長編37
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日曜日は最高の終末5

《1》

竜一は時々、酷く不安定になる。いつもは華奢な外見からは想像も付かないような勢いで何度も優を求めて来るのに、おかしくなっている間は全くの逆で、服を脱がせようともしない。その代わり、優の生身の身体を強く抱き締めて、何時間でもそうしている。

「何かあったのか?」

 慣れているので、優も深い詮索はしなかった。昨夜は遅く帰って来たと思ったら風呂にも入らずに優に抱き付いて、唇を何度も首筋に押し付けた。優が自分のものであることを改めて確認しているかのようだった。まるで、自分の匂いを所有物に移そうとする犬だ。仕方が無いので優もそのまま一緒に眠ったのだが、目が覚めてみると昨夜と全く変わらない姿勢のまま抱き締められていたのだから、驚きもする。

「優は、夢を見ることはある?」

 竜一がぽつりと言った。

「夢? ……ああ、あんまり見ないかな」

 嘘だった。夢なら、数えきれないほど見ている。

 施設に居た頃の夢。竜二が来た時の夢。竜一と二人、手を取り合って逃げ出した時の夢。一番多く見るのは、サクラ市に辿り着いた直後の夢だ。薬品の匂いに病室の空気、痛々しいくらいに病みやつれた竜一の姿まで、全てが現実としか思えないくらいの鮮明さで夢に出て来る。今と全く変わらない姿をしたジェームズ医師は、決まって同じ宣告をする。竜一の残り時間が、もう多くはないということを。

 夢の結末が現実とは異なっていることが、救いだ。目を覚ました瞬間、隣で寝息を立てる竜一を見てどれだけ安堵したことだろう。

「僕は、何度も昔の夢を見るんだ」

 竜一は、警備隊の制服を着たままだった。外はとっくに明るい。今日は月曜日。午後の授業は無いから、さぼっても支障は無い。竜一は、何時から仕事の予定だっただろう。遅れるぞ、とも言えないまま、優は極端に短い腕を竜一の肩の上に乗せる。

「夢を、『見る』んだよ……夢の中の僕は、優の顔だってちゃんと見ることができる。だけど身体は重くて、全く動かせないんだ」

 竜一は今でも、最後に見たのが恋人の顔で本当に良かったと思っている。首筋の眼球に、妬けるような痛みが走った瞬間。視界が真紅に染まり、白くぼやけ、段々と黒に変わって行った。優の可愛らしい顔が涙でぐしゃぐしゃになっているのを見て、自分の為に心から泣いてくれる存在の愛おしさを知った。

「傷は? まだ、痛む?」

 歪んだまま固まった瞼の裏で、裂けた眼球はただの役立たずの塊と化している。この奇形が無ければ……もしも眼球が正常な位置に付いていて、首筋が全くの無防備であったならば、動脈を切り裂かれてあの場で死んでいてもおかしくなかった。

 竜一はもう、優の顔を見ることはできない。けれど、優を失ったわけではない。だから、心配そうな声にも笑って答えることができる。

「古い傷だからね。夢の中じゃ痛みもあるけど、錯覚だってわかってる。でも、不思議なんだよな」

 汗ばんだ制服の前をはだけると、肋骨の浮いた薄い胸板が覗く。肩から二の腕に掛けて、皮膚の引きつれた傷痕が薄く残っていた。胸の中心にある傷は、十字架の形をしている。

「こっちの傷は、全然痛まないのに」

 十字の傷に隠れるようにして、濃い桃色のケロイドがある。目を近付けて良く見れば、それが数字であることがわかるだろう。

 更生施設の焼印。ミュータントを区別するための番号。

「阿方は、竜二を探している」

 竜一の腕に力が籠った。

 優が好きだ。優が愛おしい。竜二にも、他のノーマルにも。絶対に壊されてなるものか。

「もしかしたら、僕が竜二を殺したと疑っているかもしれない」

「嘘だろ。あり得ない」

 優の声が上ずった。

「竜二は、もうゾンビ化しかけてたんだ。脳味噌がもう、手遅れで……ジェームズ先生もそう言ってただろ?」

「阿方がそれで納得してくれれば良いけど。阿方さんは、竜二のことを随分気に入ってたみたいだからね」

 竜一は笑って、ようやく優の身体を解放した。強く抱き締められていた身体は、一人分の体温よりも熱くなっていた。

 

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《2》

《警備隊長幸也の記録書》

不可解と言えば、もう一点、阿方のことがある。俺も圭介も彼の実力は買っているし、彼がミュータントにとっての害になるとは思っていない。ただ、何かを隠していることは確かだ。

 竜一のノーマル嫌いは昔からだが、阿方のことを必要以上に避けているように見える。竜二、というのは、竜一の双子の弟に当たるようだ。俺が問い詰めると、阿方はようやくそれだけ教えてくれた。阿方にとって、竜二は大切な仲間だったと言う。だが、少なくとも竜一と竜二は仲の良い兄弟ではなかったのだろう。竜一が竜二のことを一言も喋らず、竜二を探し続ける阿方を嫌っている理由も、その辺りにあるような気がする。

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《3》

《学級日誌 ……曜日 当番・明日香》

 最近、どうにか勉強にもついて行けるようになりました。毎日学校に来て、ミホたちと会って、色々なことを話したり、一緒にお昼を食べたり、時々は地下の商店街まで遊びに出かけたりします。

 帰ってから阿方さんにそんなことを話すと、とても嬉しそうに聞いてくれます。サクラ市に来て良かった。最近は、本当にそう思えるようになりました。この時間が、ずっと続けば良いのに。本当に、そう思います。

 私の背が、少しだけ優を追い越しました。そのうち、ミホのことも追い越してしまうかも。

何だか、悲しい。

ずっとこのままなんて、絶対に無理だってわかってるはずなのに。

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《4》

最近のテストの結果が張り出された時、ミホの名前のすぐ横にあったのは、明日香の名前だった。

「凄い。明日香、頑張ったものね」

ミホはまるで、自分のこともように喜んだ。豚女と四ツ目女が学校に来なくなって以来、沈んだ顔を見せることが多くなっていたミホは、明日香の答案用紙を見て久しぶりに嬉しそうに笑ってくれた。

「ミホの教え方が上手だから」

 明日香は騒ぎもせずに言って、日誌に鉛筆を走らせた。明日香がこの学校に来てから大分経つので、今では日直の仕事も任されている。ページををぱらぱらとめくる明日香を、ミホは嬉しそうに見守っていた。視線に気付いて、明日香が顔を上げる。

「ミホ? どうしたの?」

「ううん、何でもない」

 ミホが首を振った。

「ただ……何て言うか、明日香、大人っぽくなったと思って」

 今日の明日香は、北区で拾った大きめのシャツを着て、髪は邪魔な前髪だけをピンで止めている。最初に会った頃に比べて背も高くなり、痩せてぎすぎすとした印象だった身体も幾分ふっくらして来たようだ。

