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日曜日は最高の終末 最終話

大長編75
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日曜日は最高の終末 最終話

《1》

 誰かの話し声が聞こえる。明日香は、薄らと目を開けた。

「だから……って……」

「でも……」

「まだ、早すぎる……」

 白いカーテンが揺れている。自分が、白い殺風景なベッドの上に仰向けに横たわっていることに気付いた。明日香は身を起こすと、目隠しになっているカーテンを引いた。

「早すぎるって? 何が?」

 金髪の若い男と、継ぎはぎのスカートを履いた女が、同時に明日香の方を見た。

「やあ、お目覚めかい?」

 ジェームズ医師が、愛想の良い笑みを浮かべる。明日香はかっとなって再びカーテンの陰に隠れようとしたが、医師の手がその目的を阻んだ。

「明日香君。聞いてほしい」

 医師が、彼にしては珍しい真面目な顔で言った。青い瞳は、吸い込まれそうな色をしている。

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「人殺し」

 その瞳を睨み返して、明日香が叫んだ。

「竜二さんは、生きていたのに」

「嘘を吐いたことは謝るよ。でも、君の為だった」

 表情を崩さず、医師は言った。

「竜二はもう、手遅れだった。一度ゾンビウイルスが活動を始めたら、どうにもならないんだ。脳をやられて、いずれ内臓も腐り始める」

 竜二に必要なのは、無意味な治療よりも安楽な死だった。

「奇跡的に、内臓はまだ腐敗していなかった。まあ、元々ミュータントの心臓だったしね。わかるかい? 竜二の心臓で、竜一は助かるんだ。竜二は、ある意味では間に合ったんだよ」

 言い聞かせるような調子で、医師がゆっくりと告げた。

「俺はヤブだからね。道徳観念なんてわからない。だけど、三人もの人間を見殺しにすることはできなかった」

「三人?」

 明日香が怪訝そうに医師を見上げる。

「竜一君が死んだら、優君も生きてはいられない。あの二人にとって、生きる理由はもう、お互いしか無かったんだ」

 明日香は、優のことを思い出した。転校して来たばかりの頃、明日香をすぐに友人に加えてくれた優のことを。明日香の為に、一緒に北区まで付いて来てくれた優のことを。

「タイミングが合っただけなのよ。この町の人は誰も、竜二に危害を加えたりしなかったわ。先生も竜一君も、もちろん優ちゃんもね」

 あきこが、後ろから口を挟んだ。

 明日香の目に、涙が光った。阿方よりも先に発症するなんて、酷すぎる。でも、そうでなければ竜一は助からなかった。竜二を見放した運が、竜一に味方するとは皮肉なものだ。

「運? 本当にそれだけかしら」

 あきこがにやりと笑う。

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 医師の顔が、一瞬、色を失った。

「あきこ君、よせ。まだ……」

 あきこが、つんと唇を尖らせる。

「先生だって言ってらしたじゃないの。あの子をこのままにしておくのは危険だ、って」

 あきこが、明日香の目を覗き込んだ。医師の吸い込まれそうな青に比べれば暗い瞳だったが、明日香は目を逸らすこともできなかった。

「ねえ、明日香。あなたはもう大人でしょう。自分を誤魔化すのは、およしなさいな。そんなの、年寄りと子どものすることよ」

 普通より早かった、竜二の発症。ありえないことではない。

 だが。

「いつまで弟思いの姉を演じ続けるつもり? 勇は、あなたの弟なんかじゃない」

 紅を引いた唇が、笑う。

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「あの『男』、私の元・恋人にそっくりな目をしてるわよ」

 医師は、明日香がまた気絶すると思ったのだろう。明日香を支えようと、両腕を差し出した。だが、明日香は気絶しなかった。医師の腕を振り払って、明日香は病院の外へ飛び出した。

