長編11
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現れる少女[前編]

ある夏の夜、僕はひとり机に向かっていた。

クーラーをつけているのに、僕の首筋にはうっすらと汗がにじんでいた。

それも、参考書の難問を解いているからなのか、べっとりとした嫌な汗だった。

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僕は夏の夜が苦手だった。昼間の暑さをぜんぶ体の中に閉じ込めて自分の部屋に持ってきて、夜という時間にじっくりと向かい合っているような気がするのだった。

しかしそう思うのも、僕が受験生だからなのかもしれなかった。

蝉でも夜は休んでいるのに、どうして僕は一日中勉強しているのだろう。窓の外の静寂は、僕のそんな思考をより加速させた。

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去年の夏は、友人と海や山で遊んだな。

それが今年になると、周りのみんなが勉強一筋だから、遊びに行こうなんて言える雰囲気ではなかった。

でも、本当は、みんながみんな遊びにいこうって誘いたくてうずうずしていることを、僕は知ってるんだ。

ただ、今年の夏は、僕たちに決してそれを口に出させてはくれない。

それもすべて、夏を制する者が受験を制するなんて誰かが言いはじめたせいだと、僕は根拠のない不満を抱いた。

夏は、僕たち受験生を、否応なく焦らせた。

まだ本番まで半年はある。でも、その半年は、まるで砂が落ちるように過ぎ去っていくだろう。そう考えると、僕にはあと半年しか残されていないのだ。

そんなことを、コップに入ったサイダーを見つめながら考えた。

半分しか注がれていないと考えるか、半分も注がれていると考えるか。

僕は物事を後ろ向きに捉える癖があった。それは何も、今に始まったことではなかった。

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とっくにペンは動くのをやめていた。

目の前のサイダーは、もうほとんど炭酸が抜けていて、わずかに残った気泡が、自分の残り体力を表しているように思えた。

机に置かれた時計をみると、その針は22時を示そうとしている。

僕はすでに2時間は勉強していることに気づいた。

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疲れているのも、無理はない。

僕はペンを置くと、少し休憩しようとベットに横になった。

さっきまで文字ばかりだった僕の視界は、天井の白で埋め尽くされた。

真っ白な天井になぜか不安を感じ、僕は目を閉じた。そして耳を澄ます。

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窓の外は、やっぱり静かだった。

少し前までは、蛙の声がうるさかったのに。

もう少しすれば、今度は秋の虫が鳴きだすだろう。

そしてそのもう少しは、あっという間にやってくるに違いない。

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僕はどうしても、時間の流れを噛みしめずにはいられなかった。

これもまた受験生の特権だと思って、いっそのこと楽しんでしまえれば良かったが、そうはいかなかった。

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僕はせーのでベッドから起き上がり、立ち上がって机の上のコップを手に取ると、サイダーと氷を入れ直しに一階へ降りた。

再び部屋に戻ってきた僕の手には、冷たいサイダーが握られていた。

液体という手につかめないものを、「握る」ことができるコップという存在が、とても偉大なものに思えた。

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そのコップの中では、まるで誰かが飛び込んだみたいに、数えきれないほどの気泡がしゅわしゅわと小気味よい音を立てていた。

僕は顔にマイナスイオンのような冷気を感じながら、サイダーを飲んだ。

ころころと心地よい刺激が喉を通して、体全体に広がるように感じた。

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しばらくは、そうして夏の夜のひと時に身を浸していた。それは受験勉強の合間の、ささやかな至福であった。

僕は、サイダーという飲み物が、小さい頃から大好きだった。夏だけでなく、どの季節でも、僕の隣にはサイダーがあった。

でも、夏に飲むサイダーがいちばんおいしかった。

だって、まるで夏を飲んでいるみたいじゃないか。

やがて勉強でオーバーヒートした頭が冷めてくると、ふと、ある少女のことを思い出した。

彼女に対して抱いていた感情が、口の中にまとわりつく甘さと重なって蘇った。

彼女とはじめて出会ったときのことを、僕はまるで昨日のことのように思い出すことができた。

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それは、彼女の時間の流れが、永遠にとまったままだからなのかもしれなかった。