 僅かに寂しさを覚えて、明日香は出会った時と同じセーラー服を着たミホを見つめた。酷く幼く感じる。後どれだけ、同じ学生で居られるのだろう。

「お兄ちゃんも言ってたよ。明日香、奇麗になったって」

「本当に?」

 ミホに言われるのならまだしも、圭介に奇麗だと褒められるのは何だかくすぐったかった。こんな気持ちになるのは久しぶりだ。

特に、竜二がいなくなってからは。

「……ミホ。聞いてもいい?」

日誌を書く手を止めて、明日香はミホの帽子に隠れた顔を見つめた。

「どうしても、知りたいことがあるの……」

 忘れてしまえば楽になると、わかっているのに。口調は穏やかだったが、明日香の目は笑っていなかった。明日香の差し出された右手を握り返すことを、ミホはためらった。

教えるべきだろうか。今後のことを思えば。

 いや、今後のことを思えばこそ。

「明日香、……」

 明日香の長い黒髪が揺れている。窓の外では、桜の木が薄紅の花を咲かせていた。

 豚鼻のクラスメートが言っていた言葉が、頭の中で反響する。

 ――人殺し――

 ――見えてたくせに――

「明日香……ごめんね」

 ミホは小声で言うと、明日香の手を振り払って、椅子から立ち上がった。明日香が友達でさえなければ、ここまで悩む必要も無かった。花柄のペンケースを革の学生鞄に放り込むと、ミホは振り返りもせずに教室を後にした。

後に残された明日香は、シャツの胸ポケットから銀の指輪を取り出すと、自分の指にはめてくるくると回した。現実からは逃げられない。覚悟はしてきたつもりだった。それなのに。

 竜二の顔を思い出そうとして、それがいつの間にか圭介の顔になる。明日香に笑いかけてくれた笑顔。安心させてくれた、手の体温。ノーマルと身体が違うなんて、それの何が問題なのだろう。いつの間にか、そんな風に考えるようになっていた自分に気付いて、愕然とする。

 明日香はもはや、自分が本当に竜二に会いたいのかどうか、わからなくなっていた。

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《6》

底が見えない程濁った水路を、腐りかけのゾンビの破片が流れていく。勇はそれを、ぼんやりと目で追った。下水に広がる小さな町のような住処は、いつも妙に生温く、すえた臭いがする。住人は最低限の荷物と共に移動して歩くため、余計な荷物は少ない方が良い。

最近の明日香は、変だ。朝は早くから学校に行ってしまうし、帰って来てからも学校の話しかしない。夜も宿題ばかりで、前のようには遊べなくなった。今更、何かを学ぶ必要も無さそうなものだ。どうして明日香は、変わろうとするのだろう。今までと同じ、三人で暮らして行くだけで、十分だとは思えないのか。

明日香が捨てるためにまとめておいたぼろ布の山に手を突っ込むと、勇は擦り切れて薄くなったシャツを掴み出して、ふうっと息を吐いた。阿方は仕事に出かけているし、学校に行っている明日香もしばらくは帰って来ない。心臓がどきどきと脈打った。『これ』をやる時は、いつも明日香と一緒に大人の目を盗んで冒険した日のことを思い出す。

 勇は明日香の古いシャツを自分の鼻先へ持って行くと、顔を擦り付けるようにして、深く息を吸い込んだ。シャツは埃っぽく汚れて、汗の匂いがしたが、気にはならなかった。ズボンのチャックを注意深く下げ、小さな手で固くなってきたものをそっと握る。

気に入らないことは、もう一つある。

 明日香は時々、『圭介』という男の名を口にする。町の警備隊員だと言っていたが、ミュータントは信用できない。それ以上に、明日香の口から知らない男の名前が出ることが、勇は無性に気に入らなかった。

竜二の顔と、ろくに知らない警備隊員の男の顔が重なる。大人の男にはわかることが、勇にはいつまでたってもわからない。少なくとも、明日香はそう思っているようだ。それは間違いだと、うまく説明できないのはもどかしい。

「明日香……!」

 喉の奥から、押し殺した声が漏れる。まだ小さくて、弱かった頃の明日香の姿が頭に浮かんだ。あの頃の明日香と一緒に遊んでいた時も、勇は同じことを考えていただろうか。今と同じような目で、明日香を見つめ続けて来たのだろうか。

「友達ができたの」

 明日香にそう告げられた時、勇は阿方のように喜ぶことができなかった。裏切られたような思いさえ抱いた。

 ミホの名前を呼ぶとき、明日香は勇には決して見せない顔で微笑む。明日香にとって、ミホというのは友達で、家族とは異なるものなのだと阿方は言っていた。阿方も阿方だ。警備隊などという妙な仕事をして、ミュータントとなれ合っている。

「ミホってミュータントなんだろ。化け物なんて友達じゃない」

 すかさず勇が口を出すと、明日香が驚いた顔をした。

「どうして?」

 明日香はいつから、こんな顔をするようになったのか。こんな声で喋るようになってしまったのか。先頭に立って歩く勇の後ろを、少しびくびくしながら付いて来る、それが明日香だったはずなのに。

急に不機嫌になって、勇は明日香の服を皺になるほど握りしめた。竜二を忘れるだけなら、構わない。竜二のことを思うと、いつも腹が立つ。友達だと思っていたのに、竜二はやすやすと勇を裏切って、明日香の心を奪ってしまった。

「明日香!」

 右手に握りしめたものが、どくどくと脈打っている。勇は鼻先から明日香のシャツを離すと、急いでその熱く脈打つ部分に押し当てた。腰を上下に揺らし、何度も明日香の名前を呼ぶ。

 明日香と、一番長く一緒に居るのは自分だ。昔は多くの仲間が居たのに、皆ゾンビになってしまった。ある者は阿方が殺したし、またある者は人間の意識が残るうちに自害した。残ったのは、自分たち三人だけだ。

 ノーマルの仲間が死に、その死体を埋めた墓の前ですすり泣く明日香を慰めたのは勇だ。怖がる明日香の手を取って、阿方のところへ連れて行ったのも勇だ。

 ――ご両親を殺してしまって、すまない――

 阿方の前には、首から上を滅茶苦茶にされた男女の躯があった。血だらけのナイフを握った阿方と、硝煙の上がる銃を手にして肩で呼吸している竜二を交互に見比べて、明日香はまた大声で泣き出した。

 ――君に症状は出ていないようだ。ならば、一緒に行こう。今から、私と竜二と、勇が君の家族だ――

 しきりにしゃくり上げながら、明日香は縋るように勇の手を握った。

 ――大丈夫だよ……――

 勇は明日香の手をしっかりと握り返して、そう言った。

 あの瞬間、明日香は仲間になった。

 勇の言葉が無ければ、今こうして一緒にいることも無かったと明日香は言ってくれた。それなのに。

「勇。そういうこと言う子は、嫌いよ」

 明日香は勇を睨んでいた。相変わらず傷付いた表情ではあったものの、目つきには一歩も譲らない固い意志が宿っていた。

 どんどん背が伸びて、子どもではなくなって行く明日香。大人のように膨らんだ胸と、重く肉の付いて行く腰。今の明日香が、ウイルスにやられる前の竜二と並んだら、きっと様になるに違いない。

