長編15
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日曜日は最高の終末8

【1】

《学級日誌 ……曜日 当番・明日香》

 サクラ市の人たちは、本当に良い人ばかりだ。おかしいのは多分、私の方なんだと思う。

 ミホは悪くない。無理にお願いしたのは、私だから。私もミュータントだったら、もっと長く一緒に居られたのに。ミホ、今までありがとう。ごめんね、ミホ。

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【2】

見慣れた学校の屋上に、明日香は立っている。明日香は、勇を追いかけている。長い黒髪が、オレンジに輝いている。遠くに見える夕陽が美しい。明日香は、泣いている。

追い詰められた勇は、柵に身体を押し付けている。

無理やりな笑顔を作って、もごもごと言い訳めいたことを口にする。明日香の顔から、表情が消える。細い指の関節が、真っ白に強張っている。握られた拳銃。硝煙が上がっている。勇の肩には、新しい傷ができている。

銀色の指輪が、涙のように光った。

明日香の華奢な体の、どこにそんな力が眠っていたのだろう。鈍い音と共に、小さな子供の身体が崩れる。人形のように横たわった少年の身体は、赤い水たまりの中に沈んでぴくりとも動かない。

明日香は無表情にそれを見下ろした後、ふらふらと歩いて行く。屋上の柵に手を掛け、操られているかのように柵を乗り越え、そして。

 自分の悲鳴で、ミホは飛び起きた。

「大丈夫かい?」

 金髪の医師が、心配そうにミホの顔を覗き込んでいる。枕にしていた腕が痺れていた。ノートが開きっぱなしになっている。いつの間にか、眠ってしまったらしい。

「珍しいね。ミホ君が、勉強の途中で寝ちゃうなんて」

 ジェームズ医師が笑う。ミホは帽子を目いっぱい引き下げて、決して医師の目を見ないようにした。

「お兄さんも、もうすぐ帰って来るよ。それまで待ってるといい」

 夢の余韻が、濁った渦となって頭の中に居座っている。医師が差し出したカップを受け取って、ミホは暖かいお茶をできる限りの早さで飲み込んだ。病院の書斎は、いつもと同じ薬品の匂いのする静かな空気に包まれている。一見雑多に並べられている本や書類に少しも埃が積もっていないのは、医師が頻繁に取り出して見るためだろう。

「ミホ君。君に、言っておきたいことがある」

 ミホの目の前に椅子を引き寄せて座りながら、医師は青い瞳でじっとミホの顔を見つめた。

「嘘が人を救うこともあるんだ。それだけは、わかってほしい」

 ミホに嘘は吐けない。兄も、優も、同じことを言う。けれど、本当に嘘が通じない相手はこの金髪の医者をおいて他にいない。

 扉を締め切っていても、呻き声は聞こえて来た。慣れているので、看護師も何も言わない。あきこが毎日のようにあの部屋へ入って、決まって上機嫌で帰って来ることもミホは知っている。バスケットの中身は、いつも一杯だ。

「優君のやったことは、その場しのぎの誤魔化しだったかもしれない」

 医師が共犯者の笑みを浮かべた。

「だけど、時間が経てば明日香君の中では真実になる」

 低く、苦しげな呻きは途切れることなく続いている。嘘を吐くことで、明日香の未来は変わるのだろうか。ミホは広げっぱなしのノートを見下ろした。数学の数式のように、全てに本当に正しい答えが用意されているのなら良かったのに。

「答えの出ない問題が、人生には山積みさ。大昔にやったことが正しかったのかどうか、俺は今でも時々悩んでる」

 ジェームズ医師の机に積まれたノートは、ミホが普段使っているものよりもかなり古びている。黄ばんでごわごわになったページを捲る医師は、彼にしては珍しい表情で俯いていた。

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【3】

『寄生型ノーマルについて』 ジェームズ・D・ベルフェゴール

 ミュータントの兄に寄生する、ノーマルの弟。

 私は、彼らこそ、この世界の救いになると考えていた。長年差別に晒されて来たミュータントが、ノーマルの命を救うのだ。既に誰もが知っている通り、ミュータントの血液から抗体のみを抽出してノーマルの体内に入れるという治療法には、限界がある。

 抗体はノーマルの体内では数時間しか存在できないため、平均して約三時間置きに注射をしなければならず、一度でも途切れればその抗体の存在しない時間を狙ってウイルスが活性化してしまう。

