「………はあ」
私は疲れ果てながら、五輪開催直前に勝手に沸くニュースを聞き流しながら、都市部から僅かな距離しか無いながら、急に森林の生い茂る農道を、走らせている。
上司や同僚、後輩に叱責される日々を振り返りながら、仕事の速度も能率も中々上がらない自分自身に苛立ちながら、逃避するかの如く休日はハンドルを握り、あてど無くドライヴをするのが、愛車を手に入れてからの楽しみになってしまった。
ギラギラと照り付ける炎天下、エアコンの冷房を効かせていても、直射日光で滲む汗を拭いている。
「………さて」
有給を含む連休をあてがわれるも、新型ウイルスの御蔭で感染を怖がる親の意向を汲まざるを得ず、地元にも帰れない。私はジットリかいた汗と浮き世の垢を流そうかなと、日帰り温泉にでも行こうかなと、自動販売機の有る待避場を見付けて車輛を停めて、カーナビにパチパチと打ち込む。
「明日荘」───日帰り温泉、〇〇市**―**。##km、所要時間*分
此処からだと近場の日帰り温泉はこれだけの様だ。
過去に、山の頂上の温泉に行こうとしたら、閉鎖されて行きの道が狭かった為、引き返すのに難儀した覚えが有るから、少々警戒しながらの出発である。
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程無く着いた日帰り温泉は、旅館や共同浴場と言うよりは古い下宿やアパートの様な格好で、悪い言い方をすれば、何処か生活臭が漂う様な、良く言えばリラックスしてしまい適当な所に寝そべってしまいたくなる様な雰囲気が漂っている。
表示されている料金を支払い、案内に従って脱衣場に辿り着いて、汗だくのシャツやズボンを脱いでビッショリ濡れた肌着を袋に詰めて、別な袋からバスタオルと新しい肌着を用意してからタオルやシャンプー、垢擦りを取り出して浴室に足を運ぶ。
身体を洗い、温泉に浸かるとジワジワと程良い湯の熱さも手伝って、「あー」と中年よりは高い年齢の人が口をついて出る様な、いわゆる身体にしみた際の得も言われぬ様な声が出てしまう。
気持ち良いのは確かだが、一種の違和感を覚える。
やった人は居ないだろうが、水着ならぬ肌着をまとったまま風呂に浸かっている様な、何だかへばりつかれている感じが拭えない。
一旦出て見ると、その肌着をまとったまま浸かっている感覚は消えて、熱めの温泉だった故か、浴室が少しばかり涼しく感じる。
昼下がりの日光が、高い位置の窓と大きな換気扇から差し込む。
「………余は満足じゃ」
誰とも無く、何処ぞの殿様の言葉を真似て呟いて、浴室を後にする。
モウスコシ、ユックリシテイッテクレレバイイノニ
「………?」
又、見えないのに聞こえるって奴かなと、「出て来てくれないなんて意地悪」なんぞと、良く分からない言葉を腹で呟いて、シャンプーや垢擦りを浴室に忘れていたのに気付いて、さっさと取りに戻って脱衣場に帰って来る。
先程の言葉は聞こえず、斜め上を見上げても、時計が規則的に時を刻みながら、秒針の音は温泉のボイラーと浴室の大きな換気扇の大きめな音に掻き消されている。
日曜の昼下がりなのに、忘れ去られた様に私や従業員しか姿が見当たらず、子連れ家族はともかくとして、本来の利用者………いわゆるヘビーユーザーだろう、高齢者の姿すら無い。
瓶の珈琲牛乳を飲み終えて、付いていたキャップを嵌め直してボンヤリ考えていると、大女将とおぼしき御婆さんが私の元に歩み寄って来た。
「………御湯加減は如何でしたか」
「熱めではありましたが、気持ち良う御座いました」
変なまとわりつく感覚や、声のした様な感じがしましたと言う話なんざおくびにも出さず、私はマスク越しに緩めの笑顔で率直な感想を述べる。
「若いのに、有難うねェ」
「いえいえ、とんでもない」
「おっさん、おじさん」を地で行く年齢の中年故に、若いと言われるのはリップサービスだろうが、やはりと云うか嫌な感じはしない。
「………宜しければ、御泊まりでも構わないのですよ」
「?!」
「駄目ですよ、御客様にそんな無茶を言っては」
「!」
