長編24
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日曜日は最高の終末7

【1】

『寄生型ノーマルについて』 ジェームズ・D・ベルフェゴール

 一口にニュータイプといっても、本当に様々な種類が居るものだ。この私も、念力の少女も、千里眼の少女も、それぞれ特徴が異なっている。特徴の無いミュータントなど存在せず、彼ら一人一人が変異種である、という点に着目すれば、ミュータントとは誰も彼もがニュータイプであると言える。生物学的には説明の付かない特徴を備えた者をニュータイプと呼ぶ、という、非常に曖昧な分け方をしているものの、では次に挙げる者は果たしてニュータイプと呼べるのであろうか。

 彼は……否、彼らと言った方が正しいだろう。彼らは、私が出会ったミュータント達の中でも、特に印象深い特徴を備えていた。

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【2】

書斎のドアノブが、かちゃかちゃと音を立てて回った。緩慢な仕草で、あきこがドアを振り返る。

「今日は、お客さんが多いわね」

 戸を開けてやると、入って来たのは明日香だった。泣きそうな顔で、俯いている。傍らに居るのは、『ニュータイプ』の優だった。

「あれ? あきこさん」

 優が首を傾げる。継ぎはぎのスカートを履いた派手な女を怪訝そうに見て、明日香が小声で言った。

「知り合い?」

「うん。私らのアパートの管理人」

 明日香と優を見比べて、あきこがにっこりと笑う。

「優ちゃん、竜一君は?」

「まだ、仕事」

「そう、良かった」

 何かを確認するように頷くと、あきこは自分のスカートの影に隠れた勇を少女たちの前に引きずり出した。

「勇……」

 明日香が掠れた声で言った。

「どうして、ここに」

「関係ねえだろ」

頬を膨らませて、勇が明日香から視線を逸らす。下水の開閉時間は定められているはずだが、ついにあの年老いた番人が根負けしてしまったのか。明日香は、戸惑った顔であきこを見上げた。

「弟が、何か失礼を?」

「いいえ、とっても良い子よ」

 さりげない仕草で、あきこが血塗れのバスケットを本棚に押し込むのを、勇は横目で見ていた。

「ねえ、それより二人とも、何か用事があって来たんでしょう?」

 見透かされていると感じて、優はばつが悪そうに頭を掻いた。先客がいるとは、考えてもみなかったのだ。

「あきこさん、実は……」

「竜二さんに、会いたいんです」

 優よりも先に、明日香が口を開いた。泣きそうだった瞳には、固い決意の色が浮かんでいる。今あきこに何を言われても、決して引くつもりは無いとでも言うように。

「竜二さんが、この病院に居るって、優から聞きました。だから、会いたいんです」

 あきこが優を見た。眉を寄せて、優が首を振る。

「ふうん、そうなの」

 あきこの声が面白がっていることに、優は気付いた。あきこは頭が良い。すぐに優の考えを読み取って、狙い通りの芝居を始める。いかにも同情するような表情を作って、聞き分けの無い子どもにゆっくりと言い聞かせるように、明日香の顔を覗き込んだ。

「確かに、あなたの探している人はここに居るわ。でも、あなたのことは覚えていないかもしれない」

 あきこの取り繕った顔を見上げて、少年は何か言いたそうに口を開きかけた。内側で燃える感情が、決して憎悪のみではないことを、勇は認めないわけにいかなかった。

 嘘つき。

 腹の奥で笑いが漏れる。バスケットと一緒に押し込まれたノートは、ただの沈黙した紙の束だ。明日香は、気付いていない。勇の言うことなんて、半分もまともに聞いてくれない明日香が、もしもあれを読んだらどうなるのだろう。

「ついてらっしゃい」

 あきこの手がするすると伸びて、勇の手を握った。明日香は少しだけ驚いた顔をしたものの、あきこから勇を取り返そうとはしなかった。何か夢見るような顔つきで、ふらふらと歩き始める。勇は、後ろを付いて来る明日香が、急に昔の姿に戻ってしまったような気がした。

「余計なことは言っちゃ駄目よ」

 あきこが、勇の手を軽くつねった。共犯者の笑みを浮かべ、勇は静かに頷いた。

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【3】

『寄生型ノーマルについて』 ジェームズ・D・ベルフェゴール

 私は、始めから『彼ら』との出会いを予期していたわけではない。私にとって彼らの母親は平凡な妊婦でしかなかったし、彼女の中に宿る命が二つだとわかってからも、その考えは変わらなかった。

