長編43
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日曜日は最高の終末6

《1》

《学級日誌 当番・優》

 北区に忍び込んだ時も大変だったけど、今回も結構大変だった。喧嘩なんかいつものことだったけど、ここまで最悪なことになったのは初めてだ。ミホと明日香を巻き込んだのは反省してる。信也の反省文、丸写ししたのも。

 アヤメ市の番長連中のことは本当に知らない。病院に連れてってやったのは私達だけど、後のことまではわかんないよ。行方不明、だって?最初に馬鹿やったのはあいつらだし、学校に戻り辛くなったんじゃねえの?

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《2》

 目を覚ました時、マスク男は今度こそはっきりした絶望を味わうことになった。

「気が付いたかい?」

 黒い学生服が、視界に飛び込んで来る。その辺の女よりも整った顔立ちと、長く伸ばした黒髪には見覚えがあった。背景には、鬱蒼とした森が茂っている。ここは、サクラ中学の校庭ではない。

「信也、……」

「やっと、僕の名前を覚えてくれたね」

 奇麗な微笑みに、寒気がした。いつの間にか、日は沈んでいる。いや、異様に背の高い雑草と絡み合った木々に遮られているせいで、日の光が届かないだけか。露に濡れた背中が冷たい。殴られた口は腫れ上がっていて、固まった血を舌で舐めようとすると、ぎざぎざに割れた歯が刺さった。

 ここはどこだ、などと、聞くだけ無駄だということはわかっていた。異様に湿った空気の、この生臭さを、マスク男は知っている。アヤメ市とサクラ市は、単に隣同士というだけでなく、似ているところもそれなりに多い。警備隊の存在も。彼らが居る、理由も。

「アヤメ市にも、この『北区』と似たところはあるのかな?」

 およそ人間のものとは思えない、獣のような唸り声が、すぐ近くから聞こえた。普段のマスク男ならば、もちろんゾンビを恐れたりはしない。だが、今は。背中に回された腕を、マスク男はどうにか前に持って行こうとした。途端に、痺れるような酷い痛みが走った。

「別に縛っちゃいないよ。手先は器用な方じゃないしね。僕に殴りかかりたいなら、やってみれば? できたら、だけど」

信也が笑い声を上げた。マスク男の両方の手首と肘は、本来ならば決して曲がらない方向に強引に捻じ曲げられていた。十本の指までもが、てんでばらばらな方向を向いて赤黒く固まっている。

 叫ぼうとしたが、声が出なかった。冷汗が体温を奪う。耳を澄ませば、周辺に居るゾンビが決して一匹や二匹でないことが容易にわかった。足に力を入れてみる。結果、両腕よりも激しい痛みに襲われた。マスク男が、泣き出しそうな顔になる。それを見て、信也はまた笑った。マスク男が息を飲む。信也は何故、こんなに涼しい顔をしていられるのだろう。

「ゾンビごときが怖いなんて、腰抜けにも程があるね」

 まるで、確信しているかのような。

 自分だけは安全だと、信じているのではなく、最初からわかり切っているかのような。傍にいるはずのゾンビ達は、なぜ、襲い掛かって来ないのだろう。人間の肉の匂いは、しているはずなのに。

「君のお友達がどうなったか、いい加減に気付いたら?」

 マスク男が首を動かさなかったのには、理由があった。隣を見れば、認めてしまうことになるからだ。

マスク男の三倍はあろうかという巨大な身体が、それを操る意志を失くしてごろりと横たわっていた。誰よりも頼もしく見えた大きな背中は、熱に浮かされて荒い呼吸を繰り返している。頭部を覆う白いガーゼが、湿った赤とねばつく透明な液体でじっとりと湿っていた。

「ジェームズ先生は優しいからね。手は尽くしてくれたけど、やっぱり駄目だってさ。そのゴリラ、もう一生廃人だよ。君に面倒見きれるかい?」

 唇に薄らと笑みを浮かべたまま、信也はもののように転がったアヤメ市の番長を見下ろした。

 銃の暴発。最悪のことが、最悪のタイミングで起こった。銃が欲しいと頼み込まれて、マスク男はアヤメ市の警備隊基地に忍び込んだ。破棄する寸前の銃は、管理がずさんになる。危険だということは、マスク男が一番良くわかっていた。

「本気だったら、少しは許してやるつもりだったんだけどな」

 信也の手の中に、見覚えのある白い封筒があった。ピンク色のハートは剥がされている。やめろ、とマスク男は言おうとしたが、やはり声にはならなかった。

嫌悪感に満ちた目で、信也が吐き捨てるように言う。

「字が汚すぎて、読みづらかったけど。要は、ゴリラ男のものにならなきゃ、ミホちゃんをお嫁に行けない身体にするっていう脅迫文だ」

 まるで穢れたものを扱うかのように手紙をつまみあげると、信也は一息に引き裂いた。ゾンビの唸り以外は何も聞こえない空間に、紙の破れる啜り泣きのような音が静かに響く。便箋に書かれた手紙は紙ふぶきとなって、ゾンビの血や糞尿で汚れた地面に舞い落ちた。

 お前に、何がわかる。

 地面に這いつくばったまま、マスク男が信也を睨んだ。

あの人は、ずっと一人ぼっちだった。誰からも必要とされなかった。暴力でしか、信用を得られなかった。正しい愛し方など、知るはずも無い。それでも、マスク男が嫉妬するほど、あの人は、ミホの事を。

「お喋りはここまでだ。僕の母さんが、お腹を空かせている」

 便箋の破片を、信也は靴底で踏みつけた。

 ゾンビの唸り声が、大きくなる。

 ――オカエリ……オカエリナサイ……――

 ゾンビ達の輪が、縮まったようだった。輪の中心にいるのは、マスク男とゴリラ男だ。

「母さんも、皆も。お腹いっぱい食べるといいよ」

 北区で消えた人間は、二度と見つからない。骨まで噛み砕かれて、形さえ残らない。ミホに無理やり抱き付いた男を、圭介はこの樹海に捨てて行った。ジェームズ医師が人目をはばかりながら、布に包んだ人型のものを置いて行ったこともある。

 息を殺しながら、信也は全てを見ていた。

 良いアイディアだと思った。

 だから、真似をした。

マスク男が、掠れた悲鳴を上げる。美しい女の姿をしたゾンビが、一歩一歩、足を引きずりながら近づいて来る。血塗れの白い歯が身体にゆっくりと食い込んだ時、マスク男は、自分も意識を失っていたら良かったのにと、心から思った。

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《3》

《警備隊長幸也の記録書》

 阿方が竜一に、更生施設のことを尋ねたらしい。あの胸糞の悪い場所のことは、いつまで経っても昔話にはならないだろう。『その程度のことで』ノーマルはいつも言う。だが、俺たちミュータントが『その程度』の出来事でどれだけ傷付けられたのかを、奴らは理解しない。

 竜一は施設で両目を失った。優が失ったものは、もっと大きい。

 俺はノーマルがあの二人にした仕打ちを、『その程度のこと』とは思わない。施設は何年も前に火事で焼けた。ノーマルは、一人も助からなかった。それを聞いても、俺は全く同情できない。

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《4》

竜一が変だと気付いたのは、圭介が最初だった。

「あいつはいつも変だろ。口開けば彼女……優ちゃんだっけ? の、話ばっかりでさ」

 晃はそう言って取り合わなかったが、長く一緒に組んでいると、微妙な変化も目につくようになる。

「あんまり、身が入ってないみたいだな」

 圭介が竜一の肩を叩いた。ぼんやりと白杖でゾンビの臓物を突いていた竜一が、不意打ちに驚いて振り返る。振り返った瞬間、血塗れの白杖の先端は圭介の喉元にあった。

「……何だよ、急に」

「いや、別に。疲れてるのか?」

 地面に転がっているゾンビは、もうぴくりとも動かない。普段の竜一ならばさっさと解体して肉に変えているはずなのに、いつまでも杖で突きまわしていたため、鮮度が落ちて蠅がたかっていた。

