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長編27
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日曜日は最高の終末4

《1》

駄目だ、諦めよう。

 ジェームズ医師は溜息を吐くと、さっきまで格闘していた『骨』をゴミバケツに放り込んだ。からん、と乾いた音がする。これをもとの形に戻せだなんて、あの両親も無茶を言うものだ……。

 医師は、横目でかつて腕だったものの残骸を見つめた。最早腕と言うより、単純に骨と呼んだ方が相応しい。肉はゾンビに食いちぎられてほとんど削げ落ちているし、一番太い上腕骨は罅だらけで、今にも砕けそうだ。指の骨も、三本程減っている。これを正しい形に整形し直して、尚且つ何の不便も無く動かせるようにしろと言われても、医者ではなく神にすがれとしか答えようが無いではないか。

「この子には悪いけど、リハビリを頑張って貰うしかないなあ」

 麻酔で眠る女子生徒を見下ろして、ジェームズ医師は気の毒そうに言った。女子生徒の四つの目は閉じられており、安らかな寝息が聞こえていた。

「義手を作って差し上げたら?」

 首から下が長い毛で覆われた看護師が、口を出した。ジェームズ医師が苦笑いする。

「優君の時みたいにか? 無理だな。優君は特別だったから良かったけど、物づくりは俺の専門じゃないんだ」

 目が覚めた時、四ツ目の女子生徒は自分の失ったものの大きさに驚くだろう。泣き叫び、医師を責めるかもしれない。だが、いずれはきっと立ち直る。

 問題は、彼女の両親の方だ。

「ミュータントの両親なら、わかりそうなものですけれどね。子どもの姿かたちが多少歪でも、何も慌てる必要は無いんですから」

 看護師が毛だらけの指で頭の毛を梳きながら言う。淡い栗色が夕日を纏って、きらきらと輝いていた。

「見た目だけの問題じゃない、機能性の問題だよ」

 医師が看護師の胸元の毛に指を絡ませた。看護師はきゃっと声を上げたが、抵抗する素振りは見せなかった。

「この奇麗な体毛を全て剃りつくしてしまったら、君は凍えてしまう。同じことさ。あって当たり前のものがひとつでも減ったら、それは酷く不便なことだ」

 ミュータントは、基本的に妊娠しにくくなっている。今居るミュータント達は、大半がノーマルから生まれたものだ。ノーマルの両親は大体子供の成長を見届ける前に死ぬか、ミュータントの我が子を愛せずに捨てるかのどちらかなので、結局先に生まれて大人になったミュータントの養子になることが多い。しかし親の愛情を知らないミュータントに子育ては難しく、ペットのように猫かわいがりするか、途中で飽きて別の里親に譲ってしまうことも多い。

四ツ目の女子学生の両親は最後まで警備隊を無能だと罵っていたし、ジェームズ医師に対しても、治療を始める前から怒鳴りつけるような態度だった。

「ミュータントだから物わかりが良いとも限らない。逆もまた然り、だ」

 ミホがハンカチを裂いて止血し、信也が本棚を倒してバリケートを作ってくれなければ、娘は今頃この世にいなかっただろうに。礼を言うどころか、あの二人のせいで娘が腕を失ったと思い込んでいる。

「難しいものですね」

「そうだよ、難しい。誰も悪くない、強いて言えば運が悪かっただけ……なんて言っても、あの人たちは信じてくれないだろうなあ」

 笑いながら、医師は看護師の背に手を回した。白い看護服のボタンを外し、輝く毛に覆われた肌を解放する。甘い声を上げ、若い看護師は診察台の上に自分から横たわった。

 長く生きてきて、わかったことがひとつある。この世に、真に醜い女など存在しない、ということだ。看護師のこの胸毛はそそられるし、女学生の四つの目玉もなかなかセクシーだ。そう言えば、警備隊から預かったあのゾンビは特に美しい。

 あんなに奇麗なゾンビならば、さぞかし『あれ』も興奮していることだろう。医師はにやりとして集中治療室に目をやった。

 違和感が、あった。

「……先生?」

 医師の手が急に止まったことに、看護師が不満の声を上げる。

「……まずい」

 医師が呟いて、脱ぎかけた白衣を正した。静かすぎる。いつもなら、女の声を聞かせるだけで、『あれ』が興奮して喚き始めるはずなのに。

「『あれ』とゾンビを、一緒に閉じ込めたからでしょうか」

 事態の異様さを悟って、看護師も不安そうな面持ちになった。

「いや。『あいつ』には、鍵を開けるような知恵は無いはずだ……」

 集中治療室の鍵は、壊されていた。医師は自分の予感が不幸にも当たってしまったことを悟った。決して無力ではないはずの『あれ』は、頭でも殴られたのか、虚ろな目を床に向けて低く呻いている。警備隊から預かったゾンビは姿を消し、『彼女』を壁に繋いでいた銀の鎖だけが、静かに揺れていた。

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《2》

 夕方になると、ジェームズ医師の病院には来客が二人来る。患者ではなく、あくまで来客だ。二人とも健康上問題は全く無いのだが、とある事情があって、ある意味では医師に協力している形となっている。