 身体を大きく震わせると、勇は明日香の名前を呼びながら前のめりに倒れ込んだ。何度も息を吸って吐きながら、握りしめたシャツを見つめる。途端に、目の中に失望の色が浮かんだ。シャツは、汚れてはいない。手の中に握り込んだものが、ぐにゃりと力を失う。耐え難い欲求にはいつも負けてしまうが、基本的に勇は『これ』が嫌いだ。自分が子どもなのだということを、嫌でも自覚させられる。

阿方や竜二のような大人たちが、勇には理解できない。難しい話をしていても、悔しいと思ったことは一度も無かった。それどころか、常に不安に苛まれている彼らを、哀れにすら思っていた。

 次にどこへ向かうべきか、就寝時の見張りはどうするかといった類の話し合いなんて、参加したくもなかった。物事はいつのまにか決まっていて、勇も明日香もそれに従うだけで良かった。どのみち勇は、面倒なことに時間を割く気も無かったし、苦労しながら食料や住処を探すのも嫌だった。怪我をするかもしれないのに、凶暴なゾンビと戦うのも嫌だ。それなのに今は、竜二のように白く濁った染みを残すこともなく、奇麗なままの明日香の服を見て、溜息を吐いている。

 大人の仲間入りがしたいわけじゃない。

 けれど。

 荒くなった息を整えながら、勇は皺だらけになった服を元の場所に戻した。乾いたまままだ痙攣している性器をズボンの下に引っ張り込んで、勇は下水の壁にぐったりと寄り掛かった。

明日香は、勇を置いてけぼりにしようとしている。

 竜二と、同じように。

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《7》

 ジェームズ医師の病院は、建物自体はかなり大きい。余っている部屋のひとつを、医師は自分専用の書斎にしていた。

 革張りのソファをひとつ置き、仮眠用のベッドとテーブルを置けば、もうほとんど一杯になってしまうような、ささやかな部屋だ。おまけに、出入り口以外の壁を本棚が塞いでいるので、実際よりもひとまわり狭くなっている。

 医師は本棚のひとつに手を伸ばすと、赤色の表紙の分厚い本を取り出した。今日は、学校が午前で終わる。もしかしたら、ミホが来るかもしれない。

「あら。また、あの子の相手?」

 ノックもせずに書斎に入って来たのは、継ぎはぎのスカートを履いたあきこだった。それを咎めもせず、医師が笑って答える。

「うん、患者が来なかったらそのつもりだけど」

 最初のうちこそ家庭教師の真似事をしていたものの、最近では、どうやってミホを困らせるかが目的になってしまっている。どんな難題を出しても、次に来るときまでに完璧に解いてしまっているのだ。

「あの優秀な脳細胞を、このチンケな町で腐らせる手は無いよなあ」

「この町を出たって、どこも今じゃ同じよ」

 あきこが言って、手巻きの煙草にマッチで火を点けた。

「それより、先生の優秀な脳細胞も、腐らせたらまずいんじゃありません?」

「あきこ君は手厳しいよ」

 医師は苦笑いすると、紙の黄ばんだノートを引き寄せて、書きかけの文章に目を通した。ノートは、もう何十冊書きつぶしたかわからない。廃墟となった文房具屋を巡って大量に手に入れてはいたものの、それでも足りなくなるのは時間の問題だった。

「こんな論文書いたって、読んでくれる人はいないのかもしれない」

 そういう思いに囚われる度に、書くことを中断してきた。だが、決して諦めてしまう気にはなれなかったし、ノートは一冊も漏らさず、きちんと保存してあった。

「誰かが記録しておかないとな。俺はそのために百年生きて来たんだって、そう信じてるよ」

 最新のノートの最初のページには、少し大きめの字で、研究のテーマが書かれていた。

『ニュータイプの出現について』

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《8》

《学級日誌 当番・信也》

 職員室に呼び出されるのも慣れました。ミホちゃんは慣れたら駄目だと言いますが。優と僕が呼び出し回数で競ってるみたいです。それでも別に良いと言ったら、ミホちゃんから、喧嘩ばっかりしてると退学になると言われました。

退学は嫌だな。ミホちゃんに会えなくなるし。

僕は不良じゃないから、ちゃんと謝ります。校庭を血だらけにしてすみませんでした。もう二度と学校では喧嘩しないので、反省文だけで許してください。

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《9》

授業が終わると同時に、一日の大半は終わっている。これから先何をすべきなのか、全く思いつかないからだ。明日香は屋上の柵に寄り掛かって、図書館から借りた本を読んでいた。他の生徒は、もうほとんど帰ってしまっている。残っているのは、明日香と優、それから信也の三人だけだった。

「竜一がさ、今度映画にでも行かないかって言ってるんだけど」

 あぐらをかいて座った優が、煙草をふかしながら言った。

「映画? ああ、あれか」

 春の陽気に任せてうとうとしていた信也が、欠伸交じりに答える。

「警備隊の幸也さんが、趣味でやってるやつだろ」

 警備隊長を務める幸也が、潰れた映画館で上映会を始めたのは、最近のことだった。どこからかかき集めてきたフィルムを、手回しの映写機で破れたスクリーンに映し、町の人間たちに無償で見せている。当然、音は出ないので、どれもこれも無声映画だ。けれど中には、隣町からわざわざこれを目当てにやって来る変わり者のミュータントもいるらしい。

「前はホラーだっただろ、吸血鬼のやつ。今度は……何て言うの? 恋人が生き別れになって、最後に再会する、みたいな内容なんだってよ」

 映画の実際の評判はともかく、口調から、優が全く乗り気でないことは伝わって来る。

「圭介は、明日香が来るなら一緒に見るって言ってるんだけど」

 さりげない調子で言って、優は明日香の方をちらりと見た。明日香は、気付かない振りをして唇を噛んだ。圭介と遊びに行くなんて言ったら、勇はまた機嫌が悪くなるに決まっている。それに、どうせなら圭介の口から直接誘って欲しかった。

「圭介はともかく、竜一が映画館なんか行ってどうするんだよ。どうせ、見えないくせに」

「優と一緒なら、あの人は何でも面白いんじゃない?」

 信也が笑った。明日香が、横から口を挟む。

「どうせなら、皆で行ったらいいのに。信也、ミホのことを誘ってみたら?」

 映画なんて、明日香は生まれてから一度も見たことが無い。信也にそう提案すると、見る見るうちに耳まで赤くなった。優がにやにやしながら、信也の肩を固い合金の肘で突く。

「こいつ、もう何回も失敗してるんだよ。ミホとデートしたいくせにさ、全然誘えてなくって」

「優……!」

 信也に追いかけられて、優が笑いながら屋上を駆け回る。楽しそうに騒ぐ二人を見て、明日香は心の中で溜息を吐いた。

 彼らとは、仲良くなった方だと思う。学校に来て良かったと思っているし、今の明日香にとっては、学校が一番好きな場所だ。けれど、時々考えてしまう。自分は結局、彼らの輪の中には入れないのだ。