 多くの母親がそう望んだように、彼女も生まれて来る赤ん坊がノーマルであることを願っていた。私は肯定も否定もしなかったが、彼女の願いは、ある意味、最悪の形で裏切られることになる。

 私が双子の赤ん坊を取り上げた時、傍らに居たノーマルの看護師(当時、私はノーマルの病院に勤めていた)は、悲鳴を上げて後ずさった。別の看護師(これもノーマルだ)は、悲鳴こそ上げなかったものの、後にも先にもあんなおぞましい赤ん坊は見たことが無いと証言している。

 双子は、どちらも男の子だった。片方は母親の理想通りのノーマルで、もう片方はミュータントだった。心無い医師ならば、すぐさまミュータントの方を始末して、母親にはノーマルの息子のみを抱かせただろう。しかしいかに冷酷な医師であろうと、この双子に対してその手は使えなかったに違いない。

 双子は、重なり合うようにして生まれて来た。他に姿勢の取りようが無かったのだろう。弛んで変形した皮膚が未熟な筋肉を包み、その様子はまるで、不格好な皮膚の袋から二人の赤ん坊が這い出そうとしたままの姿勢で固まってしまったように見えた。

 双子の身体は、完全に癒着した状態だった。通常よりも厚みのある幅広の皮膚の下で、太い血管がパイプの役目を果たし、心臓は二人分の血液を勢いよく送り出している。赤ん坊たちは健康そのものだったが、私がそれを知らせても、母親は喜びもしなかった。

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【4】

 明日香は実のところ、サクラ市の病院が苦手だった。つかみどころの無い金髪の医師も、ノーマルを奇異の目で見る看護師も、保温器のようなものの中で時々身じろぎするように震える血生臭い卵も、全てがあまり関わり合いになりたくないものだった。ミホが何の躊躇いも無く、しょっちゅうここに来ているのが信じられないくらいだ。

 けれど、明日香が一番苦手としているものは、まだ他にある。

「この奥よ」

 集中治療室の前で、あきこが振り返った。獣の咆哮としか思えない声が、鼓膜を引き裂く。何とも言えない厭な臭いが、扉を開ける前から濃厚に漂っていた。

 まさか。

 最悪の予感に、全身が震える。ここに近付く度に、寒気を覚えた。阿方も、できるだけ病院には近づきたくないと言っていた。彼は、やはり正しかったのだ。人とは思えない叫び、人の言葉を忘れた叫び、それでも確かに、人だった頃の面影を感じさせる叫び。それは、ゾンビの死んだ声よりも不気味で悲しい。

「やめるか?」

 優が明日香の顔を見た。明日香は少しだけ迷って、俯いた。

「開けて」

 震える声で、しかしはっきりと、明日香は言った。

 チャンスは一度きりだ。今ここで逃げたら、何もわからないままになってしまう。あきこは頷いて、扉に手を掛けた。開けた途端、さっきよりもずっと酷い臭いが襲って来て、思わず顔を逸らしそうになった。獣の声と熱い呼気が、すぐ近くで感じられる。

「ごめんね。だけど、この子がどうしてもって言うから」

 あきこが笑った。鎖に繋がれていたのは、若い男だった。いや、若い男の姿をしたもの、と言うべきか。鎖に戒められた両腕を千切れるほど振り回し、片方だけ残った足をばたつかせて唸り続けている。辛うじて入院着のようなものを着せられていたものの、ところどころが破れて、血塗れだ。切断された片足には包帯すら巻かれておらず、滴る血がこの治療室という名の独房を真っ赤に染めていた。

「嘘……」

 全身から力が抜けた。明日香は血で汚れた独房の壁に寄り掛かると、両手で顔を覆った。

「竜二さんは、言ってたの……」

 声を詰まらせながら、明日香が呟く。ゾンビをミュータントに変える。ノーマルをミュータントに。金髪の医師の顔が目の前をちらつき、阿方の言葉が頭の中で反響した。

「ミュータントになれば、長生きできるって……ゾンビにもならなくて済むって、そう言って……」

 男の顔には、汚れた布袋が被せられていた。袋を取り除こうと伸ばした明日香の手を、あきこが掴んだ。

「やめた方が良いわ。顔が滅茶苦茶なの。ジェームズ先生は良いお医者さんだけど、形成手術の腕は……いまいちみたいね」

 男は、酷く痩せていた。ゾンビ化しているのかと思ったが、どうやら違う。皮膚の色は桃色で、血も腐敗していない。だが、着替えや入浴はもう何か月も行っていないらしい。獣のようなすえた臭いは、正常な代謝がある為に発生したものだろう。精神だけが、ゾンビ化よりも深い地獄へ落ち込んでいる。