「こんばんは、先生」

「やあ。鳥子先生、いらっしゃい」

 最初に来たのは、サクラ市の学校で教えている女教師だった。肉付きの良い足を優雅に組み、尖った嘴を魅力的につんと上向けている。

「お約束のものと、それからこれはほんのおすそ分けですわ」

「いつも、すみませんねえ」

 医師に手渡した籠の、片方には丸い卵が三つほど入っている。もう片方には、細長い瓶詰にした赤黒いものが、二本横たえてあった。

「十三個、あったんですけど。他は皆、無精卵でした」

 この女性は、週に一度、卵を産む。最高で十五個ほどだが、大半は無精卵だ。相手を変えて『受精』するよう医師は指示しているものの、何か条件があるのか、結果は芳しくなかった。

「先週の有精卵は、どうなりました?」

「お気の毒ですが……」

 医師が言いづらそうに目を逸らす。

 ミュータントの出生に関しては、不明な点の方が多い。ノーマルからミュータントが生まれることは珍しくもなくなったが、逆にミュータント同士となると、なかなか受胎しないのだ。

 診察室の奥には、医師が勝手に研究室と呼んで様々な器具や薬品を運び込んだ小さな部屋が続いている。その隅に備え付けてあるのは、円形の穴がいくつか空いた保温器だった。その横に小さな檻のようなものが置いてあり、中には毛布が敷いてあったが、中心に横たわる親指程の生き物は死んでいるらしかった。

「また、成長しませんでしたか」

 さほどがっかりした様子も見せず、女教師は首を傾げた。

「ミュータントというものの研究は、ノーマルの世界では頓挫してしまいましたからね。未だにわからないことだらけでして……いつか、あなたにお子さんをお渡しできたら良いのですけれど」

 檻の蓋を開けて、金髪の医師は小さな生き物を手のひらに乗せた。生き物は、人の胎児に似た形をしていたが、表面がうっすらと羽毛で覆われている。

「別に、気にしていませんよ。何だか、私の子という気がしないんです」

 なぜ、ミュータントは生まれたのか。なぜ、生き残ることを許されたのか。ノーマルだけがゾンビ化するのは、何か意味があってのことなのか。ゾンビというものの存在が、ミュータントの時代にどのような影響を及ぼすのか。

 医師はいつか、何か決定的なものを発見したいと思っていたが、それが何なのかは、百年経った今も掴めそうで掴めていなかった。

「全部、無精卵だって良いくらいですわ。生徒の飢えを防げますもの」

「ああ、明日香君でしたっけ」

 明日香の顔を、医師はまだ見ていなかった。

「抗体は、学校で配布しようと思ってますの。真面目な子で、毎日来ているようですから」

 ミュータントの血液から、抗体を抽出することは簡単だ。多くのノーマルたちも、その方法で何とか発症を抑えて来た。しかし、ノーマルの体内に入った抗体はすぐに活動を弱め、やがて消えてしまう。結局は、来るべき地獄を先延ばしにしているに過ぎない。

「私は、将来的に生徒を失うことになるのでしょうね。こんな卵から生まれる出来損ないよりも、そっちの方が辛いわ」

 女教師は溜息を吐くと、三つの卵が保温器に並ぶのを見届けてから、来た時と同じように静かに帰って行った。

 彼女と入れ替わりに入って来たのは、また別の女性だった。

「こんばんは、先生。お元気?」

「見ての通りだよ」

 継ぎはぎのスカートを履いた妙齢の女は、いかにも能天気な様子で患者用の回転椅子に腰を降ろすと、三本の足をぶらぶらさせた。

「お元気じゃない、ってことは、何かあったんですね」

「当たりだよ。ヘマをやらかした」

 医師が言って、大げさに頭を抱えてみせた。

「警備隊から預かったゾンビを逃がしちまった。俺の信用、ガタ落ちさ。幸也君に散々嫌味を言われたよ」

 あの美しいゾンビは、貴重なサンプルだったはずだ。食べる、以外の目的を持って動いているゾンビは、珍しい。それを聞いて、あきこが別段同情もしていないような笑みを浮かべる。

「じゃあ、厄落とし、ってことで。新しいメニューの開発に付き合ってほしいんだけど……」

「あきこ君。俺が固形物を食べられないの、知ってるだろう」

 ジェームズ医師が苦笑いすると、あきこはがっかりしたように溜息を吐いた。焼肉にハンバーグ、ステーキにシチュー。肉料理ならば、大抵のものは作れる。問題は、材料だ。医師の協力が無ければ、ここまで稼ぐことは難しかったかもしれない。

「はい、今月の分」

 あきこが差し出した封筒を受け取ると、医師は中身を覗き込んで、もう一度苦笑いした。

「俺だって稼いでるつもりなんだけどなあ。自信無くしちゃうよ」

「アパートの経営も順調だし。仕事上のパートナーなんだから、報酬は山分けって約束でしょう?」

 あきこが医師の方に身を乗り出して、厚ぼったい唇を半月型にした。先ほどの女教師には何も出さなかった看護師が、あきこの為に湯気の立つティーカップを持っていそいそと近づいて来る。