 人間の睡眠時間が三時間では足りないことを考えれば、この方法が完璧ではないことに、すぐに気が付くはずだ。

 しかし、二十四時間、常に新鮮な抗体が流れ込む状況を作ったらどうなるだろう。抗体の生成が不可能なノーマルであっても、その状況下であればゾンビウイルスは活動停止状態になるはずだ。注射の煩わしさに悩まされる必要も無くなる。

 私は兄弟を繋ぐ巨大な血管と、抗体注射の限界について、母親に何度も説明した。どうにかして、兄弟は繋がったままで居るのが最善であるという結論に持って行きたかったのだ。

 確かに、不便が無いと言えば嘘になる。しかし弛んだ皮膚を正しく整形し直して、二人が互いに寄り掛からなくても歩けるようにすることは簡単だったし、後は互いを信頼し合えるようになれば、生きていくことは十分可能なはずだった。

 母親は、結局首を縦には振らなかった。

 二人の身体を繋げたままにしておけば、医学的にはどうであれ、世間的にはミュータントのシャム双生児という最悪の評価を得ることになる。

 二人を分けることで、少なくとも弟の方はまともな(世間の言うまとも、という言葉ほど、当てにできないものも無いが)外見に生まれ変われるではないか、というのが、母親の主張だった。

 医者からすれば馬鹿げているとしか言えないが、今後の社会生活を考えれば、確かに母親の気持ちもわからないではない。

 しかしそちらを選択すれば、弟は人生半ばにしてこの世を去らなければならなくなる。私は繰り返し母親の説得を試みたが、彼女自身の意志も、彼女の家族の意志も変わらなかった。

 長く生きられる者からその可能性を奪うというのは、私の望むところではなかった。

 むしろ、ノーマルの生存という視点からすれば、この弟の存在は希望だったとも言える。しかし赤ん坊は親の所有物であり、私の自分勝手な研究材料にするわけにはいかなかった。

母親の希望に従い、私は兄弟の分離手術を行った。

 私の長い人生の中で、最も不本意な手術だったと記憶している。

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【4】

サクラ市は、変わらない。変わったのは、明日香だけだ。

 下水の中、勇が阿方たちと一緒に暮らしていた場所には、ごく少ない荷物の塊がぽつんと残されていた。銃も、警備隊の制服も、消えている。

阿方はもう、帰っては来ないつもりなのだろうか。勇は荷物のポケットを漁って色付きのチョークを取り出すと、下水の壁に線を引いた。

明日香の名前を書こうと思ったが、字を知らないことに気付いて、苛立ってチョークを投げ捨てた。

 勇は、何も知らないままだ。住処の探し方も、ゾンビの殺し方も、何も知らない。ノーマルの仲間がゾンビ化した時でさえ、勇は危機感など覚えなかった。

大人は大勢いるし、大人は子どもを守るものだ。現に阿方は、ずっとその義務を果たし続けて来た。

 それの何が悪い?

 勇は子どもなのだから、何もできなくて当たり前ではないか。明日香がそんな勇を捨てて別な男のところに行くのだとしたら、それは裏切り行為に他ならない。

 それとも、勇が大人だったら?

 愚にも付かないことのように思えて、勇はそれ以上考えるのをやめた。自分が竜二だったら、などと夢想することも、昔はあった。

もしそうだったなら、明日香を守ることができる。ゾンビの群れから明日香を救い出すことも、明日香の身体を抱えて誰よりも早く走ることも、強い力でゾンビを殺すことも、簡単にできるはずだ。

しかし、そんなことをだらだら考えたところで、何になる。

 竜二は、死んだ。

 勇は、生き残った。

 明日香も、いずれは気付くだろう。変化を望まない勇の方が、結局は正しいということに。

「戻ってこい、明日香」

 呟いて、勇はふらふらと立ち上がった。下水の番をする老人も、今では勇が近づくだけで黙って蓋を開けてくれるようになっている。

子どもが町を歩くのは危険だと言われているが、却って安全だ。子どもだからこそ、他の大人たちは身を挺して勇を守ってくれる。

 明日香を探しに行こうと、勇は思った。

阿方が帰って来ないなら、これからは二人で生きて行かなければならない。明日香にそれを伝えたら、明日香はどんな顔をするだろう。

竜二が戻らないと知った時のように、泣くだろうか。唯一残された勇に縋って、自分が勇を守るしかないのだという運命を受け入れるだろうか。

 それで良い。阿方がいようといまいと、勇は同じ『日常』を続けていくしかないのだから。

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【5】

『寄生型ノーマルについて』 ジェームズ・D・ベルフェゴール

ミュータントとは、突然変異種という意味である。突如現れたゾンビウイルスによって、地球上のあらゆる生命は存続の危機に陥った。

彼らは、生き残る為に独自の進化を遂げたのだ。ネズミたちは雌雄同体となって単体でも子孫を残せるようになったし、ゴキブリは寒さにも滅法強くなって一年中走り回るようになった。