 同年代の人間など近くに一人もいなかった時に比べれば、今の明日香は恵まれすぎるくらい、恵まれている。それでも、あの時の明日香は、ゾンビになってしまう未来が怖くなかった。そういうものだと、受け入れることができていた。

 風が吹いて、校庭に植わった桜の花びらを何枚か運んで来る。穏やかな日だと思った。今日くらいは、ノーマルとミュータントの差異なんて、頭から追い払っても良いかもしれない。そろそろ優と信也を止めてやろうと、本を閉じた時だった。

屋上に続く階段の戸が、勢いよく開いた。優と信也はふざけるのをやめて足を止めたが、登って来たのは教師でもゾンビでもなく、クラスの男子生徒だった。

「信也、優、居るか?」

 肩で息をする生徒の顔が、青ざめている。元々皮膚が石炭のような艶の無い色をしているので、顔色が青いというのも変な表現なのだが、そうとしか形容のしようが無いくらい、引きつった顔つきだった。

「信也に話があるって……アヤメ市の番格が来てる」

 アヤメ市は、サクラ市のすぐ隣にある。サクラ市と同じく、最低限の文化的生活が送れる数少ない町だ。

 追い立てられるようにして屋上に連れて来られた人物を見た瞬間、信也の顔色も黒い肌の生徒と同じくらい青くなった。

セーラー服に、重そうな鞄。赤い帽子の影で、小さな唇が震えている。

「お前がサクラ校の番格か」

 ミホの腕を押さえつけるようにしながら、アヤメ市の校章を付けた学生服姿の男が顔を覗かせた。その後ろに続いて入って来た女生徒たちを見て、優が舌打ちする。にやにやと不快な笑みを浮かべた二人の女生徒は、豚のような鼻をした乳房の六つある娘と、目が四つある娘だった。

「仕返しのつもりかよ。最低だな、ブス女」

 柔らかな風が吹いた。花弁がまた舞い散ったが、先ほどのような穏やかな光景には見えなかった。

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《10》

『ニュータイプの出現について』 ジェームズ・D・ベルフェゴール

 一般にミュータントと呼ばれる新人類は、ありとあらゆる点で、ノーマルと呼ばれる旧人類とは異なっている。そのことについては、既に他の部分でまとめた通りである(私の論文ノートその③・『ミュータントのタイプとその特徴』を参照のこと)。

 既に述べたように、体毛の濃い者は衣服を着なくても摂氏0度以下の寒さに耐え得るし、雌雄両方の完璧な生殖器を持つ者は理論上、結婚という生物のシステムが不必要である(ただし、ノーマルではあり得ない程バランスの取れた雌雄同体だからと言って、精神までそうとは限らない。事実、私の知る対象者の精神の性別は完全に男性であり、同世代の女性に興味を持っている)。なぜこのような人間が生まれるようになったのか、その理由は未だ解明されていないが、最近になって更に不可思議な能力を持つミュータントたちが現れた。

 彼らは一般に『ニュータイプ』と言われており(ミュータントの一種であることは確かなのだが、ここでは区別するために『ニュータイプ』と表記し、単に『ミュータント』と書いた場合は『ニュータイプ以外のミュータント』を示すものとして固定する)、他のミュータント同様、自身の生まれ持った特徴を活かして生活している。

 ここでは、ニュータイプの特殊能力について述べようと思う。

 図の1は、ニュータイプの少女の写真である。彼女は知能の発達こそ全く問題が無かったものの、生まれつき四肢が異常に短かく、本来ならば肘、膝といった間接部分が現れる直前までの長さである。未熟な指の名残らしきものは見られるのだが、内部には骨も無く、神経も通っておらず、爪というものも形成されていない。この足では歩くことなど到底不可能であるし、字を書くことは愚か、ものを掴むことさえできないはずだった。

 しかし、彼女は実際に字を書くし、歩くことも、走ることさえできるのだ。私は彼女のために義肢を作ってやったが、それさえ、彼女には不要だったのかもしれない。

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《11》

校庭に降りて来た信也と優を見て、アヤメ市の学生たちは不機嫌そうに鼻を鳴らした。中心に立って信也を睨んでいる学生は、信也と同じ黒い制服を着ていたものの、体格は全く異なっていた。

 身長だけでも、二メートル半はある。横幅はと言えばもっと広くて、明日香が思いきり両腕を広げても足りないくらいだった。

「お前がここの番格か」

 異様な弛んだ巨躯の割に、足は酷く短かった。その代わり、腕だけが妙に長い。左右の拳を地面に付けて、ゴリラのように歩いている。その、やけに動物的な拳で、アヤメ市の学生は信也の肩をこづいて笑った。

「まともな男はいねえのか? オカマ野郎」

 信也が、さも面倒臭そうに目の前の男を見上げる。優とは違い、信也は別に喧嘩が好きなわけではない。番長の肩書だって、いつのまにか付けられていただけで、自分から名乗った覚えは無かった。

アヤメ市の学生のうち一人が、前に進み出た。鼻と頬が潰れ、顔面がへこんでいる。紫色の内出血痕が痛々しい。右目は見る影も無く腫れ上がり、同じくらいに腫れた唇は半開きで、涎が垂れたままになっていた。

「こないだの仕返しのつもりかい? 言っとくけど、悪いのはそいつらの方だから」

 顔じゅうを腫らした学生をちらりと見て、信也が言う。信也はどうやら、明日香が最初に想像した通りの学園生活を送っているらしい。

「しつこく絡んで来るから、ちょっと小突いただけじゃないか。負けて番長に泣きつくなんてね」

 信也が凶暴化したゾンビや体重のありそうな豚娘を易々と殴り飛ばすのを見ているので、明日香は『ちょっと』という言い分を信じなかった。でも、だからと言ってこんなやり方が許されるわけが無い。

「人質のつもりか? とことん腐ってやがる」

 優が、怒りに満ちた目でミホを抑え込んでいる奴を睨んだ。やはりアヤメ市の制服を着ていたが、顔は大ぶりなマスクで覆われ、後頭部に裂け目のような分厚い唇と涎を垂らして髪の毛を濡らしながら喋る長い舌がくっついていた。

「ただの人質じゃねえよ」

 マスクがにやにや笑って、醜い娘たちと顔を見合わせた。

「お前に散々やられまくって、こっちも我慢の限界なんだ。これ以上でけえ面させねえためによ……」

 ゴリラのようなアヤメ市の番長が、足音を響かせながらミホに近付いた。脂ぎった指が、ミホの柔らかい髪の毛に触れる。

「……お前の『女』を頂くぜ。信也」

 口元を押さえ込んで、ミホは悲鳴を飲み込んだ。明日香は青ざめた顔で、ただミホと周りの学生たちを見比べるしかなかった。

 こんな時代で、こんな世界で、形ばかりの学生としての立場が、一体何になるというのだろう。

「ミホ……ずっと、お前を見てた」

 帽子に隠れたミホの顔を覗き込んで、アヤメ市の番長が囁いた。ゴリラのような大男と並ぶと、ミホはいつも以上に小さく見える。ゴリラ男は、湿った大きな手で、ミホの身体に触れた。