 あきこが来ることを、心待ちにしている看護師は意外と多い。とにかく、娯楽の少ない時代なのだ。

「ねえ、また面白いお話、聞きたい?」

 自分の分のティーカップに口を付けながら、医師は、明日香たちのことを初めて聞いたのもこの女性からだったな、と思い出した。

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《3》

《警備隊長幸也の記録書》

 標本として生け捕りにしたゾンビが逃げてしまった。俺も他の警備隊も文句は言ったけれど、本当ならジェームズ先生を責められる立場じゃない。学校にゾンビが侵入するなんて、あってはならないことだ。

 二年の女子生徒が腕を食い千切られる大怪我を負った。死人が出ていてもおかしくはなかった。最近は平和だったからと言って、警備隊が完全に油断していた証拠だろう。

 北区では何が起こっているのか。俺たちは何をすべきなのか。目を逸らさずに、調査する時期が来ているのかもしれない。

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《4》

学校に入り込んだミュータントは、北区から来たものだったらしい。圭介からの報告を聞いて、一番青ざめたのは晃だった。

「北区を出たら、普通のゾンビに戻るんじゃないのか?」

『普通なら、な』

 流石に、警備隊長の幸也は冷静だ。腰の触手で器用にペンを持ち、ホワイトボードの上を軽快に滑らせる。何度も消して使える、白いビニール素材を貼ったこの板が、幸也の日頃の会話手段だった。

『普通なら、北区から外に出た時点でゾンビは無気力化し、動きも緩慢な弱いゾンビに戻る。北区の毒素が抜ける為だとか、共食いをしなくても良い環境になるせいだとか言われているが、確かなことはわからない』

 幸也はボードの上に、サクラ市の簡単な地図を描いた。

『あのゾンビは凶暴なままだった。あいつだけが例外、とも考えら

れるが、俺は別の説を推したい』

「別の説? 何だよ、それ」

 晃が首を傾げる。幸也は、地図の北区の辺りに赤いペンで丸印を付

けた。

『良く考えろ、晃。ゾンビは移動する。北区に入った途端凶暴化し

て、外に出ると戻る。だから北区は立ち入り禁止で、警備隊もそんな

に奥までは入らない』

 赤いペンの線は、北区の入り口を指す部分を僅かに過ぎて止まった。警備隊が入れるのは、せいぜいその辺りまでだ。奥に行くほどゾンビの数は増えるし、危険も伴う。市民の安全を守ることと、食肉の確保、それが警備隊の仕事だ。それ以上は誰も求めていないし、わざわざ命を危険に晒す必要も無いと、今までは考えられて来た。

『おかしいと思わないか? 竜一も圭介も、北区の空気に変わったとこ

ろは無いと言う。第一、北区のゾンビ肉を食べて凶暴化するなら、俺た

ちだって危ない』

 鮮度の悪い肉は、配給品としてデパートの地下に並ぶ。鮮度の良い

ものは、販売用とするか、地下で店を出す料理人に卸したりしている。

市内の人間の誰もが、一度や二度は北区で仕入れた肉を食しているこ

とになる。

『晃。北区の奥では、何が起こっていると思う?』

 幸也が、ひとつしか無い目で晃を見つめた。

『あのゾンビは、何かはっきりした目的があって暴れていたようだった。北区には、ゾンビ共を夢中にさせる何かがあるんじゃないかと、俺は考えている』

 脊椎に穴を空けられ、手足の自由を失っても尚、ゾンビは動くことをやめなかった。何かを訴えるような、求めるような奇妙な目つきは、他の虚ろな目をしたゾンビとは明らかに異なっている。

 晃は、黙り込むしか無かった。北区には連れて行かれたことが無いし、自分から行きたいと志願したことも無い。北区域で何が起ころうと、自分には関係の無いつもりでいた。しかし、そうも言っていられないようだ。

『実はもう一つ、お前を驚かせることがある』

 ホワイトボードの空白に、幸也はペンを走らせた。

「これ以上、何があるって言うんだ?」

 晃が眉をひそめる。

『お前、あのゾンビを良い女だと言っただろう? 残念だが、ハズレだ』

 腐肉の臭いを巻き散らかし、わけのわからないうめき声を上げて、手足を虫のようにばたつかせていても、あのゾンビは美しかった。元は女であっても、ゾンビと化せば身だしなみなど何も考えなくなる。ぼさぼさの脂ぎった髪に汚れた不潔な服、伸び放題の爪と酷い口臭のせいで、昔の姿を想像するのは難しくなってしまうのが普通だ。だが、あのゾンビは違った。生きた男の欲情を掻きたてる、『女』というものの面影が、確かにあった。

『あれは、男だった。女の恰好をして、化粧までさせられていたがな』

 信じられないとでも言いたげに口を開いて、晃は幸也の顔をまじまじと見つめた。ゾンビが目的を持って北区に集っているということよりも、こちらのニュースの方が遥かに衝撃だった。

