長編44
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日曜日は最高の終末3

《1》

学校警備を任された日以外で、圭介がミホを迎えに来ることはあまり無い。仕事で遅くなることも多いので、ミホは一人でも明るいうちに帰った方が安全だからだ。ゾンビも怖いが、暗くなってから辺りをうろつく、『良くない考えを持った』人間の方がよっぽど怖い。ミホも一度、後ろから抱き付かれたことがある。

 だから、兄が校門まで来ていると聞いた時、何かあったな、とは思った。無事な姿を見た瞬間、兄でなくて良かったと思ってしまったことも事実だ。

「竜一……!」

 優が叫んで、恋人の元へ走った。普段気の強い優がここまで取り乱すなんて、滅多に無い。竜一は、右腕を肩から吊っていた。血の付いた制服の上着は脱いでいたが、シャツにも同じくらい血が滲んでいる。

「噛まれた。すぐに病院に連れて行ったが、今夜は熱が出るだろう」

 阿方が手短に説明して、優に薬の入った紙包みを手渡した。

「化膿止めと痛み止めだ。俺が油断したのが悪い。申し訳ないことをした」

 阿方は優に向かって丁寧に頭を下げた。そう言えば、今日は北区へ行く日だと言われていたことを、優はようやく思い出した。

「あんた、誰……?」

「新入りの阿方さんだ。新入りって言っても、俺たちよりずっと優秀だけどな」

 圭介が苦笑いして、それからミホの隣に立つ明日香に目を向ける。

「阿方さん、もしかして……」

「そうだ。名前は、明日香。娘みたいなものだ」

 明日香は阿方の方へ歩み寄ると、身体に傷が無いか確認した。警備隊に入ったばかりの阿方を一番危険なところへ向かわせるなんて、どうかしている。ノーマルはウイルスへの抗体が無い分、ミュータントよりも気を付けなければならないのに。

「今回の責任者は俺だ。明日香、君のお父さんのせいじゃない」

 他人の口から、阿方を父親だと言われるのは何だか恥ずかしかった。何と答えて良いかわからず、思わず圭介から目を逸らしてしまう。

「少し縫っただけだよ。たいした怪我じゃない」

 竜一が微笑んで、優の頭を優しく撫でた。噛まれたのは竜一なのに、優の方がずっと青い顔をしている。優は、機械の腕で竜一の腰の辺りに抱き付いたまま、肩を震わせていた。

「明日には復帰できる」

「いや、二、三日休め」

「あなたが決めることですか?」

阿方が助けに行かなければ、竜一は片腕を失っていたかもしれない。圭介は慌てて二人の間に入ると、とりなすように言った。

「熱が下がったら、また働いて貰う。お前が居ないのは確かに困るが、今は休むことだけ考えてくれ」

 竜一が何故阿方を信用しないのか、圭介には理解できなかった。確かにノーマルではあるが、阿方はゾンビではない。

もしも、今日北区へ行ったのが自分たち二人だけだったらと思うと、ぞっとする。気が付いたら、ゾンビたちに囲まれていた。奴らが気配を殺すことを覚えるなんて、考えもしなかった。阿方が冷静に支持を出してくれなかったら、圭介も噛み付かれていただろう。

 竜一は優の肩を抱くと、一度だけ阿方を振り返った。

「阿方さん。僕は、『竜二』じゃありませんよ」

酷く冷たい声に、圭介の方が奇妙なうすら寒さを感じた。

阿方は何も言わなかったが、明日香はどこか驚いたような、縋るような目で、竜一のことを見つめていた。

「竜二、さん……」

 ミホは帽子のつばをぐっと引き寄せて、両目を覆い隠した。今は何も見たくなかったし、見ない方が良い気がした。

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《2》

 今日は、酷く疲れた。北区域のゾンビは、確かに阿方も見たことの無いような不可解な動きをする。気配を消す上に一度は引いた振りをして油断を誘う、なんて、まるで人間そのものだ。ゾンビがあんな風に行動するのは初めてだと圭介は言っていたし、阿方も同意見だった。  

しかし、疲労を感じている理由は、それだけではない。阿方はちらちらと燃える焚火に枯れ枝をくべながら、冷たいコンクリートの上に上着を敷いて眠る子供たちを見つめた。

『竜一』は、『竜二』ではない。別人だ。自分の愚かさに、溜息が出そうになる。折角サクラ市に辿り着いたのに、これでは幸先が良いとは言えない。いや、竜二の手がかりを掴んだという点では、良かったのか。

 下水道の壁は厚いが、ゾンビの雄叫びはここに居ても響いて来る。耳を澄ませば、わけのわからない呻きに混じって、時折人の言葉らしいものが聞こえる。奴らが人間だったころの生活を思い出させるようで、変に感傷的な気分になるのが嫌だ。

 ――テイキケン……ワスレモノ……――

 ――イラッシャイマセ……ゴチュウモン、ヲ……――

 ――ゴリヨウハ、ケ、ケ、ケイカクテキ、ニ……――

ノーマル、という括りは無く、人間は皆大体が同じ姿かたちをしていて、彼らが町を作り、学校へ通い、買い物をして、家族を作って。そんな平和な時代があったことを、明日香は知らない。あの子が生まれた時、この世界は既にゾンビとミュータントに埋め尽くされていた。あらゆる地を転々とし、時には仲間を殺し、ミュータントには馬鹿にされ。明日香の幼少時代の思い出は、苦いものばかりだろう。阿方は自分の拳をぐっと握りしめた。何人も、ゾンビを殺した。人殺しの手。守るためとは言え、死んだゾンビにも日常というものは存在していたはずなのに。

明日香が寝返りを打った拍子に、毛布代わりの上着が捲れた。掛け直してやると、知らず知らずのうちに、口元が綻ぶのを感じる。結婚さえしたことも無いのに、不思議なものだ。この子らを救う為なら、人殺しにでも何にでもなろうという気になる。

「あら、良いお父さんね。それに、良い晩ですこと」

 急に声を掛けられ、阿方は思わず腰のベルトに刺したナイフを抜きそうになった。広い下水に住む人々は、まともな家を持たない。せいぜい、木の板やビニールのシートで隣人との境界を作る程度だ。だから、感覚も地上の者とは異なっているのだろう。突然現れた女は、悪びれる様子も無く、にこにこと笑っている。髪は肩の上できちんと切りそろえ、布を継ぎはぎにした奇妙な服を着ている。

 阿方が呆然と女を見ていると、女は少し不満そうに唇を尖らせた。

「女性にこう言われたら、『月が奇麗ですね』って返すのが礼儀ですよ」

月など、地下に居ては見られるわけが無い。阿方が怪訝な顔をすると、女は溜息を吐いて、勝手に隣に腰を降ろした。

「あきこ、っていいます。よろしく。ちょっとお話しません?」

 赤い布をリボンのように巻いたバスケットを、女は顔の前で振ってみせた。中に入っていたのは小さな干し肉で、赤黒い色をしていた。ゾンビの肉、とは、違うようだ。腐敗臭はしないし、色も濃すぎる。

「ネズミのお肉です。地下には、腐るほどいますから」

 下水の町には、本当に色々な奴がいるものだ。

「ゾンビの肉が食べられないなんて、大変じゃありません?」

 阿方の隣で、あきこは足を組み替えた。柔らかそうに肉の張ったふくらはぎが三本、色鮮やかなスカートから覗いている。

「仕方が無い。俺たちは、ノーマルだからな」

「ミュータントになれたら、って思いますか?」

 阿方が、更に怪訝そうな視線をあきこに向ける。「そんな方法が、存在するのか?」

 ゾンビ化の不安に苛まれることも、ミュータントたちから蔑まれることも無く。平和な生をまっとうできたら、どんなに良いだろう。

「できそうな人なら、一人知っています。どうやるのかは、わからないけどね」

 あきこは片目を瞑って、阿方の手に水筒に入れた湯気の立つ飲み物を手渡した。口を付けてみると、くらくらするような苦い風味が広がる。消毒用エタノールのお湯割りだ。一体、どこで手に入れたのだろう。

「ノーマル、っていう呼び方自体が、私は嫌いよ。普通、とか、まとも、とか、そういう意味でしょう? ミュータントはアブノーマルだって、そう言いたいんでしょう?」

 アルコールを啜って早口に喋りながら、あきこは継ぎはぎの長いスカートをめくり上げた。三本の足のすぐ脇に、青白い切り株が顔を覗かせている。縫合の痕が、くっきりと残っていた。

