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中編6
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母の思い出

母が死んだのは、梅雨が明け、夏の日差しが強くなり始めた頃だった。

お酒が好きで、口にするのは下世話な話ばかり。金銭感覚も適当で、進学や日常生活で随分と頭を悩ませたものだ。

1つだけ良い所があるなら…私達にいつも笑顔を向けていた事くらい。

父は「病的に明るいだけ」と言っていたが…中学時代、些細な理由で苛めまがいの事をされていた私にとって…それはある意味、救いだった。

テレビのしょーもないお笑い番組を見ながら、ゲラゲラ笑う姿を見ていると、学校で起きた嫌な事全て、「くだらない」と、振り切る事が出来たのだ。

でも、母はもう笑ってくれない。ぐいっと缶ビールを煽って、「最高!」と言う事も無い。

棺桶の中、花に埋もれて…静かに眠っている。

「疲れただろう、ちょっと部屋で休みなさい」

父が、私の肩を叩いた。母に起因する経済的な理由から、長らく離れて生活していたが…久々の再会が葬式だなんて。

「ごめんね」

思わず、口からこぼれた。高校生とはいえ、父にもっと気が利いた事が言えたら良かったのに…今はこんな言葉しか出てこない。

父は何で、母と結婚しようと思ったんだろう?

結婚して子供を持っても、あんな体たらくなのだから、結婚前だって、多少隠していても何かしら兆候は見えた筈なのに…

1人悶々としながら、葬儀場から待合室へと続く廊下を歩く。

古びて軋む床を進み、給湯室を抜けると、「お客様用」と書かれた扉が3つ。その一番奥が、私達家族にあてがわれていた。

古い匂いが立ち込める狭い和室に入るなり、私は畳の上に寝転んだ。

そして、轟々と音を立てる空調機の冷風を浴びながら、ふと湧いた眠気に身を任せようとした…

その時だった。

「ミイちゃん」

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扉の向こうで、聞き覚えのある柔らかな声がして、ハッと意識が覚めた。