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《5》

幸也の命令で北区を調べることになった時、真っ先に名乗りを上げたのは、圭介と竜一、それに阿方の三人だった。

「ゾンビが凶暴化する原因が、北区にあるはずなんだ」

 地図を手に、圭介は今回の目的を説明した。

「学校に出たやつと同じゾンビが、今後も出てこないとは限らない。今のうちに、調べておく必要がある」

 警備隊は、常に学校周辺を見回っている。十人足らずの教師だけでは、生徒を守り切れないからだ。しかし、警備隊がいるからと言って、完璧に安全かといえばそうでもない。いや、そうでもなくなってきた、と言うべきか。北区を出ても、女装ゾンビは大人しくならなかった。そればかりか、拘束を振り切って逃げだしたのだ。

 凶暴さばかりでなく、あのゾンビには、他のゾンビに無いものまで備わっていたことを認めなければならない。

知能。

 まだ生きているのならば、捕まえて医師に徹底的に調べて貰う必要がある。他のゾンビまで、同じことになっていないとも限らない。

「阿方さん、あんたも心配だろ。また、あんなことになったら……」

 もしもあの時、ミホがペンケースを投げていなければ。運よく圭介が校庭を歩いていなければ。信也が、ゾンビを引き付けておいてくれなかったら。明日香が、圭介をミホのところまで案内してくれなかったら。最悪の可能性は、いくらでもあった。ミホが片腕を失うようなことになっていれば、圭介は正気でいられたかわからない。それは、阿方も同じだ。

「君たち兄妹には、感謝してもしきれないな」

 阿方が、圭介の目を見て言った。危険な目に合わせてしまったことは確かだが、明日香を学校へ通わせたことは後悔していなかった。

「明日香のお陰だ」

 明日香は、逃げてしまうこともできたはずだ。ミホと他の女生徒たちがゾンビの相手をしている間に、自分だけ安全な下水に帰ることは難しくなかった。彼女がノーマルであることを思えば、それは責められるような行為でもない。それでも、明日香は圭介を連れて戻って行った。噛まれることが他の生徒よりも危険な明日香が、ミホの為に戻ることを選択してくれた。

「あんなに勇気のある子は、滅多にいない。本当に良い子だよ」

 阿方がじっとこちらを見下ろしていることに気付いて、圭介は慌てて目を逸らした。わざとらしく咳払いすると、腰の銃を抜いて、先頭に立った。

「いつもより奥に進むぞ。迷ったら出られない。注意しろ」

 北区も、昔はごく普通の人々の生活の場だったはずなのに。

 教会の上で、十字架が寂しげに光っている。死骸の山は片づけられてもおらず、蠅がぎっしりと卵を産みつけていて、皮膚のあちこちが黄色い粒で埋め尽くされていた。阿方が加わる前、竜一と一緒にゾンビの群れを襲撃したところだ。たいした量の肉は取れなかったし、救いを求めて集ったはずのノーマルをもう一度殺すという作業は辛いものがあった。

「あの時は面白かったよなあ、圭介」

 圭介の隣で、竜一が笑った。

 わかっている。竜一に当たっても仕方が無い。圭介は、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。竜一の潰れた両目と、身体に残る醜い傷痕を思い出す。更生施設で、竜一は本当に酷い目に合わされた。更生と言う名の洗脳。逆らえば罰せられ、理不尽を叫ぶ声さえ届かない。

 祈りの言葉を繰り返すゾンビたちの頭に、竜一はげたげた笑いながら白杖を振り下ろした。動かなくなった牧師の腹から心臓を引きずり出すと、赤々としたそれはまだ腐ってもおらず、竜一の手の中で微かに痙攣していた。

血抜きもせず、まだ火も通していないその心臓に。

 竜一は思いきりかぶりついた。熱い血の飛沫が、警備隊の制服を汚した。

「キリストの血は葡萄酒で、肉はパンになるらしい」

顎を伝い流れ落ちる血からは、まだ湯気が立っていた。

 あの時の竜一を思い出すと、圭介は今でも気分が悪くなる。長く相棒同士でいたはずなのに、隣に立つ竜一が妙に空恐ろしく感じてしまう。

「宗教なんて、世の勝ち組の妄想の産物さ。僕らはそれを信じることを強いられて来た。あいつら、優に何て言ったと思う?」

 異端のミュータントは、神に逆らった存在なのだと。生まれて来たことさえ罪だと言われて、怒らない人間はいない。

「今までは、この教会までしか来れなかった。禁止されてたからな」

 圭介が再び地図を広げた。

「ここから先には、行ったことが無い」

 はびこる植物の蔓をかき分けて、三人は固まって前に進んだ。不思議なことに、奥に行くに従って腐臭は弱くなっていった。その代わり、別の臭いが強くなる。単純な血の臭い、とはまた違う。死臭とはむしろ対照的な、生というものを嫌でも認識させるような、生々しいこの臭いは。

