私の話です。
子供の頃の思い出を聞かれた時、皆さんは何歳まで遡って語ることができるでしょうか?
大抵の方が小学校低学年くらいまで、幼稚園かそれ以下になると、かなり断片的か、朧げになってしまう方がほとんどだと思います(違う、という方がいましたら申し訳ありません。私の周辺が皆そんな感じなもので)。
私自身も、幼稚園の頃の思い出となるとかなり断片的なのですが。
不幸なことに、強く記憶に絡みついているのは楽しい思い出ではなく、幼い私の傷となるような思い出なのです。
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五歳児だった頃の思い出なので、実際は私の思い違いとか、事実と違う部分はあるかと思います。
ただ、今は私自身の記憶に従って、少なくとも私が経験したと思われる出来事について語ろうかと思います。
両親が共働きだった私は、幼稚園に通っていました。先生は皆優しく、玩具もたくさんあって、良い幼稚園だったとは思うのですが。
一人だけ、どうしても苦手な先生がいました。
仮に、醜子先生としておきます。
醜子先生は年取った女の先生だったのですが、とにかく私を目の敵にしておりました。
一部の人間から異様に嫌われる、この性質は私が生まれつき持っているもののようで。人生を経過していくうちに、戦う術を身に着けるのですが……この時は、五歳児。
何故自分だけが嫌われるのか、どうしたら他の園児のように可愛がってもらえるのか。
そんなことばかり、考えていました。
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嫌われている、という具体的な例をお出ししますと。
例えば、こんなことがありました。
醜子先生に好かれたかった私は、玩具のブロックで『ご馳走』を作って見せに行きました。今もあるのかどうかはわかりませんが、当時は凸凹を組み合わせてロボットや動物の形を作れるような、レゴブロックをもっと簡素化したような玩具があったのです。
当時の女子に一番人気の遊びである『ままごと』が大好きだった私は、ブロックで果物やらサンドイッチやらを作って持って行ったわけです。
醜子先生は、私の『ご馳走』を子供用滑り台の上から滑り落としました。
笑いながら。
ばらばらに砕けてしまった『ご馳走』を見て、私が大泣きしたのは言うまでもありません。
確か年長組(上の学級のことです)の園児さんたちが来て、私を慰めてくれたのだとは思いますが……醜子先生から謝罪された記憶は、全くありません。
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こんなこともありました。
幼稚園なので室内にも遊具はたくさんあります。その遊具である鉄棒で、私は男の子がやっていた『足掛け回り』をやってみようと思いました。
『足掛け回り』とは、鉄棒に片足を引っかけてそのままくるんと一回転するという、幼い子にとっては多少度胸を必要としますが決して難易度は高くない技です。
くるん、と上手に回って着地した瞬間、醜子先生が飛んできました。そのまま、小さな私の体が吹っ飛ぶくらいの平手打ちを喰らいました。
「危ないでしょ! 馬鹿なの! 馬鹿なの!」
ヒステリックに繰り返しながら、他の先生が止めるのも聞かずに二発目の平手打ちを放った醜子先生は、白髪を振り乱し、鬼のように歪んだ顔をしていました。
足掛け回りなんて、他の子も普通にやっているのに。と言うか、他の男の子ができた時は「上手ね」なんて褒めていたのに。
私はわけがわからず、ただ悲しくて泣き叫んでいました。
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醜子先生との思い出は、他にもあります。
幼稚園では、遊ぶ時間と片付けの時間が定められていました。チャイムが鳴ったら、今まで遊んでいた玩具を片付けて自分の教室に戻らなければなりません。
私はチャイムが鳴っても遊び続けるような、いわゆる問題児ではなかったと思います。
ブロックを拾って玩具箱に入れる……そんな動作を繰り返していたような記憶が、少しは残っているからです。
片付けが終わった後は、教室に帰ります。帰ろうとする私のスモック(幼稚園の制服みたいなものです)を、醜子先生が引っ張りました。チャイムが鳴り終わる前に帰らないといけないのに、そのために急いでいるのに、醜子先生は手を放してくれません。
何で、何で。放して。
今思えば大したことでもないのですが、当時の私はすっかり困惑して暴れました。暴れたところで、大人の力には敵いません。
泣き叫ぶ私の声を聞いて、他の先生方がやって来ました。しかし、かたや幼稚園児のスモックを掴んでいるだけの醜子先生……かたや、スモックを掴まれただけで大泣きしている幼稚園児の私……先生方も、苦笑するしかありませんでした。
「可愛いから、放したくなくなっちゃって」