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《2》

「嘘だ……こんなの……!」

 信也が叫んだ。血走った瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。圭介はぎゅっと胸を掴まれるような感覚に襲われたものの、どうにか抑え込んで、もう一度ゾンビに合図を送った。

「俺がボスだ。……いいな?」

 ゾンビの目が、信也に注がれる。

 かつては、従っていた存在だ。どのゾンビよりも強く、故にゾンビたちを従えていた。しかしそれは、知性故の忠誠心などではない。

「違う!」

 黒い学生服が翻る。信也の拳が直撃する寸前、危ういところで圭介はそれを受け止めた。

「僕だ、僕の言うことを……」

 最初に感じた余裕は、今は信也のものではなくなりかけていた。圭介は信也の腕を掴んだ。信也がもう片方の拳を振りかぶる直前で、圭介は足を払った。取り乱したり、油断したりした時、一番隙ができやすいのは足元だ。

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 信也がバランスを崩す。拳の軌道がずれる。喧嘩慣れしているのは確かだし、あの怪力は厄介だが、作戦や技に関する知識は浅い。信也が体制を立て直す前に、圭介は鳩尾をもう一度殴った。肺に拳がめり込み、血交じりの泡を吐いて、信也は地面に膝を付いた。

 学生服の胸ぐらを掴んで、無理やり立たせる。血の泡を吐き散らしながらも、男にしては細い腕を伸ばして、信也は圭介に掴み掛かろうとした。互いの骨がみしみしと音を立てる。ゾンビの唸り声。負けたら、死ぬ。かつてこの世界に生きていたというあらゆる動物たちも、命がけの戦いを制して来たのだろうか。

 奥の手も、おそらく二度は通じない。

 ならば。

 圭介は自分の腕の全てに力を集中させると、一呼吸で信也を持ち上げた。信也の目が見開かれる。思っていたよりも、軽い。自分の体重よりも重いものを軽々と持ち上げることのできる信也は、まさか自分が投げられるなんて考えもしなかったのだろう。

「見ろ!」

 圭介が叫ぶ。学生服に包まれた身体が、飛んだ。木の幹と建物の残骸にしたたかに全身を打ち付けた信也は、すぐには起き上がることもできなかった。圭介は肩で荒く息をしながら、ゾンビ共を見回した。

「俺の勝ちだ。こいつはもうボスじゃない……餌だ!」

 自分が何を言っているのかは理解しているつもりだった。危険など承知の上だった。ゾンビ達は汚れた牙をむくと、ぎらぎらと欲望に光る眼を一斉に信也の方に向けた。

 

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《3》

 竜一の手から白杖が離れた瞬間、支えを失った華奢な身体は鈍い音を立てて地面に転んだ。

「竜一、……」

 咄嗟に手を伸ばした阿方の視界で、カーキの制服が真紅に染まる。

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『悪く思うな』

 絡み合った木の上から、ずるりと小柄な影が釣り下がった。構えた拳銃から硝煙が上がっている。

『急所を外すのが、精一杯だった』

唇は動いているのに、声は別の方向から聞こえて来る。

幸也は、背から生えた二本の触手のうち、一本を木の枝に引っかけてぶら下がり、もう一本で拳銃を握っていた。細くなった触手の先を、器用に引き金に絡ませていた。

「幸也の奴、俺らの中で一番射撃が上手いんだ」

 阿方の後ろで、聞き慣れた声がした。身体が逆さまになった青年が、上目遣いに阿方を見上げてにやりと笑う。

「大丈夫だよ。俺達の隊長だ」

警備隊長、幸也。一つしか無い目玉で、じっと竜一を見下ろしている。

車椅子が無くても、動けるのか。いや、それより、幸也は自分では喋れなかったはずでは。

唖然とする阿方の前で、幸也の唇がまた動いた。それに合わせて、晃が声を発する。

『骨には当てていない。二週間もすれば、また歩けるようになる』

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 触手がするりと枝を外れ、手足の無い幸也の身体が草の生えた地面に落ちた。四肢の無い身体でもうまく着地できたのは、高さまで計算に入れてたからか、それとも単に慣れているのか。頭を振って髪に付いた草を払うと、細い触手の絡んだ拳銃を再び竜一の方に向ける。