「そう言えば。逃げたゾンビが、一匹いたよな」

 視力が無い分、竜一の嗅覚は他の者より鋭い。臭いの正体に気付いたのだろう。薄い唇が、にやりと笑った。

「僕が思うに、そいつはよっぽどやりたいことがあったんだろう」

 竜一の杖が、何かを探り当てた。拾い上げてみると、それは小さな頭がい骨だった。子どもの骨だ。以前も、同じものを見つけた気がする。しかし今回のものは、まだ黄ばんでもおらず、新しい。

 密林のような草の群れの先で、聞き慣れない音がしていた。通常ゾンビが立てるような胸の悪くなる咀嚼音でもなければ、呻き声でも、つぶし合いの音でもない。もっと繊細な、衣擦れのような音だ。

 飛び掛かって来たゾンビを、阿方が捉えた。あっけなく捕えられたゾンビは、それでも歯を打ち鳴らして威嚇している。子どものゾンビだ。阿方は思わず、その手を離してゾンビを解放しそうになった。ノーマルが子どものうちにゾンビ化してしまう、ということも、考えたくはないがあり得ないことではない。けれど、それにしてもおかしい。

 この子どもゾンビは、衣類を一切身に着けていない。髪も肌も、生まれてから一度も洗ったことが無いようだ。

「北区でどんなお楽しみがあるのか、僕もずっと気になってた」

 音をさせている茂みを、竜一は杖で叩いた。奥から呻きとも動物の鳴き声ともつかない声が一瞬聞こえたが、すぐにまた、規則的な湿っぽい音が、静かに聞こえて来た。

 止めるべきだったのかもしれない。後になって、阿方はそう思った。竜一が茂みをかき分けた途端、予想もしなかった光景が目に飛び込んで来た。

「なるほどね。これなら、納得できる」

 生きる、ということは、時に死ぬことよりも醜い。圭介は、今ほど竜一の視力が無いことを羨ましく思ったことは無かった。阿方ですら、両の拳を振るわせて、唖然と目の前を見つめている。

 ぼろぼろの僧服を身に着け、折れた歯から血混じりの唾液を垂らし、骨の露出した両手をぶら下げたゾンビが、十二歳くらいの少女のゾンビに、馬乗りになっていた。少女ゾンビは、未熟な生殖器を露出させたまま、うつろな目で宙を睨んでいる。神父のゾンビは、腐敗した口から這い出す蛆の雨を少女の顔に振らせながら、ひたすらに腰を振っていた。

 少女ゾンビの口から、唾液の糸がつっと垂れた。空っぽの声が、平坦に響く。

 ――モット……モットチョウダイ……イイワ、イイワ……――

 阿方が無言で銃を構えた。止める暇は無かった。

 神父の頭には丸い穴が開き、解放された少女ゾンビは、両腕をぐったりと投げ出して目玉をぐるぐるさせた。

 ――モット、モット、モット……――

「生きて捕えるべきだったかもな」

 溜息を吐いて、阿方はもっと、もっとと鳴き続ける少女を悲しげに見下ろした。少女の腹が、僅かに膨らんでいる。

「だが……これは、あまりにも……」

「わかってるよ。あんたがやらなきゃ、俺がやってた」

 完全にゾンビ化しても、内臓が腐敗するまでにはしばらく時間が掛かる。少女ゾンビはいずれ、子どもを産むだろう。汚れた髪と垢だらけの肌で、裸のまま阿方に飛び掛かった子どものゾンビを思い出し、圭介は暗澹たる思いに囚われた。

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《6》

北区での報告を聞いても、幸也はさほど驚かなかった。

『ゾンビが出現して約百年。ノーマルの人口にだって限界があるのに、どれだけ狩っても、ゾンビの数が減らない。おかしいとは思っていた』

 北区の深い部分で捕えたゾンビには、子どもの姿をしたものが、かなり多く混じっていた。奇声を発し、千切れんばかりに両手を振り上げ、ぼさぼさの髪の毛を振り乱して暴れるそれらは、姿こそ人間の子どもだったものの、全く別の生き物のように見える。

「ゾンビになっても、セックスできるんだな」

「そんな気はしてたけどね。脳に続いて内臓が腐るまでに時間が掛かるし、臓器がまだ新しいうちなら、十分あり得る結果だ」

 檻に入った子どもたちを、ジェームズ医師は興味深そうに観察した。

「身体がノーマルなら、ミュータントと違って子作りが可能だ。避妊なんて文化は、とっくの昔に失くしちゃってるしね」

竜一が杖で檻を叩くと、子どもたちは音を感知して振り返るものの、危険な目に合うとは判断できないらしく、むしろ向かって来てしまう。

「危険を回避する力が無いね。普通、動物には本能で備わっているものだし、親が教えなくても知ってるはずなんだけどな」

 ゾンビ同士の性行為によって生まれた子どもは、生まれつき知性を持たず、眠ることもなく、ただ食欲のみに従って行動する。臓器はまだ新しかったものの、脳は完全に汚染されており、血液の中にも大量のゾンビウイルスが潜んでいた。