「今日はまた北区へ調査に行く予定だろう。その調子なら、連れて行くわけにはいかない」

 気絶させたゾンビを二体一緒に引きずって来た阿方が、口を挟んだ。竜一が不機嫌そうに杖を降ろす。ぴちゃ、と粘つくような音を立てて、乾きかけた血の塊が地面に落ちた。

「あなたが決めることでは……」

「阿方さんの言う通りだ。竜一、何を苛々しているんだ?」

 圭介にまで指摘されて、竜一は仕方なく口を噤んだ。

 竜二が生きている、などと、阿方に言うべきではなかった。阿方は、何としてでも竜二に会おうとするだろう。竜二が今や、自分の意志さえ失ってしまっていると知れば……矛先が、こちらに向かわないとも限らない。

 なぜ、ここまで不安な思いを抱えて生きなければならないのか。何も知らずに心配そうな言葉を掛けて来る圭介にさえ、苛立ってしまう。ようやく、優と暮らせるようになったのに。ミュータントに生まれたというだけで責められ、殴られ、逃げ果せたと思ったら、またノーマルに怯える羽目になるとは。

「本当に大丈夫か? 俺で良ければ、相談に乗るぞ」

「圭介に相談したって、何も解決しないさ。君もミホも、自由じゃなかったことなんて無いだろ」

「竜一……」

 圭介が困ったように、阿方と竜一を交互に見た。

「どうしたんだよ。優と喧嘩でもしたのか」

「別に。優とはうまくいってるよ。ねえ、阿方さん?」

 急に話を振られて、阿方が眉を寄せた。

「阿方さんは、もっと僕に言いたいことがあるんじゃないですか?」

 竜一が何のことを言っているのかを悟って、阿方の顔色が変わる。

「ああ」

 阿方の手から、血塗れのゾンビが滑り落ちた。圭介の顔色を伺いながら、阿方は溜息を吐くように口を開いた。

「聞いても良いなら、ぜひ、聞きたいことがある……施設のことだ」

 拳を握ったのは、圭介の方だった。竜一と優にとって、更生施設の話はタブーだったはずだ。向こうが話したがらないのに、敢えて聞こうともしなかった。サクラ市に転がり込んで来たばかりの時、竜一の身体はぼろぼろで寝たきりだったし、優もやせ細っていて目ばかりが大きく目立っていた。何も聞かなくても、圭介には二人がどんな思いで逃げて来たのかが、痛いほどわかっていた。

「阿方さん、それは……」

「いいんだよ、圭介。いずれは、話そうと思っていたんだ」

 竜一が笑った。覚悟を決めた、というよりは、これから誰かを傷つけようとする笑みに思えて、圭介は少しだけ寒気を覚えた。

「阿方さんにも、知る権利はある。竜二の『お父さん』だからね」

 お父さん、という言い方が、妙に皮肉だった。阿方が、竜一から目を逸らす。

「竜二は、お前に会いに施設まで行って……帰って来てから、おかしくなり始めた。ウイルスの影響もあるのだろうが、何があったのかを俺は知りたい」

 ノーマルの仲間が一人減り、二人減り。明日香たちの前では明るく振る舞っていても、忍び寄る死の足音は竜二にも迫っていた。仲間を葬るごとに、その事実は竜二の上に重くのしかかって行ったに違いない。

「更生施設ではミュータントの外出は許されませんでしたが、ノーマルの訪問は比較的自由でした。とは言え、ミュータントの子を捨てた親が会いに来ることは滅多にありませんでしたけどね」

 成長した竜二に会うのは、初めてだった。ジェームズ医師のところで最後の検査を受け、竜一は施設に放り込まれた。以来、家族の顔は見ていない。始めは、その青年が竜二だとは理解できなかった。

「君のお母さんとお父さんは?」

 君の、という部分に力を込めて、竜一は言った。生んでおきながら捨てた両親を、親だと思ったことは一度も無かった。

「死んだよ。ウイルスにやられた」

 ウイルスに巣食われているのは、竜二も同じだ。どの程度の潜伏期間で暴れ出すのかは、わからない。今の竜二は、運よく生かされている状態だ。子どもっぽい優越を抱いて、竜一が微笑む。

「久しぶりだね。で、何の用? 僕をここから出してくれるってわけじゃ、ないんだろう?」

 首筋の目が、ぎょろりと動いて竜二を見る。竜二は昔から、竜一のこの目が大嫌いだった。兄は相変わらず吐き気がするほど醜くて、そのくせ眼球以外の顔立ちは竜二と全く同じなのだから、余計腹が立つ。

「顔を見に来ただけだ。まだ図々しく生きてるのかと思ってな」

 面会用の部屋に付いている監視カメラを気にしながら、竜二が堅いソファの上で居心地悪そうに身じろぎした。

「正直、お前はもう死んでるかと思った」

 竜一の返事を待たずに、竜二が先を続ける。

「隠しても無駄だ。お前のそれ、もうガタが来てるんだろ?」

 竜二が、自分の胸の辺りを指で突いた。竜一が息を詰まらせたように黙り込むのを見て、竜二がますます饒舌になる。

「二十歳まで生きられたら奇跡だって、あの金髪のヤブ医者が言ってたよな。俺もお前も、もう十八だ」

 竜二が、竜一のことを嫌っているように。竜一も、竜二のことが嫌いだ。昔から竜二は、勝ち誇っていなければ気の済まない子供だった。竜一は常に竜二の下でなければならず、誰も彼もが竜二の味方だった。

 竜二はあの頃から、何も変わっていない。

「俺が施設の従業員なら、お前をさっさと処分するね。どうせ、すぐに死ぬくせによ」

 竜一とは異なり、正式な場所に付いている両目が、赤く充血していた。竜二が何の目的で来たのか、竜一にはもうわかっていた。

 竜一は常に、竜二よりも惨めでなければならない。竜二は、単に安心したいのだろう。自分よりも醜く惨めな境遇の兄を見ることで、自分はまだ良い方なのだと思い込みたいだけだ。

ゾンビ化の恐怖に怯え、眠れない夜を過ごすことも。消えて行く仲間を埋葬することも。若くして死ななければならないかもしれない事実を、受け入れることも。

 ミュータントに生まれて施設に閉じ込められるよりはずっとマシなのだと、どうにかして思い込みたいだけだ。

「寿命が少ないのはお互い様だ。それに僕は、竜二が思ってる程不幸なわけじゃない」

 竜一がわざと寛容に微笑んだ。

 この時の行動を、今でも竜一は少しだけ後悔している。初めて、竜二に勝てると思った。竜二が嘆く姿が見たいと、そう思ってしまった。

「紹介するよ。竜二のお姉さんになるかもしれない子だからね」

 竜一にそう告げられた時、竜二はどんな顔をしたのだろう。

圭介の視線が、竜一の首筋の辺りを彷徨う。割れた眼球が白く濁っていた。竜一は、圭介の顔を知らない。

 圭介が初めて竜一と会った時、竜一の両目は既に潰れていた。閉じられた瞼の隙間から、涙のように血が溢れていたのを覚えている。壊れかけの義手で竜一の身体を支えながら、服を血に染めて、警備隊基地に転がり込んで来たのが優だった。

「竜二は……優を見て、何を言ったんだ?」

 阿方が、のろのろと口を開いた。死が迫って来ていることを、竜二は自覚していたはずだ。竜一には未来があった。優という恋人が傍らに居た。竜一は孤独でもなければ、死の恐怖に怯えてもいなかった。立場が、完全に入れ替わっていた。

「何も言わなかったよ。あいつは昔から、何一つ変わっちゃいなかった」

 竜一が笑った。

「あいつにとって、僕は絶対的に下だったからね」

子どもの頃から、両親のお気に入りは竜二だけだった。竜二自身、その境遇を楽しんでいたに違いない。竜一の気に入っていた玩具は、全て壊された。竜一が誰かに好かれそうになると、必ず邪魔をしに来た。

「すまない」

 阿方がぽつりと言った。

「何であなたが謝るんですか?」

 竜一が笑いながら言うと、阿方は無言で俯いた。手のひらに爪の痕が残るほど、拳をきつく握っている。施設のことを先に口にしたのは、阿方だ。だが圭介は、阿方が気の毒でならなかった。

