長編31
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日曜日は最高の終末9

【1】

 怪鳥にも似たゾンビの鳴き声が、頭の中で五月蠅く反響する。阿方は不快そうに眉をひそめると、裂けた天井の隙間から覗く、白々しいほどに眩しい太陽を睨んだ。

 掲げられた十字架は、風雨にさらされて斜めに傾いでいる。ピアノには薄気味の悪いつる草が絡みつき、鍵盤の上に広がる腐った血に、双頭の蠅と妙な色の鱗の蜥蜴が群がっていた。

 教会。

 人間の宗教心の行きつく先がこの廃墟だなんて、一体誰が想像しただろう。

「約束通り、一人で来ましたね。阿方さん」

 足音よりも、地面を規則的に叩く白杖の音の方が特徴的だった。阿方は無言のまま、正面を睨んだ。教会の壊れた戸を押し開けて、真っ直ぐこちらに向かって来たのは、竜一だった。

「竜二に会わせると言ったはずだ」

 北区の空気は、やはり酷く生臭い。他人よりも嗅覚が鋭いはずの竜一は、平気なのだろうか。

「竜二は、どこに居る?」

「慌てないでください。順番にお話ししましょう」

 長く伸ばした髪が、生臭い風に煽られて背中に靡く。ほっそりとした身体を白杖に預けて立つ竜一の顔には、包帯が巻かれている。包帯を外しても、然るべき場所に眼球は存在しないのだ。阿方は自分が、得体の知れない化け物と対峙しているような気分になった。

外見の問題ではない。圭介とは何度も話をしたが、彼はごく普通の若者でしかなかった。晃も、幸也にしてもそうだ。なぜ、竜一だけが。こんなにも、阿方の神経を逆撫でするのだろう。

「竜二が、初めて僕に会いに来た時のことは……もう、お話しましたね」

 竜一が微笑んだ。尖った白い歯がずらりと並んでいる。ぎい、と音のしそうな、歪んだ笑みだった。

「僕と優は、更生施設を出た後、このサクラ市に転がり込みました。ここには、ジェームズ先生がいますから」

 竜一は、自分の胸の辺りに手をやった。痛みは無くても、見ることさえできなくても。傷は確かに、ここにある。

「僕は生まれつき、身体が丈夫ではありませんでした。竜二から聞きませんでしたか?」

「ああ……」

 阿方が低い声で言った。確かに、昔そんなことを聞いた気がする。竜二はあまり兄のことを話したがらなかったし、阿方も敢えて聞こうとはしなかったので、詳しいことはわからない。

「正確には、竜二と分かれてから、丈夫ではなくなったんです」

 竜一が、また笑った。

「竜二から聞きませんでしたか? 竜二は、元はミュータントだったと。元々は一人だったのを、無理やり二人に分けたのだ、と」

竜一は微笑んだまま、警備服の前を開いて、青白い胸板を晒した。十字架の形をした傷が、数字の焼印の上に重なっている。

「僕と竜二は、元は一人だったんです」

 皮膚と血管で、二人は結合したままこの世に生を受けた。両親がどれだけ絶望したかは、想像に難くない。

「竜二の母の希望で、ジェームズ先生が、僕たちを二人に分けました」

 すぐ傍に居るのに、竜一の声が遠かった。

 ノーマルとして生きることを肯定していたとは言え、竜二はまだ自分の中にミュータントの抗体が残っていると思っていたのだろう。彼の底抜けの明るさと優しさは、自分だけはゾンビ化しないという自信の元に成り立っていたのかもしれない。

「竜二は完全なノーマルでしたから、僕への『寄生』を辞めた途端に、身体の中の抗体も死にました。長生きはできないと、散々言われていたはずですよ」

 竜二がそれを認めなかったことは、阿方も知っている。

 ――どうして、俺が……――

 ゾンビ化の症状が現れ始めた時の竜二は、死への恐怖よりも、信じていたものに裏切られたという感情が大きかったように思える。

 竜二はノーマルとして両親に愛されながら育ち、元は同じ身体で生まれながら、竜一は更生施設に送られた。竜二は、自分こそが勝者だと確信していたはずだ。けれど、運命なんて、どこでどうなるかわかったものではない。

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【2】

『寄生型ノーマルについて』 ジェームズ・D・ベルフェゴール

 結合双生児の中に、内臓は二人分揃っていた。心臓はふたつ、腎臓は四つ、肺も四つ。数に間違いは無い。弛んだ皮膚を選り分ければ、兄は兄、弟は弟で、それぞれ骨と筋肉で作られた身体を別々に持っていることがわかった。大半の臓器は、それぞれの体内に大人しく収まっていたのだが。

心臓だけが、兄弟を繋ぐ巨大な血管の間に挟まるようにして、まるで巨大なサクランボか何かのようにぴったりとくっついて鎮座していた。

 どちらの心臓がどちらのものなのか、一見したところでは判断が付かなかった。ふたつの心臓のうち一つは、活発に動いて、兄の体内で作られる抗体を弟の体内に勢いよく送り出している。これにより弟は常に抗体の恩赦を受けることになり、健康な身体で居られたのだ。この心臓は非常に強靭で、二人分の血を送り出し続けたとしても、全く疲労することがなかった。

 私の頭を悩ませたのは、この強い心臓におまけのように引っ付いている、弱弱しい小さな心臓の方だった。心臓とは血液を送るポンプの役割をするもので、それ自体が抗体を作っているわけではない。どちらの心臓をどちらの身体に入れようと、弟がゾンビ化する運命は変わらないし、兄がノーマルになれるわけでもない。