醜子先生は、笑いながらそう言いました。
その時だけで済めば良かったのですが。
醜子先生の奇行(?)は、その後も何日も続き、私はチャイムが鳴っても教室に戻ろうとせず、遊び場の真ん中にぽつんと座っているようになりました。
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極め付きの事件が起こったのは、秋の頃だったでしょうか。長袖のスモックを着ていたような気がするので、夏ではなかったと思います。
私は、幼稚園の男の子と喧嘩をしました。喧嘩の原因が何なのかはわかりません。ただ、生半可な口喧嘩ではなく、取っ組み合いにまで発展してしまったことは何となく覚えています。
しかし、記憶が鮮明になるのはこの後です。
醜子先生は、私だけを別室に連れて行きました。
そこには、誰もいませんでした。
ただ薄暗くて、醜子先生の不細工な顔が更に酷く歪んでいました。
醜子先生は、喧嘩の理由を聞きませんでした。聞く必要も無かったのでしょう。彼女の中では、いつだって私が悪人なのですから。
醜子先生は、机の引き出しを開けました。
中から取り出したそれは、カッターナイフでした。自宅でも母親から「触るな」と言われている、あのカッターナイフです。
ちき、ちき、ちき。
刃が押し出されます。
醜子先生は、笑ってはいませんでした。ただ、刃を目いっぱいに押し出したカッターナイフを手に、私を憎しみの籠った目で睨みつけていました。
「お前の歯を切ってやる」
醜子先生はそう言いました。
私は、喧嘩の最中に相手の男の子に噛みついていました(向こうも殴ったり引っかいたりしてきたので、おあいこだとは思いますが……)。
「切ってやる! 口を開けろ!」
醜子先生は無理矢理に私の顎(あご)を押さえつけ、喉元にカッターの刃を押し付けます。
「開けろ! 開けろ!」
醜子先生は、目を一杯に見開いて私を睨みつけていました。私が憎くて堪らないと言うように。
刃が私の喉や頬を掠ります。血こそ出ませんが、幼い私は怖くてたまりませんでした。
殺される。
私は、そう思いました。
周りの大人に、いくら醜子先生の奇行を訴えても無駄でした。
子供に対して、そこまで酷い行いをする大人はいないだろう。誰もがそんな考えに凝り固まっていて、私の声は大人特有の苦笑と面白がるような話題の中に溶かされてしまっていました。
自分の身は、自分で守るしかない。私は、私の口をこじ開けようとする醜子先生の指に噛みつきました。
思いっきり。
乳歯なので大した威力は無かったはずですが、先生は「ぎゃーっ」と大げさな悲鳴を上げました。
醜子先生に殴られても。馬鹿、キ●ガイと叫ばれても。
私は、噛むのを辞めませんでした。
口の中に血の味が広がりました。
今思えば、私が生涯で初めて感じた『勝利の味』だったと思います。
「しね! しね! しね! おにばばあ、しね!」
駆け付けた他の先生方に引きはがされながら、私はこんな言葉を繰り返していたような気がします。
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それ以来、醜子先生が私に構わなくなった……と、いうことは無く。絆創膏をはった指で、相変わらず私に鬱陶しく絡みついていました。嫌いなら私に構わなければ良いのに、わざわざ自分から近づいて来るのです。
馬鹿かと思いました。
先生、馬鹿なの?
既に開き直っていた私は、そう尋ねたことがあります。
醜子先生は顔を真っ赤にして黙り込んでしまいました。
他の先生が飛んできて私を叱りましたが、私はきょとんとした顔で「馬鹿を馬鹿と言って何が悪いの?」と、嫌に大人びた声で言ったそうです。
幼稚園から報告を受けた母から聞きましたが。
私と同じく変わり者だった母が、「うちの子より、醜子先生の方がおかしいんじゃない?」と言い出した為、園長先生も黙り込む結果になってしまったとか……。
彼らもまた、醜子先生の奇行を見て見ぬ振りをしていたため、どうにもばつが悪かったのでしょう。
醜子先生が、ここまで私を嫌い、かつ付きまといを辞めなかった理由、ですが。
私がもう少し大きくなった頃、母が教えてくれました。曰く、「当時の園長先生に相当しつこく聞いた」そうです。
「あんたがね、大っ嫌いなお嫁さんに似てるんだって。息子さんはお嫁さんの味方で、大事に育てたのにもう連絡もくれない、って。別にお嫁さんの子供の頃を知ってるわけじゃないのにね、『多分こんな顔の子供だった』っていう妄想に、あんたの顔がぴったり合ってたんだって」
……呆れて言葉も出ない、とは、こういう時なのでしょう。
大人は思ったよりも愚かであるということを、私はこの出来事から学ばせて貰いました。
醜子先生が嫌っていたというお嫁さんが、そこそこの美人であったということが、似ていると言われた私にとって唯一の救いで御座いました。
作者林檎亭紅玉
大人が皆馬鹿なのではありません。馬鹿な大人は確実に存在する、ただそれだけです。