閉している。鋭い蹄の付いた足が一本きりしか無い少年は、ぴょんぴょん飛び跳ねながらまた石を投げた。

「あいつら……」

 ミホの隣にいた信也が、咄嗟に前に出ようとした。ミホが急いで袖を掴む。

「駄目。信也、手加減できないでしょう?」

口が小さく、鼻があり、エラはなく、か細い足が二本生えているのは、襲撃の中心に居る少年ただ一人だった。

「……学校に行きたくないっていうあの子の気持ち、少しはわかったわ」

 明日香は吐き捨てるように呟くと、つかつかと子供たちに歩み寄った。わかり合おうなんて、無駄。ミュータントはミュータント、ノーマルはノーマルだ。

「あの子が、明日香の……」

 セーラー服のミホが口を開きかけたが、明日香は聞いていなかった。

「だから、一人にしておきたくなかったのよ」

 価値観の逆転。昔はミュータントこそが異端だった。しかし、ノーマルはゾンビ化する。一人減り、二人減り、互いの数は入れ替わった。

「おい、化け物がもう一匹来たぞ」

 牙の生えた少年が、甲高い声で叫んだ。彼らの歪な視界の中では、この奇麗な姉弟こそ、見慣れない『化け物』なのだろう。嬉々とした顔の子どもたちが、足元の石を拾い集める。弾けるような笑い声と共に、彼らが石を投げた。

 明日香が覚悟していた痛みは、いつまでたっても襲って来なかった。

 石礫は、空中で止まっていた。

「優!」

 ミホが声を上げた。

「げっ……」

 異形の子供たちが青くなる。

「この女、『ニュータイプ』だ!」

 視線の先に居たのは、髪の毛を茶色く脱色した少女だった。年のころは、十六、七だろうか。かなり派手な化粧を施し、スカートとキャミソールは小さすぎて肌が過剰に露出している。彼女は、そういう服でなければ着ることができないのだろう。何しろ彼女の手足と来たら、角ばった鋼鉄製の義手と義足なのだから。

「弱い者いじめってのは良くねえな」

 奇麗な唇がにやりと笑う。茶髪の少女は右腕から義手を外すと、長い睫毛を瞬いて焦げ茶色の瞳を鮮やかな玉虫色に光らせた。

 瞬間、空中で止まっていた石がぐらりと傾き、子供たちの上に容赦なく降り注ぎ始めた。

「優ちゃん、辞めて!」

 ミホが悲鳴を上げた。石の雨がぴたりと止まり、今度はぽろぽろと力なく地面に落ちる。

「良いだろ、ミホ。ぶつけたわけじゃねえんだしよ」

 茶髪の少女が苦笑する。子供たちは何事か喚きながら逃げて行ったものの、確かに大きな怪我はしていない。

「学校行こうかと思ったんだけど、今日は午前授業だろ。ミホは兄貴に弁当届けに行く日だし、竜一は仕事に行っちまうしでさ」

 茶髪の少女、優が笑顔で言った。その日、学校へ行くか行かないかの選択を、優は朝目が覚めてから竜一が仕事に行くまでの間に決めている。寝ぼけ半分、今日に至っては別の理由でもう半分の脳味噌もぼんやりしていたので、珍しく判断を誤った。

「暇だったから来たんだけど……大丈夫かよ」

公園の入り口に、有刺鉄線は無かった。今日のゾンビ出没率は30パーセントだから、出入りは自由になっている。

「弟さんを、探しに来たのよ」

 声を潜めて、ミホが囁いた。

「今日、引っ越して来たばっかりなんだって」

軋むブランコは二つのうち一つが壊れて、座る部分が地面にくっついているし、滑り台は錆びついて階段を上ったら崩れてしまいそうだ。ジャングルジムに至っては、錆びてペンキが剥げているだけでなく、何か良くわからない植物が蔓を巻き付けている。こんな所以外に遊び場が無ければ、ストレスがたまるのも当然だろう。だからと言って、旧人類を苛めても良い理由にはならないが。

「……勇(ユウ)……!」

 悲鳴に近い声を上げて、『ノーマル』の明日香は男の子の元へ駆け寄った。手足が長い上に二本ずつしか無く、目玉も二つで、尻尾も牙も他の余計なものは何一つ持たない者は、この少年と姉の明日香だけだった。

「サクラ市にようこそ……って言いたいところだけど、気を付けろよ。みんなってわけじゃないけど、怒りっぽいミュータントもいるからさ」

 少女を安心させるつもりで、優は右の義手を差し出した。

「その手……」

「ああ、大丈夫。握り潰したりしねえから」

 優の手足は、鉄の塊だ。並みの男よりも太く、角ばった作りをしている。玩具のロボットの手足を少女の華奢な身体に無理やりくっつけたようで、どう見ても似合っていない。

 まだ少し迷うような表情を見せながらも、姉が優の手に自分の手を重ねようとした時だった。

「……調子に乗るな」

 弟……勇、と呼ばれた少年は、俯いたままぼそぼそと言うと、姉の手を振り払って優とミホを睨み付けた。

「調子に乗るな! 化け物のくせに」

 姉が止めるよりも、勇の方が早かった。勇は近くで屈んで見ていたミホの帽子に手を掛けると、思いきり引っ張った。

「あっ……!」

 赤い帽子が、ミホの頭を離れて少年の手に移る。帽子をはぎ取られたミホの顔を見て、黒髪の少女は本当の悲鳴を上げそうになった。

 ミホの顎は、すんなりと尖っている。唇は小さく、鼻は細い。手足は棒のように細いが、四本とも奇麗に揃っているので、ミホは自分が優よりも恵まれていないとは思わないことにしている。