 何が正しいのかは、私にはわからない。ただ、医学的に望ましい方法がどちらなのかは、わかっていた。だが、私はただの無力な医者だ。患者の望み通りにしかできない、臆病者だ。弱い方の心臓は、どんなに気を付けて生活したとしても、後二十年ももたないだろう。二人の身体を繋げたまま、強靭な方の心臓に二人分働いて貰うことにすれば、兄も弟も長く生きられるのに。メスを投げ出してしまいたい衝動に駆られたのは、あの時が最初で最後だった。

 

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【3】

「二十歳まで生きられない。子どもの頃から、そう言われていました」

 竜一が胸の傷を指先でなぞった。阿方はまた、竜一の中に竜二の幻を見ている自分に気付いた。

「どの道僕は、長生きしたいなんて思ってもいなかった。でも……未練ができてしまうと、人は弱いですね」

 竜一が笑う。白い頬に、薄らと赤みが差した。

優を見た瞬間、自分には存在しないと思っていた感情が確かにあることを知った。優と顔を合わせない日は全く落ち着かなかったし、優と会話することが一日のうちで一番の楽しみだった。優が規定通りに髪を結うことも、監視役に敬語を使うことも拒んでいると知れば、竜一も制服を着崩して職員たちへの態度もがらりと変えた。誰もが竜一の変化に戸惑い、罰を受けることもあったが、優がこちらを見てくれれば何でも良かった。監視役の目を掻い潜って初めて肌を重ねた晩は、身に余るほどの幸福にいつまでも酔い痴れた。

 生まれて初めて、自分の身体を呪った。

「優との幸福を守るためなら、何だってできるんです」

 その言葉に、嘘は無いのだろう。

「竜二だって同じだ」

 阿方が、絞り出すように言った。自分の話す言葉が、口から出る傍から嘘に変わって行くようだった。

「竜二も、明日香を大切に思っていたはずだ。お前に、竜二の気持ちがわからないわけじゃないだろう」

「どうですかね」

 竜一が笑い声を上げる。優に向ける優しげな微笑みとは真逆の、心底馬鹿にしたような笑いだった。

「子どもの頃、竜二が近所の女の子に悪戯をして、それが僕のせいになったことがありました。竜二は昔から、年下の……自分よりもずっと年下の女の子に、異常な興味を持っていましたから」

 阿方の顔から、血の気が引いた。竜二は、明日香よりも一回り以上年上だ。それでも、明日香は竜二を慕っていた。阿方は、二人さえ幸せならそれで良いと思っていた。

「竜二にとって、明日香はそういう欲望の対象だったのかもしれないし、そうではないのかもしれません。どちらにしろ、今は関係の無いことです」

 もうたくさんだと叫びたかったが、声が出なかった。阿方は俯いて、竜一の楽しげな声に耳を傾けた。

「僕と優がサクラ市に来て、しばらく経った頃……竜二が、また尋ねて来たんです」

 発症した竜二が向かったのは、サクラ市だった。段々と明日香の顔も識別できなくなって行き、言葉さえおぼつかなくなっていた頃だった。感情の起伏だけが激しくなり、常に怒っているか、泣き喚いて周囲に当たり散らすかのどちらかだった。

「俺は、竜二を止めなかった。連れ戻そうともしなかった」

 阿方が呟いた。

「お前は竜二の、本当の家族の生き残りだ。喧嘩したままで死んだら、きっと後悔するだろうと思ったんだ」

 後悔しているのは、阿方の方だ。

「僕はその頃、ジェームズ先生の病院に居ました。心臓がもう、限界だったんです。起き上がることもできなくて……竜二が枕元に来た時、唾を引っかけてやることもできませんでしたよ」

 阿方はふと、違和感を覚えて顔を上げた。

今の竜一は確かに細身ではあるものの、病人にはとても見えない。

竜一は、相変わらず悪意のある笑みを浮かべていた。阿方が知らないことを、自分だけは知っているとわかっているかのような。

遠くで、ゾンビの鳴き声が聞こえた。

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【4】

『寄生型ノーマルについて』 ジェームズ・D・ベルフェゴール

 ミュータントをノーマルに変えることはできない。

 同じく、ノーマルをミュータントにすることもできない。

 ミュータントの内臓をノーマルに移植し、抗体を作り出そうとしたこともあった。ミュータントとノーマルの血液を入れ替えたこともあった。できることは全てやってみたが、無駄だった。ノーマルの体内に入り込んだ血は、あっという間に抗体を失ってウイルスに屈してしまう。内臓も同じだった。強い拒絶反応が出て、一日も生き延びることができなかった。

 まだまだ研究が必要だ。私には時間がある。だからこそ、模索し続けることを許して欲しかったのに、ノーマルたちはそれを許さなかった。一体誰の為の研究だというのだ。私を追放して、私の研究結果をも追放して、一体何の得になるというのだろう。

 ノーマルとミュータント。他人同士では、拒絶反応が強すぎる。ならば、血の繋がった者同士ではどうか。親子では? 兄弟では? 双子ではどうだろう?

 しかし、最早私が何を言っても、ノーマルは聞く耳を持たない。私はノーマルを救いたいと、最初は確かにそう願っていたはずだ。しかし彼らは私を罵倒し、私から全てを取り上げた。私は彼らの為に力を尽くして来たのに、彼らから与えられたものは侮蔑と屈辱だった。

 私は、救うべき相手を間違えていたのだろうか。ノーマルたちの病院を去る時、私に良く尽くしてくれた医学生が見送りに来てくれた。

 裏切り者、と彼は言った。

 ミュータントの癖にノーマルを騙した、恥知らずだとも言った。

 二度と顔を見せるな、とも、言われた。私も、そのつもりだった。

 彼が後にミュータント厚生施設で働き始めたということを、風の噂で聞いた。

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【5】

 竜一は生きたかった。少しでも長く生き続けたかった。

 自分が死んだ後も、優は生き続ける。いつか、他の男を選んで、竜一は忘れ去られるのかと思うと。

 耐えられなかった。

「サクラ市で竜二と再会した時は、笑えましたよ。竜二はすっかり弱っていて、僕に縋って来たんです。助けてほしい、と」

 ジェームズ医師でなくとも、発症していることはすぐにわかっただろう。呂律の回らなくなった舌で繰り返される、死にたくないという言葉を、竜一は死の床の上で聞いていた。

「僕と竜二が繋がっていた時は、竜二には発症の危険がありませんでした。竜二なりに考えたんでしょう。もう一度、僕と身体を繋ぎ合わせれば、自分は助かるのではないか、と」