『竜一。もう、十分だろう?』

 竜一が顔を上げた。解けかけた包帯が首筋に絡まっている。白く濁った眼球は何の色も映してはいなかった。

「何が、わかる」

 唇を噛み締めた。牙が唇に食い込み、血が滴る。

「お前らに、僕の何がわかるんだ」

 立ち上がろうとして、崩れ落ちる。急所を外した、と幸也は言っていたが、それほど浅い傷にも見えない。脹脛の肉を抉られ、ブーツの中にまで血が溜まっている。

「僕の身体がまともだったら、優を守れたんだ」

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 竜二の、心臓。阿方は、腐りかけた竜二の身体の中で唯一まともに動いていた心臓を思った。本来ならば、竜一に与えられるべきだった心臓だ。成長期を弱った心臓のまま過ごした竜一は、今でも成人した男とは思えないくらいに痩せている。

「少し動くだけで息が切れる。施設で指導員に掴み掛かったこともあったけど、気が付いたら僕はベッドで、優は懲罰室に入れられてた。あれほど情けなかったことは無いよ」

 健康な心臓を取り戻しても、過去が消えるわけではない。

顔じゅうを腫らして痣を作った優を見て、のうのうと気を失っていた自分を憎んだ。実際に優を傷つけた奴ら以上に、何もできない自分を呪った。

「サクラ市。桜並木が綺麗だって聞いてた。優と一緒に桜の花を見るって、約束だったんだ」

 無理矢理に作った自嘲の中、竜一の声は震えていた。

「施設の窓越しじゃない月。本物の雪。夏の青い空」

 僅かな希望だった。血を抜かれ、逆らえば殴られ、女というだけで暴行される。優はもう、子供を産めない。施設を焼いてノーマルを殺したことをやり過ぎだと責めるならば、ノーマルが優にやったことは罪ではないのか。自分たちは、小さな望みさえ奪われる程のことをしたのか。

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「見えない。僕にはもう、何も見えない」

 竜一が地面を殴った。土埃が舞う。

「優の笑った顔も、泣いた顔も、怒った顔も。一番見たかった顔が見られないんだ。それがどんな気持ちか、お前らにわかるか?」 

 竜二が優を傷つけようとしなければ……竜一が、両目を潰されていなければ。施設が壊されることは無かった。阿方の友人だって、まだ生きていたかもしれない。

 何と言ってやれる? 

 阿方は、必死に頭を巡らせた。

何と言えば良い? 悪いのは全てノーマルだ。竜一も、優も、此処に居る晃も、幸也も被害者だ。だが、些細な願いさえ永久に叶わなくなってしまった相手が、どんな慰めを求めると言うんだ?

「竜一」

 道路標識に絡みついた藪の中で、竜一を呼ぶ声がした。阿方が振り返ると、髪の毛を茶色く脱色した少女が立っていた。鋼鉄の右腕が肩から外され、不完全な生身の指が露わになっている。竜一から白杖を取り上げたのは、彼女が『ニュータイプ』としての力を使ったからだろう。

「優」

 竜一が顔を上げた。見えなくても、大切な相手の声はわかる。

「私達、戻れてたよな?」

 鉄製の指先が、竜一の頬に触れる。跪いた義足が、軋む音を立てた。

「施設の奴らなんか死んで当然だ。竜一が私と一緒に戦ってくれて、本当に嬉しかった」

 人間を辞めてしまえば良いと、あの時は思った。あの選択に間違いは無かったと思っている。後悔なんてしない。

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「けど。戻れた、だろ」

 優がもう一度言った。

「サクラ市に来て、アパート借りて。一緒に住んで、お前は仕事、私は学校に行って。一緒に飯食って、一緒の布団で寝て、一緒に買い物出かけて……私達、人間に戻れてたよな?」