 だからと言って、驚かれたり怖がられたりすることに慣れたわけではない。

ミホの眼球は、拳大もあるゼリー状の塊だった。ぶよぶよと瘤のように額から突き出していて、左右がてんでばらばらな方向を向いている。眼球を覆う瞼は薄く、血管が透けていた。弛んだ皮膚に囲まれた眼球は、カエルの目のようでもあり、それ自体が独立した気味の悪い生き物のようにも見える。

「化け物! お前らは化け物だ」

ゼリー状の眼球が、意志とは無関係にぎょろりと蠢いた。見られるのも怖いが、見るのはもっと怖い。ミホは両手で眼球を覆ったが、間に合わなかった。通常の何倍もある大き

さの水晶体の中で、黒髪の少女の像はぐにゃりと歪んでいた。

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《9》

《学級日誌 当番・優》

 久しぶりに学校に来たら、校長から日誌を渡された。めんどくせえ。

後、竜一とのことでちょっと注意された。学校の敷地内であんまりいちゃつくなってよ。竜一の奴、最近校庭の警備に来ないと思ったら、私と会ってたことがバレたのか。

今日は転校生が来た。名前は明日香。実は昨日会ってるんだけど、ミホとはもう仲良くなってた。明日香は肉が食えないって、調理実習の時に初めて気付いた。ノーマルとミュータントって、やっぱり違うんだな。

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《10》

 ミュータントが人類の代表のような顔をするようになって以来、この地球上のあらゆるものが少しずつ狂い始めたようだ。牛や豚はほとんど子孫を残せなくなって絶滅寸前だし、雌雄同体の鼠が我が物顔でそこいらを走り回っている。

「なあ。テストって、いつだっけ?」

 窓の外に舞う桜の花弁を眺めながら、優が言った。優が学校に来るのは、大体十日ぶりだ。優は制服らしい服を一切持っていないので、今日も派手な柄のタンクトップに短いスカートといった、およそ学生らしくはない恰好で鉛筆を噛んでいる。

 教室でこうしている時は、外で起こっていることなんて全部嘘のように思えて来るのだから不思議なものだ。教室のあちこちでは、生徒たちがそれぞれノートを広げて、わからない範囲を教え合っている。ただ、今更微分積分や円周率を覚えたところで、将来何の役に立つのかは不明だ。

「おはようございます。はい、皆さん、席に着いてください」

 角の生えた担任が、教室のドアを開けて入って来た。頭上から降って来た黒板消しを華麗にかわし、何食わぬ顔で教壇に立つ。

「あっ、惜しい!」

「もう、優ってば……」

 教室に響いたくすくす笑いは、担任より遅れて入って来たもう一人のせいで、完全に掻き消された。

「今日から、皆さんと一緒に勉強することになりました」

 担任の声は、心なしかいつもよりも引きつっていた。少し緊張した笑みで教室中を見回し、教壇の前に『新入生』を連れて来る。

「明日香です。どうぞ、よろしく」

 早口でそう告げると、明日香は長い黒髪を掻き分けて小さく会釈した。信也はぽかんと口を開いている。机に脚を乗せていた優は、バランスを崩して落ちそうになった。ミホは明日香と目が合った気がして、慌てて帽子のつばを両手で押さえた。

「見ての通り、明日香さんはノーマルです。ノーマルですが、その……」

「まだ、『発症』はしていません」

 担任が口ごもる横で、明日香が自分から口を開いた。

「私はノーマルなので、近い将来ゾンビになります。でも今のところ、その兆候は見られません。短い間かもしれませんが、一緒に勉強できたらと思います」

 真っ直ぐ前を見て、はきはきと伝えた明日香の顔に、迷いのようなものは見られなかった。

「皆さん、わかりましたね」

 ミホたちの担任は、どこか安心したようににこりと笑って、明日香を一番前の席に座らせた。少し教室中がざわついたものの、校長の言うことなので、結局誰も文句を言わなかった。担任、兼校長、各種授業担当。学校は、生徒だけでなく、先生の数も少ない。

「では、授業を始めましょう。一限目は、調理実習ですよ」

担任兼校長はそう言って、ミホに頼み込むような視線を送った。明日香の席は、ミホの隣だ。優は千切ったノートに何か書きつけていたが、それを更に小さく折り畳むと、担任の目を盗んで明日香の机の上に放り投げた。