 阿方は、竜二が叫んでいた言葉を思い出した。

 過去に、ミュータントだったことがある。もう一度ミュータントに戻れば、ゾンビ化することも無くなるはずだ。

「そんな馬鹿な」

 大声を出したつもりだったが、声は意外なほど掠れていて、微かにしか響かなかった。

「そんな馬鹿な。一度発症した人間に、いくら抗体を注射したところで……」

「無駄ですよ。だけど竜二は、もうそれに縋るしか無かったんだ」

 兄ともう一度身体を繋げれば、自分は助かる。それだけを求めて、サクラ市に辿り着いた。

「それで」

 阿方が竜一の顔を見た。やはり、竜二にそっくりだ。

 いなくなった頃の竜二に、本当によく似ている。

「お前は、弟に何と……」

 風が竜一の長髪を攫った。細い首筋が露わになり、巨大な目玉がこちらを睨んだ。抉れたような、深い傷痕。真っ白に濁ったそれに、阿方の顔が映るわけも無いのに。

 例え血を分けた兄弟と言えど、竜一は竜二の望みを聞く気になっただろうか。赤ん坊の頃とは、わけが違う。永久に自分以外の誰かと繋がっていなくてはならなくなるし、優とのこともある。第一、そのような手術をしたところで、竜二が助かる保証は無いのだ。

「僕は、竜二を許しました」

 竜一が静かに言った。

「たった一人の弟ですからね」

 許すことと、救うことは、似ているけれども違う。阿方は竜一の告白を聞いても、少しも安堵することができなかった。

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【6】

『寄生型ノーマルについて』 ジェームズ・D・ベルフェゴール

 結合双生児の片割れが再び私の前に現れた時は、既に手遅れだった。弟をノーマルに戻した以上、いずれはこうなることがわかっていたはずだったが。それにしても、症状が現れるのが思ったよりも早かったことに驚かされた。

 助けてほしい、と、彼は言った。

 兄と繋がっていた時代は、ゾンビ化の心配など毛ほども無かったはずだ。再び兄と身体を繋いで抗体が流れ込むようにすれば、助かるのではないか、と。

 親の自分勝手の割を食うのは、いつだって子どもだ。私は、過去に私が行ったことを忘れていなかった。兄は、弟の存在を無視してしまうこともできたはずだ。しかし、時間が無いのは兄も同じだった。

 強靭な心臓を持っていたのは、弟の方だったのだから。

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【7】

「僕は、竜二を許しました。僕には竜二の心臓が必要で、竜二には僕の抗体が必要だった」

 竜一は今も、あの時の竜二のことを覚えている。かつての自信を失い、すっかり弱りはてた竜二は、涙を流して竜一に謝り続けた。まさか、兄から本当に許しを得られるとは思っていなかったのだろう。竜二は竜一の寝ているベッドに縋って、今後は兄とその恋人の優の為に尽くすことを約束した。

「意地を張っている場合ではありませんでしたから。僕は竜二を許し、ジェームズ先生に手術をしてくれるように頼みました」

 互いの身体を、再びひとつのものとする手術。少なくとも、竜二はそう考えていたはずだ。それなのに、今の竜一は。

 阿方の背を、冷たい汗が滑り落ちる。

 何か、嫌な予感がする。

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【8】

 弟には健康な心臓がある。兄には、ウイルスに打ち勝つ抗体がある。

 弟には、抗体が無い。兄の心臓は、すぐにでも鼓動を止めようとしている。

 医者として、最悪の結末は避けたかった。このまま放っておけば、間違いなく二人とも死ぬ。私にできることは、何なのだろう……

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【9】

「まあ、最も、竜二も……」

 阿方には、その時の光景が目に浮かぶようだった。竜二は、喜んで手術台に上がったはずだ。竜二は、どこか子どもっぽくて単純なところがあった。疑いもしなかったはずだ。許す、という兄の言葉に舞い上がり、過去に自分が竜一に対してやった仕打ちさえ、些細なことのように思えてしまったのかもしれない。安心して麻酔薬を吸い込み、未来の夢に無邪気に身を任せた。

「竜二も……」

 信じていたはずだ。

 兄と優と三人で、いつまでも生き続けられると。

 だが。

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【10】

ノーマルの為に研究を続けても、結局彼らは感謝の言葉さえかけてはくれなかった。それどころか、私を裏切り者呼ばわりした。

 私は、尽くすべき相手を誤ったのだ。

 双子の場合も同じだ。

 私は、ここでもやってはならない過ちを犯した。私は彼らの母親……明らかに彼らよりも先に死ぬはずの女の、自分勝手な願いのために、誰の為にもならない手術をした。

 二度と、同じ失敗を繰り返してはならない。

 今度こそ、正しい選択をしなくてはならない。

 私は、双子のうちノーマルとなった弟の脳を診察した。腐敗が進行して穴だらけになったそれは、今後どんな治療を行ったとしても、とても元に戻りそうになかった……

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【10】

「竜二も……

 心臓だけを奪われるなんて、考えもしなかったでしょうね」

 竜二は、生きていた。

 ゾンビにも、なっていなかった。

 ほんの、一部だけは。

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【11】

《学級日誌 当番・信也》

 僕は別に皆を困らせたいわけじゃないし、優みたいに悪乗りが好きなわけでもない。周りはそう思ってくれないけど。

 ずっと一緒に居たいって思うのは、そんなに我儘なのかな。諦める必要なんて無いのに。自分で食べたり着替えたり、そんなことが少しできなくなったくらいで見捨てるなんて、その方がずっと酷い。外に出ないようにして、人を噛まないようにいつもお腹一杯に食べさせてやって。たったそれだけのことなのに、どうして誰もやらないんだろう。