植物までが、食い尽くされる未来を予感してか巨大化し、滅多なことでは枯れることも無くなった。

人間だけが進化しない、ということが、果たしてあり得るだろうか。その答えが、ミュータントなのである。

人類は進化し、血液の中に抗体を作り出した。

だが、急激な進化は、人間らしさと引き換えだったのかもしれない。

こんな非科学的なことを書くと笑われてしまいそうだが、百年以上もミュータントを観察して来て、導き出された事実でもある。

ミュータントはそれぞれが個性的な外見をしており(この理由については後述する。あくまで予想の範疇ではあるが)、中にはニュータイプと呼ばれる特殊な能力を備えた個体もある(論文ノート15冊目、『ニュータイプの出現について』を参照のこと)。

これだけで人間らしさを失ったと結論付けるのはあまりにも乱暴だが、進化が人類の脳細胞にも影響を及ぼしていることは疑いようも無い。

進化に取り残された人間……ノーマル、という呼び方が一般的とされているが、旧人類と呼んでしまっても差し支えは無いだろう。

旧人類とミュータントを比較して、わかりやすく異なっているのは、外見、細胞の劣化速度、そして精神の三点だ。

ミュータントの精神構造は、旧人類よりも幼く、またゾンビのように凶暴な性質を備えている。ゾンビに打ち勝たなければ生きて行けないことを思えば、これも仕方の無いことなのだろう。

だが、決して知能が低いというわけではなく、むしろこちらの方は旧人類よりもずっと優れた者も存在する。旧人類たちがミュータントを危険な存在として迫害し続けた理由も、ここにあるのではないか。

 進化とは、興味深いものだ。人類は生き残る為に身体を進化させたが、逆に精神は退化してしまった。

人間が社会生活を営む上で長い年月を掛けて精神を進化させて来た歴史を思えば、これは残念な結果であると言わざるを得ない。

人間が人間のまま、人間らしさを失わずに生き残ろうとした結果、あの双生児は生まれたのだろうか。今となっては、何もわからなくなってしまった。

だが、ひとつだけ言えることがある。

弟と切り離された兄は、精神構造に至るまで、全てがミュータントそのものだった。

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【6】

 竜二には、もう会わない方が良い。わかっていたはずなのに、気が付けば足は自然と病院へ向かっていた。いや、自然と、ではない。立ち止まって、明日香は周囲を注意深く見回す。優やミホとうっかり顔を合わせてしまえば、何かまた言い訳を考えなければならない。それが、嫌だった。

 手の中に、明日香は下水からかき集めて来た布切れやネズミ肉の燻製を抱え込んでいた。竜二は酷い怪我をしていたのに、まともな手当すらしてもらっていない。食べ物だって、何を与えられているかわかったものではない。誰かに言えば明日香の方が非難されるのだろうが、それでも明日香は、できる限り竜二の味方で居たかった。

 病院の入り口は、いつも開いている。急患に備えているつもりなのだろう。明日香は身を屈めると、お喋りに夢中になっている看護師たちの視界に入らないようにして、外来の受付を通り過ぎた。目指す扉は、もっと先にある。途中ジェームズ医師と鉢合わせするのが、一番避けたいことだった。何となく、彼には何を言っても無駄な気がする。

 気が付けば、ゾンビから逃げている時よりも息が切れていた。誰ともすれ違わずに来ることができたのは、まあ幸運と言って良い。一度だけ深呼吸して、明日香は重い扉に手を掛ける。単なる閉め忘れなのか、意図的なものか。鍵は、掛かっていなかった。

「竜二さん……」

 低い、苦しげな呻きが、明日香を出迎えた。

 身をよじる度に、両腕を戒める銀の鎖が、じゃらじゃらと音を立てる。自重で鎖が皮膚に食い込み、血が滲んでいた。顔には、汚れた袋が被せられたままだ。

「竜二さん、私。ねえ、わかる?」

 明日香は震える声で囁きかけると、気力を振り絞ってゾンビにもミュータントにもなれなかった男に近付いた。排泄物の耐え難い臭いが鼻を突き、明日香はえづくと同時に涙を堪え切れなくなった。