「これ、切られちゃったの。二本脚はいいけど、四本脚は駄目だって。生まれつき四本が普通だったから、三本で歩けるようになるの、苦労したわ」

 切断された太腿を撫でながら、あきこはくすくすと少女のような笑い声を上げた。まるで冗談のような理由で、この女性は正常に動く肉体を一部、失ったのだ。切り株を目にして、阿方は言葉が何も出てこなかった。

「私はまだ良いのよ。施設に入れられる前に逃げたんだもの」

 ノーマルが全世界の実権を握っていた時代、あちこちにミュータント更生施設なるものが出現した。異様な外見のミュータントを無理やりノーマルに近付け、自分が奇形であることの自覚を持たせた上で社会生活を送れるように教育するという、馬鹿げた施設だ。

「すまない」

 阿方は、あきこに向かって頭を下げた。あきこはそんな阿方を驚いた顔で見つめた後、面白そうにまたくすくすと笑い始めた。

「あなたに謝られたって仕方ないわ。それに、呼び名が嫌いなだけで、ノーマルそのものが嫌いなわけじゃないの」

頬が、ほんのりと赤く上気している。奇妙な女だったが、少女のような声と、干し肉の味を阿方は気に入った。若い警備隊員の圭介に、明日香のクラスメート達。あきこばかりではない。このサクラ市のミュータントは、皆どこか変わっている。

「ミュータントもねえ、善人ばかりじゃないの。私の昔の男なんて、最悪だったわよ」

「ノーマルも同じだ。良い奴はいる。俺の友人は、更生施設で働いていたが……ミュータントの虐待が目的だったわけじゃない」

 質の悪いアルコールが、脳を痺れさせたのだろうか。知らず知らずのうちに、阿方は誰にも話さなかったことを語っていた。昔語りをしたがるのは、年を取った証拠だと言う。阿方がノーマルにしては長生きしている方だと思えば、確かにその通りなのだろう。

「あいつは、ミュータントの将来について考えていたんだ。どうすればミュータントと共存できるのか、彼らのためにノーマルがしてやれることは無いのか……いつも、真剣に考えていた」

 理想を語る時の友人の目は、いつも眩しかった。ミュータントの虐待が当たり前だった施設内で、彼の役目は決して楽ではなかったと思う。それでも、諦めるということを知らない男だった。

「そんなノーマルになら、会ってみたいわね。今、どうしてるの?」

 国内最大規模と言われたミュータント更生施設は、とっくの昔に焼け落ちてしまった。楽しい思い出ではない。熱い酒の勢いで、阿方は前を向いたまま続きを語った。

「死んだ。もう、十年も昔になる。ずさんな管理が原因で、ゾンビが施設内に何匹も入り込んだ。それで終わりだ。あまりにあっけなくて、未だに実感が湧かない」

 今でもはっきり覚えている。竜二が両手を血で汚して、子供のように泣きながら帰って来た日のことを。竜二の肩を掴んで、阿方は同じ言葉を何度も言い聞かせた。

 お前のせいじゃない。お前は悪くない。俺の友人が死んだのは、お前のせいなんかじゃない……。

「良い人ばっかり死んじゃうのね。嫌な時代だわ」

 酔いの回ったらしいあきこが、阿方の肩に頭をもたれさせた。

「そんなに悪くはないさ。出会いも、色々だ」

 阿方が、薄く微笑む。警備隊の圭介も、明日香と友達になってくれたミホも、あきこと言うこの女も。過去に悪と決めつけられたミュータントとは、違う。ただ、残された時間の長さだけが違うのだと思うと、言いようも無く寂しかった。

《3》

《警備隊長幸也の記録書》

 阿方は結構役に立つらしい。だが、ちょっとした問題も発生した。竜一が油断したのが悪かっただけで、阿方のせいではない。少なくとも、圭介はすっかり阿方を信用している。それにしても、竜二というのは誰のことだ? 竜一は何か知っているみたいだが、教えてはくれない。そもそも、ノーマルの阿方がわざわざ家族ぐるみでサクラ市に来たのは何故なのだろう。確かにちゃんとした病院はあるし、必要な抗体もそこで手に入る。しかし、ミュータントの生活圏内に入り込むのは、危険も多いはずだ。未だにノーマルを敵視する奴らも居る。にも関わらず、彼らが望んでこのサクラ市に来たのだとすれば。何か、他の目的があったのだろうか。

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《4》

 学校が今日は午後まで掛かるとミホが言っていたから、昼食は自分でどうにかしなければならない。昨日竜一を医者に診せるために早く上がったので、今日はやり残した仕事も溜まっている。

 圭介は警備服に袖を通すと、廊下の鏡で、自分の姿をチェックした。警備隊が普段基地として使っているのは、この古い商社のビルだ。会議室もあるし、デスクも多く、事務用品も使えるものがかなり残っている。部屋も多い分、仮眠にも使えるので、中には布団を持ち込んで寝泊りしている者も居るくらいだ。

「おはよう、圭介」

 欠伸交じりに声を掛けて来たのは、晃だった。晃は住む家も家族も無いので、もうほとんど、この基地に住んでいると言っても良い。

「お前、寝癖直せよ」

「圭介こそ。袖、捲れてるぜ」

 圭介にとって、服の袖は二本では足りない。持っている分は、全てミホが布を継ぎ足して作り直してくれたものだ。肘から二股に分かれた腕を自由に使えるよう、左の袖はかなり太く作って、切れ目を入れていた。脇腹から生えた四本目は、シャツの中に押し込んだ上で、マントのような上着の下に隠している。

「昨日は大変だったな。幸也もぼやいてたぜ、無茶し過ぎだって」

「……迷惑掛けたみたいだな」

 幸也は、この警備隊の隊長だ。ミュータントが主導権を握るようになった町は、大抵どこも私設警備隊を置いている。ゾンビに対抗するため、というのももちろんあるが、互いの情報を交換し合ったり、物資をやり取りしたりするのにも役立っている。だから、隊長と言っても特別な権限があるわけではなく、要は面倒事の背負い役で、戦闘向きでない幸也がそれを買って出ているに過ぎない。

「そりゃそうさ。お前と竜一はゾンビ狩りのエースなんだからな。二人とも休んじまったら、俺たちの仕事が増える」

 晃が悪戯っぽく言って、片目を瞑ってみせた。

「俺たち二人、か」

圭介が呟いて、後ろを振り返った。靴の音を重く響かせてやって来た人物を見て、晃の顔から笑みが引いた。「今は、三人だ」

 警備隊の制服が一番様になるのは、間違いなく阿方だろう。彼がこのカーキ色の制服を着ていると、まるで本物の傭兵か何かのように見える。

阿方が廊下を歩くと、他の警備員たちは道を空けた。異端の新入りが信用を得るには、普通の新入りよりもずっと時間が掛かる。

「初日から、あんなことになってしまってすまない」

 阿方は真っ直ぐ圭介の方に歩み寄ると、謝罪の言葉を口にした。

「それは俺の台詞だよ、阿方さん」

 圭介は苦笑して、阿方の顔を見上げた。警備隊で一番背が高いのは圭介だったはずなのに、今ではすっかり二番目だ。

「竜一は大丈夫だ。今朝寄って来たけど、思ったより元気そうだったぜ」

「そうか。なら、良かった」

 適切な処置さえすれば、ミュータントがゾンビに噛まれても大事には至らない。竜一の傷は骨にまで達するものではなかったし、今後の生活に支障が出るようなものでもなかった。

「君の妹は、ミホというのだな」

 少しの沈黙の後、阿方がぽつりと口を開いた。阿方の口からミホの名が出るとは思わなかったので、圭介は目を丸くした。

「明日香から聞いた。あの子が、同じ年頃の娘のことを話すのは初めてだ」

明日香が学校へ行きたいと言い出した時、阿方は反対した。明日香が傷付くだけと思ったのだ。今はそれが間違いだったということがわかる。

「礼を言わせて貰う。明日香と友達になってくれて、ありがとう」

「いや、そんな、俺の方こそ……」

 ノーマルだから、というのは、関係ないと圭介は思う。ミホが明日香を友人として扱ったように、明日香もミホを友人と認めてくれたのだから。

 阿方が、圭介のことをきちんと認めてくれているかは、まだわからないが。

「阿方さん。ひとつだけ、あんたに聞いても良いか?」

 少し躊躇いがちに、圭介が阿方を見上げて言った。

「『竜二』って、誰なんだ?」

 警備隊に居る仲間の名は、『竜一』だ。彼に兄弟が居たという話は、全く聞いたことも無い。阿方は眉根を寄せて、少しの間考え込んでいたが、やがて口元に笑みを浮かべると、聞かれるのをはばかるような小声で言った。