 優の声が、微かに震えた。優が義手を竜一の背に回すと、竜一もそれに応えた。互いの体温が伝わる。竜一は一瞬、呆けたように口を開きかけたが、何も言わずに優の肩に顔を埋めた。細い肩が震えている。

 両目を失った時も、余命を宣告された時も。竜一は、決して泣かなかったのに。

「私は、幸せだよ。竜一と一緒に暮らすって夢、叶ったんだからさ」

 白杖を拾い上げると、優はそっと竜一の手に握らせてやった。

「綺麗な景色は、全部竜一に伝えるから。見えなくても、私に触って良いのは竜一だけだから」

手足が無いなら、代わりになる。目が見えないなら、代わりになる。

施設を去った時から、それは変わらない。

『優は、強いな』

 晃が呟いたが、それは幸也の言葉なのか、それとも晃の独り言なのかはわからなかった。

阿方は竜一の方へ歩み寄ると、細い腕を取って立ち上がるのを手伝った。脇腹の傷が微かに疼いたが、今はもう迷わなかった。

「帰ろう。竜一」

 竜一の襟元は乾いていた。裂けた眼球からは、涙さえ流れない。

「前は竜二と間違えた癖に」

 もう、間違えることは無い。阿方は苦笑して、竜一の腕を自分の肩に回した。

『阿方さん。あんたはもう、俺達の仲間なんだ』

 幸也の唇を読み取って、晃が言う。

『俺は警備隊長だ。何か不満があるなら、俺を通してくれ』

 ミュータントに秩序が無いなんて、一体誰が言い出したことなのだろう。どれだけ歪な身体をしていても、彼らは人間なのだ。

 竜一に寄り添う優が、明日香と重なる。明日香がいなければ、阿方もとっくに人でいることを辞めていただろう。ノーマルも、ミュータントも、結局根本は同じなのだと阿方は思った。

《4》

 歯が立たない。喧嘩なら、誰にも負けたことが無かったのに。背中を打ったせいで、呼吸がうまくできなかった。無理に息を吸おうとすると、殴られた肋骨の辺りが酷く疼く。

 信也は咳き込みながら、自分がぶつかった木の幹に手を付いて、よろよろと起き上がった。結んでいた黒髪はほどけ、乱れて、肩の辺りに広がっている。つ、と顎を濡らしたのは、血だった。歪む視線をどうにか前に向けると、ゾンビがわらわらとこちらに向かって来るところだった。

 むせ返る血の匂い。腐った肉の臭い。

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「母さん……」

 大好きだった『母さん』が、信也の学生服に爪を立てた。『母さん』が何度も繕ってくれた服に、『母さん』自身の爪で亀裂が入った。

「信也……」

 圭介の足音が近づく。ゾンビの腐臭も。

「俺が憎いか?」

 圭介が信也の前に立って、こちらを見下ろした。圭介に従うゾンビ達は、ぴたりと動きを止めて圭介の様子を伺った。『母さん』も、ひくひくと鼻を鳴らして、圭介が餌をくれるのを待っている。

「もう一度、良く見てみろ」

 信也は飛び出しそうになる悲鳴を抑え込んだ。

「本当にそいつが、お前の母親に見えるか?」

腐敗臭が、急に強くなったように思えた。

「わかるだろう。そいつは……」

やめろ、言うな。

呆けたような目で、信也が圭介を見上げる。信也は、『母さん』が好きだ。今朝も化粧を直してやった。ピンクのスカートは、『母さん』に良く似合う。信也が手伝えば、『母さん』は今も変わらず奇麗でいられる。