 彼らが後天的にゾンビとなったノーマルと決定的に異なる点は、言葉を喋らないことだ。ゾンビの言葉に意味が無いということは、もう常識になっている。しかし、人間だった期間を全く持たず、人間の言葉を一度も喋ったことの無いゾンビには、それすらできない。小さな口から発せられるのは、獣のような呻きのみだった。

「余計なお世話だろうけど……阿方さん、あんたのとこの子も、一回は先生に診せた方が良いんじゃないか?」

 口角から血の混じった泡を飛ばして暴れ狂う子どもの姿を見て、圭介が躊躇いがちに口を開いた。

 ゾンビ同士の性交渉によって生まれた子どもの、何割かは大人になるのだろう。しかし、大人になったことを自覚できるかどうかはわからない。ただ、親たちがやっていように人間を襲い、時には仲間の肉も食らって、本能のまま異性と性行する。そうして生まれる子孫もまた、同じ道を歩むのだ。

「この子らを助ける方法は無いのか?」

「それを探りたいんだけど、難しいね。ゾンビウイルスの量が並みのノーマルよりも多いし、働きも活発だ。それに、正気に戻してやったところで……それが幸せかどうかは、わからないだろう?」

 何も知らない方が、幸福と言う場合もある。向かう先が一緒ならば、

いっそのこと、最初からゾンビとして生まれた方が楽かもしれない。

「とにかく、これで北区のゾンビがあんなに凶暴だった理由はわかった」

 医師が檻の中に目をやった。子どものゾンビに混じって、若い女のゾンビが座り込んでいる。膨らんだ腹が邪魔そうで、ゾンビの子どもに吸い付かれるせいか、左右の乳首が血塗れだった。

「セックスの魅力は俺も知っている。ゾンビになっても、雄は雄だ。興奮した奴らは確かに危険だが、前向きに考えることもできる……食糧不足に困ることは、まず無いだろう、ってね」

 医師はそう言うと、自分の冗談がおかしくてたまらないと言うように声を上げて笑った。

『ゾンビが北区に居る理由……本当に、それだけだと思うか?』

 幸也が、ホワイトボードの隅にペンを走らせる。しかし、ゾンビたちの『愛の結晶』を構うのに夢中になっていた医師は、そちらを見ていなかった。

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《7》

《警備隊長幸也の記録書》

 ゾンビが繁殖活動を行っていることは、実のところ予想できていた。あれほど乱獲しても肉の供給量が減らないわけだから、俺とジェームズ先生は前からおかしいと思っていたんだ。ウイルスの出現からたった百年でノーマルの文化は滅びたのに、まだまだ数だけは増やしている。子供がなかなかできないミュータントからすれば、何とも皮肉な話だ。

 北区のゾンビが知的になっている理由については、まだわからないままだ。親のゾンビが、英才教育を行っているわけではないだろう。だとすれば、誰か人間……ちゃんとした知性のある人間が、ゾンビの社会に介入しているのかもしれない。今回は何も見つからなかったが、次はもっと深くまで調べさせてみたい。

 

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《8》

警備隊員は、それぞれが幸也から渡されるシフト表に従って働いている。出勤、退勤時刻も、その日の仕事内容によってまちまちだ。

「阿方さん、まだ残ってたんですか」

 会議室でコーヒーを飲んでいた阿方に気付いて、竜一が呆れた声を出した。窓から赤い西日が差し込んでいる。光の強弱くらいはわかるのか、竜一は少し眩しそうに見えた。

「俺がわかるのか?」

「気配、というか、雰囲気、というか。誰が何をしているのかくらいは、大体わかります」

 警備隊の基地は、一応二十四時間活動中ということにはなっている。とは言え、寝ずの番をしているのは二、三人で、日が沈むと町全体に向けて外出禁止の放送をするから、実際に出動要請があることはほとんど無い。

「早く帰らないと、下水の門限を過ぎてしまいますよ」

「構わん。遅くなる、とは言ってある」

 阿方の口元に、冷ややかな笑みが浮かぶ。

「それとも。俺に早くいなくなってほしい理由でもあるのか?」

 竜一が黙り込んだので、阿方はもう一脚折り畳み椅子を広げて、自分の隣に置いた。希釈用のコーヒーをカップに注ぎ、熱した雨水で割って新しいコーヒーを作る。

「デパートで拾ったものだ、遠慮はいらん」

 香りは時に、目に映るものよりも雄弁だ。竜一は阿方の隣に腰を降ろすと、無言で杯を煽った。似ている、と阿方は思った。何か良からぬことを尋ねられそうな時、黙り込む癖も。カップの持ち方も、疑い深そうに上唇を舐める仕草も。血の繋がりというものは、不思議だ。