「昨日、俺は明日香を『娘みたいなものだ』と言ったな」

 血は、繋がっていない。明日香の両親は、明日香が物心つく前にゾンビになってしまったので、顔も覚えていないはずだ。

「竜二は、息子みたいなものだ。でも、長いこと会っていない」

 今はもう、ゾンビになってしまったのか、それとも無事なのか。何も知らないし、手がかりさえも無い。

「君にも聞きたい。『竜一』は、いつからこの警備隊に?」

「ええと……十年くらい前かな」

 冗談だろう、と言いたかった。竜一はどう見ても二十歳そこそこだし、圭介もせいぜい二十四、五にしか見えない。だが、ミュータントとノーマルは、そもそも時間の感覚からして違う。

「竜一は身体が弱くてさ。サクラ市の病院にいる先生のお陰で、今は良くなったけど……優と一緒にサクラ市に来たばっかりの頃は、寝てばっかりでほとんど動けなかったんだ」

 警備隊に入ってからの竜一は、ノーマルへの恨みをぶつけるかのような勢いでゾンビを殺し続け、すぐに幸也の信用を得て圭介と組むようになった。

 長い付き合いとは言えないが、圭介は竜一を友達だと思っている。それでも、竜一の全てを知っているわけではない。むしろ、知らないことの方が、ずっと多い。

「竜二は、ずっと竜一を探していた」

 低い声で言って、阿方は俯いた。「今は、俺たちが竜二を探している」

 明日香が幼い頃に、竜二は消えてしまった。サクラ市は、最後の場所だ。ここで竜二に会えなければ、竜二は死んだものとして諦めようと、以前から話し合って決めていた。

「話しすぎたな。竜一には、何も言わないでくれ」

 急に黙り込むと、阿方はそれ以上何も言わずに、圭介に背を向けた。

「何だよ、あのおっさん。やっぱり胡散臭いぜ」

 晃が口を尖らせた。

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《5》

《学級日誌 当番・優》

 昨日のことについてはあんまり書きたくない。本当にもう、これ以上無いってくらい怒られた。誘った私が悪いんだけどさ。

 ミホと明日香があんまり叱られなかったのは良かった。信也も。信也がミホを北区に連れてったなんて言ったら、ミホの兄貴にぶん殴られるだけじゃ済まなかったと思う。だから先生、全部私のせいってことにしといてよ。

 北区域が今、本当にやばいってのは竜一から聞いた。竜一が噛まれるなんて今まで無かったし、言う通りだと思う。二度と行っちゃ駄目だって。けど、何でだろ。今までは、こんなんじゃなかったのに。

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《6》

 新しい服が欲しいと言ったことを、友人たちはきちんと覚えていてくれたらしい。そんな口約束なんて、とっくに忘れられたと思ったのだが。

 今日は皆、学校をさぼって『買い物』に来ていた。とは言っても、下水にある商店街ではない。売り物の服は学生には高価すぎるし、子ども二人抱えた阿方にねだるのは気が引ける。

「だってよ、ノーマルの住処の跡なんてもう漁られ尽くしてるんだぜ。人が来ねえとこが一番色々残ってるんだ」

 ゾンビに対する準備は完璧だ。少なくとも、彼らはそのつもりでいる。

明日香は誰も住んでいない、廃墟のような教会のゴミ箱に手を突っ込んだ。オルガン用の五線譜や、印刷の薄くなった聖書なら出て来るものの、目当てのものは見つからない。ゾンビ化の危機がいよいよ身近に感じられるようになった時、ノーマルたちはこの教会に救いを求めたのだろうか。かなりの人間が、ゾンビ化した後もここに留まっていたらしい。裂けた腐肉から生臭い臓物を晒し、双頭の蠅を全身にたからせた死骸の山が、警備隊の虐殺の跡だということはすぐにわかった。

 北区域。今はもう、ミュータントさえ寄り付かない場所だ。阿方も、ここに来たのだろうか。この光景を、見たのだろうか。両腕をかき抱くようにして、明日香は割れた天窓から差し込む柔らかな陽光を見上げた。青々とした蔦の葉が、古いマリア象を死の冠のように取り囲んでいる。神、というものは存在しない。その証拠に、ノーマルは誰も救われなかった。明日香は今、何に祈り、何に縋れば良いのだろう。

「洋服屋なら、この先に無かったっけ?」

 ミホが言うと、信也が僅かに顔を強張らせた。

「……あんまり奥には、行かない方が良いよ。警備隊も来れないみたいだし」

「だな。ミホに何かあったら、私らが圭介に殺される」

 優がふざけて言うと、ミホは困ったように笑った。

 ミホは何も気づいていなかったが、明日香は信也があからさまにほっとした表情を浮かべたのを見逃さなかった。

「服なら、店じゃなくても手に入るだろ」

 優が、教会の前に立つ背の高い建物を指さした。外壁を彩るクリーム色のペンキは色あせ、窓枠もさびついている。

 『サクラ市立第一北中学校』

平坦な文字が、北区を覆う死臭と対照的だった。 

「学校か。体操服ぐらいならあるかな」

「半袖のやつが欲しいんだけど……最近、暑くない?」

「本当? 僕達はそうでもないけど……」

 こうなってしまった世界で生き続ける為に、ミュータントの身体は見た目以上の進化を遂げている。彼らはゾンビウイルスを含むあらゆる病原体に勝てるだけの体力があるし、寒暖の差も問題にしない。優もミホも信也も、一年中同じ服装だ。

 信也が鉄の柵に手を掛ける。錆びて脆くなった校門のかんぬきは、それほど力を入れもしないのにぽきりと折れて、久しぶりの客を快く招き入れた。

「とりあえず、着れそうなもん探そうぜ」

 先頭に立って、優はどんどん歩いて行く。慌てて後を追おうとした明日香は、妙な気配に気づいて、ふと足を止めた。

「どうしたの?」

 ミホが心配そうに尋ねる。

「ねえ、今……」

 明日香が、自分の口に人差し指を当てた。

 ――シ……ナイ……――

 微かなうめき声を、風が運んで来る。

「何か、聞こえなかった?」

 気のせい、ではない。優も信也も、足を止めて周囲を見回している。ミホは学生鞄から大ぶりなカッターナイフを取り出すと、刃をぎりぎりまで出して、胸の前で構えた。

「明日香は、真ん中にいて」

 ミホが明日香の前に出る。ノーマルの明日香は、噛まれたら終わりだ。明日香を囲むような形で、三人は輪を作った。

「やっぱり、出やがったか」

「予想はしてたけどね」

 じゃり、と、割れたガラスを踏む音が響く。長い廊下をふらつきながら歩いて来たのは、白い骨だった。

「うげ……」

 優が正直な感想を口にする。カッターを握るミホの手は、震えていた。

「何だ、これ」

 驚いたのは、皆同じだ。こんなものは、警備隊の圭介や竜一だって見たことが無いに違いない。

「脳味噌が残ってる限り、ゾンビはなかなか死なないって言うけど……」

「いや、限度があるだろ」

 目の前のゾンビを、本当にゾンビと呼んでも良いものだろうか。手足の肉はすっかり腐り落ち、干からびた神経の束を纏った骨がむき出しになっている。胴体にも、肉はほとんど残っていない。蛆に食いつくされて洗ったように白い肋骨の隙間に、赤い心臓と桃色の肺が辛うじてへばりついていた。

まともに肉が残っているのは、首から上だけだ。その部分だけは、まともすぎる程にまともだった。傷一つ無い、蝋のように艶やかな顔を左右に揺らして、身体が骨になってしまったゾンビはゆっくりと近づいて来る。その、濡れたように奇麗な目玉を食い破って蛆虫が這い出て来るのを、明日香は憑りつかれたように見守っていた。