「じっとしてて。今、手当するから」

 血と膿に塗れたぼろ布のような服を捲り、切断された足の傷口に触れる。『竜二』は盛大に呻き声を上げたが、分厚い扉の向こうから邪魔者がやって来る気配は無かった。

傷口はまだ生々しかったものの、表面に薄い紙のような皮膚が新しく張っている。ミュータントへの改造が、回復力へも影響を及ぼしたのだろうか。とにかく治癒しかけていることに安心して、明日香は新しい布で包帯した。

「お腹空いてない? 何か、食べられそう?」

 ネズミ肉を千切って顔の前に近付けたが、竜二は激しく首を振っただけだった。明日香は悲しげに手を伸ばすと、被せられた袋越しに、竜二の顔を撫でてやった。

「私が眠れない時、良くこうしてくれたわよね」

 竜二は、ただ頭を振り回している。明日香の言葉が理解できているかどうかも怪しかったが、明日香はそれでも語り続けた。

「私が泣いている時は、何時間でも愚痴を聞いてくれて。ゾンビからも、いつだって守ってくれたわ。覚えてる?」

 最後の方は、明日香の声も不明瞭になっていた。涙がぽたぽたとこぼれ落ちたが、目の前の男はもう、それを拭ってやることもできなかった。

いつだったか、明日香は勇に連れられてささやかな冒険をしたことがあった。あの時は阿方や竜二の他にも大勢大人がいて、明日香たちが危ない目に合わないよう、いつも監視の目を光らせていた。

勇からすれば、それが面白くなかったのかもしれない。

明日香の手を取って、行ってはいけないと言われた場所に二人で出かけた。廃病院だったのか教会だったのか、とにかく大きな建物だったと記憶している。

勇と明日香は、かくれんぼをして遊んだ。崩れかけの建物には、隠れる場所がたくさんあった。ゾンビが身を潜める場所も、同じくらいあった。

初めてゾンビを至近距離で見たのも、あれが初めてだった。明日香は、声すら出せなかった。

勇は明日香の名を叫んだものの、所詮はただの子どもで、助けることなどできるはずも無かった。

 竜二がいなければ、明日香はあの時に死んでいたはずだ。

 勇だって、もっと酷い怪我をしていたかもしれない。

 明日香を庇うように抱いて、竜二はゾンビの頭を石で殴った。傷口から腐敗した脳汁が吹き出し、ゾンビは動かなくなった。泣き叫ぶ明日香の背を撫でながら、竜二は危ないだろ、と優しく叱った。

 竜二をそれまでとは違った目で見るようになったのも、あの時以来だ。大人から見れば、笑ってしまうような幼い想い。けれど明日香は、竜二が突然いなくなった時も、どうしても諦めることができなかった。

「私、もう大人なの。でも竜二さんは、子どもの私しか知らないのね」

 目の前の生き物は、相変わらず獣の咆哮を上げている。

 明日香は急に、竜二はもうこの世にいないことを悟った。

 竜二の魂は……人間に魂などというものがあるとして、だが……既に、明日香の声の届かないところへ行ってしまっている。

 微かに嗚咽を漏らしながら、明日香は左手にはめていたぶかぶかの指輪をそっと外した。子どもの頃の記憶と少しも変わらずに光る銀色を、明日香は縛られた男の指にはめ直そうとした。

 音を立てて、指輪は床に転がった。

「え?」

 疑問が声となって、明日香の口から漏れた。

 そんなはずは無い。

 指輪は、竜二の右手の中指にぴったりだったはずだ。しかし、今目の前にいるこの男の指は太く節くれだって、指輪が関節を通り抜けられなくなっている。

 痩せた、とは思っていた。

 明日香は息を呑んで、袋を被せられた男から後ずさった。

 雰囲気が変わったのも、顔が隠されているのも、仕方の無いことなのだと思っていた。何より優は、これを竜二だと言ったではないか。

 しかし。

 いくら何でも、指の関節の太さが急激に変わるものだろうか。爪は平たく広がり、指の付け根には強い毛がぎっしりと生えている。記憶の中の竜二は、こんなに醜い手をしていない。