「あなたが謝っても何にもなりませんよ。そうでしょう?」

 止めても、竜一は話すだろう。圭介は諦めて、竜一から目を逸らす。

「竜二みたいな奴の一人や二人、優なら簡単にあしらえたでしょう。だけどあの時は、僕の方が冷静になれなかった」

白い杖から滴る血が、地面に赤い線を引いている。警備服を着て白杖を持った今の竜一が、あの日の血塗れの姿と重なる。

「施設の職員が、訪問者の荷物チェックをさぼっていたのは誤算だったな」

 ノーマルは、ゾンビに噛まれることをミュータント以上に恐れている。彼らが、丸腰で外を歩くことは少ない。

竜二は、ナイフを持っていた。ゾンビ化しかけた仲間を何人も殺して、なまくらになってしまったナイフを。

竜二は、優に向かって突き出した。

「何で僕じゃなかったのか。それだけは、今もわからない」

頭で何かを考えるよりも、身体の方が先に動いた。首筋の眼球に、妬けるような痛みが走った。視界が一瞬、真っ赤に染まる。あっと言う間にぼやけていく景色の中、こうもあっけないものかと、妙に拍子抜けした気持ちでいたのを覚えている。

 刃の欠けたナイフから鮮血を垂らしながら、竜二がその場に座り込んだ。震える歯はがちがちと音を奏でている。

慟哭。優が両目をぎらぎらと光らせて、竜二を睨みつけている。ナイフを持った竜二の手が、ふわりと浮きあがった。竜二が喉の奥で悲鳴を上げた。血だらけの刃が、竜二自身の喉を突きそうになった時だった。

「いいから、優。最後に顔、見せて」

 竜一が優の肩を捕まえた。優が竜一の顔を見る。竜二から視線が逸れた途端、ナイフはかたんと音を立てて床に落ちた。

「竜一……、どうして」

 優の目から涙が溢れた。竜一は震える両手で優の顔をそっと挟み込むと、その顔を霞がかった視界の中に閉じ込めた。

 大丈夫だ。

 まだ、見える。

 首筋の眼球から、滝のように血が流れていた。恋人の顔がぼやけていく。視界が白くなり、やがて黒一色に変わった。優の嗚咽する声で、竜一は光が永遠に失われたことを悟った。

「僕が自分の目で見た、最後の記憶だ」

竜一は言葉を切って、急に顔を上げた。どきりとした後で、その目にはもう何も映らないことに、改めて気が付く。圭介は何と答えて良いかわからず、無意識に竜一の首筋を見つめた。血の付いた杖で地面を引っ掻きながら、竜一は饒舌に語り続けている。

「面会室には、カメラや盗聴器の類があったのかもしれない。ノーマルはミュータントを信用しないからね。目が見えなくなってすぐに、大勢の足音が聞こえて来た」

体温が離れていくのを感じて、竜一は血に塗れた腕を伸ばした。瞬間、腕に弾かれるような痛みが走る。

「そいつに電流は使うなと言っただろう!」

 指導員の苛立った声に、互いの声がかき消された。

「死んだら、抗体が取れなくなる」

「メスのミュータントの方は?」

「そっちは、好きにしろ」

 焦げ臭い臭いは、スタンガンだ。優の叫ぶ声が聞こえる。ふらつく足で、何とか立ち上がった。女の指導員が、猫なで声で竜二に話しかけていた。

「いい? あなたは、悪くないのよ。ミュータントが悪いの。何も心配しないで良いから、外では何も喋っちゃ駄目よ……」

 ノーマルが誰の味方をするのかは、いつも決まっている。

 吐き気がする。

 竜一の腕を、別のもっと太い腕が乱暴に掴んだ。ノーマルの指導員。誰かはわからない。目が見えたとしても、見分けが付かない。

首を回すと、潰れた眼球が痛む。気にはならなかった。竜一は、指導員のむき出しの太い腕に思いきり噛み付いた。尖った歯が皮膚に食い込み、甘い血の味がどっと口の中へ流れ込んで来る。

「……その後のことは、あなたにも想像が付くでしょう」

 強固な要塞、ミュータントを閉じ込める監獄だった施設は、焼失した。

「やったのは僕と優ですが、きっかけを作ったのは竜二です」

 阿方に向かって、竜一がとどめを刺すように言った。

焼け死んだ者の中に、阿方の友人も居る。けれど、阿方は竜一を責めることはできない。友人の死は竜二のせいではないと、散々言い聞かせて来たのだ。どうして、竜一を責められよう。

「もういいだろ、竜一」

 気まずい沈黙を破るように、圭介が間に割って入る。

「阿方さんも、もう終わったことだ。あんたの中じゃ、終わってないのかもしれないけど……今更何を言ったって、変わらねえだろ」

 阿方は、怒鳴りちらすような真似はしなかった。ただ、拳ばかりでなく全身を震わせて、竜一のことをじっと見ているだけだった。

「頼みがある」

 かなり間を置いて、阿方はようやく口を開いた。たったそれだけの言葉を発するにも、力を使い果たしそうな様子だった、

「竜二に、会わせてほしい」

 圭介は口を開いたまま、信じられないとでも言うように阿方を見つめた。阿方が、取り繕うように微かに笑う。

「竜二がやったことは、俺の責任でもある。ゾンビは敵かもしれないが、ミュータントは違うとあいつに教えるべきだった。だから俺は、竜二と話をしたいんだ」

「会ったところで、あなたが喜ぶとは思えませんが」

 最後に会った時の竜二は、惨めだった。ゾンビ化の未来がすぐそこに迫っていながら、発症していることをかたくなに認めようともしなかった。自分が両目を潰した相手に助けて貰おうなんて、虫が良いにもほどがある。

「いいんだ。どんな姿でも、あいつはあいつだ」

 竜一にとって、竜二がどれほど許せない存在であろうと。血の繋がった弟だとは、到底思いたくない相手であろうと。

 阿方は、竜二を軽蔑することができない。

 両目を潰された竜一の悔しさが、わからないわけではない。それでも、阿方にとって竜二はかけがえの無い『家族』だった。彼らと共にいるだけで、未来という希望を信じられる気がしていた。

「明日香にも、竜二が必要なはずだ」

 阿方の呟きに、圭介が僅かに眉を潜める。

「決めつけなくたって……」

 竜一は警備服の胸ポケットから煙草を取り出すと、マッチで火を点けた。目が見えないのに、器用なものだ。薄い紫煙を吐き出し、呆れたように口元だけで笑う。

「会うことは構いませんが。あなたに、耐えられますかね」

 既に竜二ではなくなったものを、竜二だと認めることは、想像以上に難しいだろう。何も知らないままでいる、それが誰にとっても幸福なのだろうが、阿方はそれを望まない。

「別にいいですけどね。あなたがどれだけ後悔しようと、僕の知ったことじゃありませんから」

 真実を知って狂う程苦しむのは、阿方ではなく、明日香の方だろう。しかし、阿方はそれに気付かない。目に見えるものしか信じないこの男には、結局、真実など何一つわからないままなのかもしれない。

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《5》

《警備隊長幸也の記録書》

 竜二というノーマルのことを、俺は何一つ知らなかった。いや、ここで言い訳をしても仕方ないだろう。竜二の存在を知らなかったのは事実だが、竜二のことを阿方から聞いた時、ぼんやりとではあるが、頭に浮かんだ記憶があったことは確かだ。ただの俺の想像、もしかしたら記憶違いかもしれない。しかし、日を追うごとに、それこそが真実ではないかという思いが強くなっている。

圭介や晃も、妙に感じてはいるはずだ。あれほど身体の弱っていた竜一が、今は何事も無かったかのように警備隊で働いている。とうに余命宣告を受けた人間が劇的に回復するなんて、あまりにも都合が良すぎはしないだろうか。

俺の想像が単なる想像なのかどうか、確かめる術はある。ジェームズ医師に直接聞くことだ。しかし、俺の決心が付かない。真実を伝えることが必ずしも阿方の救いになるのかどうか、俺にはわからない。

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《6》

 あきこにとって、ジェームズ医師は仕事仲間であり、友達でもあり、共犯者でもあった。恋人同士だったこともあった、などと、陳腐なことを言うつもりは無い。あきこの恋人は、今も昔も一人きりだ。阿方のことは……あきこはそこまで考えてから、自分の思い浮かべたことがおかしくて笑った。ノーマルから、直接謝罪されたのは初めてだ。