「そいつは……ゾンビだ」

 耳を塞ぎたかったが、できなかった。何よりも他人の口から聞きたくなかった事実が、意図的に曇らせた視界を晴らしてしまう。

 信也は、定まらない視線をゆっくりと『母さん』の方へ向けた。

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 『母さん』は、変わらずそこにいた。

 どこを見ているのかわからない目をして、それでも食欲に支配されながら、唾液と血に塗れた舌を唇の端から覗かせている。死斑が浮き、赤黒く膨れた顔を斑に染めた白粉が、動く度に血交じりの粉の塊と化してぱらぱらと落ちていた。ピンクのスカートは、腹部の傷から溢れ出した内臓で赤黒く染まっている。内臓から腐った液体が染み出して、べとべとと糸を引きながら双頭の蠅をおびき寄せていた。

「母さん……」

 昔の『母さん』は、いつも信也の話し相手になってくれた。学校が終わって会いに行けば、いつだって『お帰りなさい』と迎えてくれた。

「ジェームズ先生の病院から、こいつを逃がしたのはお前だな」

 圭介が低い声で言った。信也の拳をまともに受けた方の手は、まだ痺れている。信也の怪力ならば、鎖を引きちぎるくらい容易だっただろう。

「そのゾンビが、どうして図書室に行ったかわかるか?」

 ゾンビは、信也には決して噛み付こうとしなかった。噛み付くことができなかった。

 親子の絆が残っていたから、ではない。

 その頃はまだ、信也が群れのボスだったからだ。

 力が抜けていくのを感じて、信也はその場に崩れ落ちた。『母さん』は四つん這いになって、地面に広がった血をぺろぺろと舐めていた。

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《5》

 明日香に会わなくては。遠くに行ってしまう前に、引き止めなくては。

 下水で目を覚ました時、勇の隣には誰もいなかった。荷物はそのまま、勇の身体には阿方の上着が掛けてある。勇はかっとしてその上着を投げ捨てると、荷物を開けて中身を掻きまわした。置いて行かれるなんて初めてだ。今までは阿方も明日香も、どこかへ行く時は必ず勇に声を掛けてくれたし、勇が眠っている時は背負ってでも一緒に連れて行ってくれたのに。

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 明日香はどこだ? 阿方と一緒に出て行ったのか? だとしたら酷すぎる。勇はまだほんの子どもで、大人がいない場所でどれだけ生きられるかもわからないのに。

 手のひらが、何か固いものに触れた。鞄から引きずり出してみると、それは表紙の黄ばんだ教科書だった。学校の教科書。明日香は毎日楽しそうに通っていたし、帰りが遅くなることもあった。勇はその度に腹を立てていた。羨ましかったわけではなく、ただ、許せなかったのだ。

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 明日香は今、一人なのだろうか。それとも、ミホとか言うミュータントと一緒に居るのか。もっと悪いのは、勇以外の別の男と一緒に居ることだ。明日香。一番一緒に居たはずなのに、何故、勇と遊んでくれなくなったのだろう。何故、勇に嫌いだと言えたのだろう。

 荷物の中に、使用済みの注射器が混ざっていた。阿方と明日香が、抗体を注射するのに使っているものだ。それをポケットに詰め込むと、勇はマンホールに向かって走った。背に瘤の付いた門番は、勇の姿を認めると、何も言わずにマンホールの蓋を僅かにずらした。子どもがようやく通り抜けられるだけの隙間が空き、わざと目を逸らしている門番に挨拶もせず、勇は錆びた梯子を上り切った。

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 手のひらに錆びた手すりの感触が伝わる。ポケットの注射針が太腿を引っ掻き、身体が完全に外に出る頃には息が上がっていた。

 明日香。

 明日香を探さなくては。

 病院。学校。勇が一人でできることなんて限られている。阿方はもう当てにならない。どこかに使えそうな大人はいないだろうか。

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「あら。もう起きてたの?」

 地面を蹴る音がして、勇は膝を曲げた姿勢のまま顔を上げた。北区で拾ったぶかぶかのシャツを着て、長くなった髪の毛をミホに貰ったピンで止めた明日香が……サクラ市に来たばかりの頃とは、色々な意味で変わってしまった明日香が、じっとこちらを見つめていた。