いっそのこと、僕の時間もとまってくれればいいのに。

それは、受験生としての今の時間のことなのか、それとも彼女と過ごした過去の時間のことについて言っているのか、自分でもわからなかった。

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サイダーの氷が溶けて、からんと快い音が耳に涼しい。

もう少しだけ、休憩しようか。

僕はその音色を再び聞くのを待ちながら、ある春の日の思い出に想いを馳せた。

彼女との出会いは夏ではなく、まだ蛙も鳴いていない、春の日の午後だった。

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小学5年の僕は、「放課後」という名前のついた特別な時間を、ひとりふらふらと歩いていた。

通学路には散ったばかりの桜の花びらが所々に敷き詰められ、僕はそれを踏まないようにしながら、いつもの倍以上の時間をかけて家に向かっていた。

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特に、桜並木をずらりと伴った河川敷の道は、まるでピンク色の絨毯を引いたみたいに花びらで埋め尽くされていた。

そこで桜を踏まないという僕の思惑は音を立てて崩れ、立ち往生する体力もないため近くの手頃な地べたに腰掛け、しばらくはまどろみを誘う春の気候に身を浸していた。

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見上げると、まばらにピンクがこびりついた枝の隙間から、霞がかった春の空が見えた。

空が見える分だけ、桜の花びらは散ってしまったと思うと、その空を少しだけ恨めしく思った。

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桜の絨毯は、4月もまだ中旬になったところなのに、もうすぐ春が終わるような予感を僕に与えた。

僕は春が好きだから、きっと僕は春の終わりに悲しんでいるのだと、新学期が始まってからもずっとちくちくと胸にささっている悲しみの感情に理由をつけた。

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僕はどうして春が好きなのか。

理由のひとつは、新学期のあの、わくわくに満ちた雰囲気が好きだからだ。

新しい環境を新鮮に感じることよりも、少しでも大人に近づいた自分自身に、喜びと興奮の混ざった昂りを感じる、あの瞬間が僕は好きなのだった。

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しかし、今年の春は、どうも僕を楽しい気分にはさせてくれなかった。それなのにもう春は終わろうとしていることに、僕は焦りを感じていた。

僕がいつもの通学路を時間をかけて歩いているのも、家に着いてしまうと本当に春が終わってしまうような気がしたのかもしれない。

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もちろん、春が終わるなんて、ほとんど散ってしまった桜を見た僕の言いがかりに過ぎないことはわかっていた。

仮に。春の終わりが、桜がすべて舞い散ってしまったときだとすれば、春の始まりはいつになるのだろうか。

眠たい目をぱちぱちとしながら、僕はそんなことを考えた。

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雪が完全に溶けたら?桜の蕾が開きはじめたら?土筆を野原に見かけるようになったら?

僕は勉強は嫌いだったけど、いろんなことを考えるのは好きだった。

でも、春の始まりなんて、僕にはそう簡単にわかるものじゃなかった。

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では、「放課後」の終わりはどうだろうか。学校の下校のチャイムが鳴った時から「放課後」は始まるけど、それはいつまで続くのだろう。

次の日になって再び登校するまでは、少し長い気もする。これも、案外難しいや。

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じゃあ、「大人」の始まりはいつなのだろう?同じ1人の人間が、ある境目から子供ではなく大人と呼ばれることに、恐竜とか原始人に対して抱くような不思議な気持ちを覚えた。

大人と子供の境目は、果たして目に見えるものなのだろうか。

それについて以前お母さんに聞いてみたときは、「セイジンシキ」ってものに出たら大人なのだと教えてくれた。どうやら、20歳になれば、みんな大人になるらしいのだ。

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でも、大人っていうのは、ただ歳をとれば誰でもなれるなんてものじゃないと、僕は思うのだ。

年齢とか、体の大きさではなく、なんというか、大人としての何かが備われば、たとえ20歳じゃなくても、その人は大人と呼んでもいいのではないだろうか。

もちろん、その何かなんて、僕にはわからないけど。

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でもそんな僕にでも言えることは、僕のお父さんは、間違いなく「大人」だったということ。