「あら?」

 口元に手を当てて、あきこはわざとらしく声を出した。机の下に潜っていた影が、びくっと身を震わせる。

「出ていらっしゃい。怒ったりしないから」

 明るく笑いながら、あきこは机の前に屈み込んだ。書斎の中は、薄暗い。電気を自由に使える場所なんて特に限られているから、薄暗いのは当たり前なのだが、膨大な本や資料がぎっしりと壁に並んだこの場所は、どの病室よりも暗く重苦しい空気に満ちていた。

「外来の受付はもう終わったわよ。急患、てわけでもなさそうだけど」

 あきこは小さな侵入者の腕を掴むと、強引に引きずり出した。

「先生の部屋に潜り込むなんて、一体何の用事かしら」

 勇は、最後に会った時と全く同じ服を着ていた。何度も洗ったせいか色が落ちて生地も傷んでいたものの、顔つきから髪形まで、何一つ変化していないように見える。

「……化け物」

 勇はあきこを睨んだ。視線は、あきこの手にしたバスケットに釘付けになっていた。生臭い匂いが、本の黴臭さに混じって鼻を突く。バスケットに掛けられた布は、食事をくれた時のような清潔なものではなく、皺だらけで、赤茶色の染みがあちこちに飛んでいる。

「来るな!」

 あきこの手を振り払おうと、勇は身をよじった。その拍子にバスケットが揺れて、中に仕舞われていたものが音を立てて床に落ちた。

 錆びたナイフと、巨大な鋏。こびりついた赤黒い塊の正体については、あまり考えたくない。

「危ないじゃないの……」

 抑揚の無い声で、あきこが静かに言った。

「今日は月曜日……水曜日……土曜日かしら? あなた、小学校には行っていないの?」

顔に張り付いた笑みが、薄暗い中で余計に不気味だ。

「お前ら……」

 特別暑い季節でもないのに、勇は汗をかいていた。息は荒く、声は子どもとは思えないくらい皺枯れている。何も知らない者が見たら、怯えているのだと思われただろう。

「お前ら、なんだろ?」

媚びるように、勇が笑った。勇の身体は恐怖で震えていたのではなかった。幾ばくかの不安と、期待。うまく行けば、勇にとってこれほど都合の良いことは無い。

「お前らが、竜二を殺したんだろ?」

 勝ち誇った声で、勇は宣言した。あきこは、勇の周辺にノートが散らばっているのを見つけた。ジェームズ医師の論文。今書いているのが何冊目なのか、あきこはとっくに数えるのを辞めている。

「子どもが読んでも、面白くないでしょう?」

 あきこは苦笑して、ノートを一冊拾い上げた。片手で勇の細い腕をしっかりと掴んだまま、中を開いて視線を走らせる。あきこの顔に張り付いていた笑みが、どこか恍惚としたものに変わって行く。

「ねえ、勇君」

 急に名前を呼ばれて、勇は身を固くした。あきこが手を離さないので、逃げることもできない。どころか、目を逸らすことさえ、許されないような気になってしまう。

「これを阿方さんに見せたら、どんな顔をするかしら」

 あきこは、阿方という男が嫌いではない。だから、余計に興味がある。全てを知ったあの男が、それでも平静でいられるのかを。ミュータントに対して、罪悪感を持ち続けられるのかを。

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《7》

《学級日誌 当番・ミホ》

 ごめんなさい。全部私が悪いんです。明日香にあんなもの、見せなければ良かった。この目が嫌い。何も見えない方が、ずっと良かった。

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 早朝でも、学校の門は開いている。ただし、宿直室で寝泊りしている一部の教師を覗けば、人影は無い。廊下を踏むたび、足音がいやに大きく響くようだ。

図書室に明日香が入って来ると、ミホは急いで机の上のものを鞄に放り込んだ。顔を伏せたまま足早に出て行こうとする姿に、明日香の声が自然と大きくなる。

「待って」

 振り返ったミホの顔は、半分も帽子に隠れているため、表情もわかりづらい。怯えているのか、不安がっているのか。

「どうして、逃げるの?」

アヤメ市の学生との悶着があって以来、ミホは明日香を避けるようになっていた。心当たりならば、明日香にもある。

「この図書室で、勉強を教えてくれたことがあったわよね」

 図書室を見回して、明日香はぎこちなく微笑んだ。あの日は、もう遠い昔のようだった。

「ミホ。そろそろ、本当のことを教えて」

 ミホが息を呑んだ。小さな唇の裏側で、白い歯が震えている。

 ミホはいつも、同じ席に座ってノートを広げている。この位置からでは、どうやったって、本棚の裏側までは見えない。それにも関わらずミホは、そこからゾンビが飛び出して来ることを知っていた。

「あなたが『危ない』って叫んだ時、ゾンビはまだ本棚の後ろに居たはずよ。アヤメ市の番長の時も、そう。どうして、拳銃が暴発することを知っていたの?」

 冷静を装いながらも、明日香の心臓は暴れるように脈打っている。

 四ツ目のクラスメートは、ミホの帽子をはぎ取った。アヤメ市のゴリラ男も同じだ。そして、明日香も。勇が彼女の帽子を奪った瞬間に、顔を見られている。

「ミホ。あなたには、何が見えているの?」

巨大な眼球が鏡のように光って、その中に自分の驚いたような顔が映っていたのを、明日香はまだ覚えていた。

「……見たくなんてないのよ。何も変えられないんだもの」

 明日香の視線から逃れるようにして、ミホが俯いた。

「鏡を見るのだって、怖いの。何が見えるか、わからない。今日で人生が終わるってわかっても、自分じゃどうにもできないのよ」

 ニュータイプ。選んで生まれて来たわけではない。両親がミホを捨てた真の理由など、とっくにわかっている。優や信也だって、ミホが本当に嫌なものを見てしまえば、友達ではいられなくなるかもしれない。

「私は、ミホが好きよ」

 静かな声で、明日香が言った。嘘のつもりは無かった。四ツ目女もゴリラ男も、結局は自分自身のせいでああなった。自業自得だ。ミホを恨むのなんて、馬鹿げている。

「ミホを嫌いになったりしないわ。だから、隠さないで」

 ミホの手を取った。開いた窓から、葉桜の青い香りが漂う。躊躇いがちに、ミホは明日香の手を握り返した。二人は、並んで椅子に座り直した。帽子を取れば、明日香はまともにあの瞳を見返すことになる。そのくらい近くに、ミホの顔があった。

「知らない方が良かった、ってことも、確かにあるけれど」

明日香の指には、大きすぎる指輪がはまっている。ミホと圭介のような血の繋がりは無いものの、竜二はいつでも明日香を守ってくれた。

竜二を、勇とは違った存在として見るようになったのは、いつからか。

「あの人が最期に来たのが、この……サクラ市なのよ」

その竜二のことを、自分は忘れようとしている。そう思うと、罪悪感で胸が潰れそうになった。何度季節をやり過ごしただろう。明日香は大人になって行き、阿方の人生の終わりも近付いている。認めたくなくても、それが現実だ。

 ミュータントと共に生きて行くことは、始めに思っていたほど悪いことではなかった。家も着るものも食料も、一応は全て揃っている。学校に行くこともできた。友達もできた。

そして……圭介の暖かな手と、柔らかい笑みのことを考えると、胸の中がじわりと熱くなった。助けてもらったお礼は、まだ言えていない。竜二のことを考えたいのに、最近ではいつの間にか圭介のことを考えてしまっている。阿方は、反対するだろうか。竜二を裏切ることになるのだろうか。その答えはきっと、一人では見つけられない。