 ごくりと、喉が鳴った。明日香は、その指先を竜二だと思っていたものの顔に伸ばして、汚れた布袋を取り去ろうとした。

「あーあ、やっぱりばれちゃった」

 場違いなほど明るい声がして、明日香は飛び上がりそうになった。

「悪く思わないでね。優は、あなたの為に嘘を吐いたんだから」

 継ぎはぎのスカートが翻る。髪を肩の上で切りそろえ、蔓を編んだバスケットを腕に下げた女が、嫌に晴れ晴れとした笑みを浮かべて経っていた。

「あきこ、さん?」

 明日香が震える声で言う。あきこ、という女からは、強い血の匂いがしていた。

「あら、名前を覚えておいてくれたのね。嬉しいわ」

 あきこはスカートの裾を撮んで、明日香の方へ歩み寄った。スカートの下で、三本の足が優雅に踊っている。

「愛の前に嘘は吐けないのよ。大人だったら、嘘を受け入れて自分の中で真実にすることもできるけれど。あなたは、まだ子どもすぎるわ」

 バスケットの中には、黄ばんだ紙の束が押し込まれている。明日香の目が、そこに吸い寄せられた。

「見る?」

 最初から、そのつもりだったのだろうか。あきこは小首を傾げてにこりと笑うと、明日香の前にバスケットを突き出した。紙の束と思っていたのは古いノートで、表紙にはマジックで題名が書かれていた。

 

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 ――ミュータントに関する考察と研究 ジェームズ・D・ベルフェゴール――

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「先生の研究の記録よ。読めば、『竜二』の真実がわかるわ」

 手を伸ばしかけた明日香の目を、柔和だが容赦の無い視線が貫く。

「読んでしまったら、後には引けないわよ。嘘を信じた方が幸せってこともあるわ」

「例え、そうだったとしても」

 明日香は、赤く充血した目であきこを睨み返した。

暑いわけではないのに、汗が止まらなかった。知りたくなんかないのに、意識の奥底が投げ出すことを許さない。あの時と同じだ、と、明日香は嫌に冴えわたった頭で考えた。ミホが、優の記憶を見せてくれた時と似ている。ミホは何度も辞めるチャンスをくれたのに、どうしても従えなかった。

 理由は、わかっている。

 ミホの見せたものも、今手の中にあるノートも。紛れも無い真実だからこそ、明日香は目を逸らすことができない。

「私が知りたいのは、事実だけなんです」

 黄ばんだページが、指の下でぱりぱりと音を立てる。黴の臭いが鼻を突いた。外国語のように変形した文字の羅列が、明日香の目に飛び込んで来た。

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【7】

『寄生型ノーマルについて』 ジェームズ・D・ベルフェゴール

 分離手術は、わけなく成功した。弛んだ余計な皮膚を除去し、二人分の内臓をそれぞれに分けて配置し、二人を繋ぐ強固な鎖……命を繋ぐパイプでもある、通常の動脈よりも太い血管を切断する。

 血管にメスを入れる際、私は溜息を禁じ得なかった。大量出血を引き起こす可能性もあったため、集中を切らすわけにはいかなかったのだが、それでも勿体ないという思いは直前まで居座っていたのだ。

 この血管から抗体が送られなくなれば、弟は通常のノーマルと同じように、天寿を全うすることなくゾンビ化する。そればかりか、おそらくは兄の方も、手術を行うことによって寿命を縮めてしまう。

 しかし、医者は患者の意志に反する治療を勝手に行うことはできない。兄弟はまだ赤ん坊なので、この場合は患者の家族、特に母親の意志を尊重するより無かった。もしも兄弟にきちんとした意志が備わっていたら、何を望んだのだろう。母親が望んだのは、弟が『まともな』ノーマルとして生活できるような外見になること、だった。兄の方に関しては、特に何とも思っていないらしかった。兄を生かすために弟が少しでも犠牲になるならば、兄を殺してくれと頼まれたくらいだ。

 切り離すことが決まった以上、長生きできる可能性が高いのは、抗体を作ることのできる兄の方なのに。

 医者とは、無力なものだ。

 私は無駄になると知りながら、弟の人生に有利になるように内臓を配分するしかなかった。

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【8】

《警備隊長幸也の記録書》

 全く何だって気付かなかったんだ? 俺には生まれつき手足が無いが、その分脳味噌だけは上等だと思っていた。

 とんだ自惚れだ。竜二というノーマルのことも、北区で起こっていたことも。俺には何一つ見えていなかった。俺の目は節穴だ。これで警備隊長だなんて笑わせる。阿方には悪いことをした。文句を言うなら、俺に言ってくれ。もっと良い方法があるんじゃないかって、俺が竜一に教えてやらなきゃならなかったんだ。

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