 ――シ、ニ、タ、ク、ナ、イ……――

 形の良い唇を開いて、ゾンビは絶叫した。酷く平坦なその声が、明日香には怖いというよりも悲しく聞こえた。

「気持ち悪ぃんだよ!」

 最初に動いたのは、優だった。鋼鉄の角ばった腕を振りかぶり、ゾンビの唯一美しい顔に叩き込む。頭がい骨が、内側にめり込んだ。折れた歯が、傷口から這い出した蛆と混じって、ぽとぽとと廊下に落ちた。

「死にたくない、だって? 面白い冗談言うじゃねえか」

 腕と同じ素材でできた足で、優はゾンビの骨だけの足を蹴った。脛の骨に罅が入り、バランスを崩したゾンビは片膝を付いた。

 ――タ、ス、ケ、テ……――

 立てなくなったゾンビが、骨だけの腕を前に伸ばした。陶器のように白いそれは、隙間を風が撫でるだけでかたかたと音を立てる。その指の先に、鈍く光る何かが、ぶら下がっていた。

「明日香に触らないで!」

 ミホのナイフが、ゾンビの指を薙ぎ払う。脆く砕けた骨の破片が、明日香の頬に降りかかった。あと僅かでゾンビに触られるところだったことに、明日香は初めて気が付いた。

 ――シ、ニ、タ、ク……――

 ゾンビの願いは、叶わなかった。信也が、ゾンビを壁に叩き付けた。まだ肉の残る首筋を掴んで、信也はゾンビのへこんだ頭を、何度も壁に打ち付けてから手を離した。奇麗な顔は、面影も無くぐしゃぐしゃに潰れていた。腐敗した脳髄が、どろどろと頭がい骨の隙間から溢れ出す。

「ミホちゃんに、近づくな」

 信也は静かに言うと、ゾンビの顔を思いきり踏みつけた。骨だけになっても生き永らえていたゾンビは、完全に死んだ。

「こんなになって生きてたって、楽しいもんかね」

 優が死んだゾンビを見下ろして呟く。

 急に全身の力が抜けて、明日香はその場に座り込んだ。ゾンビの白い破片が散らばった廊下に、小さな銀の輪が転がっていた。 

「あ? 何だそれ。今のゾンビの落とし物か?」

 優の声をどこか遠くに感じながら、明日香は床に手を伸ばした。

 『竜二』

 純銀の指輪の内側に彫られた文字を見ても、さほど驚きはしなかった。

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《7》

《学級日誌 当番・ミホ》

 今日は大変なことがありました。授業が終わった後、図書室で勉強していたら……明日香は怯えています。兄は私を責めませんでしたが、クラスメートが怪我をしたのは私の責任です。ごめんなさい。もっと早く気付けば良かった。助けられたのに、いつも私は間に合わないんです。

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《8》

サクラ市には、病院は一軒しか無い。元々はノーマル専用の大病院だったのだが、今はミュータントの医師が一人と、免許の無い看護師が十数人いるだけの個人病院だ。立派なのは建物だけで、収容されている患者も数は多くない。

「やあ。この間は、病院の警備、ご苦労様。怪我の調子はどうだい?」

 軽快な口調で話しかけた医師は、竜一よりも長く髪を伸ばしている。色は目の覚めるような金色で、目は宝石のように青かった。

「うん、もう抜糸できそうだね」

 竜一の袖を捲って、医師は傷の具合を確認した。

「熱も下がったし、もう仕事行けるだろ?」

 優が、横から口を出した。義足を開いて座っているので、角度によっては下着が見えそうだ。

「ゾンビ狩ってないと体力余るみたいでさ、このスケベ野郎」

「だって優、僕が捕まえてないと勝手に危ないところに行っちゃうじゃないか」

 おそらく、学生たちが勝手に北区に侵入した日のことを言っているのだろう。医師は苦笑しながら消毒液と鋏を用意すると、傷を縫っていた糸を切り始めた。

「君たちは相変わらずだねえ。俺、妬けちゃうなあ」

「ジェームズ先生こそ。何人看護師食ってるんだよ?」

「『口説いた』って言ってほしいね、優君。俺は紳士なんだ」

 ジェームズ医師がどこから来たのか、町の人間は誰も知らない。いつからここに居るのかさえ、わからない。喋る日本語はかなり流暢だったが、ミホによるとどこか知らない国の言葉もたくさん知っているらしい。ミホは時々、英語の宿題を見て貰いに来ている。

「そう言えば、ノーマルが何人か引っ越して来たって聞いたけど」

 医師が口を開くと、竜一の表情が強張った。

「……どこまで、聞きました?」

「うーん。そのノーマル達……家族、って言ってもいいのかな? ……が、血の繋がらない父親と娘とその弟で、父親は警備隊員、娘さんは中学校に通っている。弟さんの名前は偶然、君の恋人と同じ読みだ。それで、お父さんの方は君の弟を探してるらしい……ってとこまでかな」

 一軒しか無い病院には、様々な客が訪れる。患者だけでなく、ただ身の回りの愚痴をこぼしたい人間や、噂好きな人間も少なくない。

「別に俺が知ったって良いだろう。『竜二』の件には、俺にも責任がある」

 ジェームズ医師が穏やかに言った。青い目がきらりと光る。

「竜一君、俺だってノーマルに良い感情は持っていないよ。あいつらがして来たことを考えれば、今の状況だって甘すぎるくらいだ」

ゾンビウイルスの研究をしてきたジェームズ医師は、ミュータントだということが公表されて学会を追われた。それほどまでに、彼はノーマルと変わらない外見をしている。彼がミュータントだとわかった時、ノーマルたちは裏切られた思いを味わったのかもしれない。

「先生が私らを裏切るなんて思っちゃいないよ。ただ……」

 優が呟いて、治療室の奥の扉を見つめた。幾重にも鎖が巻かれ、厳重に鍵が掛けられている。元は、重症患者用の集中治療室だったはずだ。

「『竜二』のことはともかく、明日香は良い子なんだ。阿方、っていうおっさんだって、悪い奴じゃないと思う。竜一のこと、助けてくれたんだから」

ジェームズ先生は、基本的にミュータントの味方だ。けれど、以前はノーマルのために研究を重ねていた。今だって、本当に全てのミュータントの味方なのかどうかは、正直良くわからない。

「優がそう言うなら、僕も余計なことは言わない」

 自由になった両手を伸ばして、竜一は優の肩を抱いた。

「だけど、気に入らないな。ノーマルのガキが僕の優と同じ名前だなんて」

 明日香や阿方の人格なんて、正直どうでも良い。彼らがノーマルであるというだけで、竜一にとっては嫌悪の対象だった。本当なら、ノーマルの分際で優に近付くことすら、許しがたい。

「よし、わかった。明日香っていう子には、まだ全部秘密にしておこう。『竜二』が今どうなってるか知ったら、傷つくだろうからね」

 医師がそう告げると、優はからかうような笑みを浮かべた。

「信用してるよ。先生って、見かけほど軽い男じゃないし」

「いやいや。こう見えても俺、百年は生きてるんだぜ?」

 そう言う医師の顔は、皺の一本も無くつるりとしていた。背筋も真っ直ぐに伸びていて、とても老人には見えない。彼の細胞は、彼が成人した時点で老化を止めてしまった。ゾンビウイルスが出現し、ミュータントがノーマルの世界に誕生し、粛清と差別に晒され、いつの間にか立場が逆転するまでの歴史を、医師はその目でずっと見続けて来た。

 ゾンビウイルスの特効薬は、結局見つからなかった。ミュータントから抗体を抽出して注射しても、ノーマルの体内では数時間以内に消えてしまう。ノーマルが、ゾンビ化の運命から逃れる方法は何も無い。

 竜二の件は、例外中の例外だ。

集中治療室の奥から、低い呻きのような声が漏れた。

「私は、お前の女じゃねえぞ」

 優が叫び返すと、呻き声はぴたりと止まった。

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《9》

下水の中は、ちょっとした町の様相を呈している。小さな店もあれば、地上から品物を売りに来る行商人までいる。昼間でも薄暗い地下の迷路を、勇は一人で歩き回った。明日香は学校へ行ってしまい、阿方は夜まで仕事なので、半日の間勇は一人きりだ。