「竜二さんに、もう一度会いたいの。会えるかしら?」

「わからないわ」

 ミホが首を振った。

「何もかも、完璧にわかるわけじゃないの……」

 覚悟を決めたように、ミホが白い指を赤い帽子に伸ばす。柔らかな髪の毛の上を音も無く滑って、赤い帽子はセーラー服のスカートの膝に落ちた。

「明日香。『見て』」

 ミホの手を握ったまま、明日香はミホの眼球を覗き込んだ。

 艶やかに濡れた瞳が水面のように揺らいで、そこに映る明日香の影が輪郭を失って行った。

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《8》

 遠くでチャイムが鳴った。

 一時間目が始まる。

反射的に立ち上がろうとして、明日香は『これ』が現実ではないことを悟った。ミホの眼球に映る景色が、揺らぐ。

「げっ、一時間目から宗教学かよ」

 形の良い唇を尖らせた少女が、優なのだと気付くのに時間を要した。茶色く染めているはずの髪の毛は、暗い色をしている。化粧を全くしていない顔は、妙に幼く見えた。

「座って」

 ミホが、明日香の手を掴んだ。その感触すら酷く朧なものに思えて、明日香は指示に従うのを躊躇った。

「座って」

 辛抱強く、ミホが繰り返す。巨大な眼球は、極彩色の万華鏡だ。記憶の万華鏡。ジェームズ医師ならば、催眠術と呼ぶのかもしれない。

「大丈夫だから。私の『見た』ものが、明日香にも見えているだけ。ここは図書室のままよ。座って、私の目を見ていて」

ミホの頭の中に仕舞われた記憶の箱が、次々と口を開けて行く。明日香は、ミホの手を強く握りしめた。それだけが、明日香を現実に繋ぎ止めてくれると、信じるかのように。

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《9》

「げっ、一時間目から宗教学かよ」

 優が唇を尖らせると、隣に並んで朝食を取っていた竜一が笑った。規定よりも僅かに伸ばした髪は、輪ゴムで小さく縛っている。

「宗教学か。僕も嫌いだよ」

「好きな奴なんていねえだろうさ」

 ミュータントは、神の意に沿わない存在である。ミュータントは、生まれて来たこと自体が罪である。そんな説教を延々聞かされて、将来一体何の得になるというのだろう。それでも一部の『熱心な』生徒たちは必死に頷きながらノートを埋めているのだから、驚きだ。

「この更生施設で良い成績を残せたら、ノーマルたちと一緒に働ける就職先を紹介して貰えるんだってさ」

「噂だろ。私は嫌だね、そんなの」

 優が髪の毛を掻き上げると、目の横の痣が露わになる。施設の規則では女子は髪の毛を三つ編みにしなければならない決まりだが、優一人だけがそれを守っていない。

「また、殴られたの?」

 竜一が渇いた声を出したので、優はしまったと思った。痣が一晩で消えないことくらい、いい加減学習しても良さそうなのに。

「軽く、だよ。別に懲罰室に入れられたわけじゃないし、殴られるより酷いことはされなかったしさ」

 反抗的な生徒を、更生施設の指導員たちは快く思わない。けれども優は、大人しく従う義理も無いと考えている。そもそも、一体何を『更生』すると言うのか。運悪くミュータントに生まれただけで、ノーマルに危害を加えたことなど一度も無いのに。

「誰に殴られた?」

「先月ここに来た新米指導員。裸見せろって言うから断った」

 基本的に、ノーマルはミュータントを同じ人間だとは思っていない。都合の良い玩具か、実験動物くらいにしか考えていないのだろう。

「いつかここを脱出する時に、殺してやりたい奴がまた増えたな」

 食べ終わった食器を優の分も一緒に重ねながら、竜一が呟く。眩暈を起こしやすいので、立ち上がるのも大分時間を掛けなくてはならない。そんなことは皆わかっているのに、指導員は嬉々として怒鳴り声を上げにやって来る。

「おい、チャイムはとっくに鳴って……」

「うるせえ、ハゲ」

 優が若い指導員の頭の上を睨みつけた。ぷちぷち、と音がして、髪の毛が一束、ごっそりと引き抜かれて宙を舞った。

「ひっ……」

「次はケツから直腸引きずり出すぞ」

 頭を押さえてうずくまる指導員に向かって、粗末な木の義手の中指を立ててみせると、優は竜一に抱き付いて唇を吸った。

「駄目だよ、優。また懲罰室行きになる……」

 灰色の囚人服のような制服の胸元を押さえて、竜一が呟く。

「いいんだよ。宗教学の授業、どうせさぼりたかったし」

これ以上興奮させないように背中をさすってやりながら、優は悪戯っぽく笑って見せた。

 指導用の鞭やスタンガンで身を固めた指導員たちの足音が近づいて来て、あっという間に優と竜一を引き離した。

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《10》

 チャイムが鳴った。

 これは現実だろうか。

 それとも、違うのだろうか。

「大丈夫? もう、やめる?」

 ミホの声がする。握った手のひらが、汗ばんでいた。

「まだ、駄目」

 掠れた声で、明日香が呟く。

「まだ、もう少し、見せて……」

 万華鏡が、新たな記憶を映し出す。

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《11》

 生まれつき、竜一はあまり身体が丈夫な方ではなかった。彼と弟の竜二を取り上げた金髪の医師は、二人を前にして悩みに悩みぬいた揚句、結局は彼らの両親の言う通りにするという結論を出さざるを得なかった。

「君たちは、一種の希望だったんだけどな」

 ジェームズ・D・ベルフェゴール。やたらに長い名前を名乗った異国の医師は、そう言ってまだ幼い兄弟に困ったように笑いかけた。

「俺に全部任せてくれたら、君たち二人とも長生きできる方法を見つけてあげられたのに」

 成長した後も、双子は定期的に病院に連れて来られては、様々な検査を受けさせられていた。だが、それも今日で終わりだ。竜二は家族と共に別の町に引っ越す。竜一は更生施設へ入れられる。施設に一度入ってしまえば、容易には抜け出せない。

「こいつ、キケイだもんな。だから、すぐ死ぬんだろ」

 竜二がにやにや笑いながら、竜一の背を小突いた。生まれてからまだ十年と少ししか経っていないのに、竜二は既に特有の狡猾さを身に着けている。両親や他の大人の居る前では、身体の弱い兄を思いやる優しい弟、という役割を完璧に演じている。

「確かに竜一君はこれから大変だね。だけど竜二君、もっと大変なのは君の方じゃないかな」

 竜二の演技が唯一通用しなかった大人、金髪のジェームズ医師は、そう言って竜二の小生意気な顔をじっと見つめた。

「これから先、ゾンビウイルスの対処法が見つかる可能性は極めて低い。ノーマルは一定年齢を過ぎたら毎日抗体を摂取することになっているけど、それだって完璧とは言えない」

 医師が、聴診器を竜二の胸に当てた。

「君の両親は、君がまだ若いうちにゾンビ化するだろう。そうなったら、君は自分だけの力で生きていかなければならないよ」

「ふん。嘘つきのヤブ医者」

 竜二が医師に向かって舌を突き出した。

 医師の言葉が、決して嘘ではなかったと竜二が知るのは、そう先のことでもなかった。

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《12》

「今のって……竜二さん?」

 明日香が驚いた声を出した。

 ゼリー状に揺らめく瞳の中、病院のような場所で生意気そうに笑っていた少年は、まぎれも無く幼い頃の竜二だ。竜二の胸に聴診器を当てている医師は、金色の長髪を背中で束ねている。竜二と並んで診察台の上に座りながら、一言も口を利かずに俯いている顔色の悪い少年は、眼球が首筋に付いていた。

「続けて」

 半ば懇願するように、明日香は言った。開きっぱなしで乾いた目を潤すために、ミホは一度だけ瞬きした。

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《13》

 更生施設の外観は、まるで要塞か刑務所だ。役割だって、実のところ似たようなものだった。外をうろつくゾンビを寄せ付けない『要塞』であり、ミュータントたちを閉じ込める『刑務所』だ。この中で快適な生活を送れるのは、ごく一部の、選ばれたノーマルに限られる。

 ミュータントの指導員に選ばれたノーマルたちは、要塞の中で贅沢な食事とゾンビから隔離された安全な住居、そしてミュータントを好きに扱う権利を与えられた。気に食わなければ殴っても良いし、別のもっと品の無い欲望を満たす為に使っても良い。ミュータントには自由などほとんど与えられず、規則でがんじがらめにされた彼らは、一部はノーマルの奴隷と化し、一部はひたすら下だけを向いて目立たないように毎日をやり過ごしていた。