「優とは、更生施設で知り合ったんだな」

 まるで独り言のように、そう呟いてみる。カップの縁を唇に当てたまま、竜一が一瞬、固まった。

「……竜二ですか?」

「君の弟だったんだろう?」

 竜一が唇を引き結んだ。

「誰にも話さなかったつもりなんですけどね」

「それは君の場合だろう。竜二はな、俺には何でも話してくれたんだ」

 過去形でしか、彼を語れないのが悲しい。つい、竜一の姿に竜二を重ねてしまう。

「君が俺を知る前から、俺は君を知っていた。竜二は、君のいる施設に行ったことがある」

 阿方が竜一の方を見ると、竜一も目の無い顔を阿方に向けた。

「ええ、確かに。竜二が会いに来てくれたことは、ありました」

 阿方が竜二の信頼を得ていたというのは、本当らしい。

「僕は竜二に、優を紹介しました。祝福してほしいわけじゃ、なかったんですけどね」

 ほっそりとした指先が、首筋の傷を撫でる。刃物で切り付けられ、光を失った眼球。阿方は急に、竜一と会話することが辛くなる。

 両目の奇形を覗けば、顔立ちなどほとんど生き写しと言っても良い。声も、背格好も、良く似ている。だが、竜二に比べ竜一はかなり細身だ。顔色も青白い。竜二はもっとしっかりした身体つきだったし、薔薇色の肌をした明るく笑う青年だった。

「僕は、竜二のことをほとんど知りません」

 しんとした中、先手を打ったのは竜一だった。西日が僅かに影って、会議室の中が薄暗くなる。

 竜一が子どもの頃、この世界の支配者はノーマルだった。当時は誰も、ゾンビ化の治療法が全く見つからないなんて思わなかったのだ。

「両親がゾンビ化した後も、僕は施設から出して貰えませんでしたが。あいつの面倒を見たのは、あなただったんですね」

「俺だけじゃない。当時はもう、状況が変わりつつあった。施設にずっと居た君は知らないだろうが、外の世界は滅茶苦茶だった。親がゾンビ化して子どもを襲ったり、ミュータントたちが暴動を起こしたりなんかも日常茶飯事でな。生き残ったノーマルは肩を寄せ合って、何とか慰め合って生きていたよ」

 世界の支配権は、ミュータントの手に移った。ミュータントに生きる場所を奪われ、時にはゾンビ化の危険があるからと追い払われ。阿方たちノーマルは、どうにか住める場所を探して旅を続けた。それでも、ウイルスの脅威からは逃れられなかった。仲間が一人、また一人と自我を失って行く。昨日までは人間だったのに、朝目が覚めたら、もう別の何かに変わってしまっている。

「その度に、俺は仲間を殺した。竜二にも、手伝わせた」

 仲間を殺した後、竜二は決まって墓を作った。ようやく地獄のような食欲から解放された死に顔に土を掛けながら、泣くこともあった。

「明日香も勇も、竜二が好きだった。あいつは子どもの面倒も良く見たからな。どこに居ても、いつゾンビが襲ってくるかわからない。仲間が、自分が、いつ同じ姿になってしまうかもわからない……」

 眠ることさえ怖かっただろう。特に、明日香のような少女にとっては。竜二は時折、冗談を言って明日香を笑わせようとした。阿方や大人たちが子どもの相手をする余裕の無い時、率先して勇の遊び相手になってやった。食べ物が足りなくなれば真っ先に二人に分けてやり、自分が殺した仲間のことは決して忘れなかった。竜二がいなければ、阿方は保護した子どもたちを守ることをとっくの昔に諦めてしまっていたかもしれない。

「君の言いたいことは、わかる。更生施設を作ったのは、俺たちノーマルだ。どれだけ恨まれても仕方ない。だが、俺たちが間違ったことをしていた時代に、明日香はまだ生まれてもいなかったんだ。わかるだろう? あの子には、何の責任も無い」

 優もきっと、同じ意見なのだろう。だから、明日香と友達で居られる。

「僕は」

 竜一が静かに口を開いた。

「両親に捨てられるような形で、更生施設に入れられました。優も同じです。優は……女の子だったから、男の僕より何倍も酷い目に合わされました」

 更生施設で、優はニュータイプとしての力を使うことを禁じられた。教官たちの気に入らないことがあると、目隠しをされて、懲罰室に閉じ込められた。

 目を開かなければ、優の『力』は使えない。

 力を封じられた優がどんな目に合わされているのかを知りながら、竜一にはどうすることもできなかった。

「例え、優が許しても。僕は、ノーマルを許しません」

 皆、死んだ。

 優に手を上げた教官も、見て見ぬふりをした者たちも、皆。

「ひとつだけ、教えてあげましょうか」

 何がおかしいのか、竜一がくすくすと笑う。目のあるべき個所は包帯に包まれていたものの、阿方にはその下に別な表情があるように思えてならなかった。

「竜二は、生きています。ゾンビにもなっていません」

 良いニュースと言えるだろう。事実、竜一と会話する前の阿方ならば、手放しで喜んだかもしれない。

姿を消す前、竜二が最期に訪れたのが、このサクラ市だ。ノーマルの身体を、再びミュータントに作り替える。あの時の阿方は、脳をウイルスに侵された竜二の戯言だとしか思わなかった。