 僕は自分が間違っているとは思わない。だから、諦めない。これからもずっと、手放したりなんてしない。

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【12】

ノートの最後の一行を読み終わると、明日香はその紙束を床に叩き付けた。最初からそうしようと思っていたわけではない。気が付いたら、身体が動いていた。呼吸する度に、肩が上下する。

「あらあら、乱暴ね。複製できるものじゃないんだから、大事に扱わないと」

 あきこが穏やかに言って、ノートを拾い上げる。スカートが捲れて、行儀よく並んだ三つのハイヒールが赤い輝きを放った。

「嘘でしょう」

 明日香は、戸惑った目であきこを見つめた。喉が干からびたようになっていて、囁くような声しか出せなかった。

「竜二さんが、ミュータントだったなんて」

「だから、何?」

 あきこは、微笑みを崩さない。

「彼がミュータントだったとしたら、あなたの気持ちは変わってしまうの? その程度のことで?」

 その程度、という言葉が、明日香の胸に突き刺さった。もしも、医師が分離手術を行わず、竜二と竜一が繋がったまま成長していたとしたら。

 竜二が、変わらず明日香に優しかったとしたら?

 ゾンビから守ってくれたとしたら?

 身体の半分が、竜一のものだったとしても?

 死にたくない。それが、姿を消す前の竜二の口癖だった。

 明日香や勇に当たり散らす傍ら、一人で耳を塞いで座り込んでは、泣きながら同じ言葉を繰り返した。

 死にたくない。

 死にたくない。

「虫の良い話よね。自分は、散々竜一君の死を望んでおきながら」

 あきこが笑う。明日香は、否定する言葉を見つけられなかった。

 竜二は。幼い明日香が憧れた相手は。とっくの昔に、この世からいなくなってしまっていたのだ。

抜け殻になってしまった、竜二の身体は……既に夢の中に居た竜二は、口元に微笑くらいは浮かべていたかもしれない……北区の森に、ゴミのように捨てられた。臓器がひとつ欠けているとは言え、新鮮な生の肉なんて、ゾンビには随分なごちそうだ。肉を食い千切られ、骨を噛み砕かれ、残ったのは。

床に転がった指輪を、明日香は唖然として見下ろした。

それから、ゆっくりと視線を正面に戻した。

では、あれは、誰だ?

微笑むあきこの傍らでは、繋がれた男が獣の咆哮を上げている。あきこはけらけらと笑いながら、暴れる男の頭に手を伸ばし、被せられていた袋を取り去った。

「私の元・恋人。最低の暴力男でねえ、こうでもしなきゃ人様の役に立たないの」

あきこの声が、遠くで鳴る金の音のようにぐわんと響く。

 男の顔は、竜二とは似ても似つかなかった。

 明日香が巻き直した包帯を、あきこは無理に引っ張って外した。切断された足の肉が、僅かに盛り上がっている。

「ミュータントって、見た目だけでわかるタイプだけじゃないのよね」

 ニュータイプは、すぐにそれとわかる者だけを指すのではない。彼らの『才能』は、細胞の老化の遅さであったり、異常な回復力であったりする。あきこが、肉の再生しかけた部分を爪で突いた。割れていた骨の先も丸くなり、少しずつ伸びてきているのがわかる。手当ては必要なかった。一本足にされた男は、直に二本足に戻るだろう。

「ネズミのお肉、おいしかった?」

 あきこがにっこりと笑った。

 明日香の全身を寒気が襲った。胃液が喉をせり上がる。散らばった『ネズミ肉』の燻製は、ぬめぬめと湿り気を帯びた、黴臭い血の臭いを放っている。

 ゾンビの肉を食べることは、危険だ。

 だが、抗体の混ざった肉ならば。

 視界が揺れた。

 繋がれていた男は、あきこに対して唸っていた。肉を削ぎ続ける恋人に対して、殺してくれと訴え続けていた。気を失う寸前に、明日香はようやく気が付いた。

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【13】

 母さんは、食べることが好きだ。以前は食欲が我慢できなくて信也に噛み付くこともあったが、最近では空腹が満たされなくてもきちんと我慢できるようになった。変わることは、できる。共に生きて行くことは、決して不可能ではない。

 脳の吸い尽くされた生首には、血塗れのマスクがまだ辛うじて引っかかっていた。信也はそれを拾い上げると、ボールのように持ち上げて、三メートル程先に放った。『母さん』はすかさず身を翻すと、転がっていく生首を追って、四足ですばやく駆け出した。ピンク色のスカートが揺れている。振り乱した髪から、香水が匂い立つ。微かに腐臭が混じっているのに気付いて、信也は悲しそうに眉を潜めた。段々と、誤魔化しが効かなくなって来ている。

 ――オカエリナサイ……――

 口に首を咥えて駆け寄って来た『母さん』を、信也は優しく撫でてやった。学生服の袖に血が付いたが、構わなかった。『母さん』に表情は無い。撫でられても、喜んでいるのかどうかわからない。ただ、信也には噛み付かない。それだけだ。

 生首を受け取って、もう一度投げる前に、何となく眺めてみた。あちこちに歯形が付いていて、後頭部の唇や舌まで噛み千切られている。生首の髪の毛をかき分けた信也の顔色が、変わった。