「暴れるから、外へは出せないんだ」

 優が固い声で言った。

「ここに来た時、竜二の脳は大分いかれてたんだ。明日香、ジェームズ先生は悪くないんだよ」

 明日香の両目から涙がとめどなく溢れた。どんな姿でも会いたいと、そう願ったのは自分だ。でも、こんな再開は望んでいない。これは悪夢だ。目が覚めたら、以前の竜二が隣に居る。そう思い込みたくても、独房の冷気と血の匂いが、明日香を現実に引き戻してしまう。

「どだい無理な話だったのよ。ノーマルをミュータントに作り変えるなんて」

 あきこが溜息をついて、血塗れの男の肩に手を置いた。男は苦しげに唸り声を上げて、袋を被せられた頭を左右に振った。袋の隙間から、赤い血が飛沫となって飛び散る。

「見て。あなたが入って来たから、騒いでいるの。こうなっても、あなたのことは覚えているみたいね」

 ふらつきながら、明日香は竜二の方へ近づいた。あれほど好きだった相手なのに、今は触れるのさえ怖かった。

「竜二さん、私よ。明日香」

 答えは、無い。

久しぶり、と言ってほしかった。大人になった明日香を見てほしかった。以前のように、名前を呼んでほしかった。明日香の頭を撫でて、子ども扱いに不満げな顔をする明日香を笑ってほしかった。

「やっと、会えた……」

 明日香はその場に座り込むと、子どものように声を上げて泣き出した。勇だけが、恨めしそうな顔であきこを睨んでいた。

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【5】

『寄生型ノーマルについて』 ジェームズ・D・ベルフェゴール

 医者の提示する最善が、患者の家族にとっても最善とは限らない。悲しいことに、こちらがどれほど理由を説明しても、わかってもらえないことの方が多いのだ。双子の母親に関しても、同じことが言える。

 確かに身体は繋がっていたものの、双子を剥離させることはさほど難しい仕事ではなかった。余った皮膚を除去し、うまい具合に形成し直せば、二人は一応まともな外見になる。けれども、医者の立場から言わせてもらえば、それは良くない策だった。

 双子の赤ん坊のうち、片方は……癒着した状態のまま、先に外に顔を出したのがこちらなので、兄としよう。兄の方は、頭がい骨に眼窩が存在しなかった。両目は首筋の動脈の間を縫うようにして、まるで瘤のように外側に突き出していた。ミュータントであることは、これだけでもう明らかだ。

 しかし、もう片方……弟の方は、外見はもちろん、他の部分にもこれと言って変わった点は無かった。つまり、互いの身体が癒着していながら、兄はミュータント、弟はノーマルとして生まれて来たのである。私のこの意見には、当然ながら異を唱える者が少なくなかった。

 二人分の身体が癒着するという、異様な外見で生まれて来たことに変わりは無いのだから、弟もミュータントとするのが妥当ではないか、という意見だ。しかし繋がっているのは皮膚と一部の動脈のみで、筋肉、骨格、臓器はそれぞれ独立している。手足も、それぞれの分がひとつも欠けることなく備わっていた。私がこう説明しても、それでも意見を曲げない者は多かった。一見ノーマルのように見える弟の体内にも、ゾンビウイルスの抗体が存在していると言うのだ。だがこの意見も、双子を調べるうちに覆されることとなった。

 弟の血液の中には、確かに抗体がある。けれどそれは、弟の体内で生成されたものではない。抗体は全て、兄の体内で作られた上で、太いパイプのような血管を通して弟の身体に流れ込んでいたのである。

 これもひとつの進化の形であると、私は考える。旧人類であるノーマルは、ウイルスの抗体が無く、長く生きることができない。そのためこのノーマルは、最初からミュータントの兄に寄生して、抗体を分けて貰うことで命を永らえようとしていたのだ。

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【6】

 ミホが泣き止むまで、信也は隣に座っていた。何と言葉を掛ければ良いのかがわからなかった。ミホは、明日香が好きだった。優や信也と同じように、明日香ともずっと友達で居たかったに違いない。

「ミホちゃんのせいじゃないよ」

 月並みな言葉しか出てこない自分が、憎らしい。信也の学生服に顔を埋めて、ミホは声を詰まらせた。

「明日香に、知らせたかったの。だって、明日香は……」

「うん」

 ミホの目が、どんな力を持っているのか。信也はまだ、見たことが無い。面白半分で『見る』ものではないと、優は言う。優が今までに見て来た、景色。経験。全て、ミホには知られてしまっている。