もしかしたら、お父さんなら「大人」について教えてくれるのかもしれない。

しかし、お父さんにそれを聞くことは、もう2度とできなかった。

なぜなら、お父さんは、もうこの世にはいないのだ。

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お父さんは、半年前に44歳の若さでこの世を去った。大柄なお父さんなら簡単にやっつけてしまえそうな、小さなウイルスによる病気によって、半年間の闘病を経て息を引き取った。

お父さんが死んでしまってからの半年間は、まるで時計の針を指でぐるぐる動かしたようにあっという間に過ぎ去っていった。

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けれど、お父さんにとって、病気になってからの半年間は、同じ半年でもきっととてつもなく長く感じたのではないかと思う。

僕は勉強が得意じゃないから、お父さんの病気の名前は難しくて覚えられなかったけど、それでもなんだか、とても強そうな毒々しい名前だった。

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お父さんが死んでしまったとき、お母さんは人が変わったみたいに泣き続けた。僕はなぜか、自分まで泣いてはいけない気がして、必死に涙をこらえてお母さんを笑顔にさせようと頑張った。

それでも、お母さんは僕に隠れたところでは一人で泣いていることを僕は知っていて、そんなお母さんをまるで自分が泣かせてしまったような気持ちで、遠くから見ることしかできなかった。

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お母さんの泣きはらした顔を見て、お母さんのいつもの笑顔は、お父さんによって守られてきたのだとわかった。そして、いまの僕ではお父さんの代わりになれないことも、認めたくないけど、本当のことだった。

僕はそれを、自分が子供だからだと思った。僕もお父さんみたいな大人になれば、お母さんを元気にしてあげられるのだろうか。

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子供の僕からみた大人のお父さんは、とても強そうな体なのに、優しい顔と声で笑いかけてくれて、僕とお母さんを笑顔にさせてくれた。

そんなお父さんは間違いなく、僕のなりたい「大人」だった。

そして、僕は一刻も早く、そんな大人にならなければと焦っていたのだ。

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今年は新学期の始まりを楽しめないのも、時間の流れを意識してしまうのが嫌だったからだ。

時間というものが、あるひとつの場所から動かなければ、お父さんはいまも元気に笑っていたかもしれない。

そして、お父さんが死んでしまったことに、自分がだんだんと慣れてきていることも、なんだかお父さんという存在が少しずつ消えていくみたいで、怖かった。

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歳をとるだけでは大人になれないなら、いっそ時間が止まってくれればいいのに。この時から、僕の中の時計の針は、億劫そうに重たく、長針と短針がお互いの邪魔をし合うみたいに足踏みしていた。

しかしそれは、少しずつではあるが、確実に未来へと動いていた。

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桜の木の下に座り込んでから、随分と時間が経ったように思った。その証拠に、さっきまで影だった僕の陣地が、太陽の位置の移動によって少しずつ小さくなっていた。

僕はその影に追い出されるように立ち上がると、再び桜の絨毯と向かい合った。

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ふと、自分はここまでの道のりを、まばらに散られた桜を避けるように歩いてきたことを思い出した。そしてそのときの自分の歩き方は、きっとひょこひょこと幼稚な、それこそ大人は絶対にしないような歩き方だったと思うと、僕は誰かに見られてたりしないか途端に気になって、恥ずかしいのと悔しい気持ちでいっぱいになった。

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でも。僕は、言い訳することもまた大人っぽくないことはわかっていたけど、それでもこう思わずにはいられなかった。

-でも。こんなに綺麗な桜を踏んでしまうことが大人になることなら、僕は大人になんかならなくたっていいや。

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そして、僕はなんだか体の中がくすぐったいような変な気分になって、桜の絨毯とは反対方向へと、思い切りに走り出した。