 明日香が持って来る卵のお陰で、今のところは何とか飢え死にせずに済んでいる。卵なんて久しぶりだ。味も忘れかけていた。

いつの間にか、普通の動物は子孫を増やせなくなり、ばたばたと死んで行った。ノーマルの社会がうまくいかなくなったのも、その頃だ。農場は閉鎖され、肉や乳製品の値段が吊り上がり、僅かな食料を求めて人はスーパーマーケットやコンビニエンスストアに殺到した。今元気に生きているのは、ミュータント化して性別が無くなった鼠か、ゴキブリとカラスくらいのものだ。

「煙草、煙草はいりませんかぁ……」

「薬、えー、薬屋です。傷薬はいかが……」

「貸本です。百円、いや、五十円から……」

 下水に住む子供たちは、学校へ行かない代わり、何かしらの内職をしていた。煙草屋の子は煙草作りで、吸殻を集めて中身の葉を取り出し、新しい紙に巻き直している。薬屋の子は、外から取って来た名前のわからない薬草を石ですり潰しているし、貸本屋では拾って来た本を糊のようなもので修復していた。彼らは人懐っこそうに笑って、一緒にやらないかと声を掛けて来たが、勇は無視して通り過ぎた。ミュータントの手伝いなんて、ぞっとする。ミュータントに馬鹿にされるのも腹が立つが、勝手に仲間扱いされるのはもっと嫌だ。

「ここ、開けて」

 マンホールの真下まで来ると、勇はそこに立っていた警備員に声を掛けた。

「ごめんな、坊や。決まりなんだよ」

警備員は眉を寄せると、優しい声でそう言った。マンホールの開閉は、慎重に行わなければならない。ゾンビに入り込まれでもしたら、大変なことになるからだ。朝一回、夕方一回の二回だけで、例外は一切認められない。朝に出かけた者は警備員の笛が鳴る日没までに戻らなければならず、それを逃せば翌朝まで家に入れないことになる。

「お父さんもお姉ちゃんも、外に出かけちゃったんだな」

 背中に恐竜のような瘤のある警備員は、困り顔で勇を見下ろした。朝、この少年と同じノーマルの男と少女が出て行ったのを覚えている。少年を置いて行ったのは、ここの方が安全と考えたためか。確かにそれはそうかもしれないが、こんな子供を一人にすることもあるまいに……。

「開けろよ」

 勇はもう一度言うと、警備員を睨みつけた。以前は、ミュータントがノーマルに逆らうなんて絶対に許されなかったのに。警備員はおろおろして、何とか勇をなだめようとしたが、どんなに理由を並べても、勇は一歩も引こうとはしなかった。

「開けろって言ってるだろ。早くしろよ、のろま」

 困り果てて、背に瘤のある警備員は助けを求めるように周囲を見回した。しかし、開閉時間外にここに来る者はほとんどいない。誰も見ていないならば、出してしまっても良いだろうか。だが、夕刻までに戻れなかったらどうなる? この子の家族に、何と説明すれば……。

「こら。おじさんに迷惑かけちゃ、駄目でしょ」

 いつの間にか、後ろに女が立っていた。髪は肩に付く直前できっちりと切りそろえてあり、下水の住人にしては清潔感のある恰好をしている。色とりどりの布をはぎ合わせたスカートを履いていたが、裾から除く奇麗な脚は三本あった。

「あきこさん」

 あからさまにほっとした表情で、警備員が女の名前を呼んだ。女はにっこりと笑うと、勇に向かって手にしたバスケットを振ってみせた。

「坊や、お昼はもう済ませたの? まだなら、一緒にどうかしら」

 バスケットからは、香ばしい香りが漂っている。勇は、思わず自分の痩せた腹を押さえた。昨日の晩卵を食べたきりで、今日は何も口にしていない。

「大丈夫よ。私の料理は、食べてもゾンビになんてならないから」

 勇の不安を読んだように、女が微笑む。下水の町に屋台はたくさん出ているものの、出してくれるのはゾンビ肉を使った料理ばかりだ。

「人の好意は、素直に受け取るものよ」

 女はにこにことした表情のまま勇に近付くと、片方の手でそっと勇の頭を撫でた。振り払おうとした勇は、瞬間、鋭い痛みを覚えて立ちすくんだ。

 女がもう片方の手で、勇の耳を強く引っ張ったからだ。身体とバスケットの影になっているので、警備員は全く気付いていない。引っ張った耳を、女は力を込めてねじった。耳が千切れるのではないかという痛みに、飛び出そうになる悲鳴をどうにか抑え込む。

「良い子ね。大人しくするのよ」

 女の笑みは、警告の色をしている。

「いやあ、流石あきこさんだ。すっかり懐いてしまいましたね」

 警備員は笑って、女に向かって帽子を取った。

「お仕事、頑張ってくださいね」

 女は鼻歌を歌いながら勇の手を取ると、引きずるようにして歩き始めた。子供の力では、大人にはとても抗えない。勇は、付いていくよりなかった。引っ張られた耳の痛みが、逆らう気力を萎えさせる。

「はい。今朝から、何も食べていないんでしょう?」

マンホールから十分離れた場所に来ると、あきこはバスケットの中から皿とフォークを取り出して、勇の膝の上に放った。煮崩れた肉は柔らかく、空腹で痛みを感じていた胃に優しい。

「あの、これ……」

「おいしいでしょ? ネズミのお肉よ」

あきこは笑って、勇に片目を瞑ってみせた。ゾンビの肉ではない、というのは、信じても良さそうだ。特有の腐敗臭が無いし、肉もごく新鮮で、まるでさっきまで生きていたかのように思える。

「下水は、ネズミが多いでしょう? 臭くて固いって言うけど、ちゃんとお料理すれば結構おいしいのよ」

 あきこが、何を目的としているのかはわからない。勇を痛めつけること、ではなさそうだ。あきこは、勇が肉のスープをがつがつ貪るのを、目を細めてじっと見守っていた。

「勇君。噂で聞いたんだけど、君、お姉さんがいるみたいね」

 ほとんど肉の無くなったスープから顔を上げて、勇があきこを見つめた。ノーマルの一家というのは、やはり珍しいのか、あっという間に話題の中心となってしまうようだ。

「お姉さんがゾンビになっちゃったら、勇君はどうするの?」

 残酷な質問を前に、勇の胸は杭を打ち込まれたかのように痛んだ。明日香がゾンビになるなど考えもしなかった。考えないようにして来た。けれど、考えなくても時間は過ぎる。未来は、着実に近づいて来る。「どうするの?」

 あきこの目はこげ茶色で、いかにも好奇心旺盛な印象を受ける。実際その通りのようで、あきこは勇を憐れむよりは、旧人類が生きようともがき続ける様を楽しんでいるようだった。

「もし、そうなったら」

 勇は、スプーンを音が鳴るほどきつく噛みしめた。

「俺が、明日香を殺してみせる」

 頭がおかしくなったまま、生き続けていたって仕方が無い。食肉となってばらばらにされるくらいならば、ゾンビ化の兆候が表れた時点で、自ら命を絶つのが最善の方法だ。

「竜二兄ちゃんは弱かった。だから、俺たちを捨てて出て行ったんだ」

「あら、お兄さんもいたの?」

 あきこの目が、きらりと光った。姿勢を崩すと、スカートの隙間から三本の足が覗く。そこから視線を逸らして、勇は少し怒ったように呟いた。

「多分、もう死んでるよ。阿方は生きてるって思いたいみたいだけど……ゾンビになった奴なんて、生きてても死んでても同じだし」

 竜二にゾンビ化の症状が現れ始めた時のことは、はっきりと覚えている。眠れないと愚痴をこぼすようになり、聞いた話をすぐに忘れるようになった。簡単な言葉すら、勇や明日香に指摘されないと思い出せない。食事をする、服を着替えるといった基本的な動作さえ、おぼつかなくなって行った。

「明日香は女だから認めたがらなかったけど、阿方にはわかってた。竜二兄ちゃんは、もう助からないって」

「それで?」

「竜二兄ちゃんは、自分がゾンビになるなんて思ってなかった」

 ――どうして、俺が……――

 症状が進んでいると自分でも認めざるを得なくなった時、竜二は明日香たちに向かって怒鳴った。あれほど優しくて、いつも陽気に笑っていた竜二があんなことを言うなんて、明日香にも勇にも信じられなかった。明日香は泣いていたが、勇は涙も出なかった。以前の、いつも勇の遊び相手になってくれた竜二、勇にとっては兄替わりでもあり、親友でもあった竜二は、とっくにいなくなってしまっていたから。