 そして、これから起こり得る未来も。

「帽子を取られた時に、明日香の目を見たの。そしたら……」

「また、『見えた』んだね」

 ミホには、『見えて』いた。図書館で、本棚の間から飛び出したゾンビが四ツ目女に食らいつく光景が。銃が暴発し、アヤメ市の番長の頭を吹き飛ばす未来が。はっきりと、見えていた。

 ミホの意志ではない。信也には、わかっている。大体、ミホにできることは『見る』ことだけなのだ。アヤメ市の番長も、図書館で腕を千切られた四ツ目女も、結局は自分が選択した結果だ。

「ミホちゃんは……」

 これ以上、傷付けたくはなかった。ミホは既に、十分すぎる程傷付いている。しかし、もしこれで明日香のことも救えなかったとわかれば、ミホは更に傷付いてしまう。

「明日香の……何を、『見た』の?」

 形の崩れた帽子を目深に被って、ミホは涙の跡の残る顔を上げた。信也のことは、信用している。いつでも、ミホの味方で居てくれる。

「明日香は……竜二さんが、本当に好きだったんだと思う」

 言葉を選びながら、ミホが言った。「もう一回、明日香の目を『見た』の。私の目も、『見せた』の。どうすれば良いのか、私にはわからなかったから」

 ミホと目を合わせれば、全てを見透かされてしまう。見続ければ、ミホの『見た』ものがわかってしまう。ゼリー状の膨らんだ眼球、球状の澄んだスクリーンを通して、ミホが散々見せられて来た他人の記憶が、はっきりと『見えて』しまう。

「明日香は、竜二さんを探していたの。だから……」

 ミホは、やってはいけないことをやった。信也にまで、軽蔑されるかもしれない。ミホは俯いて、声を絞り出す。

「優の記憶を、明日香に『見せた』の。酷いよね。優の記憶は優だけのものなのに、私は勝手にそれを覗いて……勝手に明日香に見せて……それで、明日香は……」

 見たがったのは、明日香だ。信也には、わかっていた。ミホが、明日香を傷つけようとするはずが無い。

「最後まで見なくて良かった。だって、竜二さんは……」

 大切なものに順位など無い。口で言うだけならば、簡単だ。

明日香は、勇よりも竜二が好きだった。

勇は、竜二よりも明日香が好きだった。

血塗れの校庭。硝煙が夕日を曇らせる。ほっそりとした明日香の影が、夕日の中に落ちて行く。

「勇君は竜二さんが許せなくて……明日香は、勇君が許せなくて、それで……」

 未来など、決定されてなければ良い。ミホは流されまいとするように、信也の学生服にしがみついた。信也はミホの背に手を回して、ミホが話し始めるのを待った。

「何日後か、何週間後かはわからないの」

 わかるのは、『それ』が確実に起こるだろうということだけだ。

 明日香を一人にしてはいけない。一人で、学校の屋上に行かせてはいけない。

「一人で背負わなくても良いよ。僕が付いている」

 信也は、ミホのことが一番好きだ。それでも、明日香の気持ちもわかる。わかってしまう。ミホを傷つける者を、信也は絶対に許せない。

「信也。私、どうすれば良かったかな」

 帽子のつばの下から、ミホが涙を拭った。過去は変えられない。既に起こってしまったことを、今更無かったことにはできない。過去が原因で導かれる未来も、簡単には変わらない。

「大丈夫。優が、うまくやってくれるから」

 嘘つきはお互い様だ。正解が最善とは限らない。ミホの目に、全てを見透かされることが怖かった。信也の全てを知れば、ミホは怯えて、悲しんで、離れて行く。

言い訳のように、信也はミホの華奢な身体をそっと抱き締めた。

 

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【7】

《警備隊長幸也の記録書》

 こんなことを書かなければならないかと思うと、憂鬱だ。どうやら、俺の予想が当たってしまったらしい。

 ゾンビが知的になっている気がする、というのは、以前も書いた。しかし、ゾンビ同士で何かを学び合うということは、まずあり得ない。人間が……ノーマルはミュータントを人間とは認めないだろうが、とにもかくにも俺達は……一人一人が別々の意志を持っている。俺達は考えが食い違うこともあるし、仲間が予想外の行動を取ったために困ったことになることもある。その度に俺達はぶつかり合い、少しずつ考えや行動の幅を広げて行った。