「明日香、どこ行って……」

足元で、マンホールの蓋が締め出すようにごとりと閉まった。

「どこでも良いでしょう」

 明日香はそう答えると、勇の小さな手のひらを取った。沈みかけた太陽で、汗で光る頬が金色に染まっている。明日香の肌がいつもより冷たく感じて、勇は思わず待ちわびたはずの手を振り払ってしまった。

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「怒ってるの?」

 明日香が穏やかに微笑む。明日香が勇に笑いかけるなんて、本当に久しぶりな気がした。

「昔は良く、三人で遊んだわよね」

 明日香の髪はほつれて、血の気の引いた頬に汗で張り付いていた。昔のままで居てほしいのに、明日香はどんどん姉らしい顔になって行く。

「竜二さんが居て。勇は竜二さんと鬼ごっこなんかやって。私は遅くてすぐに捕まっちゃったけど。楽しかったわね」

 あの頃。明日香は、勇を何と呼んでいてくれただろう。ついこの前のことのような気がするのに、記憶は酷く遠かった。

「明日香、俺……」

「竜二さんが」

 勇の言葉は、明日香の声に遮られて途中で止まった。明日香を見ると、視線は勇に注がれているのに、目の奥ではもっと別の何かを見つめているような気がした。

 夕日はまるで燃え盛る真っ赤な火の玉のようだ。赤い光は、血の色にも似ている。

竜二を、憎んでいたわけじゃない。

 ただ、自分は。

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「竜二さんが一緒に遊んでくれなかった時、私と勇で冒険に出かけたわよね。ねえ、覚えてる?」

 明日香が仲間に加わってから、竜二がやたらと大人ぶった態度を取るようになったのが面白くなかった。勇が明日香と話そうとしても、すぐに竜二が割り込んで来る。明日香も大人の竜二に構って貰う方が楽しいらしく、勇と一緒に居る時とは違った顔を見せるようになった。

 大人たちの隙を見て、勇は明日香を連れ出した。それが悪いことだとも思わなかったし、その時はまだ、明日香と二人きりで遊べることに無邪気にはしゃいでいただけだった。

「ゾンビが大勢襲って来て……私と勇だけじゃ、どうにもならなくって……」

 明日香も楽しんでいたはずだ。勇の手をいつもより強く握った明日香は、頬を紅潮させて、小走りに勇の後ろを付いて来ていた。大人たちからは近寄るなと言われていた古い建物に、勇と明日香はこっそり入り込もうとした。建物周辺がゾンビの巣窟となっていることに気付いたのは、すっかり囲まれてしまった後だった。

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「私たちがいない、って最初に気付いたのは、阿方さんだったわ。竜二さんは、阿方さんが止めるのも聞かないで飛び出して行ったんだって。本当に竜二さんらしいわよね」

 何と言って良いかわからず、勇は頷くこともできなかった。結局、自分は負けていたのかもしれない。ゾンビを前に、どうすることもできなかった。明日香を庇おうと前に出ることもできず、ただ拾った棒切れを構えてがたがた震えていただけだ。 

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 幸運なことに、ゾンビが襲ったのは勇だけだった。

 明日香は、最後まで泣かなかった。竜二がゾンビの群れを追い払い、明日香と勇を抱き上げて逃げる間も、悲鳴さえ上げなかった。ようやく泣いたのは、本当に安全な場所に辿り着いて、竜二に頭を撫でられてからだ。危ないだろ、と叱りながら微笑む竜二と、竜二の胸に顔を埋めて泣く明日香を見て、勇は自分の存在が酷く小さくなったように感じた。

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誰も勇を責めなかった。竜二にできることが勇にはできなくとも、大人と子どもであることを考えれば当たり前だ。