 ――どうして、お前らじゃないんだ……――

 濁り始めた目を血走らせ、阿方の胸ぐらを掴んで、竜二は泣きながら叫んだ。自分以外のノーマルをずっと見下し続けていた竜二にとって、現実は耐え難く、許しがたいものだった。

「竜二兄ちゃんは、赤ん坊の頃は『ミュータント』だった。手術してノーマルになったって聞いてる。抗体があるはずだったんだ」

「手術? ミュータントが、ノーマルに?」

 あきこが思わず吹き出した。

「何それ。馬鹿みたい」

 昔は、ミュータントに生まれることは恥だと思われていた。ミュータントを生んだ親たちはこぞって自分の子を更生施設に放り込み、少しでもノーマルに近い生活が送れるように、各々の個性を潰す『教育』を受けさせた。

 しかしそれは、あくまで外見上の問題だ。あきこが三本ある足のうち一本を切り取って、見た目だけノーマルに近づけたところで、体内の抗体が消えるわけではない。竜二に症状が現れたのだとしたら、彼は生まれた時から抗体の存在できない『ノーマル』だったのだ。

「俺も嘘だと思ってる。そうじゃなきゃ、竜二兄ちゃんの妄想だよ。ゾンビになるのが怖いから、作り話をしたんだ」

 勇が、子供らしくない皮肉な笑みを浮かべた。

「竜二兄ちゃんは出てったよ。もう一回手術して、またミュータントになれば助かるんだってさ。そんなわけないって、子供の俺にもわかるのに」

「イカレてるわ」

 あきこが笑うのも無理は無かった。誰に話したって笑われるだろう。勇は食べ終わった食器を重ねると、わざと音を立てて地面に置いた。竜二のことは、今はもうどうでも良い。けれど、かつての仲間が、何も知らない第三者に馬鹿にされるのは嫌だ。

「お腹が空いたら、また私のところに来なさい。ネズミをちゃんとお料理できるのは、私だけなんだから」

 明日香は今、どうしているだろう。妙齢の女の顔を見上げて、勇はそんなことを思った。地上は、地下よりも危険なはずだ。それなのに明日香は、最近は学校に行くのが楽しくてたまらないみたいで、それが嫌だった。

「お金はいらないわ。その代り、また面白いお話、聞かせてね」

 あきこが勇の耳元で言った。また耳を引っ張られるのではないかと警戒したが、あきこはただ微笑んだだけだった。

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《10》

信也が母親を尋ねる理由は、日によって異なっている。学校で嫌なことがあった日も、良いことがあった日も……今日のように、どうしても様子が気になる時もだ。

いつ行っても、北区域の周辺は、特別太い有刺鉄線で厳重に囲われている。入る気が無くとも、近づくだけで見回りの警備隊に注意される。だから、手ぶらでは母親に会いに行けない。信也がくしゃくしゃに丸まった一万円札を手渡すと、その日見張り役だった警備隊員の目は、たちまち節穴になった。

「母さん……来たよ」

 元はノーマルのものだった住宅地は、すっかりゾンビの巣へと変貌を遂げていた。サクラ市全体が、かろうじて町の形を保っているような危うい場所であることは確かだが、それすらできなくなるとこの北区のようになるのだろう。菓子の箱や包装紙だったらしい紙くずは、すっかり風化して砂のように崩れ落ちる。ゾンビが共食いをした後の生臭い食べかすは、そのまま肥料となって、アスファルトのひび割れから生えた背の高い雑草を、森のように豊かに茂らせていた。

 ――ぐぉう……――

 すぐ近くで、ゾンビの鳴き声がした。骨と皮ばかりに痩せた自分の腕の肉をくちゃくちゃと噛みながら、浮浪者のようなゾンビが、信也に向かって歯をむいてみせる。

何も言わず、信也はそのゾンビの顔に拳をめり込ませた。ゾンビは悲痛な叫びを上げて後ろに下がると、もうそれ以上は襲って来なかった。

動物と一緒だ。誰がボスなのか、思い知らせてやれば簡単だった。

「母さん、居るんだろ?」

 住宅の壁は崩れ落ち、指先で触れるだけで、漆喰がぱらぱらと散った。太いつる草に絡みつかれた柱は、もう人間の為に存在することを辞めてしまったかのようだ。

 染みだらけの畳に、湿った座布団。以前来た時と少しも変わっていないのを見て、安心する。昨日ミホ達と一緒に来た時も、ここまで奥には来なかった。あの後は結構な騒ぎになってしまい、圭介を始めとする警備隊員が何人か入り込んで来たが、このぼろ小屋は見つからずに済んだようだ。

壁のハンガーには、女物の衣類が何枚か掛けられている。テーブルには、以前持ってきた調理実習のオムレツが、半ば腐って崩れた状態で取り残されていた。畳に広がる黒い模様は、血だ。何度も流れては固まりを繰り返したために、じっとりと重くなり、年中黴に覆われている。

「母さん……」

 信也が『母』のために拾って来た姿見は、中央に大きな罅が入っていた。割れた鏡に、自分の顔が映っている。男とも女ともつかないその顔を、信也が好きだったことは無い。中性的と言えば聞こえは良いが、要はどちらにもなれない半端者だ。

 鏡から顔だけが見切れるように姿勢をずらし、胸のサラシをほどいて、締め付けられていた胸元を解放する。引き締まって六段に割れた腹筋の上、生白く膨らんだ乳房の更に上に、別の顔を想像した。

赤い帽子。柔らかに波打つ、奇麗な髪。白い頬。小さな唇。

黒いズボンの下で、男性器が痛い程膨らんで行くのを感じる。

 母と話したかった。話す内容は、ここのところ決まりきっていたが、それでも胸の内を明かすと楽になった。今日に限って、どこへ行ってしまったのか。いつもは信也が来ると、『お帰りなさい』と言ってすぐに出てきてくれるのに。

「……母さん?」

 少しだけ、嫌な予感がした。

 湿った畳の上に、イヤリングが落ちている。壁に残る口紅の染みと、引っ掻いたような跡は、まだ新しかった。

 冷たい汗が、背中を滑り落ちる。

 信也はいつも、『母親』に何を話していただろう。

 今日の放課後、ミホはどこへ行くと言っていただろう。

「ミホちゃん……!」

 信也は呟くと、上着を羽織って走り出した。急いで、学校へ戻らなければならなかった。

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《11》

 窓を開けていないと、どうしても湿気が籠りやすくなるようだ。本の表紙を払うと、黴の混じった埃が舞い上がる。痛みかけた本は、微かに生臭い。

 放課後暇になると、ミホは大抵図書室に来る。クラスの五月蠅い女子たちはやって来ないし、勉強している時が、一番気が紛れるからだ。将来のことも、自分自身の顔のことも、この『目』で見てしまったもののことも。全部、頭から追い出すことができる。

「絵に描いたような優等生ね」

 いつもは一人なのだが、今日は来客があった。明日香は図書室に入って来ると、ミホの正面に腰を降ろして、机の上に畳んだ紙を広げた。

 今朝の小テストだ。科目は、数学と化学。真面目そうな外見に反し、明日香の点数は惨憺たるものだった。

「今まで私、学校に行ったこと無かったのよ。阿方さんも、できるだけ教えてくれたんだけど……」

 ふたつ合わせて三十点も行かないようでは、流石に阿方に見せづらい。気にするなとは言ってくれるだろうが、今まで明日香の家庭教師役は阿方だったのだ。がっかりするに決まっている。

「中学校だって聞いたから、楽だと思ったのに。難しかったわ」

 サクラ市立第二東中学校。この学校の名前だ。だが、大半の生徒たちの年齢は高校生以上に見える。十四歳以下なら一年生、十七歳までなら二年生、それ以上は三年生……という大雑把な分け方をしているので、そう言えばミホたちも大分長い間、『二年生』だった。

「隣町の高校は授業料が掛かるけど、こっちの『中学校』なら無料だから……明日香は、いくつだっけ?」

「十六。でも、自分がこんなに馬鹿だなんて思わなかった」

 明日香が溜息を吐いた。ミホが難しそうな関数の問題を解いているのを見て、少し悔しそうに口を尖らせる。テストの結果は、上位者だけが十番まで廊下に張り出されていたが、一番はミホの名前だった。