 額に、銃弾の痕がある。

「いつも、こうやって遊んでいるのか?」

 背後の声に、信也は弾かれたように顔を上げた。気配は、全くしなかったのに。腕の三本ある影が、静かにこちらを見ている。

「圭介さん……?」

 何か言い訳をしようとしたが、何も思いつかなかった。『母さん』が警戒して唸っている。信也は『母さん』を背後に隠すと、挑むように圭介を睨んだ。

「覗きなんて、趣味が良いですね」

 ミホの兄であると言う事実だけが、信也を思いとどまらせていた。圭介はどうにか警戒を解かせようとしたが、笑みを作ることさえ困難だった。

「心配するな。ここには、俺しかいない」

ゾンビ達の気配が、一気に濃密になった。部外者の存在を感知して、『主』の命令を待っているのだ。北区全体に茂った植物が目隠しの役割を果たし、圭介の側からは彼らの姿を拝むことができない。でも、『居る』のはわかる。呻き声、がちがちと歯を噛み鳴らす音、共食いをするが故の強烈な体臭と腐臭。圭介は、かなり久しぶりに恐怖を感じた。ゾンビの二匹や三匹なら、わけなく倒すことができる。しかし、一斉に掛かって来られるとなると。

「どうして、僕がここに居ると?」

「そいつに聞いたんだ」

 圭介が、額に銃弾を浴びた生首に視線を落とした。

「そいつには、俺たちが止めを刺してやった。あんまり哀れだったからな。北区の門番も口を割ったよ。警備隊の給料なんて、本当はたいしたもんじゃない。少なくとも、下水市で買った酒を連日呑める余裕は、無いな」

 馬鹿が。信也は、毎日のように万札を握らせている門番を思い出して舌打ちした。金なんて、北区の中では紙切れだ。以前人間が生活していた場を漁るだけで良い。信也は全く興味が無かったし、あの門番がそれをどう使おうと気を配ったことはなかった。

 まさか、そんなところから見つかってしまうなんて。

「ちょっとした綻びから、全部駄目になってしまうことは良くあるんだ。この区域を囲っている鉄線が一か所でも破れたら、どうなると思う? 下手をすると、市全体が北区と同じ状態になるかもしれない」

 腰のベルトに三本目の腕を添えたまま、圭介は一歩だけ信也に近付いた。信也は、少女のようにも見える奇麗な顔で黙ってこちらを睨んでいる。

「お前の例外を見逃すわけにはいかない。ゾンビを飼うのは、危険だ」

 腰の銃を抜こうとした手が、空振りした。予想もしなかった感触に、圭介の目が一瞬、狼狽の色に染まる。

「母さんに近付くな!」

 威嚇するように、信也が声を荒げた。母親。圭介は信也の傍に蹲るものを見て、戸惑うような表情を浮かべた。

「母さん? 『それ』のことを言っているのか?」

 確かに、美しいと言えなくもない。昔の姿を想像したとして、だが。

 近くにいるだけで、酷い臭いが鼻を突く。香水は腐敗を止めてはくれない。

「目を覚ませ。もう……手遅れだ」

 残酷かもしれない。だが、誰かが教えなければ。

 圭介が告げた瞬間、信也が地面を蹴った。黒い学生服が翻る。真っ直ぐに飛んで来た拳を、圭介は肘の繋がった腕で受け止めた。手のひらに衝撃が伝わる。身長も肩幅も圭介の方が遥かに勝るのに、受け止めるのがやっとだった。

「僕の邪魔をするな! 母さんは、生きてるんだ!」

 瞳の色が変わっている。最早、圭介のことは敵としてしか認識していない。

「落ち着け。話を聞いてくれ」

 銃は無い。腕を取って捻り上げようとしたが、物凄い力で振り払われた。飛んで来る蹴りを、危ういところで交わす。行き場を失った蹴りが木に命中した途端、木の幹が音を立てて裂けた。

昔の自分を見ているようだ。圭介は愕然として、幹の割れた巨木を見つめた。ノーマルは……過去の世界に存在した人間たちは、簡単に仲間を殺そうなどとは思わなかった。ジェームズ医師から初めてそう聞かされた時は、馬鹿げたことだと笑った。守る為に殺す、生きるために奪う。それが当たり前だ。旧人類は軟弱だと、見下してすらいた。

「母さんは、生きてるのに……どうして、どうして皆……!」

ゾンビ以上の狂気を瞳に宿して殴りかかる姿は、ノーマルの目にはどう映ったのだろう。信也のことは、圭介も良く知っている。ミホの友達、いや、それ以上かもしれない。信頼も友情も、一瞬で殺意に変えてしまう。ミュータントの姿は、確かに醜い。

 ゾンビの唸りが、四方から聞こえる。取り囲まれていることに、圭介はとっくに気付いていた。『主』の声ひとつで、圭介は八つ裂きにされる。それでも、未だに『それ』が行われないということは。

 自分たちは人間だ。ノーマルが何と言おうとも。

 大丈夫。まだ、間に合う。

 肘から二股に分かれた腕に力を込めると、圭介は信也の右手をもう一度受けた。痛みが走ったが、力を抜いている暇は無い。指を絡めるようにして、信也の手のひらをしっかりと押さえる。圭介の指は、片腕だけで十本だ。全てを使って抑え込めば、容易には離れられない。

 信也がもう片方の拳を振りかぶる。圭介は、今度は手首から分かれている方の手でそれを受けた。手の甲で逆向きに付いているとは言え、こちらも指は十本だ。蜘蛛のように絡みつき、身を捻っても逃れることはできない。

「離せ!」

 互いの両手を掴み合ったまま、二人は北区の真ん中で睨み合った。警備服の下で、腕の筋肉がぎゅっと縮小する。血管の中の血が逆流しそうだ。圭介も力には自信があったが、怒りに飲み込まれた信也を相手にするのは、猛獣を相手にするようなものだった。