「ミホ。こっちを見てくれ」

ミホの身体が拒むように震える。肉の弛んだ頬と、低い鼻先が、ミホの顔と髪に触れていた。肩をすぼめ、全身を固くしているのに、歯だけは言うことを聞かずにかちかちと鳴ってしまう。

ぞっと寒気がして、明日香の全身は総毛だった。ミホが辱められているから、というだけが理由ではない。優は明日香と不安そうに目を合わせると、口の動きだけで伝えて来た。

――やばい――

「ミホちゃんから離れろ」

 男にしては高いはずの声が、やけに低く響いた。

 極限まで怒った人間を、明日香は過去に一度だけ見たことがある。けれど竜二は、先の無い自分の命に怒っていたのだ。まだしばらくは生きることのできる、明日香と勇が羨ましかっただけだ。理不尽で、幼稚な怒りだった。

 今の信也は、それとは違う。

「離れろ。嫌がってるだろ」

 酷く冷たい声だった。余裕の表情を見せていたマスク男が、怯んだのがわかった。信也の目が、完全に凍り付いていた。冷静というよりむしろ逆で、爆発寸前のように見える。

「信也にとっちゃ地雷みたいなもんなんだよ。ミホってのは」

 優が小声で囁く。

「けど、まあ、こっちも……向こうの心配してる場合じゃ、無さそうだな」

 優が口角を上げた。明日香ははっとして、自分の周りを見回した。いつの間にか、アヤメ市の学生たちが優と明日香を取り囲んでいた。下卑た視線が、値踏みするように明日香を見つめる。

「心配すんな。明日香のことは、私が守ってやる」

 アヤメ市の顔の潰れた学生が、わけのわからない雄叫びを上げながら優に飛び掛かった。彼の拳は、優の顔に到達する前に砕けていた。

 

『ニュータイプの出現について』 ジェームズ・D・ベルフェゴール

 生まれつき四肢の短いミュータントの少女は、ノーマル(ミュータント以外の人間、つまり旧人類を指す。詳しくは私の論文ノートその①、『ミュータントとノーマル』を参照のこと)が持つ手足と同様の……いや、明らかにそれ以上のものを持っていた。彼女は、欠陥があるためにこのような身体になったのではない。彼女には、手足など最初から必要無かったのである。

 彼女が対象をじっと睨むだけで、そのものは破壊された。目覚まし時計、鏡、岩などの鉱物、ゾンビやネズミなどの生体に至るまで、彼女に壊せないものはひとつも無かった。私はそのような力を持たずに生まれたため詳しいことは不明なままなのだが、彼女自身から直接聞いたところによると、対象を見るだけでなく、そのものを『どうしたいか』を思い浮かべ、実際『どうにかなった』ところまで細かく想像するのがコツなのだと言う。

また、身体に直接触れることができれば、目を瞑っていたとしても、問題なく動かすことができるらしい。私は彼女に目隠しをした状態で、その赤ん坊よりも頼りない手に大きなコーヒーカップを触らせてみたことがあるが、彼女はカップから一滴もこぼさず、きちんと中のものを飲み干した。

いずれにしろ、頭の中できちんと結果を組み立てることが重要だ。

思い浮かべる内容を様々に変えることで、破壊に留まらず、様々なことが簡単にできるようになった。

念力だ。今や彼女は、鉛筆を動かして字を書くこともできるし、一人で着替えも、料理もできる。靴ひもを結ぶことさえできる。

 しかし、いかに不必要とは言え、外見上の問題というものがある。彼女は自分だけの手足を欲しがった。とにかくノーマルらしくあれという古い教育が、彼女の考え方に影響を及ぼしたのも事実である。残念ながら私は医者で研究者なのであり、細工師でも技工士でもない。義肢を作る技術など無かったが、彼女の場合は、何も問題が無かった。

 ただ、手足の形をしてさえすれば良い。木の棒でも、マネキンの手足でも、何でも良いのだ。彼女が自身の『力』を失わない限り、何の仕掛けも無い人形の手足は、まるで生きた肉体のように動くはずである。

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《12》

 優が金属の拳を打ち鳴らした。左右の義手が優の両肩から外れ、未熟な両手が露わになる。長さは、ノーマルの肘の辺りにさえ届かない。先端には骨すら存在しておらず、皮膚と脂肪の変形した未熟な指らしきものが、まるで不格好なイソギンチャクのように飛び出している。目の色が、微かに変わった。

「さあ、遊ぼうぜ」

 雄叫びと共に優に飛び掛かった学生は、数秒後には地面に沈んで右手を押さえながらのたうち回っていた。校庭の土に血が混じる。手が、潰れている。指先が滅茶苦茶な方向に曲がり、割れた爪が肉に食い込んで、ところどころから骨がはみ出していた。涙と脂汗が、同時に頬を伝う。

「身体が未成年のうちは警備隊に入れねえ。こうでもしなきゃ、なまっちまう」

 優が明日香に耳打ちした。優には殴るための手も、蹴るための足も無い。ただ、睨みつけるだけだ。相手の足がみしみしと音を立て、腕が捻じれ、悲鳴を上げながら次々倒れる。

「信也もさ。口じゃ喧嘩なんて嫌だって言ってるけど……」

顔がへこんでいる学生は、更に増えていた。更に、腹を押さえてうずくまっている者が一人。背中を打ちつけてのたうち回っているのは、信也に片手で放り投げられたためだ。信也の右手は相手の鼻血で真っ赤になっていたが、信也自身に怪我は無い。

 学校も授業も形ばかりだ。それでも、彼らは学生で居ようとする。かつてノーマル達のものだったはずの、当たり前の日常を演じようとする。

 ノーマルの学生だって、争うことはあったかもしれない。

 しかし、血塗れで倒れた学生は、そのまま寝ていようとはしなかった。跳ねるように起き上がると、歯をむき出しにして唸りながら再び殴りかかって来る。

 本能。

 ふと、そんな言葉が明日香の頭に浮かんだ。

 ミュータントは、ノーマルに比べて自制心が無いと言われている。怒る時は人目も気にせず感情をぶちまけ、敵と見なした相手には全く容赦しない。しかし、ゾンビだらけのこの世界で、ノーマルが美徳とした自制心が何の役に立つと言うのか。

「悪い、明日香。嫌だったら、目瞑っててくれ」

 優は苦笑して、ぼろぼろの身体で飛び掛かって来た相手の胸の辺りを睨みつけた。肋骨が砕ける音がして、咳と共に飛び散る鮮血がアヤメ市の制服を汚す。

 明日香はミホを見た。大男に抱きすくめられて、震えている。ミュータントの全てが好戦的というわけではない。でも、その本能にどうしても抗えない個体も、少なからず存在するのだとしたら。