「君と竜一の関係は、皆が知っている」

 懲罰室、と書かれた扉の向こうで、白衣を着た指導員が胸の悪くなるような笑みを浮かべて言った。囚人服に似た灰色の制服を着た優は、医務室にあるような簡易な寝台に寝かされている。両目は、黒いアイマスクで塞がれていた。粗末な木製の義肢は全て外され、余った制服の袖や裾がだらりと垂れさがっている。

「君が処女じゃないと知ったら、竜一はどんな顔をするかな?」

 対象を視界に入れなければ、優は自分の力を使うことができない。指導員が優の乳房を鷲掴みにすると、優はその男の顔目がけて唾を吐いた。反撃の方法が全く無いわけではない。

「反抗的だな。自分の立場をわかっていない」

 怒りを抑えた口調で、指導員が言った。乳房を鷲掴みにされ、 優の喉から、悲鳴に似た音が漏れた。

「君だけの問題では無いんだよ、優。竜一はあの身体だろう? 薬も必要だし、定期検査や食事制限にも何かと金が掛かるものでね」

 指導員たちは必死に取り繕ってはいるものの、施設の内情はかなり厳しいことになっている。外部でノーマルのゾンビ化が進み、労働者が減ったせいで、物資の支給が滞っているためだ。要塞のように締め切ったこの空間はゾンビの侵入を免れているが、外の世界の影響を受けないわけではない。指導員たちの食事は簡素になり、衣服もかなり以前のものを継続して着続けるようになった。

「我々には抗体が必要なんだ。政府は可能性を模索しているし、医学の世界は常に実験材料を欲しがっている」

 検査の為と称して、優たち施設のミュータントは毎日のように血を取られている。ミュータントの血液にはゾンビウイルスの抗体が含まれているため、ノーマルにとっては貴重な薬なのだ。

 竜一は体質上の問題もあり、大量に血を取ることができない。薬の供給源である以上、勝手な殺処分は禁じられているはずだが。少しでも大量の抗体を得る為、もしくは、少しでもノーマルたちの医学に役立てる為。竜一を切り刻む理由を、この施設の奴らは百も二百も用意するに決まっている。

「私に」

 ベッドに寝かされたまま、優が言った。もしも、今ここで鬱陶しいマスクが外れるような奇跡が起これば、優はこの指導員の睾丸を滅茶苦茶に潰していただろう。

「私に、何をしてほしいんだ?」

 指導員が、薄暗がりの中で笑った。優の胸に当てた手を握ったり開いたりしながら、自分の娘程の年頃の少女が屈辱のうめき声を漏らすのを、下卑た笑みを浮かべて楽しんでいた。

「言う通りにしてくれれば良い。君さえ従順で居てくれれば、竜一の処分はもっと先にしても良いからな」

 灰色の制服のボタンに、指導員は節くれだった指を掛けた。制服が寝台の下に落ちる。優は歯を食いしばって、苦痛と屈辱に耐える準備をした。

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《14》

「酷い」

 明日香が叫んで、目元の涙を拭った。

「優は……何も……」

「悪くないわ。わかってる」

 ミホが言って、諦めたように溜息を吐く。

「あの指導員が、明日香と同じノーマルだとは思いたくないけれど。更生施設っていうのは、残念ながらああいう場所だったのよ」

 明日香は唇を引き結んだ。単なる記憶の覗き見、過去の映像に過ぎないのに。ベッドに寝かされた優は、明日香を睨んでいるように思えた。明日香だけでなく、全てのノーマルを恨んでいるように見えた。

明日香は何か言おうとしたが、まともな言葉にはならなかった。

 景色が、また変わった。今度も更生施設の中だが、ソファが置いてある。向かい合うソファに座って話をしているのは、二人の若い青年と小柄な少女だった。少女が優であるということは、すぐにわかる。青年は、片方が竜一、もう片方は……竜二だ。

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《15》

 勝者の笑みを浮かべた竜一を前に、竜二が冷静でいられたとは考えにくい。面会用のソファに兄と並んで座った優は、ノーマルの目線で見ても、十分美しかった。竜一の隣にいることが、許せなくなるほどに。

白い肌に、くっきりとした二重瞼の大きな瞳。柔らかそうな唇と、つんと高い鼻。生まれつきの手足の短さから義肢を使ってはいるものの、顔だけで言えば、その辺のノーマルよりもずっと魅力的だ。

「名前は、優。そのうち、一緒に暮らしたいと思ってる」

 見せつけるように、竜一が優の肩を抱く。簡素な制服姿の優が、竜二を見て目を丸くした。

無理も無い。同じ顔だ。

「弟の竜二。僕の、生き残っている唯一の家族、かな」

 竜一が言うと、優は無邪気に笑った。笑うと、痩せすぎの頬に薄らと赤みが差して、それが余計に可愛らしい。

「優って呼んで。竜一と付き合ってるんだ。将来家族になるかもしれないし、仲良くやろう」

 悪気の無い言葉が、竜二の背筋に鳥肌を立てた。ミュータントと家族だなんて、冗談じゃない。竜二の両親だって、竜一を家族と認めたことは一度として無かった。

「お前らは」

 乾ききった喉から、竜二が声を絞り出す。

「人間じゃ、ない……」

竜二の充血した目に、涙が溜まっていく。

何故、こんな残酷な仕打ちをされなければならないのだろう。施設に閉じ込められ、孤独でいるはずの竜一が、何故こんなにも幸せそうに笑っているのだろう。竜一は常に、竜二の下でなければならないのに。竜二よりも、不幸でいなければならないのに。

「俺は、ただのノーマルじゃない」

 竜二が、膝の上で拳を握った。

「ゴミみたいに死んで行くノーマルとは、違う」

 竜二がソファから立ち上がった。

その手の中に光ったものを見て、明日香は悲鳴を上げそうになった。

 

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《16》

 ミホの手を握りしめると、湿った自分の手に暖かな体温が伝わった。現実は、明日香の前にきちんと根を下ろしている。

「明日香、本当に大丈夫?」

 ミホの声が遠い。思う以上に、自分が疲労していることがわかった。

「竜二さんは……私には、本当に優しかったの」

 指輪をした方の手を、明日香はぐっと握りしめた。ミホの目の中に映る竜二は、明日香の知る竜二とは別人のようだ。

「お母さんに会いたくて泣いている私に、一晩中付き添ってくれた。甘いものが食べたいって我儘言った時も、どこからか見つけて来てくれて……ゾンビからも、守ってくれたのに……」

 恋と呼べる感情ですら、無かっただろう。それでも明日香は、竜二に憧れた。竜二が本気で怒ったのは、一度だけだ。彼は、明日香がゾンビ化する年頃になっても、自分だけはずっと生きられると思い込んでいたのだろうか。

「見たくないものは、見なくてもいいの」

 ミホが静かに言う。明日香が辞めると言い出すことを、待っているようだった。

「続けて」

 巨大な瞳を見据えて、明日香は言った。

「お願い」

 ミホが小さく溜息を吐くのが、やはり遠くから聞こえた。

 明日香の意識は、再び過去へ飛んだ。

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《17》

「一生、ここにいるつもりは無いよ。僕たちはいずれ、この施設を出て行く」

 竜二の耳元で、竜一が囁いた。

「外にいるなら、わかってるだろう? この世界はもう、ノーマルのものじゃない。指導員専用の食堂で拾った新聞を読んだから、僕も知ってるよ。世界の人口が、十年前の半分を切ったらしい」

 人口、というのは、ノーマルの人数を指す。ミュータントは、『人口』のうちに入らない。しかし、ノーマルはいつからかミュータントを妊娠するようになった。ミュータントは増えて行くのに、ノーマルは減る一方だ。

「各地でミュータントが暴動を起こしている。革命って言った方がいいかな。ここの指導員は必死にごまかしてるけど、ミュータントの革命軍がやって来るのも時間の問題だ」

 施設の最高責任者が、一週間前にゾンビ化した。いくら施設内部を締め切っていても、ウイルスには全員が感染している。時限爆弾のようなもので、ノーマルである以上、爆発からは逃れられない。竜二も、この面会室に来る前に消毒液の霧を浴びている。けれどそれが気休め以上の意味を持たないことは、十分にわかっているはずだ。