 そう、俺達は進化している。少なくとも、俺はそう思う。性格も、特技も、考え方も違う俺達だからこそ、できたことだ。

 ゾンビには真似できない。あいつらは、皆一緒だ。腹が減れば喰う、少しでも多く喰う、それだけが目的で、個々の意志なんてものは無い。 

あいつらには成長も進化も無い。それができたとすれば、ゾンビ以外の何者かが介入したからだ。人間(ミュータント)の介入により、ゾンビは進化する。進化した、ように見える。

ジェームズ医師が証明してくれた。

医師よりも早くその事実を発見し、実践してしまった奴が居る。このサクラ市の住人で間違いないだろう。仲間を疑うような真似はあまりしたくないが、北区の警備担当者を問い詰める必要がありそうだ。

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【8】

 北区で捕えられるゾンビは、半数以上が『生まれつきの』ゾンビだった。ゾンビ化したノーマルたちの生殖活動によって生まれた、知性の無い人の形をしているだけの生き物だ。こいつらは一体、何の為に存在しているのだろう。裸できいきいと喚く子どものゾンビを眺めて、阿方はどうにも答えの出ないことをまた考えていた。

「心配しなくても、この中に竜二はいませんよ」

 すぐ傍で、竜一が笑った。目が見えない故に身に付けた特技のひとつなのか、気が付くと気配も無く隣に居る。鉄芯を仕込んだ白杖は、握っている部分まで腐った血に塗れていた。今日は、何匹殴り殺したのだろう。生け捕りにするよりも、殺す方が竜一は好きなようだ。

「わかっている。竜二は、ゾンビにはなっていないらしいからな」

 竜一の顔を見るのが、どうにも辛かった。見れば見るほど、竜二に似ている。どうかすると、うっかり竜二と呼び間違えそうになる。

「今日は、もう少し奥まで行く予定でしたよね」

「そうだな。知性のあるゾンビとやらに、お目にかかりたいものだ」

 網に詰め込まれたゾンビを一瞥して、阿方は立ち上がった。捕えたゾンビは皆動物以下の知能しか持っていないものの、痛覚も恐れも無いゾンビが人間並みの知能を得てしまったとすれば、確かに厄介なことになる。学校の図書室に出現した女装ゾンビも、逃げたままだ。

「あくまで、俺の推測なんだが」

 鬱蒼と茂った木々を見回して、阿方が口を開いた。北区で聞こえるのは、ゾンビのうめき声と風の音だけだ。鳥の鳴き声もしない青々とした枝葉は、却って不気味ですらある。

「こいつらゾンビが、自分から進化したとは思えない」

 鉄の網を食いちぎろうとして、ゾンビの子どもは口中を血塗れにしていた。仲間同士で手足に食らいつき、共食いを始めている者までいる。

「誰だか知らないが、物好きな奴がゾンビに余計なことを教えたんじゃないか?」

 子どものゾンビは、以前も北区で捕まえた。あの時の奴らと、今捕えたばかりの奴らを比べれば、違いは明らかだ。

「金髪の先生は、子ゾンビどもを今でも飼っているそうだ。根気よく相手をしていたら、餌の取り方が変わって来たらしい」

 初めはただ、肉の匂いを追って来るだけだった。餌を運ぶジェームズ医師にも構わず噛み付こうとしたし、躾として傷を負わされても、全く懲りるということを知らなかった。

 医師は、やり方を変えた。罰を与えず、褒美を与えることにしたのだ。『待て』や『座れ』などの簡単な合図を作り、従うことのできた個体に、優先的に餌を与えた。変化は、徐々に表れた。

「今は、あの先生の言うことなら大体聞くそうだ。誰彼かまわず噛み付くことも辞めたらしい」

 親のゾンビたちは、教育というものを行わない。子どもを産んだら、それっきりだ。子どもたちは、群れを作ることも、狩りのやり方も、何も教わらないまま放り出される。ゾンビ達が奇形の蠅よりも劣って見えるのは、ここに原因があるのだろう。

「ゾンビを飼い慣らすなんて、馬鹿な真似してくれたもんだぜ」

 雑草の茂みの中から、銃を携えた晃が這い出て来た。後ろから、圭介が続く。二人とも警備服には血の染みが飛んでいたが、怪我は無いようだった。

「その馬鹿野郎を捕まえたら、ぶん殴ってやる」

 晃が、血に染まった布を阿方たちの前に放った。学生服の切れ端だ。アヤメ市の学校の校章が付いている。

「間違ったことをしているつもりは、無いのかもしれない」

 圭介がぽつりと言う。

「このままじゃ良くない。教えてやらないと」

 森の奥は深い。先に立って歩き出す圭介を、後の三人が追った。北区の入り口から離れるにつれて、血の匂いは濃くなっていく。たまに、アスファルトの歩道や蔦に絡みつかれたポストといった、文明の残りかすのようなものが現れると、その度に阿方はどきりとした。