「この……!」

 信也が地面を踏み鳴らした。膝が曲がる。短い距離で蹴られれば、痛いくらいでは到底済まない。信也が圭介の腹部を狙って足を跳ね上げる前に、圭介は『奥の手』を使った。

 衝撃が肩を突きあげる。信也は苦しげなうめき声を上げると、血の混じった反吐を吐いた。

「まだまだ甘いな。信也」

 圭介の手のひらは、肘から分かれた右に二つと、手首から分かれた左に二つ。更に、もう一つだけある。五つ目の手のひらを持つ腕は、普段は警備服の下に隠してあった。四本目の腕が、信也の鳩尾の辺りを殴りつけた。力加減ができたのかどうかはわからない。

「ゾンビも、元は人間だからな。阿方さんから聞いたんだ。ゾンビを早く倒そうと思えば、人間の弱点にも詳しくなる」

 完全に死角から攻撃されれば、誰でも不意を突かれた状態になる。脇腹から生えた第四の腕がどんな動きをしようと、相手とまともに睨み合っているうちは気付かない。

「……」

 口の傍から血を垂らしながら、信也が何事か呟いた。もう体制を立て直している。流石に回復が早い。

「殺す」

 瞳をぎらぎらさせたまま、信也が低い声で呟いた。

「殺してやる」

 圭介を取り囲むゾンビたちが、じり、と距離を縮めた。『母さん』の生臭い吐息を、すぐ近くで感じる。肌がざわざわと泡立った。

竜一も、優も、最後は『人間』を捨てた。ジェームズ医師は、ミュータントは感情の抑制が効かないと言う。圭介だって、今のようにものを考えられるようになったのは最近だ。

 化け物。

自分も、昔はこうだった。あの時は、それが当たり前だった。ノーマル達を理解できず、化け物と呼ばれることに納得が行かなかった。ミホを泣かせるノーマルの言葉なんて、自分は絶対に使わないと思っていた。それが今、信也を見て、あの言葉を思い出してしまうなんて。

「信也……、」

 圭介の言葉は、もう届かないかもしれない。せめて、ゾンビ達の動きだけでも封じることができれば。圭介は、今日ほど、竜一に銃を盗られたことを恨みに思ったことは無かった。

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【14】

 視界が一色に染まる。狂気にも似た慟哭が溢れ出す。自分でもわけがわからないまま、阿方は竜一の胸ぐらを掴んだ。

竜二という名の青年は、たった今、死んだ。

 竜二よりも華奢な身体がバランスを崩し、よろめいたが、それでも竜一は杖を離さなかった。

 一番、長い時間を過ごした相手だった。

 親友ですらあった。

「竜二はな……信じていたんだ」

 竜一の胸ぐらを強く掴んで、阿方は自分の前に引き寄せた。竜一の顔の包帯がほどけかけている。本来ならば目が無ければならない場所は、やはり平坦で凹凸さえも無かった。

「他人の心臓を貰っても、手術の成功率はそんなに高くない。双子だから、ぴったりだったんです」

 目の無い顔で、竜一は笑っていた。

「僕が憎いですか? 僕を殺せますか?」

 阿方の震え声とは対照的に、竜一の声は冷静だった。竜二の死など、実の兄は何とも思っていない。

 仇を討ってやる。

 怒りが、阿方の中で急激に膨らんだ。

 竜二と同じ苦しみを与えてやる。

 自分から手術台に横たわる竜二。竜一に向かって笑いかけたかもしれない。同じく手術を受ける兄に、何か励ましの言葉をかけたかもしれない。待ち受ける運命も、ミュータントの残酷さも知らないまま、竜二は麻酔を吸い込んだ。二度と、目覚めなかった。

 竜一の薄い唇が、もったいぶるように開いた。

「あなたに、この心臓を止めることができますか?」

 喉元まで飛び出しかけていた叫びが、引っかかったように口の中で固まった。突然、ひどく当たり前のことに気づき、阿方はふいに口を噤んだ。空しさが襲って来た。握りしめていた拳がほどけ、高ぶっていた感情が弛緩する。怒りの燃えかすが黒くくすぶって消えていき、残されたのは、ぽっかりと空虚な悲しさだった。

竜一は竜二に似ている。でも、それだけではない。今の竜一の胸の中にあるのは……命を燃やし、健康な鼓動を続けているのは……紛れも無く、竜二を生かし続けていた心臓だ。

阿方は竜一の胸に残る十字架の傷痕を見つめた。竜一の姿が、竜二と重なって見えた理由が、ようやくわかった。

「竜二はお前に、随分酷いことをしたんだな」

 阿方が、力なく言った。血走っていた目は淀み、乾いていて、一滴の涙さえも毀れなかった。

「どうせ、あいつは助からなかった。それでも、俺たちにとって、あいつは……」

 阿方はしばらくの間、言葉を切って竜一の顔を見ていた。きっと最初から、竜二の中にあった心臓は竜一のものだったのだろう。脆弱に老化していくノーマルの心臓と、頑丈なミュータントの心臓。医師が、最初の手術を誤った。竜一も竜二も、運命に振り回されただけだ。