だが、勇にはわかっていた。竜二が、勝ち誇っているということが。

「あれからいくらも経たないうちに、仲間の中で発症する人が増えて行ったわ。阿方さんと竜二さんは、二人で仲間だったゾンビの死体を埋めていたわよね。私、今でも覚えてるの」

 勇だって覚えている。手伝ったことは無いけれど。

 呼吸が早くなって行くのを感じた。明日香は、何を言いたいんだ? 阿方はどこに居るんだ? もう夕方だ。後少しで、暗くなってしまうからか、道路には人影ひとつ無い。影が長くなって行くのを見下ろして、勇は閉じられたマンホールをつま先で蹴る。

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「竜二さんは優しかったから、仲間だった人は誰でも丁寧にお墓を作ってあげていたわ。両手が傷だらけになって、スコップの柄が血だらけになって、阿方さんが止めても、全員埋め終わるまでやめなかった」

 突然、明日香が勇の手を掴んだ。口元は笑っていたが、目は全くの無表情だった。勇の背筋がぞくりと泡立つ。

 明日香は、何を、知っている……?

「竜二さんの発症は早かったわ。本当に、早かったの……」

 明日香の目が、夕日で真紅に染まっていた。後ずさりながら勇は、やはり子どもはマンホールの下で大人しくしているべきだったと思った。

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《6》

話し相手は、いつも『母さん』だった。『母さん』がウイルスに倒れた後も、それは変わらなかった。変えたくなかった。

「母さんだけだったんだよ。僕の味方は」

 信也が声を詰まらせる。

「男だか女だかもわからないこんな身体だから、どこに行っても気持ち悪がられた。僕を受け入れてくれたのは、僕と同じことで悩んでいる人たちだけだった」

 ノーマルの中にも、信也と似た境遇の者が居た。

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精神と実際の性別が真逆の者。同性しか愛することができない者。医学的な理由で、女性のように乳房が膨らんでしまう男性や、男のように筋肉質な身体になって髭を生やした女性も居た。彼らは何一つ罪を犯していないにも関わらず、迫害と差別に耐えなければならなかった。身体的に一般的なノーマルと少しでも異なる特徴があれば、ミュータントだと言われて酷い扱いを受けた。単に肌の色が変わっていたり、手足の数が普通と違っていたりするミュータントよりも、更に格下の部類だとはっきり言われることもあった。

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「僕みたいに、完璧に男と女が半々っていうタイプは流石に見なかったけど。気持ちは、皆同じだったからさ。すぐに仲間になれたし、中でも『母さん』は良く僕の面倒を見てくれた」

 『母さん』は、身体は男に生まれながら、他の誰よりも女らしかった。会いに行くと、いつも笑顔でお帰りなさい、と迎えてくれた。いつも奇麗に化粧をして、華やかな服を優雅に着こなして、明るく笑っている母さんが、信也は大好きだった。

「母さんは、生きてるんだ。まだ、生きてるから、僕は……」

「ああ、息はしているな」

 圭介が言って、四つん這いで血を啜るゾンビを見下ろした。

「だけど、こんなのが生きてるって言えるか?」

 記憶はある。だが、それはゾンビとなってからの記憶だ。誰が餌をくれ、誰が飢えを満たしてくれるのか。それ以外は何も覚えられないし、思い出せない。ゾンビの言葉にも、意味は無い。『母さん』が何度、お帰りなさいを口にしても、それはネズミの鳴き声と対して変わらない。

「お前のことを思い出したわけじゃない。こいつが利口になったように見えるのは、お前に従えば喰いっぱぐれないって気付いたからだ」

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 動物が、群れの長を見極めるのに似ている。

 一度極限まで退化して腐りはてた脳味噌は、ただ身体を生かすためだけに再び独自の進化を遂げた。人としての意識は消えうせたまま、『ゾンビ』という新たな生き物として、主に従うことを覚えた。