 警備隊はゾンビを殺す。食料のために。市民の安全の為に。

 本当に、それだけなのか。明日香は、圭介の優しそうな笑顔を思い浮かべた。彼も、また。ゾンビを狩る際は、今の優や信也のような表情を浮かべるのだろうか。

 ミュータントとノーマルの違い。ジェームズ医師ならば、何と考察するのだろう。

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《13》

『ニュータイプの出現について』 ジェームズ・D・ベルフェゴール

 ニュータイプの持つ特殊な力は、他にもある。図の2は、また別のニュータイプの写真である。こちらも十代の少女だが、彼女の持つ力は、図1の少女の念力よりも更に不可思議だ。見てわかる通り、彼女は両方の眼球が異様に発達し、顔面に奇形を起こしている。彼女は普段帽子で目元を隠して生活しているが、外見上の問題ばかりが理由ではない。

 誤解の無いように記すが、彼女の視力は至って普通である。左右ともに2.0というのは確かに優秀な数値ではあるものの、十分正常の範囲内である。近視や乱視と言った問題も無く、外見以外は健康な目のように思える。

 にもかかわらず彼女は、我々よりも多くのものを『見て』しまうのだ。彼女の能力は、図1の少女と同じように、対象(この対象とは、生きたものに限られる。図1の少女の場合は無機物にも能力を使うことができたが、その点が異なっている)をしっかりとその視界に入れることで発動する。

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《14》

 どうして、こんなことになったのだろう。唇を噛んで悲鳴を抑え込みながら、ミホは考えを巡らした。ジェームズ医師のところへ向かう途中で、クラスの女子から声を掛けられた。四ツ目の女生徒は、最近退院したばかりのはずだ。怪我の責任は、ミホにもある。

一緒に来てほしいと言われて、断ることができなかった。

それから先は、あまり思い出したくない。

「こんなやせっぽちの化け物女、どこが良いのかね」

 ミホのスカートを、腰の辺りまでまくり上げてあざ笑ったマスク男の声が、今も頭から離れない。恐怖と屈辱で震えるミホは、自分の身体を撫でまわす男から必死に顔を逸らした。無理にねじられた両手が痛む。アヤメ市の学生だという大男は、息を荒げながら、ミホの長い髪に自分の鼻先を擦り付けていた。生臭く湿った息が、頬を撫でる。

「ミホ……なあ、いいだろ……」

 大男が囁いた。ミホは、泣きたくなるのを堪えて、帽子越しにまわりの光景を盗み見た。

 大男の取り巻きは、ほとんどが優と信也にやられてしまったようだ。残っているのはミホを捕まえたマスク男、それからこのゴリラのような大男だけだ。優の後ろに立つ明日香が、不安そうにこちらを見つめている。義手を左右とも外した優が、マスク男とゴリラ男を交互に睨んだ。優の念力には、重量の制限がある。重い義手と義足を、どれかひとつでも外さなければ他のものは動かせない。しかし、四つ全て捨てたところで、ゴリラ男の体重を動かせるかどうか。

「これ、読んでほしいんだ」

 ゴリラ男が、通常の倍はあろうかという手に小さな紙切れを挟んで、ミホに手渡そうとした。

「頼むよ。読んでくれよ」

大男の手の中で紙切れのように見えたそれは、白い封筒に入った手紙の用だった。ご丁寧にも、ハート形に切ったピンク色の紙で封がしてある。

「お似合いよ、ミホ」

片腕になった四ツ目女が、嬉しそうに笑った。豚鼻の女も、四ツ目女の背に隠れるようにして、ぶひぶひと息を吐きながら笑っている。

「お前ら、何でこんな真似しやがった」

 優が二人に向かって怒鳴りつけた。

「喧嘩はいつでも歓迎するけどよ。人質ってのはルール違反だろ」

四ツ目女が、負けじと優を睨み返す。

「ミホが調子に乗ってるからよ。ブスでいい子ぶったミホなんて、あの気持ち悪いゴリラ男に襲われちゃえばいいのよ!」

 優よりも、信也の方が一瞬早かった。四ツ目の女の身体は宙を舞い、砂だらけの校庭にべたりと叩き付けられた。背中を打ち付けて痛みに転げ回る女を、嫌悪も露わに見下ろしながら、信也は一言も声を発しない。中性的な整った顔の中で、目だけが静かな怒りに燃えている。

 爆発寸前だ。明日香は、どうにか信也をなだめる方法を思いつこうと頭を巡らせた。ぶひ、と最後の息を吐いて座り込んだ豚女の足の下に、異様な臭いを放つ水たまりが、音も無く広がって行く。

「読んでくれ。お前をわかってやれるのは、俺なんだ」

 震える手で渡された手紙を、ミホは躊躇いながら受け取った。ゴリラ男は弛んだ頬を更に弛緩させてにんまりすると、ミホの赤い帽子に手を伸ばした。

「隠さなくっても良いんだ。お前が、どんな顔でも、俺は……」 

 逃げる暇は無かった。止める暇も、無かった。

 気が付いたら、むしり取られていた。

「どんな顔でも、俺は、お前が好きだ」

 赤い帽子は既に、ゴリラ男の手中にあった。拳大の眼球が、まともに目の前の男の姿を捉える。肥大したゼリー状の眼球と、そのために変形した骨格。マスク男がふざけて、大げさに吐く真似をした。顔を両手で覆い隠しながら、ミホはとうとう悲鳴を上げた。

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《15》

『ニュータイプの出現について』 ジェームズ・D・ベルフェゴール

 巨大な眼球を持つ少女は、その外見のみならず能力までも否定されて来た。残念ながら、それは致し方の無いことだと私も考えている。逃れようのない過去の真実、できれば忘れてしまいたいような記憶を掘り返されれば、誰だって腹が立つだろう。

 彼女は、その巨大な眼球で、他人の記憶を覗いてしまう。別に覗き見をする気など無くとも、相手とまともに視線を合わせるだけで、相手の背負うものが一気に見えてしまうらしい。私は彼女を数回に渡って診察して来たが、眼球はもちろん、脳も至って健康だった。もちろんこんな非科学的なことを言われても、まともな研究者であれば疑ってかかるはずだ。

 なぜ私が、この少女を信じる気になったかというと、私自身、記憶を覗き見されてしまったからである。彼女がその目で見た私の過去と、私自身の思い出の情景は、ことごとく一致していた。

 私が研究者として名を馳せたことも、ミュータントであることがわかって学会を追放されたことも。追放の際、親友だと思っていた研究仲間から投げつけられた言葉まで、僅かの狂いも無く言い当てられてしまった。

封印したいと思っている過去ほど、はっきり見えてしまう。ニュータイプの少女はそう言って、だから帽子を手放せないのだと説明してくれた。

 だが恐ろしいことに、彼女に見えているのは、過去の出来事ばかりではなかったのだ。

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《16》

 ミホの頭の中に、様々な光景が飛び込んで来た。両目を覆い隠しても、一旦脳と言うスクリーンに映し出された映画は巻き戻ることが無い。

 まともに見たゴリラ男……アヤメ市の番長は、ぼろぼろの服を着て泣く子どもだった。弛んだ分厚い脂肪と、バランスの悪い骨格をミュータントの両親にすら馬鹿にされ、いつも一人きりだった。バケツの水を掛けられ、靴を隠され、勉強に使ったノートは引き裂かれた。誰に訴えても、取り合ってもらえない。絶望してすすり泣く子どもの光景は消え、すぐに別の光景が浮かんで来る。巨体に成長した彼は、同じ年頃の学生を殴り付けていた。外見を馬鹿にされると、馬鹿にした相手を決して許さなかった。