「施設の職員たちも、後何年正気でいられるかはわからない。僕たちには、今後何十年も人生が残されている。近いうちに出ていくつもりだ。僕たちの主治医だったジェームズ先生の居場所もわかったし、この身体だって何とかなるだろうさ」

 竜二が死んだ後も、竜一は生き続ける。ゾンビ化の恐怖さえ無いまま、竜二を忘れ、優という綺麗な少女と共に。

裏切られた気がした。

口惜しさが、理性を痺れさせた。

 竜二が何かわけのわからない叫び声を上げた時、無意識のうちに、明日香も一緒に叫んでいた。

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《18》

 もしも今、明日香の声が竜二に届くのなら。竜二を、止めることができるのなら。明日香はどんな犠牲だって払ってみせる。

 過去の幻視の中で、竜二はナイフを握っている。折り畳みの、決して大きくはないナイフ。良く、勇に見せびらかして羨ましがらせていたから、明日香も記憶にあった。

「これは、優の記憶」

 明日香の手を握ったミホが、ぽつりと呟く。明日香の意識が、ふっと現実に引き戻された。

「優の目を見た時、最初に見えたのがこの場面なの。優にとっても、やり直したいくらい辛い記憶なのよ」

 思い出す度に悔いるのも無理は無い。優ならば、ナイフを空中ではたき落すくらい簡単だった。竜二の右手を捻じ曲げることだってできたはずだ。

「どうして竜二さんは、その……優の方を?」

 明日香の声が掠れる。

 あの日。

 血で赤く染まったナイフを手に、竜二は泣きながら戻って来た。阿方が近づくと、その腕にすがるように崩れ落ちて、声を上げて泣き始めた。しばらく竜二の話を聞いた後、阿方は諦めたように言った。

 ――お前のせいじゃない……――

「私たちのところへ帰って来てから、竜二さんは前みたいに笑わなくなったわ。いつも苛々しているみたいだったの」

 施設の話は、二度としなかった。兄に会えたのかどうかを聞くことさえ、許されないように感じた。明日香も勇も、黙るしかなかった。

「こんなことがあったなんて、知らなかった……」

 明日香の目から、澄んだ滴が流れ落ちる。優に申し訳なくて泣いているのか、竜二が可哀想で泣いているのか、自分でもわからない。

「明日香。お願いだから、ここで辞めるって言って」

 ミホの泣きそうな声を聞くと、明日香は自分が覗き見以上に酷いことをしている気分になる。ミホは今や、明日香に過去を見せたことを後悔しているようだった。

「ごめんね、ミホ……」

 竜二には、もう、会えない。彼が去って行った日から、それはわかっていたのだと思う。先を知るのが怖い。それでも。

「これ以上は、駄目なの。本当に、駄目なの……」

 膝に置いた赤い帽子を取って、ミホはそれで両目を隠そうとした。気が付くと勝手に手が動いて、明日香はミホから帽子を奪っていた。

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《19》

 ミホの赤い帽子で口を押えて、明日香はこみ上げる吐き気を苦労して抑え込んだ。ミホの目の中では、相変わらず過去の映画が映し出されている。今すぐ帽子をかぶせて隠してしまいたい衝動は、吐き気よりも強かった。

 竜二は鼻水と涙で顔じゅうくしゃくしゃにして、小さなナイフを胸の前に構えて震えながら壁にもたれている。腕の肉を食いちぎられ、体格の良い指導員は悲鳴を上げていた。齧り取った肉をぐちゃぐちゃと咀嚼して、竜一が血塗れの口でにやりと笑った。ずらりと並んだ鋭い牙が、蛍光灯の明かりに反射してぎらぎらと光っている。

「優を返せ。僕のものだ」

 指導員たちが、初めて怯んだ顔を見せた。

 その隙を、優は見逃さなかった。

「クソどもが。もう我慢できねえ」

 両目を覆ったとしても、優の身体に直接触れているものならば操ることができる。優は意識を集中させると、目隠しをずたずたに引きちぎった。指導員が目を丸くする。彼らの目には、布の目隠しが突然破裂したように見えただろう。憎まれ口を叩いても、優が直接反抗することはあまり無かった。いざとなった時にどちらが強いかなんて、考えたことも無かったに違いない。

「目さえ使えればこっちのもんさ」

 優の顔に笑みが浮かんだ。明日香は、過去の映像の中で、初めて優らしい表情を見たように思った。

「私の竜一をあんな目に合わせやがって。殺してやる」

 同じ人間だからと思えばこそ、我慢できた。

 せめて、時期が来るまでは耐えてやろうと思った。

 尊厳さえ踏みにじられるようなことをされても、同じレベルに落ちたら終わりだと思っていた。

 今はもう、全てどうでも良い。

優に向かって警棒を振り上げた指導員の頭が、空き缶か何かのようにべこりと内側に凹んだ。優に再び目隠しをさせようと近づいた別の指導員は、首を不自然な方向に捻じ曲げられて、二、三歩歩いてからやはり血の泡を吹いて倒れ伏した。

「ひ……」

 白衣を着た女の従業員が尻餅を付く。この女は確か、研究員だ。毎日のように、ミュータントの血を抜いている。その背中に隠れるようにして座り込んでいる男は、黒い聖職者の衣装を着ている。

 血を抜かれるのも、宗教学の授業も大嫌いだ。

 優が睨んだ途端、二人の首はぎりぎりと捻じれて細くなり、やがて根元からぽきりと折れた。途中、やめて、とか、許して、とか言う声が聞こえた気がしたが、言う通りにする気は微塵も起こらなかった。

「もっと早くこうするべきだったな」

 折れた優の義手を拾い上げ、竜一は尖った先端を近くに居たノーマルの腹に突き立てた。沈み込むような手ごたえの後に、熱い血が溢れて来るのを感じる。

 なぜ、ノーマルを強いと思い込んでいたのだろう。

「ああ」

 竜一と背中合わせに立って、優が答えた。ぞくぞくするような快感に、全身が震えている。

同じだ、と、明日香は思った。アヤメ市の奴らを倒した時と、同じ表情だ。きっと、これがミュータントの本性で。

 でも、ミュータントをこういう存在にしてしまったのは、きっと。

「もっと早く、私らが『人間』を辞めちまえばよかった」

 優が辺りを見回す。優に近付こうとするノーマルは、もう居ない。遠巻きに、次に何が起こるのかを息を止めて見守っているだけだ。

 期待に応える為、優は天井を睨んだ。火花を散らして蛍光灯が割れ、火災報知機が鳴り始める。僅かな煙にさえ敏感な装置は、他のノーマルたちの制止も聞かずになり続け、やがてスプリンクラーが作動して普段は閉鎖されている通路が口を開けた。

 ――火災発生。脱出してください。火災発生……――

「やめてくれ」

 指導員の一人が、悲痛な叫び声を上げた。非常口の向こうには、当然ながら外の世界が広がっている。完全に無菌だったはずの施設に汚れた空気が混ざり、遥か地平線の向こうから、肉の匂いを嗅ぎつけたゾンビの鳴き声が聞こえて来た。

 ――あが……ぐぐぐ……――

 ――カエル……ウチニカエル……――

 ――火災発生、脱出してください……――

「あはははは!」

 優が笑った。竜一が壊れた義手を握った。

 手足が役に立たないなら、代わりになる。目が見えないなら、代わりになる。廊下を走り、優は目に付いた鍵を片っ端から壊した。扉が開くたびに、ノーマルが悲鳴を上げる。飢えたゾンビの群れが、廊下になだれ込んだ。噛み付かれて、悲鳴を上げるミュータントの生徒たち。気にはならなかった。優を生贄にして、自分たちだけでも暴力を逃れようとしたミュータントなんて、最初から竜一は仲間に数えていなかった。

「痛い……痛い……」

 ――イタイヨ……イタイヨ……――

 ノーマルの悲鳴と、ゾンビの鳴き声が同時に聞こえる。肉を噛む音と血の匂いで、廊下は一杯だった。逃げようとしてゾンビの入り込む非常口の方へ行ってしまい、噛み殺される者。窓から飛び降りて、自分から死んでいく者。