 『私は優、隣がミホ。後ろが信也。

  これから、よろしく!』

 明日香が振り返ると、優はにやりとして義手を振ってみせた。明日香の顔に初めて同年代らしい表情が浮かんだのを見て、ミホはまた少し、優のことを尊敬した。

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《11》

テストの日付は忘れても、調理実習がある日を優は忘れていなかった。流石と言うか、何と言うか。ミホはセーラー服の袖を捲ると、花柄のエプロンを絞めた。ふわふわと波打つ長い髪の毛も、今は後ろで纏めて散らばらないようにする。位置の低いポニーテールのような形になるので、信也はお揃いだと言って喜んでいた。

「昨日は、ごめんなさい」

 ミホが実習中も帽子を取らないのを見て、明日香がすまなそうに呟く。

「いつもは、あんな子じゃないんだけど……今までに、色々あったものだから」

「そんなの、全然気にしてないよ」

 ミホはぎこちなく微笑んで、明日香の髪を纏めるのに自分のピンを貸してやった。明日香にそんな顔をされると、ミホの方が却って罪悪感を覚えてしまう。

優は両方の義手を外して、椅子の上に胡坐をかいて座っている。一見何もしていないように見えるが、優の目の前では、包丁がまな板の上に浮き上がって、勝手に野菜を切っていた。

「今日は、サイコロステーキを作ります」

 ひらひらのフリルのエプロンを絞めた家庭科教師を、すぐに教師だと理解できる者は少ないだろう。男子の中には、下品に口笛を吹き鳴らす者もいる。大きく胸元の空いた衣服と、膝丈のスカートから除く肉付きの良い足は、女のミホから見ても魅力的だ。先生の口は鋭く尖り、まるで鳥の嘴のような形をしていたが、ミホの『目』に比べれば随分マシに見えた。

「皆さん、お肉には良く火を通してくださいね」

 教師が囀るように言って、生徒たちにボウルに入った『肉』を配って回る。

明日香は思わず、受け取ったボウルをそのままひっくり返しそうにな

った。赤黒いべたべたした肉片の間には、人間の髪の毛が、大量に挟まっていた。

「洗えば大丈夫だよ……って、そうか。明日香は、食べられないのか」

 真っ青な顔の明日香を見て、優が能天気に言う。明日香は、泣きそうな顔で優を見つめた。「これ……」

 声が震える。ボウルを放り出して叫びたいのを、辛うじて堪える。生徒たちの視線が、明日香に注がれているのがわかった。呑気な視線、不思議そうな視線。何かを確認し合うように視線を交わし、ひそひそ言葉を交わす者もいる。一部の女生徒は、口元を手で隠して、くすくす笑っていた。

 肉の温みが、ボウルを通して手に伝わった。生臭い湯気が鼻腔を刺激し、吐き気を誘発する。この『肉』は生前、どんな形をしていたのだろう。考えてはいけないとわかってはいても、自身の未来と重ねてしまう。

「これ、ゾンビの……?」

「うん。一番安いし、いっぱいあるから」

 がたん、と音を響かせて、明日香はボウルをテーブルに置いた。

「明日香? 大丈夫?」

 ミホの心配そうな声が、余計に頭を痺れさせる。

 弟の言っていた言葉が、耳の奥で蘇った。

 ――化け物――

 駄目だ。やはり、耐え切れない。

 ミュータントは、新人類は、やはり……。

「明日香さん、無理しなくて良いのよ」

 明日香の背に、優しい手が置かれた。フリルのエプロンを付けた家庭科教師が、申し訳なさそうに顔を覗き込んでいる。嘴の付いた女教師は、明日香がどうにか立ち上がるのに手を貸すと、明日香を笑った生徒たちの方をきっと睨んだ。

「皆、聞いて。食べ物にアレルギーがあるのは、恥ずかしいことじゃないでしょう? 明日香さんには、別な料理を作って貰います」

 ノーマルにとっての常識が、ミュータントにとっては非常識であることは少なくない。ミュータントは噛まれたからと言ってゾンビにはならないし、肉を食べても問題は無い。寧ろ昨今の食糧難を考えれば、画期的な選択だ。

「私の配慮が足りなかったみたいね。明日香さんの班は、メニューを変更しましょう」

 家庭科教師は肉のボウルを片づけると、代わりに白い球体が山盛りに入ったボウルを持ってきた。鶏のものよりは大分大きく、楕円よりは丸に近い形をしていたが、明日香にはそれが何かの卵であることがわかった。

「オムレツにしよっか」

 ミホが元気づけるように言って、明日香の肩を叩く。

「ラッキー。先生の卵、うまいんだよな」

 優が笑って、卵をひとつ宙に浮かせた。空中で卵はふたつに割れ、白と黄色の中身が、器の中にぽとんと落ちた。

「今後、卵は明日香さんに優先的に配給します。良いですね?」

 生徒たちから、はあい、と、気の抜けた返事が上がる。明日香は卵を手に取ったが、食欲は湧かなかった。騒いで注目を集めたことが恥ずかしくもあったし、あの『肉』を他の生徒たちは何の躊躇いも無く食べるのだと思うと、ミュータントと自分との差を意識せずにはいられなかった。

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