「せめて、お前は長生きしてくれ。できたら、竜二の分も」

 竜一は悪くない。阿方は、一瞬でも手を上げてしまった自分を恥じた。

 言い訳をするつもりは無い。確かに、殺意はあった。竜一がこのことを圭介や幸也に伝えれば、彼らは阿方を軽蔑するだろう。

そっと踵を返した阿方の背に、竜一の声が冷たく刺さった。

「あなたに言われなくても、僕はそのつもりですよ」

慌てて身を捻ったが、遅すぎた。轟音と共に、脇腹に熱が走る。

「でも。そのためには、貴方が邪魔なんです」

ぬるりとした感触。視線で追うまでもなく、それは血だった。嗅ぎ慣れた硝煙の臭いが漂う。目の無い顔をこちらに向けて、竜一は黒い鉄の塊を握りしめていた。

「生きていればそのうち、あなたは僕や優を憎むようになるでしょう」

 警備隊の拳銃は、盲目の竜一には支給されない。

 しかし。

 今頃圭介は、必死で警備服の中を調べているはずだ。

「俺はお前を恨まない。そんなことは許されない。竜二に恨まれるべきは、俺の方なんだ」

 脇腹の傷を押さえて、阿方は竜一を振り返った。掠っただけで、痛みは少ない。だが、銃に込めた弾丸が一発だけのはずが無い。

「前にも言いましたよね。誰がどの辺りにいるのかは、大体わかるんです」

 竜一の足音と、白杖を引きずる独特の音が、段々と近づいて来る。阿方は血のついた手で自分の警備服を探ったが、指先が武器に触れることはなかった。

 家族と会うのに、銃は必要ない。

 竜二に会わせてやる、と言えば、阿方は銃を持って来ないと最初から予想していたのだろう。竜一の首筋の、濁って使いものにならなくなった目が、ぎらぎらと輝いているように見えた。

「全部俺たちのせいだ。それはわかってる」

 阿方が叫んだ。流れ落ちる血が、カーキ色の警備服をまだらに染め上げた。

「お前をそんな風にしたのはノーマルだ。だが……」

 竜一が銃を捨てた。鉄芯入りの白杖を両手で握り、頭の上に振りかぶる。逆光が影を作った。

「どうして、お前はそこまでするんだ?」

 竜二を止めなかったのも、ミュータントは敵ではないと教えなかったのも、阿方だ。施設が焼け落ちる原因だって、半分は阿方が作ったと言っても良い。

「信じられないからですよ。ノーマルの言うことなんて」

 竜一の声が、北区の空に冷たく響いた。

「ノーマルにまともな奴なんていない。施設で、それだけは学びましたから」

ミュータントとの共生なんて、ただの理想論だ。現に阿方は、自分から竜一に手を上げた。それは事実だ。今更何を言っても、言い訳にしかならない。

「ノーマルの中には……」

 竜一との距離を測りながら、阿方はどう行動すべきか迷った。どの道、長くは生きられない身だ。ここでミュータントに殺されたって、ゾンビになるのと何の違いがある?

「施設じゃ、俺の友達も働いてた。あいつは、本当にミュータントのことを考えてたんだ。それだけは、わかってくれ」

 竜一はもう、銃を持っていない。取っ組み合いになれば勝つ自信があったが、そうするつもりは無かった。

 明日香の顔が浮かんだ。同時に、圭介の顔も。阿方自身はどうなっても良い。竜一の気のすむようにすれば良い。だが、ノーマルが全て悪かと言えばそれは間違いだ。

「その友達の名前は?」

 阿方が答えると、牙の並んだ口元がにやりと歪んだ。

「優に散々乱暴してくれたクズ指導員が、確かそんな名前でしたね」

 終わりの瞬間というものは、何故、こんなにも残酷なのだろう。

 阿方の中で、全ての時間が止まった。

二度目の銃声が響き渡る。

竜一が叫び声を上げるのと、鞭のように空気を裂いた触手が白杖を取り上げるのと、二つのことが同時に起こった。

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【15】

頭上に掲げた手を、信也は空を切るように振り下ろした。

「出て来い」

 ゾンビ達のぼそぼそと控えめだった唸り声が止み、一瞬の静寂の後、叫ぶような声にとって代わった。ゾンビ共が一斉に口を開けたためだろうか、臭いが一層酷くなる。圭介は周囲を見回したが、ゾンビに慣れているとは言え、この光景はあまりにもおぞましかった。

千切れた舌を食欲のままに前に突き出し、滴る血で胸元を汚した者。両目が飛び出し、ぶら下がった者。鼻が潰れて腐り落ち、呼吸する度に血の飛沫を噴き上げる者。頭が割れて脳の露出した者。腐った足が一歩進むごとに崩れ、手まで使って四つん這いで這って来る者。我慢できず、隣にいる奴の腕や顔を『味見』する者まで居る。北区には、これほどゾンビが居たのか。それも、酷く傷んだ者ばかりが。

「ゾンビは馬鹿だからね。使えない奴は潰すんだ。餌もやらないから、共食いして壊れるのが早くなる」

 信也が笑った。

「勝手に増えるから良いんだけどさ。ねえ、『母さん』?」

 音を立てないように、圭介は後ずさった。隙を見せたら、それで終わりだ。肌に突き刺さるのは殺気ではなく、捕食する者の凶暴な食欲か。

「僕は母さんと一緒に居る。誰にも邪魔はさせない」

 口元の血を、信也は学生服の袖で拭った。

「殺せ」

 圭介を取り囲むゾンビの輪が、縮む。ゾンビを殺すのには慣れている。しかし、たった一人で、どこまで体力が持つだろうか。その上、圭介がゾンビと戦っている間、信也は体力を使わずに済むとすれば。最後の最後で仲間のはずのミュータントに止めを刺されるなんて、竜一でも笑ってくれないに違いない。

 一匹のゾンビが、地面を蹴った。やるしかない。

圭介はその頭に拳を振り下ろした。罅の入った頭がい骨が砕け、血塗れの脳が飛び散る。脳を失ったゾンビが、その場でくるくると回転した後でばたりと倒れ、動かなくなった。間髪入れず、背後からもう一匹が飛び掛かって来る。脇腹の腕で首筋を掴み、投げた。投げ飛ばされたゾンビの腕を掴んで立ち上がらせると、圭介はその歪んだ顔を思いきり殴った。腐った下顎が思い切りよく跳び、前歯のくっ付いた上顎だけが取り残される。ゾンビは上顎だけで圭介に噛み付こうとしたが、できるわけもない。喉の奥から悲しげなうめき声が漏れる。

これで二匹。きりが無い。

せめて、銃があれば。

呼吸を整え、圭介が止めを刺そうとした瞬間。また、あの感覚が襲った。殺気ではない、やけに野性的な生臭い食欲。しかし、狙われているのは圭介ではなかった。

 圭介に噛み付くことのできなくなった『仲間』を、他のゾンビ達がじっと見つめている。まだ、上下の顎の揃っている奴らが。丈夫な歯を失っていない奴らが。がちがちと歯を噛み鳴らし、涎を垂らして、ぎらぎらした目で、反撃のできない仲間に舌なめずりをしていた。

 ゾンビが恐れるのは、痛みではない。

 唐突に圭介は悟った。

 空腹だ。歯を奪われたら、食事ができない。それどころか、反撃のできない自分が仲間の『食事』になってしまう可能性もある。

 では、信也にゾンビが従う理由は?