「竜一。今、面白いこと思いついた」

 古い油の匂いがする。走っているうちに、調理場へ来ていた。何かを揚げているのか、それともこれから揚げるつもりなのか。優が鍋を睨むと、鍋は空中に浮いた。調理師たちがどよめく中、優は鍋の中身を彼らの真上でひっくり返した。

「ぎゃあああああ!」

 ゾンビに噛まれた時よりも大きな叫び声が上がった。調理師のノーマルたちの薄い皮膚が赤黒く腫れ上がり、焦げた皮膚がじゅうじゅう音を立てて煙を上げる。化学繊維の衣服に、赤い炎が移ってあっと言う間に全身を舐め尽くした。

「ほら、行け」

 袖に炎の灯った調理師の背中を、優は義足で蹴とばした。蹴とばされた青年は廊下に飛び出し、支えを求めるつもりで、廊下を徘徊していたゾンビに激突した。

 かさかさに乾いた肌に、燃えやすい皮下脂肪のむき出しになった腹部に、火が移った。人型の炎と化したゾンビは、相変わらず緩慢な動作で廊下を往復した。同じく火だるまとなったノーマルの青年は、気の毒なことに彼には痛覚がしっかり備わっていたため、苦痛で泣き叫びながら次々と周りの人間に抱き付いては助けを求めていた。

 肉の焦げる匂いが、血の匂いと混じり合う。火だるまのゾンビとノ

ーマルが動き回った後には、炎の足跡ができた。

施設が、燃えていく。

明日香は、炎を纏って狂ったように踊る人影を見た。

 ゾンビに全身を食いちぎられ、虚ろな目で横たわっているノーマルを見た。

 騒ぎに乗じて興奮したミュータントの生徒が、ノーマルの指導員を殴り殺すのを見た。

 あれほど強固な要塞だった更生施設が、一瞬で阿鼻叫喚の地獄と化すのを。明日香は、ミホの目を通して、はっきりと見ていた。

「竜二さん……」

 聞こえるわけが無いとわかりながら、ミホは映像の中の竜二に話しかけた。血の付いたナイフを握った竜二は、四つん這いになりながら、転げるようにして施設の裏口から逃げて行くところだった。

「明日香……」

 誰かが、明日香の名前を呼んでいる。

 竜二の声ではない、これは。

 現実なのか、それとも。

「明日香、しっかりして」

 ミホが明日香の手を握り直した。明日香は悲鳴を上げてミホの手を振り払うと、転げるようにして図書館の外へ飛び出した。

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《20》

外の空気を胸に吸い込んだ瞬間、こらえていた吐き気が一気に喉をせり上がった。校庭の桜に手を付いてえづきながら、明日香は最後に『見た』竜二の顔をどうにかして忘れようと努めた。

 実の兄の血に塗れたナイフを握り、『俺じゃない』と呟く姿は。明日香たちに向かって、何で俺なんだよ、と叫んだ時の顔とそっくりだった。大粒の涙が、ぼろぼろとこぼれ落ちる。いっそ、全てが夢だったならどんなに良かっただろう。

「明日香?」

 頭の芯がぼんやりとしている。ゆっくりと視線を上げると、見知った顔がふたつ、並んでいた。片方は心配そうな、片方は僅かに警戒するような表情を浮かべている。

「具合悪いのか?」

 優の顔を、明日香はまともに見ることができなかった。

「別に……」

 汗でシャツがべとべとだった。髪は乱れ、涙で目まで赤くなっているのだから、何でもない振りなどできるわけもない。目を逸らした明日香を見て、優は何かを悟ったようだった。

「ミホに、会ったんだな」

 優が、どこかぎこちない笑みを浮かべた。言葉の裏に、諦めとも、後悔とも付かない感情がうずくまっている。

「『見た』んだろ」

 どうして、今まで気付かなかったのだろう。

 優の脇腹の刺青。焼印された番号の痕が、僅かに透けて見える。

「気にするなよ。別に隠してたわけじゃないし」

更生施設のミュータントは、まるで家畜のように焼印を入れられている。優が、何の躊躇いも無く自身の『力』を使うようになった理由を。明日香は、一度でも考えたことがあっただろうか。

「……ごめんなさい」

 何と言って良いかわからなかった。ただの言い訳のように、明日香は謝罪の言葉を繰り返した。

「ごめんなさい。私、……」

 優の記憶を見た。

 竜二のことを知るために、優の傷を暴いてしまった。

「いいんだよ」

 優が明日香の肩に手を置いた。

「明日香、それ……」

 指摘されて、明日香は自分がミホの帽子を握りしめたままだということに初めて気づいた。すっかり潰れて、赤い丸い布の塊のようになっている。

「僕が返して来るよ」

 無言で優の後ろに立っていた信也が、固い表情のまま言った。

「明日香は、最後まで『見た』の?」

 信也の声は、彼がアヤメ市の学生を投げ飛ばした時と同じくらい冷たかった。明日香が、慌てて首を振る。

「見られなかった」

 炎に包まれる施設。竜一の手を握って逃げ出した時、優は何を思っていたのだろう。ノーマルへの果てしない憎しみか、それとも、これから待ち受ける自由への期待だったのか。竜二が居なくとも、いずれ似たようなことは起こったかもしれない。竜二が兄へ会いに行こうなどと考えなければ、竜一は両目を失わずに済んだかもしれない。

「信也。しばらく、明日香と二人で話したいんだ」

 優が、庇うように明日香の前に立った。信也は何か言いたそうに明日香の方を見つめていたが、結局はそれ以上声を出すことも無く、帽子を抱えて校舎の方へ歩いて行った。

「あいつも悪い奴じゃないんだよ。ミホに惚れちまってるせいで、ちょっと頭が固くなってるだけだ」

 信也の背中を見送って、優が苦笑いする。

「最後まで見なかったなら、さ。竜二がどうなったのかも、結局わからねえんだろ?」

 優の笑みに、ふっと影が混じった。明るい化粧でも、優の中に潜む不安は隠しきれていない。安心しているような、疑っているかのような。

「……知りたいか?」

 首を横に振ろうとして、明日香は竜二の顔を思い出した。

 どうして、お前が。

 最後の日のことを思い出すときは、いつも、優しかった竜二のことも同時に思い出してしまう。横を向きかけた首を、明日香はゆっくりと前に戻した。そのまま、小さく頷いた。

「じゃあ、連れて行くよ」

 優の義手が、明日香の手を掴んだ。

 逃がさない、とでも言うかのように。

「何を見たとしても、それは竜二の選んだ道だ。わかってくれるな?」

 優の瞳が、ミホの澄んだ鏡のような目と重なった。

 明日香に指輪を見せる竜二。明日香の頭を撫でてくれる竜二。子ども扱いが不満な明日香に、いつも優しく笑いかけてくれた竜二。

 どうして、お前が。

 どうして、俺が。

 明日香にとって、竜二はいつも大人だった。間違いなど起こすわけが無いと信じていたし、彼が去ってからも、その気持ちは変わらなかった。けれど、竜一の目を潰したのは竜二なのだ。

 ――死にたくない……――

 竜二の恐怖。竜二の絶望。

 いずれは、明日香も味わうことになる。

「私は、竜二が嫌いだよ。今も、昔も」

 優が囁くように言った。

 発症した後で竜二はサクラ町へ向かい、その後の行方が知れない。ミホの目をもう一度見れば良いのかもしれないが、二度とあんな思いはしたくない。

「何も知らないのが、一番良いと思う。竜二は死んだ、ってことには、できないか?」

 明日香は、軽く目を閉じだ。瞼の奥に浮かんでくるのは、竜二でも阿方でもなくて、図書館まで助けに来てくれた圭介の姿だった。

「できないわ」

 優の目を見て、明日香が口を開く。

「あなたにとっては、竜一が全てでしょう? 私も同じ。例えどんな姿でも、私は今の竜二さんに会いたいの」

 何らかの形で、過去とは決着を付けなければならない。明日香は、自分の人生を生きたいと思う。僅かな時間しか、残されていなかったとしても。

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