まさか、と思って起き上がると、再び、

「ミイちゃん」

と…私を呼ぶ、懐かしい声。やっぱり、やっぱりそうだ…!それは…私が昔から慕う、チカエさんの声だった。

母の妹で、私が幼い頃から可愛がってくれて、親身に話を聞いてくれる…朗らかで、とても素敵な人。

失礼だと分かっていながら、「ほんとに血の繋がった姉妹なの?」…と、密かに思うくらい、美しいのだ。

そして、会えばいつも笑顔で迎えてくれる。優しく褒めてくれる…

そんな、数少ない身内の中で一番甘えられた人が、仕事の関係で遠方に行ってしまうと聞いた時は、かなりショックだった。

だが今、私の目の前には、叔母が居る。…夢じゃない。

乱れた髪を整えるよりも先に、私は部屋の扉を開けた。

「チカエさん!」

「ミイちゃん、久しぶり…」

包み込むような優しい声。キラキラと光る黒髪に、陶器のような白い肌。スッと通った鼻筋に、奥二重の瞳と、ふっくらした唇…

この顔になりたい、と…どれだけ憧れただろう。そして、どれだけ会いたかったか…

寂しさが堰を切ったようにぐっと込み上げ、気が付くと泣いていた。

「うん…会いたかった!」

悲喜が入り交じった涙。叔母は、それを細く白い指で拭うと、微笑みを浮かべて言った。

「傍に居るからね」

澱んでいた心が、その一言で晴れ渡る。

葬儀が終われば、父はまた赴任先へ戻ってしまう。私1人で、果たして心の整理が出来るだろうか…

初夏の疲労よりも何よりも、その不安が、私の心を支配していた。

しかし、チカエさんがいるとなれば、こんな心強い事は無い。それに…積もる話も山程有る。葬儀が終わったら、目一杯話を咲かせよう。

「ありがとう!嬉しい!」

いつの間にか、さっきまでの疲労はどこかに消え、私は再び葬儀場へと向かった。

父の手伝いをしなきゃ…私を呼んでる…遠くで…

…ぉ、みぉ…みお…

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「美緒!!」

突然響いた声で反射的に体を起こした。辺りを見ると…叔母の姿は無く、代わりに父が、汗をハンカチで拭いながら、扉の前で立っていた。

「夢…?」

「寝てる所悪いな、向こうの婆ちゃん達、もう帰るっていうから…」

「そう…そうか…」

夢オチに凹みつつ…私は父と共に葬儀場へ戻る。

そして正門に着くと…父方の親戚が、タクシーの前で、冷めた表情で待っていた。

「あらやだ、遅いわねぇ、だらしないったらもう…」

「実の母親が死んだっていうのに、涙一つ見せないんだもの…不愛想ね!」

「ご霊前、返して欲しいわ~」

「そのくらいにしとけ、まあ、そう言われても当然だな?」

父の親族は、いつもこうだ。

怒りが吹き出すのをどうにか堪えて、私は父と一緒に礼をした。しかし頭を上げると…既にタクシーは走り去った後で、道行く人が不思議そうに私達を眺めている。

父は、終始無言だった。こんな時ですら言われ放題なのに、何も言い返さない。

私は1人、言い様の無い寂しさと不安で、心が潰れそうになった。

チカエさんがいてくれたら。夢じゃなかったら、どんなに良かっただろう。

そんな、モヤモヤした感情を抱えながら夜を迎え…私は、明日の朝早く荼毘に臥されてしまう母に、最後の挨拶をした。

「本っ当、酒ばっかり…、あの世でたらふく飲みなよ!」

こんな穏やかな顔は、後にも先にも無い。

せめて最後くらいは…と、私は母の右頬に優しく手を添えた。

が…次の瞬間、異様な感触に、違和感を覚えた。

皺。

年相応ではない皺が、母の頬に刻まれていたのだ。

訳が分からず急いで手を離し、今一度、母の顔を上からまじまじと眺める。薄暗がりの中…私の目に、その輪郭が映し出され、気のせいではないと確信した。

母の顔は、おばあさんのように皺くちゃになっていた。

それも…明らかに、自然に歳を取ったかのように。

まだ、50半ばだ。ここまで急速に容姿が老化する事なんてあるのか?…今までに参列した葬儀を思い出す。が、そのどれも、生前と大して変わらない死に顔だった。

だとしたら、何で?一体どういう事?

その困惑のさなか…今度は、混乱する頭を追い詰めるかのように、葬儀場の照明が点滅したかと思うと、一気に暗転した。

辺りが一瞬で、黒い絵具を塗りたくったような暗闇と化し、さっきまでの、外の明かりも入って来ない。

まるで閉じ込められたかのように、あたりが静まり返っている。

思ってもみなかった事態に、私はその場で固まったまま、茫然と立ち尽くした。手探りはおろか、体を動かすことすら、怖くて出来なくなっていた。まるで、「何か」に追い立てられ、押し潰されそうな感覚…

動転し、呼吸だけがどんどん荒くなり…声も出せず、心の中で叫んだ。

何で?何が起きてるの?お父さん、チカエさん…!助けて…

お母さん!!!

「はいよ!」

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「えっ…」

「ほれ、起きろっ!」

バサッ!と、勢いよく掛布団が剥がされる。

…そして手際良く畳むと、母はもう片方の手を障子に掛け、戸を開け放った。

「私…えっ?」

起き上がり、母の顔を見る。50半ば…所々に小皺のある、年相応の顔立ちだ。

「…ぉいしょっと。さ、敷布団も干しちゃうから、どいたどいた!…随分険しい顔して寝てたけど、なんかあった?」

「や、な、んでもない…」

「ま、いいけど…あ、さっきね、チカエも来たから!」

…チカエさん…!

足早に朝食を済ませ、喪服に袖を通す。夏のお盆。祖父母の法要があるからだ。

大酒飲みだったという祖母は、まだ学生だった母やチカエさんを残して亡くなった。お金遣いは雑で、バラエティー番組や、下世話なゴシップが大好き。だが、底抜けに陽気な人だったという。

祖父は私が3歳の時にこの世を去ったのだが…祖父方の親戚は、祖母の死から間もなく、全員が災害や事故に遭い、「祟り」を理由に葬儀にも顔を出さず…結果、祖母方の家族が継いで、何とか続けていた。

でも…それも今日で最後。弔い上げというらしい。

時間が経つにつれ、長く深い夢だったと納得出来るようにはなったけど…あの皺くちゃの顔や、空気感。全て、私の記憶に無いものばかりだった。

だからきっと、あれは母の思い出。

…母の、祖母の葬式での出来事を、私は自身のフィルターを通して、夢に見たのだ。

最後の日に。

「ミイちゃん!やだも~久しぶりっ!」

居間のテーブルから、私に向かって、笑顔で手を振る姿…今度こそ、夢じゃない。

夢で見た時より、所帯染みて歳を取っているが…変わらず美しいチカエさんが、そこに居た。

「うん、会いたかった…!」

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