 下顎を失ったゾンビは、まだ圭介に噛み付こうと無駄な努力をしていた。最早脅威ではなくなった仲間に、ゾンビ達は一斉に飛び掛かった。下顎どころか上顎を鼻事噛み千切られ、手も足も見る見るうちに短くなって行く。腐った血飛沫が、圭介の顔にも跳んだ。

 痛覚が無くても、こんな最期だけはごめんだ。敵である圭介が目の前にいるというのに、ゾンビ達が集中しているのは肉の塊だけだった。さきほど脳を飛び散らして死んだゾンビにも、食欲に狂った仲間が群がっている。同族の肉をぐちゃぐちゃと咀嚼する彼らに、知能は備わっていないように見える。圭介を取り囲むゾンビの動きが、僅かに……ほんの僅かに、遅くなったように感じた。ゾンビ達が、ぼんやりと定まらない視線をこちらに向ける。まだ、食い足りない。そう言っているかのようだ。しかし、何かがおかしかった。

「早くしろよ」

 信也が叫んだ。殺気立った気配に変わりは無かったものの、声には明らかに焦りが混じっていた。

「早く殺せ!」

 痛覚の無いゾンビに、懲罰は意味を成さない。最も効果があるのは……ジェームズ医師は、何と言っていただろう。

 圭介はゾンビ達の顔を見回した。取り囲まれている状況に変わりは無かったが、ゾンビ達の動きは何処かしら鈍っていた。

 躊躇っている。虚ろな目で圭介を見つめながら、何かを……ゾンビに記憶中枢というものがあるとしてだが……思い出そうとしているようだ。どういうことだ? 必死に頭を整理する。

 褒美。唐突に、ジェームズ医師の言葉が蘇る。年長者の言うことを聞いておいて損は無い。ゾンビ達を突き動かすものは罰ではなく、褒美だ。もしも、圭介がそれを与えてやれるとしたら? いや、既に与えているとしたら?

飢えを満たしてくれる者のことを忘れない、ゾンビにもその程度の知能はあるのかもしれない。だが、信也の考えているほどの忠実さが、ゾンビにあるとも思えない。

 分の悪い賭けには違いない。しかし、試す価値はある。

 圭介は一番近くに居たゾンビに目を付けた。上半身裸で、二の腕から背中にかけて極彩色の刺青をしたゾンビ。苦労して染め上げたはずの肌は、ゾンビ化に伴い茶色く腐って骨が覗いている。

「……ナメンナ……コノ……」

 意味の無い鳴き声を上げるゾンビの口を、重なった手のひらで塞いだ。ゾンビが壊れた人形のように、滅茶苦茶に手足を動かす。

 死肉。餌。

「ナメンナ……」

 手首を捻ると、鈍い音がして首の骨が折れたのがわかった。刺青ゾンビの首は直角に折れ曲がり、頭は飾りか何かのようにぶらぶら揺れている。圭介はそのぶら下がった頭を再び鷲掴みにすると、今度は逆方向に捻り上げた。首筋の皮膚が捻じれ、腐った血が飛び散った。

 前にも、自分は同じことをしたのだ。圭介は急に合点が行ったように、飢えたゾンビ達を見回した。ゾンビ達が圭介を殺すことを躊躇った、本当の理由。医師は正しかった。ゾンビには、記憶力がある。通学路でミホに抱き付いたミュータントは、圭介が殴っているうちに動かなくなった。北区まで担いで来たのは、そんなに昔のことでもない。

「餌だぞ。受け取れ」

 圭介は小さく呟くと、もぎ取ったばかりの生首を、仲間の群れに放り投げた。ゾンビ達がわっと群がる。首は丸い果実のように転がりながらも、歯をむき出して呻いていたが、頭を失って『肉』と化した身体はあっと言う間に食い尽くされた。

「何でだよ……!」

 信也が傷付いた表情で叫んだ。圭介は信也をまともに見ることができなかった。

 刺青ゾンビの頭を齧り、歯で頭がい骨を割って腐った脳味噌を吸い出しているのは、『母さん』だった。

 圭介が肘で繋がった腕を上げた。ゾンビ達の視線が上向いた。ゾンビ達は今や、圭介を見ていた。

「お前らの食った餌を捕ったのは、誰だ?」

ゾンビ達の口元は、刺青の仲間の血で赤黒く濡れている。ゾンビは食欲のみで動く。故に、それを満たしてくれる者を選ぶ。

「もっと肉が欲しいか?」

 酔ったような、淀んだ瞳で、ゾンビ達は圭介を見上げている。信也は何か言いたそうに口を開いて、すぐにまた噤んだ。顔色は真っ青になっていた。

 信じたくなどないに違いない。『母さん』までもが、真っ赤な口を開けて圭介を見上げている。

 それでいい、気付け。

 圭介は祈るような気持ちで、『母さん』に手を差し伸べた。

 『母さん』は背を丸めて跪くと、うっとりとした目つきで、圭介の手に付いた血を舐め始めた。

「嘘だ!」

 信也が悲痛な叫び声を上げた。

 その声さえ、『母さん』には届かなかった。

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