土手の階段をその勢いのままに駆け上ると、さっきまでの桜の景色を、今度は上から見ながら再び走り出した。

僕は、自分が家に向かって走っているのか、わからなかった。きっと家では、お母さんが僕の帰りを待っていることは間違いなかった。

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でも、本当は、僕の前では無理に元気なふりをしているお母さんを見るのが嫌で、僕は家に帰りたくないのかもしれなかった。それは、何もできない自分自身を見ていることと同じだったから、僕はこれ以上自分のことを嫌に思いたくないだけで、そんな自分にはお母さんのことを守るなんて、全然できっこないような気がした。

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桜を踏まなかったことを、大人にならなくてもいい理由だと必死に思い込んで、それでもやっぱり、僕はお母さんを元気にしたくて、たとえ大人にならなくても、いまの自分にできることもあるのではないかと思ったりした。

そしてとりあえずいまの自分にできることとは、無我夢中に走ることであった。

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きっと走っていれば何かが変わるだろうと、僕はどこまでも少年の姿で、息が切れてもひたすらに走り続けた。

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胸が熱く、息が苦しい。空は相変わらず霞がかっていて、まだ全然夕方ではないのに、もうすぐ日が沈んでしまうような予感がする。

その空には、ぐるぐるに絡まった電線が張り巡らされ、まるでこの世界が窮屈そうに縛りつけられているような、そんな圧迫感に襲われた。

知らない街の家々は、その電線によって僕の世界をがんじがらめにする、冷たい存在に見えてしかたなかった。

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気がつけば僕は、これまでに来たことのない、知らない場所にひとり佇んでいた。

がむしゃらに走ったといいつつも、僕は走りながら冷静に自分がどこへ行くのかを考えていた。

そして僕の行きたかったのは、どこでもいい、自分の知らない場所であった。

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知らない土地で一人ぼっちの不安な気持ちは、なんだか少しだけ自分を大人に思わせた。僕は等身大のいまの自分にできることを探しつつも、いまの自分から脱出したいとも考えていた。

でも、知らない場所に行くということは、知らない人に出会うことでもあるのに、僕はまだ気づいていなかった。

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そして、その出会いが、いままでの僕をがらりと変えてしまうくらいに、忘れられないものになることにも。

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その街は、学校と僕の家の中間あたりに位置していて、同じクラスの子が何人か住んでいることからも、決して遠く離れた街とはいえなかった。ただ、いつもは通学路である河川敷の道をまっすぐに帰っていたから、土手の階段を上った先にある、その街には足を踏み入れたことがなかった。

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ようやく走るのをやめた僕は、その街の静けさに、耳がつん裂きそうになりながら歩いていた。

知らない土地をひとりで走るのは、なんだかとても苦しく思えたけど、その息苦しさは、たとえ歩いていても変わらなかった。

でも、僕には、いまさら引き返すつもりなんてなかった。

そもそも、引き返す必要なんてないように思えた。

このまま歩いていけば、いずれは自分の家の近くにはたどり着くだろう。それがわかるくらいに、僕はこの地域に土地勘があった。

そして、それがわかってしまうくらいに、僕の知らないと思っていた街は、自分にとって身近だったのだ。

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やがて、住宅が並ぶさっきまでの景色は一転して、右手には大小さまざまな木々で溢れた公園が見えた。そして左手、つまりその公園の正面には、公園の敷地の広さに負けないくらいの大きな家が建っていた。

豪邸のようなその家は、立派な塀に囲まれていて、背の低い僕からは家の二階部分しか見えなかった。

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僕は、その家の二階から見る公園を想像してみた。

道を挟んですぐのところに、こんなにわくわくする公園があったら楽しいだろうな。僕はそんな自分の考えを、子どもっぽいと思うことさえなかった。

さっきまでの大人への憧れを忘れるくらいに、その公園は僕にとって魅力的に見えたのだ。

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でも、いくらその公園にたくさんの遊具があっても、一人では楽しく遊べないと思った。

今日は公園の発見というお土産を持ち帰るだけにして、明日にでも友だちと一緒に来てみよう。

そう思って公園の前を通り過ぎようとした時、目の前の電信柱の影に、一人の少女の姿が見えた。

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…後編につづく

Concrete
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