「頭良いのね。助けてくれる?」

「良いけど……。」

 少し驚いて、ミホはペンを動かす手を止めた。

「成績なんて、あんまり意味無いよ?」

 学校に居る間だけだ。学歴なんて、この時代には何の意味も無い。警備隊に入るという目標の為に、ゾンビ相手の実戦の腕を磨いている優と信也の方が、ずっと現実的で大人に見える。

「その割に、随分努力してるじゃないの」

「私のは、ただの……現実逃避」

 ミホが図書室に籠るのは、大抵、逃げたくなった時だ。学生の本分を果たしていると思えば、自分自身に言い訳も立つ。

「何でも良いわ。私はただ、阿方さんをがっかりさせたくないの」

 明日香がきっぱりと言った。

「さっそく教えて。数式って、どうやったら解けるの?」

「ええと、この場合の方程式は……」

 方程式を前に頭を悩ます姿は、他の生徒と何も変わらない。このままずっと、何も知らない振りをしていられたらと、つい考えてしまう。

「明日香……あのね。気を悪くしないでほしいんだけど……」

ミホは手を止めて、明日香の目を帽子越しに見つめた。明日香と二人きりで話す機会なんて、そう多くはない。

「何?」

「あの、弟さん……勇君のことなんだけど」

 避けられない結果が待っているだけならば。いっそ、何も知らない方が良いのではないだろうか。

「私が勇君に帽子を外されたこと、覚えてる?」

 あの時、ミホは明日香を『見た』。ほんの一瞬だったが、見えてしまった。

結局、これは自分のためなのだとミホは思う。何もせずに後悔するのが嫌だから、嫌でも明日香の人生に介入する。

ミホは明日香の手に自分の手を重ねると、明日香の黒曜石のような瞳に神経を集中させた。

「……明日香。『見て』」

赤い帽子を僅かにずらす。隠されていた巨大な眼球が露わになり、明日香が息を飲んだ。

「ミホ?」

 たった、数分。それだけの時間があったら、明日香は全てを知ることができたはずだ。

 しかし、貴重な時間は、何の関係も無い第三者の足音で台無しにされてしまった。

「隠れても無駄よ、ミホ!」

 足音も荒く、およそ図書室には似つかわしくない騒がしさで乱入して来たのは、豚鼻女の取り巻きだった四ツ目女だった。傍らでは、あれほど威張り散らしていた豚娘が、鼻に大きな絆創膏を貼ってしょんぼり俯いている。

「謝りなさいよ!」

 三つの目はミホを睨みつけているものの、残った一つの目は、落ち着かなそうに図書室を見回している。信也がいないかどうか、調べているのだ。いないとわかると、声はますます大きくなった。

「早く謝りなさいよ!」

「言っておくけど」

 極めて冷静に、明日香が口を挟んだ。

「あなたたちをドブス呼ばわりしたのは私だし、手を上げたのは信也よ。喧嘩を売る相手、間違ってない?」

 四ツ目女は戸惑うように明日香を見たものの、すぐにまた虚勢を張って、耳障りな甲高い声でわめき始めた。

「黙りなさいよ、転校生のくせに。全部、ミホが悪いんだから!」

 やはり、自分より少しでも強そうな相手には萎縮するらしい。明日香は聞こえるような大きさで溜息を吐いた。そんな弱虫で、良くこのゾンビだらけの世界を生き抜いて来たものだ。

「えっと……何か知らないけど、気に障ったなら謝るわ。ごめんなさい」

 ミホが、丁寧に頭を下げた。しかし、四ツ目女はそれが気に入らなかったらしく、二つある眉間に深く皺を寄せて、憎々しげにミホを睨んだ。

「あんたはいつもそうよ。ブスのくせに、周りがあんたの味方だからって調子に乗ってばっかりで! 何よ、テストだってどうせその『目』を使ったんでしょ」

 四ツ目女は猛然とミホに突進すると、ミホの柔らかい髪の毛を乱暴に引っ張った。ミホが小さく声を上げる。しかしそれは痛みのためではなく、髪を掴まれた拍子に、赤い帽子が完全にずれて、床に落ちてしまったためだった。

 テニスボール大の眼球が四ツ目女の顔を捉える。勝ち誇った顔つきの四ツ目女に向かって、ミホは大声で叫んだ。

「危ない!」

 ミホの忠告が耳に入ったのかどうかは、残念ながらわからない。しかし、四ツ目女の顔つきが、すぐに泣き出しそうなものに変わったのは事実だった。

 セーラー服に血の飛沫が掛かる。ミホの声は、悲鳴に変わった。豚娘が耳障りなほどの甲高い叫び声を上げる。

「痛い! 痛い! 痛いぃい……!」

 生きた人間の生臭さは、ゾンビの死臭よりも遥かに上だ。

四ツ目女の右腕には、かつて人間だった『もの』が、しっかりと噛み付いていた。咀嚼音はぐちゃぐちゃと湿っぽく、汚らしい。人間の歯は、生肉を食いちぎるのには適していないのだ。

「嘘。どうして?」

 明日香が唖然として呟く。

「学校に、ゾンビが入り込むなんて……」

 ゾンビは、女だった。年は三十の半ばほどだろうか。奇麗な服を着ていて、生ける屍とは思えない程艶やかな髪の毛の隙間から、片方だけ残ったイヤリングが真珠の輝きを放っている。正気を保っていた頃は、さぞ美しかったに違いない。目を虚ろに濁らせ、腐った口臭をまき散らしている今でさえも。食われている四ツ目女より、遥かに生きる価値がありそうに見えた。

「ミホ! 明日香! お願いよ、助けてぇ!」

 豚女は、取り巻きを助けようとはしなかった。ただへたへたとその場に座り込み、泣きながら首を振っている。

「助けて……死にたくない……」

 骨を噛み砕く嫌な音が、突然中断した。ミホがゾンビに向かって、さっきまで自分が座っていた椅子を投げつけたのだ。

「明日香! 先生を呼んで!」

 ミホが叫ぶ。食事を邪魔されたゾンビが、憤怒の声を上げる。飛び掛かって来たゾンビに、ミホはもう一脚の椅子で応戦した。椅子の足を噛ませて、自分が食いつかれるのを防いでいる。

「嫌よ、ミホを置いていくなんて」

 明日香は何か、武器になるものを探して視線を彷徨わせた。図書室にあるものは、古びた本くらいだ。

「行って! このままじゃ、皆助からない。先生を呼んで来るの!」

ミホが再び叫んだ。豚女は床に座り込んだまま、機械のように首を振り続けている。四ツ目女はもう解放されていたが、右腕はほとんど食いちぎられていた。痛みと恐怖で、手足を狂ったようにばたつかせている。

「……すぐ戻るわ」

 明日香は叫び返すと、図書室から飛び出した。履き古した運動靴の下で、薄緑のリノリウムの床が滑る。廊下はどこまでも長くて、走っても、走っても途切れないような気がして、息が切れる。

職員室に行けば、電話があるはずだ。明日香は一度も振り返らず、ただ目的の場所だけを目指して走った。サクラ市の学校と警備隊の基地を繋ぐ、直通の電話。来たばかりの頃、ミホが学校を案内しながら教えてくれた。

「嘘……!」

 職員室のドアは、閉ざされていた。拳を握って叩いても、返事が無い。

「誰か! お願い!」

 明日香の頭の中に、図書室にいるミホの姿が浮かんだ。ゾンビに全身を食い荒らされ、セーラー服を血に染めて倒れるミホの姿……。

 最悪の想像を、頭を振って追い払う。まだ、間に合うはずだ。警備隊が駄目なら、他の誰かを呼ぶしかない。優は? 信也は? まだ学校に残っているだろうか。いや、あの二人は駄目だ。豚娘のことも、四ツ目娘のことも、本気で助けてくれるとは思えない。