「あなたの知る『竜二』は、もうどこにも居ませんよ」

 竜一は冷ややかに笑って、空になったカップをテーブルに置くと、椅子から立ち上がった。部屋はもう、すっかり暗くなっている。白杖で床板を叩きながら、足音が遠ざかっていくのを、阿方は聞くともなしに聞いていた。

「何だ、竜一の奴。明かりも付けないで……」

 入れ替わりに入って来た人物は、阿方が暗闇の中にぽつんと座っているのを見て、少々面食らったようだった。警備隊基地には発電機も設置しているため、民家とは異なり、自由に蛍光灯が使える。咳払いをしてスイッチを入れてやると、阿方はようやく顔を上げた。

「晃か」

「一体どうしたんだよ、あんたらしくもない」

 初期の頃に感じた阿方への警戒は、すっかり緩んでいた。逆立ちのような姿勢のまま、晃がとことこと会議室に入って来る。続いて入って来た金髪の医師を見て、阿方は眉根を寄せた。

「どうした。また、ゾンビを逃がしに来たのか」

 金髪のミュータントを、阿方はどうしても好きになることができなかった。飄々とした物言いも、老いを知らないという事実も、どこか胡散臭いもののように思えてならない。

「手厳しいね。でも、不正解だ」

「先生は、あんたに用があって来たんだよ」

 晃が慌てて口を挟む。ジェームズ医師は白衣の下から、ファイルに挟んだ紙を取り出すと、阿方に見えやすいように机に広げた。

「健康診断の結果が出たよ。おめでとう。明日香君には、まだゾンビ化の兆候は現れていない」

 抗体は学校で配布している。数時間で効力が無くなることを考えれば、万全な対策とは言い難い。けれど、定期的に抗体を注射し続ければ、医師の計算では後二十年くらいは持つはずだった。

「それで、勇君の方なんだけど……」

 阿方が視線を上げると、医師は言いかけた言葉をわざと飲み込んだ。青い目だけが笑わず、じっと伺うようにこちらを見つめている。

「勇はまだ十歳だ。発症するわけが無い」

「ああ、検査結果はシロだったよ」

 医師はなぜか、勇の診断表を持参していなかった。晃が不思議そうに首を傾げたが、医師はただ困ったように苦笑いするだけだった。阿方の表情が険しくなる。

「それじゃあ、まあ、そういうことで……」

 立ち去ろうとした医師の腕を、阿方が掴んだ。格別驚いたようなそぶりも見せず、医師が笑みを浮かべたまま振り返る。

「うん? まだ、何か用?」

「ノーマルを……」

 絞り出すように、阿方は疑問を吐き出した。ここで、医師を帰すわけにはいかない。今聞かなかったら、二度と聞けなくなる気がする。

「ノーマルを、ミュータントに変える。そんなことが、可能なのか?」

 できそうな人間ならば、知っている。

 あきこの言葉を、信じたわけではない。

 それでも。

 金髪の医者の青い目から、面白がるような光が消えた。彼は阿方の手に冷静に自身の右手を添えると、できる限りの落ち着いた声で、用心深く言葉を発した。

「誰から聞いたんだい?」

「竜一だ」

「あーあ、余計なことを」

 ジェームズ医師は大げさに溜息を吐くと、同じくらい大げさな仕草で首を左右に振ってみせた。

「知らぬが花、って言葉は、この国のものじゃなかったっけ」

 阿方の目の中に、様々な色が浮かんでいる。期待と恐れ、不安、疑惑、罪悪感。医師にとっては、既に過去のものとなった感情ばかりだ。

「長く生きているとねえ、わかるようになるんだ。正しい選択は、本当に正しいことじゃないかもしれない、ってね」

「どういう意味だ?」

「さあね。そのうち、わかると思うよ」

 医師の真っ白い歯が、光って見えた。牙のような形をしている。

「阿方さん、俺から見ればあんたはほんのヒヨッコだ。だから言うけど、あんたの考えていることは幼稚な現実逃避だよ。いい加減に子離れした方が良い。あんたが竜二の亡霊を振り切れないから、明日香君だって、いつまでも振り回され続けるんだ」

抗体を作るために、阿方は罪の無いミュータントを殺して血を奪った。それでも、竜二の症状は進行し続けた。

「一度、ゾンビ化を発症した人間にいくら抗体を打っても無駄だ。もう、助けることはできない。あんたも、散々見て来たはずだ」

 明日香がどんなに泣いても、どんなに祈っても、もう無駄だということはわかっていた。だが、竜二を助けようとしたのは、本当に明日香の為だったのか。阿方の自己満足で、竜二の苦しみを長引かせただけだったのではないか。

「あんたみたいな馬鹿を、俺は一人知ってる。親離れできない子、ってのも、なかなかに問題でねえ。現実をなかなか受け入れられないってのは、結局自分が一番辛いのにさ」

 青い目を細めて、ジェームズ医師は窓の外を眺めた。北区の黒い森は、血生臭い秘密を抱え込んだまま、ひっそりと静まり返っていた。

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