「なあ。俺ら、ちゃんと帰れるよな?」

 心細くなったのか、晃が泣きごとを呟く。そう言えば、晃が北区に入るのは初めてだ。逆立ちで歩いているので、顔が地面に近い。視界のすぐ傍に血塗れの骨や蛆のたかった肉片が落ちているというのは、確かにあまり気持ちの良いものではない。

「結果を持ち帰らないと、幸也に叱られるぞ」

「うえ。それも嫌だ」

 人より多い腕で木々をかき分けて道を作りながら、圭介は先頭を進んだ。彼らの後姿を見ていると、阿方はどこか不思議な気分になる。

こうしていると、ごく普通の若者たちだ。彼らはなぜ、こんなにも個性的な外見をしているのだろう。ウイルスへの抗体を持っているだけで、見た目がノーマルと同じであったとしたら、彼らは排除されることも無かったのだろうか。彼らがこのような姿で生まれたことにも、何かしら理由があるとすれば、それは一体。

「……静かに」

 低い、だが鋭い声で、竜一が言った。全員が、ぴたりと動きを止める。竜一は視力を失っている分、他の感覚が研ぎ澄まされている。他の三人に聞こえない物音や匂いも、竜一にはわかる。

「圭介、前を見てくれ……右の、少し上だ。何か、動いている」

 言われた通り、圭介は視線を動かした。

 あまり背の高くない木の枝に、何か赤黒いものが引っかかっている。

「うえ……」

 耐え切れず、晃が声を出した。

 阿方ですら、息を呑んだ。

 枝にぶら下がっていたのは、引き裂かれた人間の残骸だった。

「他のゾンビに取られないように、わざわざ上まで運んだんだろうな。それとも、後でゆっくり喰うつもりだったのか」

 三本の腕を使ってうまい具合に木に登ると、圭介は枝に突き刺さった残骸を掴んで下に降ろした。手足の肉は大半が食い尽くされ、舐め尽くされて、真っ白い標本のような骨がぶら下がっている。腹も当然のように食い破られて、中身はほとんど空っぽだった。臓物などミュータントは捨ててしまうことの方が多いが、ゾンビにとってはごちそうらしい。しかし最も悲惨なのは、この食べ残しのような塊に、まだ辛うじて息があるという点だった。

「こんなの、有りかよ」

 晃が泣きそうな声で言う。食肉の残骸と化していたのは、まだかなり若い男だった。顔は半分が潰れている上、白いマスクをしているので、どこの誰かはわからない。辛うじて服装から判別するに、学生だろうか。後頭部に、ずたずたに裂けた口があった。折れた歯の間から溢れる血で、髪は赤黒く固まっている。

「見ろ。骨が滅茶苦茶だ」

 圭介が、露出した白い骨を指して言った。腕の骨はあちこちが罅割れて逆方向に曲がり、細い神経と食べ残された筋肉の筋でようやく繋がっている。

「ゾンビの奴、こんな酷い喰い方をするのか?」

「いや。俺の知っているゾンビは、こういう面倒な真似はしない」

 阿方が言って、死にかけた男の手を取った。指の骨までが、丹念にへし折られている。ノーマルであれば、とっくに気を失うか、ショック症状を起こして心臓が止まっていただろう。けれど、残念なことに……ミュータントは、ノーマルよりも頑丈にできている。

「ゾンビなら、こんな風に規則的に痛めつけたりはしないはずだ。やった奴はゾンビじゃない。ゾンビじゃないが、相当残酷な奴だ。直接命に関わらないようにしながら、指一本動かせない程の傷を負わせている」

 若者たちの顔を見回して、阿方は言葉を切った。

 言うべきか、言わざるべきか。導き出される結論はあまりにも残酷で、胸が悪くなる。阿方ならば、決して選びたくはない最期だ。

「こいつは……何一つ抵抗できないようにされてから、生きたままゾンビの餌になったんだ」

 晃が、その場に嘔吐した。圭介は冷静な振りをしていたものの、両目が驚愕に見開かれている。竜一だけが、耐え切れずに噴き出した。くっくっと押し殺した笑い声を上げる竜一を見て、阿方は彼が竜二とは別人であることを改めて思った。