「嫌……!」

 ミホが叫ぶ。覆った目から、一筋の涙がこぼれた。

 頭の中で、また場面が切り替わる。アヤメ市の番長は、見覚えのある商店街を歩いていた。誰かの後姿が見える。セーラー服に赤い帽子。足を止め、彼は赤い帽子の人物に見入った。何度も切り替わる景色の中、彼の視線の先には、いつも赤い帽子があった。

 どうして、今まで気付かなかったのだろう。ミホは両手の指をそっと瞼から外すと、アヤメ市の番長をもう一度見ようと顔を上げた。

「ふざけるな」

 怒鳴ったのは、信也だった。中性的な整った顔だちの中で、目だけがぎらぎらと冷たく光っている。

「ミホちゃんに触るな。下種野郎」

 これほど怒りに呑まれた信也を見るのは、二度目だった。衝動的な性格は良く知っていたし、ミホは信也のそういう点が少しだけ苦手で、同時に好きでもあった。

クラスの女生徒の中に、ミホほど酷い顔の少女はいない。故に、恰好の的だった。机に悪口を刻み込まれたこともある。持ち物を捨てられたこともある。兄に言えば学校へ行くなと言われることはわかっていたし、怒り狂った圭介が生徒たちに手を上げれば、町にいられなくなることもわかっていた。ただ耐えれば良いと思っていたが、それが悪かったのだろう。

身体にも奇形が無いか調べると言って、男子生徒がいる前で下着一枚にされた。身体を隠そうとしてうずくまったミホに、黒い上着を掛けてくれたのは、信也だった。

「女同士の喧嘩に『男』は出るなって、言うけど」

 にやにや笑いながら裸のミホを見下ろしていた男子生徒が、宙に浮いていた。足をばたつかせ、顔色は真っ青に変わっている。

「こういう屑野郎をぶん殴るくらいなら、文句は無いよな?」

 ざわめいていた教室は、水を打ったようにしんとなった。男子生徒の胸ぐらを掴んで持ち上げていた信也は、そのまま腕を捻るようにして黒板に叩き付けた。固い黒板に生徒の背がぶつかり、チョークと黒板消しが散らばる。床にずり落ちた男子生徒は、最後は泣きながらミホに謝った。

「聞こえないのか? 離れろよ」

 今の信也は、あの時と同じ顔をしている。

 駄目、と、ミホは叫ぼうとした。ゴリラ男が、ミホの顎を掴んでまともに目を覗き込んで来なかったら、実際そうしていたはずだ。

「諦めろ、オカマ。ミホは俺のものだ」

 太い指が、乱暴にミホの唇を撫でる。

 『見えた』もので、ミホの頭は一杯になっていた。

 アヤメ市の番長だって、人間であることに変わりは無い。彼の傷を、ミホは『見て』しまった。彼にも、言い分はある。だが、それを信也に伝えたところで、理解してくれるかどうか。

「本当にミホを自分のものにしたいならさ。ちゃんと奪ってみろよ」

 それまで黙っていた優が、口を開いた。明日香は驚いて優の顔を見たが、優は片目を瞑って笑ってみせただけだった。

「ミホを盾にするんじゃねえよ。てめえで信也から奪ってみな。元々、そのつもりで喧嘩しに来たんじゃねえのかよ」

 ゴリラ男に向き直り、挑発的な言葉を浴びせる。

「ミホだって、強い男が好きだよな。喧嘩する度胸もねえような腰抜けなんかゴミだ。お前こそタマ無しの『オカマ』なんじゃねえのか?」

 ゴリラ男の顔から、血の気が引いた。歯ぎしりするような勢いで優を睨みつけていたが、やがてミホから手を離すと、真っ直ぐ信也に向き合った。

雄叫びと共に地面を蹴り上げ、その巨体からは想像もつかないような速さで信也に飛び掛かる。しかし、ゴリラ男が殴ったのは、地面だった。地響きのような音がして、校庭の地面に穴が空く。

「あいつは?」

 マスク男が、ぽかんと口を開いた。

「どこに行きやがった?」

 ゴリラ男に比べれば、腰ぎんちゃくのマスク男は鈍いようだ。上空から降ってきた『もの』が信也だとわかるのにも、時間を要した。

 全体重を掛けた蹴りが、ゴリラ男の背に命中する。しかし、全くと言って良いほど、効いていない。分厚い弛んだ皮膚が、衝撃を吸収してしまう。

「やっぱりね」

 奇麗に着地しながら、信也が冷静に呟いた。

「随分打たれ強いんだな。面倒臭そうだ」

 相手によって、相応しい倒し方というものがある。再び飛び掛かって来たゴリラ男の拳を、信也は今度こそ避けなかった。

 衝撃を受け流すようにして腕を捕まえ、その掴んだ腕を自身の肩に回し、背負うように投げ飛ばす。自重があればあるほど、衝撃は大きなものになる。背中をしたたかに打ちつけ、ゴリラ男は一瞬、目を回したようだった。しかし、起き上がる暇は与えない。信也はゴリラ男の襟首と、腰周辺の衣類を掴むと、自分の倍はあろうかと言う身体を高々と持ち上げた。

「嘘だろ……二百キロはあるんだぞ……」

マスク男が呟く。女のような顔で、乳房の膨らんだ信也がゴリラ男を自分の頭より高く持ち上げているのは、異様な光景だった。

「死ね」

 傍から見ている方にも、ゴリラ男の寒気が伝わるほど、冷え切った声と目つきだった。ゴリラ男の身体が、ぐらりと傾いで、逆さまになる。やはり、二百キロの巨体を支え続けるのは難しいのだろう。そのまま落としてお終いかと思われたが、その程度で許してやるほど、今の信也は甘くなかった。

 逆さまになったゴリラ男の腰に両腕を回し、蹴られた痕が赤黒く残っている頭部を、膝で挟むような位置に持って行く。その姿勢のまま、信也は地面を蹴って両足を軽く前に投げ出した。腰をしっかり掴まれているので、逃げることはできない。膝の間に頭があるので、手を付くこともできない。一瞬の浮遊感の跡で襲ってくる、重力の力。脳天から垂直に、まるで杭を打ち付けるかのような形で、ゴリラ男は地面に沈められた。頭の天辺から全身に雷撃が走り抜け、鼻からはどっと血が溢れて来た。

「決まったな」

 優がにやりとした。最初から、こうなることはわかっていた。信也は優のようなニュータイプではない。が、自分の体重の何倍もあるものを、易々と持ち上げる程度の力はある。番格などと呼ばれているのは、あの怪力のせいだ。