娘さんか、義理の娘………御嫁さんで且つ女将さんと推測出来る女性が、御婆さんの後ろから、声を掛ける。
(………)
私は財布を改める。逢う積もりだった知り合いが、直前になって体調不良を訴えてしまい、通帳から下ろした臨時収入が、そのままギッチリと詰め込まれていた。
「御幾等(おいくら)ですかね。当日にこれ又急ですから、御高いのでは………」
「この御時世ですから、8,000円………」
手取りが多い訳で無いだけに、10,000円弱をいつもの調子で支払ってしまえば、のちのち懐事情がピーピーになる危険性は大だが、臨時収入の御蔭で支払えない額でも無いので、即決で私は紙幣を渡した。
懐かしい味わいのする夕食を堪能して、一室をあてがわれて僅かな荷物を運び込み、持ち込んだラジオと部屋に備え付けられたTVを交互に観聴きする。
仲居さんに布団を敷いて貰い、横になりながら、又妙な味わいの温泉に浸かろうかと、ウトウトしながら考える。
ウレシイナ、ウレシイナ、ヒサカタブリダヨ、オキャクサン。ウレシイナ
「物好きだなァ」と、仮眠を取っていたのに気付いて私は、声の主に苦笑いする感じで腹で呟いた。
パタパタパタ………と小さなスリッパの駆ける音が扉越しに聞こえるが、不思議と怖さや不気味さは覚えない。
「どうなっても………良いか………懐かしい感じ有難う」
ゆっくり天井にぶら下がる電灯に手を伸ばして暗くし、普段遅い時刻にチェックするSNSも更新し終えて、ゆっくり暗闇で私は目を閉じる。
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ドンドンと拳で叩く音がして、扉越しに騒がしい。
「………?」
障子越しながら日が登り、既に青空が広がっているのが分かる。
「へ?あれ?」
布団にくるまっていた筈の私は、購入した覚えの無い寝袋に、身体を埋(うず)めていた。
「どなたかいらっしゃるんですか!」
警戒して、数分で着替えて荷物もまとめた私は、恐る恐るドアを開く。
「………人が居たぞ」
土方(どかた)の中高年と、警察官が驚いて立ち尽くしている。
「済みません、すぐ出ますんで」
「………ゆっくり出れば良いが、何してたんだアンタ」
「信じて貰えないかもなんですが………」と前置きした上で、泊まって欲しいと言われた事を、一笑に付される覚悟で話す。
「不法侵入になり兼ねないが、そちらが嘘を言っているとも思えんから、この場で説明して貰えますか」
脱衣場、風呂場に食堂………昨夜は綺麗だった場所の数々や廊下も含めて、夜逃げした様な小綺麗な廃墟と化していた………
然し、私の泊まった部屋だけが、真新しく綺麗なままで残されていた事に、警官や土建屋のおじさん達がむしろ驚いている。
「経営難で手放さざるを得なかった場所でしてね、やっと解体するだけの金銭が貯まったとの話で、今回取り壊しが決まったんだ………だが、最後に居たのは廃墟で酒盛りをしたり、肝試しするならず者で無くて、アンタで或る意味良かったかもだ」
ウン、ヨカッタ
「!!」「?!」「??」
「アンタ、座敷わらしにでも招かれたのかもな。出て行く姿を見たら、そいつが不幸になったり家が没落するなんて言われてるけど、見えたか出て来るのを認識したりすると、幸せが来たり家が繁栄するってアレだ」
土方のおじさんの年長と思われる男が、私の両肩にポンと手を添えて、ニヤリと笑みを浮かべる。
私も含めて、男達も声が聞こえたのか、空を見上げて、合掌してから作業に取り掛かり、私は変な証言とも言われ兼ねない調書を取られたのみで済んだ。
支払った筈の8,000円が、何故か受付の皿から見付かり、結局私の元に戻って来てくれた。
今日も暑くなるな………
作者芝阪雁茂
いつも通りと申しますか、怖さを感じにくい不思議な話を。
怖い話に関する動画や、心霊スポットに潜入する動画を視聴して、ふと今回の話を思い付くに至りました。
隣県に住んでいた当時に、実際低い山の頂上の温泉施設を目指して、カーナビには表示されていても閉鎖されていたと言うのは、私めが実際に体験した実話だったりします(汗)。