「これでわかっただろう。ゾンビ共に、味方している奴が居る」

 阿方が、男の引っかかっていた木に手を置いた。枝葉に付いた血が露と混じり、雨のように滴る。茂った木の向こうに、元は民家だったらしい戸建が取り残されていた。近づくだけで、すえた嫌な臭いと、もっと別の生々しい匂いがした。

「化粧品だ」

 竜一が小声で言う。

「化粧品の匂いがする」

 ゾンビの巣なのに、優と同じ匂いが混じっている。黴だらけの湿った畳の上に、イヤリングが片方だけ落ちていた。壁には、女物の衣装が掛かっている。割れた姿見が部屋の中央に据えてあるのを見て、晃は気味悪そうに身震いした。

「何なんだよ、ここは」

「誰かが、ここでゾンビの世話をしていたらしいな」

 圭介が、ハンガーに掛かった衣装を見て言った。

「図書室に出たゾンビが着ていたのと同じだ」

 晃はもう一度吐こうとしたが、胃の中が空っぽだった。圭介はゾンビに食べ残された学生に近付くと、微かに呼吸する後頭部の口元に自分の耳を近付けて、そっと尋ねた。

「お前はもう助からない。正直に答えてくれたら、すぐに楽にしてやる……お前をこんな目に合わせた奴は、誰だ?」

 マスクをした学生は、淀んだ目を一度だけ瞬くと、苦しげに身を震わせて血の混じった咳をした。後頭部の口から飛んだ血が、圭介の顔にも掛かる。彼がゆっくりと細い声を絞り出すのを聞き取ってから、圭介は顔を上げた。

圭介が合図するよりも先に、阿方の銃口が学生の額を捉えていた。

「何と言っていた?」

 永遠に動かなくなったミュータントを見下ろして、阿方が抑揚の無い声で言う。圭介は黙って首を振った。

「こんなことするなんて、普通じゃねえよ」

 晃の声が、震えている。ゾンビよりも、こんな真似をする人間の方が恐ろしい。それを聞いて、圭介が皮肉な笑みを浮かべる。

「怖がる必要は無い。残酷なんじゃなくて、幼稚なだけさ」

 ミュータントは皆、自分の感情に振り回されやすい。相手の痛みも、苦しみも。理解できない者の方が、圧倒的に多い。竜一を見ていてもわかることだし、圭介も昔はそうだった。

「帰ろう。報告書に書くネタは十分集まったからな」

 気を取り直すように、圭介が肩に掛けた荷物を持ち直した。

 遠くから、ゾンビのか細い声が聞こえて来た。

 ――オカエリナサイ……――

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【9】

あんなのが、竜二であるわけが無い。

 下水の住処に戻って以来、明日香はずっと泣いていた。そんな明日香を見て、勇は単純に失望していた。あんなものを見てしまえば、流石に明日香も諦めるだろうと期待したのに。明日香は、今も左手の指に銀の指輪をはめている。

 明日香が寝入る頃、勇は明日香の手から指輪をそっと外した。下水を流れる黒いドブ川は、底なし沼のようだ。指輪を投げ捨てようとした腕を、もっと力強い腕が捕まえた。

「ただいま、勇」

 酷く悲しげで、疲れた顔をした阿方が、勇を見下ろしていた。勇は気まずそうに顔を逸らすと、指輪を阿方の手に押し付けて、ふてくされたようにその場に腰を降ろした。

 こういうところは、本当に子どもそのものだ。勇はまだ十歳で、家族の喪失という事実と向き合えるような年齢ではない。阿方は、胸の締め付けられるような思いに囚われる。

「勇。聞いてくれ」

 阿方も勇のすぐ隣に座ると、目線だけは正面を見据えたまま言った。

「お前は、これから先どうやって生きて行きたい?」

 勇が弾かれたように顔を上げる。

「どうやって、って……」

 考えたこともなかった。いつだって、決定を下すのは阿方か、竜二かのどちらかだった。サクラ市に来るのだって阿方が決めたことで、勇の意志ではない。

「俺も長く生き過ぎた。ゾンビ化する日も遠くない」

 食べ物も着るものも、阿方が見つけて来るのが当たり前だった。明日香が自分たちだけで服を取って来た時は、なぜわざわざ危険な真似をするのかと内心馬鹿にしていたくらいだ。今思えば、明日香は感づいていたのかもしれない。三人で居られる日々は、そう残されていないということに。