「どうした?」

 のんびりと明日香に声を掛けたのは、クラスの男子生徒だった。髪は真っ白で、皮膚は石炭のような色をしている。

「今日は火曜日だから、午前中で授業終わりだっただろ? 職員会議なんだ」

 会議室は、職員室とは真逆の方向だ。明日香は、男子生徒に掴みかかった。

「図書室にゾンビがいるの。生徒が残ってるのよ」

 驚くだろうとは思っていた。身の危険を感じて、逃げてしまうだろうとも。しかし男子生徒の返事は、意外なほど淡々としたものだった。

「へえ。図書室に? 学校に入って来るなんて、珍しいや」

 ぞっとして、明日香は彼の制服から手を離した。

「そんなことよりさ、明日香。今から一緒に帰らないか?」

 照れたように微笑んだ表情は、こちらも笑みを返さずにいられないような、柔らかなものだった。こういう状況でなければ、明日香はその申し出を受け入れたかもしれない。だが今は、その微笑が酷く奇妙で、空々しく見えた。

「明日香って、クラスの化け物女と全然違うだろ? 転校して来た時からさ、気になってたんだ」

 ゾンビが同じ建物の中に居る。それが何を意味するのか、わからないわけではあるまい。

「生徒が、噛まれたのよ」

 明日香は、男子生徒の顔を睨んで言った。

「ふざけてないで、助けを呼ばないと……」

「噛まれた? ふうん、そんなこともあるんだ。だから?」

 言葉は通じている。意味は伝わっているはずだ。それなのに、会話が噛みあわない。男子生徒の目を見つめた。肌の色と同じくらい暗い瞳は、何も見ていない。唐突に、明日香は理解した。

 竜二と、同じ目をしている。

 怖いから、見ない振りをする。

 怖いから、自分は関係ないという振りをする。

「明日香!」

 聞き覚えのある声が、明日香の名を呼んだ。

 廊下を走って来たのは、圭介だった。

「ミホに、何かあったのか?」

 警備員の制服を来た圭介は、花柄のペンケースを握りしめていた。

「今日は学校周辺の警備だったんだ。校庭を歩いていたら、上からこれが落ちて来た」

 ペンケースは、ミホの愛用品だ。外に兄がいると知って、図書室の窓から投げたに違いない。

「ゾンビに生徒が襲われたの。図書室よ。ミホも、そこにいる」

 明日香の言葉を聞いた途端、圭介の顔色が変わった。

「案内してくれ」

 明日香は頷くと、先に立って走り出した。圭介が制服の下から銃を取り出す。

「待てよ」

 白い髪の男子生徒が、二人の後姿に向かって怒鳴った。

「一緒に、帰らないのかよ」

 生徒の大半は、クラスの誰かが目の前でゾンビに襲われていても、

何食わぬ顔でテストや恋愛の話ができるのだろう。

「ああいうのは、警備隊には向かないな」

 走りながら、圭介は独り言のように呟いた。

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《12》

兄は、ペンケースに気付いただろうか。本棚を倒して作ったバリケートに隠れて、ミホは死にかけているクラスメートの肩をしっかりと抱き寄せた。四つある瞳は全て固く閉じられ、半開きの口から浅い呼吸が漏れている。泣きすぎて体力を消耗したのだろう。切断された腕の傷口は、細く裂いたハンカチできつく縛ってあったが、血はそれでも滲みだして、ミホのセーラー服を冷たく濡らしていた。

「あんたのせいよ……」

 乳房が六つある、鼻の大きなクラスメートは、太った身体を狭いバリケートの中で無理に縮めていた。歯ががちがちと鳴っている。

「何のための警備隊よ……先生も、何ですぐ助けに来ないのよ……」

 バリケートの隙間から、図書室の様子が僅かに見て取れる。散らばった本が、ゾンビの腐った体液とクラスメートの血で汚されていた。

「来たのは、あのオカマだけじゃないの……」

 ここからだと、黒い学生服の後姿しか見ることができない。ミホはしゃくり上げている太った少女を無視して、バリケートの僅かな隙間に顔を押し付けた。

信也が来てくれて助かった。明日香と入れ替わるようにして、信也は図書室へ飛び込んで来てくれた。しかし、何かがおかしい。赤く塗った唇を裂けるほど開き、汚れた歯をむき出しにして、ゾンビは何事か叫んでいる。

――オカエリ……オカエリナサイ……――

「下がれ」

 厚化粧のゾンビを睨みつけて、信也が言った。ゾンビは一瞬怯む様子を見せたが、その場を動こうとはしなかった。

「言うことが、聞けないのか?」

 信也の学生服には血が飛んでいたものの、怪我をしている様子は無かった。反対にゾンビの片腕はだらりと垂れ下がり、ハイヒールを履いた片足も引きずっている。『体育』の成績だけならクラス一と言われる信也なので、それ自体は不思議がることでも無い。

 ――オカエリ、ナサイ……――

 足を引きずりながら、ゾンビがずるずると信也に近付く。信也は、ゾンビの腹を殴り付けた。ゾンビは玩具のように崩れ落ちて、口の端から赤黒い腐った血をぼたぼたと滴らせた。

 ――オ、オカ、エ……――

 まだ、終わらないのか。信也の戦い方に、ミホは違和感を覚えた。信也にとって、その辺のゾンビなど敵ではないはずだ。まして小柄な女のゾンビなど、簡単に殴り殺せるはずである。

「あいつ、やっぱりおかしいわよ」

 豚鼻娘が、ほとんど悲鳴に近い金切り声で叫んだ。

「何で、本気で殴らないの? 殺さないの?」

 ゾンビの視線が、こちらに向いた、気がした。バリケートは姿を隠してくれるものの、音までは防いでくれない。

「少し静かにして……!」

 ミホの囁きは、銃声で掻き消された。

「ミホ! 無事か?」

 ゾンビは空を掴むように両手を前に突き出して二、三歩歩いたが、やがて前のめりに倒れ込んだ。腐臭を纏った血でぬらぬらと光る腸が、腹から大きく飛び出している。弾丸は、図書室のドアとゾンビの腹に、同じくらいの大きさの丸い穴を空けていた。

「この……!」

 扉を蹴破って、圭介はゾンビに飛び掛かった。二重に重なった拳を、女ゾンビの形の良い鼻に叩き込む。ゾンビは腹から腸を垂らしたままうなり声を上げ、圭介に噛み付こうとしたが、圭介の拳の方が早かった。脇腹から生えた腕でゾンビの身体を押さえつけ、残る三本の腕でゾンビの傷付いた腹を滅多打ちにする。がちがち噛み鳴らす歯の間から、コップをひっくり返したような量の血があふれ出した。吐き出した血の中には、腐った臓物の破片と、それに巣食った奇形の蛆が大量に混じっていた。

「お兄ちゃん!」

 横倒しにした本棚のバリケートから、ミホが身を起こした。床に倒れ込んだゾンビは、まだじたばたと暴れていたが、背骨でも折られたのか、立ち上がることは難しそうだった。

「怪我は無いな?」

「うん……私は大丈夫、だけど……」

 床に倒れた女子生徒を見た途端、圭介の表情は曇った。

 顔からは完全に血の気が引いている。すぐにジェームズのところへ運んでも、助かるかどうかわからない。助かっても、これから先は片腕で生きて行かなければならなくなる。

「私のせいなのよ」

 ミホが、帽子に隠れた両目を覆った。

「見えたのに、間に合わなくて……」

「ミホちゃんのせいじゃない」

 呆然とゾンビを見下ろしていた信也が、返り血まみれの顔を上げた。

「違うわ、ミホのせいよ!」

 鼻水を垂らしてすすり泣いていた豚鼻娘が、甲高い声で叫ぶ。

「『見えた』んでしょ? 助けられなかったんじゃないわ、助けたくなかったのよ! 『見えてた』くせに、この人殺し!」

「うるさい!」

 血に染まった手で、信也は豚鼻娘の胸ぐらを掴んだ。

「見えたって、何が?」

 圭介の後に続いて来た明日香が、疑問を口にする。ゾンビが出て来たのは、完全に死角になる本棚の影だ。

「この子がな、俺をここまで連れて来てくれたんだ」

 ミホが口を開く前に、圭介がそう言って明日香の背を軽く叩いた。

「君の友達は、すぐに病院へ連れて行く。必ず助けてみせる」

 圭介が豚女にも優しい言葉を掛けたことに、明日香は驚きを覚えた。妹を目の前で罵倒されたというのに、圭介は落ち着いている。精神が不安定で、抑制が効かないのがミュータントではなかったのか。

「一人じゃ、不安だっただろ。良く頑張ってくれたな」

 圭介が明日香の頭を撫でた。重なった手のひらの感触は、考えていたほど不快なものではなかった。

 

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