「嘘だ」

 マスク男が、呟いた。

「あの人が負けるわけがねえ。こんなの、卑怯だ……」

「見苦しいぞ、ブ男」

 優がマスク男を睨む。

「どこが卑怯なのか言ってみな。それとも、お前が信也の相手になるか?」

 ミホは、どこか泣き出しそうな顔をしていた。信也の傍に駆け寄ると、帽子を手で押さえたまま、自分より高い位置にある顔を見上げた。

 兄から貰った帽子は泥で汚れ、スカートも皺だらけだ。

「あの人は? 大丈夫なの?」

ミホが、倒れたまま呻いているゴリラ男に目をやった。

「平気だよ。打たれ強さには自信があるみたいだし」

 あれほど酷い目に合ったというのに、ミホは優しい。だからこそ、あのような男に付け込まれる。

「怖かったよね。すぐに助けられなくて、ごめん」

 すまなそうに言って、信也はミホの身体に付いた埃を払ってやった。

「……オカマ野郎が。馬鹿にしやがって……」

 鼻からぼとぼとと血を垂らしながら、ゴリラ男が寝返りを撃った。目だけが未だに、ぎらついた狂気で彩られている。

「ミホは、俺の……」

 だぶついた震える手が、アヤメ高校の制服の下から黒いものを掴みだす。不吉に鈍い光を纏ったそれは、鉄の塊だった。

「嘘……」

 明日香が掠れ声で呟いた。警備隊の圭介が、これと同じものを持っていたことを思い出す。警備隊に入らなければ持つことを許されず、ゾンビ相手でなければ絶対に使ってはならないとされている、その道具は。

「お願い」

 ミホの顔から、色が失せた。身体が、再び激しく震え出す。膝の力

が抜けそうになり、信也の腕にしがみ付く。

「お願い、それだけはやめて……」

 帽子を取られた一瞬。

 『見えて』しまった光景。

 銃口は、真っ直ぐ信也の方を向いている。

「馬鹿な真似はよしな」

 優の声が、引きつっていた。急にまた元気を取り戻したマスク男は、酷い口臭を放つ頭部から不快な笑い声を上げた。

「警備隊が居るのは、サクラ市だけじゃないんだぜ? アヤメ市にだって、こういうものはあるのさ」

 アヤメ市にも、サクラ市で言う北区のような場所があるのだろう。凶暴化したゾンビから身を守るために、拳銃の携帯が許可されている。

「落ち着けよ。ミホに当たったらどうする?」

 銃口の真ん前に立つ信也は、その場から一歩も動こうとはしなかった。ミホを庇うように、前へ立っている。いくら信也でも、撃たれれば無事では済まない。もう一度義手を外そうとして、優は思い止まった。距離が、開きすぎている。

喧嘩の際、優は相手を目いっぱい挑発する。相手が感情のままに殴りかかって来るように仕向け、ある程度距離を引き付けてからでなければ、うまく力を命中させられない。

「お前の『力』の限界は知ってるんだ。諦めな」

 マスク男が、優の腰に手を回そうとした。優は格別に固い義手の指を握って拳を作ると、マスク男の臭い口を殴り付けた。

 その為に、この義肢を選んだ。『念力』を封じられたって、やり方はある。

「手紙、読むから」

 ミホが、上ずった声で言った。白い手の中には、ゴリラ男が渡したハートの封の手紙があった。

「だから、お願い。撃たないで」

 ゴリラ男が、虚ろな視線をミホに向ける。

「読んでくれるのか?」

「いや、違うね」

 歯をずたずたにされても、マスク男は大人しくならなかった。唾液と血をまき散らし、ゴリラ男に向かって吠える。

「この女は、あのオカマを庇いたいだけだ。今許してみろ、後であんたは良い笑いものさ」

「違う!」

 ミホが叫ぶ。ゴリラ男の指が、ゆっくりと引き金を絞った。錆びた金属の擦れる、軋んだ音が、微かに響いたようだった。

「違うの、あなたよ! あなたが危ないの! やめて!」

 あれほど好きだったはずのミホの叫びすら、もう届いていなかった。

 ぼん、とも、ばふ、とも聞こえる、何とも形容しがたい音の直後、血煙が上がった。想像していたよりも小さくて、間抜けな音だった。

 一瞬の静寂が訪れる。

 優も、信也も、マスク男も、四ツ目女と豚女も。誰もが何の反応もできずに、ただ阿呆のように突っ立って、目の前で今起こっていることをぼんやりと見つめていた。全員が、これは夢だと信じ切っているかのような顔をしている。

 明日香はふいに、真っ白な髪と石炭の肌を持つクラスの男子生徒を思い出した。あまりに予測の付かないことに直面した時、脳は考えることを自動的に辞めてしまう。今となっては、明日香も彼を笑うことができない。

 何かが崩れ落ちるような音がして、明日香は振り返った。皺だらけのスカートを広げて、地面にぺたんと腰を降ろしたミホが、泣き出しそうな顔で震える両手を掻き抱いていた。

「また、間に合わなかった……」

 帽子に隠れた目から、つっと透明な滴が流れ落ちる。

 校庭が朱に染まる。

 間を置いて、豚女と四ツ目女が同時に悲鳴を上げた。

 二人は、初めて役に立ったと言える。怪鳥のような神経を引き裂く金切り声のお陰で、誰もが我に返ったのだから。

「見るな、ミホ」

 優がミホを助け起こす。

「止血、しないと……」

 まだ半分悪夢の中にいるかのような表情で、マスク男がよろよろと血だまりに近付いた。何かしなければ後悔するような気がしたが、何をすべきかはわからなかった。

 アヤメ市の番長の、潰れた眼球は黄色く濁っていた。涙と血はうまく混ざらない。裂けた頬肉の間で、支えを失った皮下脂肪が、弱くなる呼吸に合わせて小刻みに痙攣する。血の飛沫でまだら模様になった拳銃からは、まだ熱い煙が上がっていた。

「馬鹿だな」

 もう二度と動かないであろうアヤメ市の番長を見下ろして、信也が低く呟く。冷たい怒りの消えた目には、憐れみの色が浮かんでいた。

「ミホちゃんは、君を助けようとしてくれたのに」

 帽子のつばを握りしめて、ミホは黙って肩を震わせている。泣いているのだろう。ぼんやりとした絶望が、徐々に、激しい怒りに変わっていくのを、マスク男は感じた。

「お前のせいだ! お前のせいで、こんな……」

 こうなると、わかっていたくせに。助けようとしていたならば、なぜ、この結果があると言うのだろう。泣く資格など、あるわけがない。

優に殴られた口から血の泡を飛ばして、マスク男は叫び続けた。舌がずたずたな上に泣き声なので、発音は酷く不明瞭で間が抜けている。

「ミホ。あなたは……」

 ノーマルの少女の声が、やけに遠くで響いていた。マスク男の全身に衝撃が走る。殴られた、と気付くのにも、時間が必要だった。

「何を、『見た』の?」

 明日香の言葉を最後に、マスク男の記憶は一旦、途絶えた。

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