「金髪の先生から貰ったよ。勇、お前の診断書だ」

 阿方が茶色い封筒を勇に手渡した。阿方にこんな目で見られるのは、初めてだった。何と言って良いかもわからず、勇はぽかんと口を開けたまま阿方を見つめる。勇に向かって話しているのに、まるで相手が竜二であるかのような……自分と同じ大人を相手にしているような、そんな目つきなのだ。

「お前には時間がある。だが……そろそろ、明日香を自由にしてやってくれないか?」

 阿方は、何を言っているのだろう。明日香を縛り付けたことなど、一度も無い。寧ろ、最近の明日香は勇を避けていた。一緒に遊んでもくれなくなったし、昔はあんなに勇のことを慕ってくれたのに、今は妙に大人ぶった顔で、勇を見下すようになって。

「俺は……」

 まだ声変わりもしていない少年の目を見るのが、阿方には酷く辛いことのように思えた。いつまでも、親子で居られたら良かった。だが、今選ばせなければならないのだ。今後も、明日香の弟として生きて行くか。それとも、明日香とは離れて、このサクラ市で生きて行くか。

「一人にならないようにはするつもりだ。俺と明日香がいなくなっても、若いお前は生きていかなければならない。サクラ市には他にも子どもがいるからな、一応学校もあるし、受け入れ先は見つかるだろう」

 阿方の言葉が、性質の悪い冗談のように頭の中で響く。サクラ市に行くと決まった時も、勇はさほど深刻には考えていなかった。阿方はいずれ、この町を出ようと言い出すに決まっている。長いこと同じ場所に留まっていたことは、今まで無かったのに。

「俺が、どうしてお前たちをあちこち連れまわしたかわかっているか?」

 阿方は俯いて、寝息を立てる明日香の顔を見た。拾って来たシャツの胸元がはだけて、白い乳房が僅かに覗いている。まだまだ子どもだと思っていたのに、いつのまにか随分女らしくなっている。

 奇麗になったものだ。柄にも無く、阿方はそんなことを思った。竜二が今、どんな姿なのかはわからない。明日香に必要なのは、本当に竜二なのだろうか。サクラ市での生活を初めて、明日香は変わった。学校ばかりが理由ではないのだろう。明日香が笑うことさえ久しぶりだったが、あんな表情を見るのは初めてだ。

圭介ならば信用できる。あの青年が、もし、阿方の考える未来を現実にしてくれるのならば。希望というものが、こんな世界でも少しでも信じられるならば。

「俺は、死に場所を探していたんだ。ここは、良い町だ。ここなら、お前たちは……お前は、十分安全に暮らして行ける。俺は、安心して死ぬことができる……」

竜二という幻影で、いつまでも明日香を縛り付けて何になる。警備隊の仲間たちに、事情は既に話してあった。明日香が一人ぼっちにならないこと、それだけが今の阿方の関心ごとだ。

「勇。お前がそうなったのは、俺達の所為なんだ。俺は、お前に謝らなければならない。本当にすまなかった」

阿方の声は相変わらず静かなままで、勇は却って寒気を覚えた。

「だが、頼むから、同じことは繰り返さないでくれ。明日香には……竜二と同じ苦しみは、味わってほしくない……」

 銀の指輪を、阿方は明日香の手の中に戻した。明日香の規則的な寝息が僅かに乱れる。

 勇はいきなり立ち上がると、まるで恐ろしいものでも見るかのように阿方を睨んで、後ずさった。息が上がっていた。寒くもないのに、額に汗の粒が光っている。

「竜二兄ちゃんには、悪くないって言ったくせに」

 竜二のことを、嫌っていたわけではない。少なくとも、明日香が現れるまでの間は。明日香が年上の竜二を見る時の目が、いつも気に食わなかった。僅かに頬を染めるところも、勇と話すときより声が高くなるところも。

 ゾンビ化が始まった竜二が無様に泣き喚くのを見た時は、明日香のように悲しむ気も起きなかった。

「お前は悪くない、って。俺だって……悪くない!」

 コンクリートの下水に、勇の声が反響する。

 阿方はそれを、悲しそうな面持ちで聞いていた。勇は、今後も変わることは無いのかもしれない。かつて、阿方たちはそう望んだ。

「朝になったら、俺は出かけるよ」

 阿方は言って、目を閉じた。目の下に、黒い隈が刻まれている。酷く疲れていたが、眠れるかどうかは、自分でもわからない。

「竜二に、会いに行くんだ」

 腰に下げた警備隊の銃が、いつも以上に重かった。明日は、置いて行こう。家族と会うのに、殺しの道具などいるものか。ようやく竜二に会えるかもしれないのに、気分は少しも楽にならなかった。

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