「信也。俺が、憎いか?」

 圭介が、もう一度訪ねた。信也が唇を噛む。

 圭介さえ来なければ、信也はまだ『母さん』の傍に居られた。

 圭介が北区に来たのは、『母さん』のことがあったからだ。

 図書室で。

 ミホに、怖い思いをさせた。

 『母さん』は、どうして、図書室なんかに。

「ああ……」

 頭の中で、朧な線が繋がる。ゾンビはゾンビだ。かつての『母さん』の代わりを求めたところで、それは信也の思い込みでしかなく。

「僕の、せいか……」

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 ゾンビを突き動かすものは、痛みではなく褒美だ。従わないゾンビを殺し、従うゾンビに食わせ続けた。『母さん』は特にお気に入りだったから、肉の良い部分を優先的に与えていた。その甲斐があったのか、『母さん』はゾンビとしては賢い個体に変わって行ったように思う。

 嬉しかった。話しかけると軽く首を傾げたり、信也の手に頬を擦り付けたりする様子は、他のゾンビに比べれば人間らしかった。かつての『母さん』が戻って来たようにさえ、感じていた。

 返答が無くても、別に良かった。『母さん』に話ができれば、それだけで満足だった。誰かに迷惑を掛けるつもりも、無かったのに。

「わかるよ、信也」

 圭介が呟いた。

「俺だって……もしも、ミホが……」

 ゾンビはゾンビだ。どれだけ『母さん』に人間の真似事をさせても、人間らしい感情は生まれない。

信也がいつも話している『ミホ』という存在を連れて来れば、間違いなく褒美の美味い肉が食べられる。

その程度の知恵しか無かった。

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「ただ、聞いてほしかったんです。僕のことだけじゃなく……ミホちゃんのことも」

 『母さん』を餌付けし始めた最初の頃は、そうでもなかった。男子生徒との喧嘩や芳しくないテストの結果など、話題はその日によって違っていた。いつしか、ミホの名が頻繁に登場するようになり、最近は話すことと言えばミホに関することばかりだった。

 ミホと学校へ向かう時、どの道を通るか。放課後、ミホはどうしているか。どんな髪形で、どんな服を着ているか。今日は笑っていたか、少し怒っていたか、それとも悲しそうだったか。

「俺を殺せば、北区の秘密は守られる」

 圭介が言った。信也が弾かれたように顔を上げる。

「どうだ? もう一回やってみるか?」

ほとんど他人事のような言い方だったが、目は少しも笑っていなかった。信也の中に再び、黒い靄が立ち込める。

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北区に居るゾンビ達は、全て圭介のものになってしまった。『母さん』さえも。信也は、自分の敗北がわからないほどの馬鹿ではない。けれど、ここで引き下がれるのか? 『母さん』を奪われたままで。その上圭介が、ミホに対して生涯口を噤んでいる保証がどこにある。

ならば、いっそのこと。

血肉に塗れた地面には、ゾンビ達が食べ残した骨が無数に転がっていた。半ば無意識に、信也は一番大きな白い骨を拾い上げていた。先の方が割れ、ナイフのように尖っている。圭介は僅かに顔色を変えたが、何も言おうとはしなかった。

広がりかけた靄の中に、『母さん』の昔の顔が浮かんだ。『母さん』と信也は、血が繋がっていない。けれども『母さん』は、信也が成長して行くのを何よりも楽しみにしていた。

『母さん』は、お帰りなさい、の後に何と言っていただろう。

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「信也、……」

 圭介の声が聞こえる。圭介はミホの兄だ。ミホの家族。信也と母さんのように……片方が欠けるのは悲しい。ミホは兄の話をする時、いつも少し照れくさそうに笑う。お兄ちゃんは心配性なんだから、などと言いながら、声だけはとても嬉しそうだった。ミホのそんなところを、いつまでも子ども扱いする兄に困りながら、少しでも力になろうと服を繕ったり、好きな食事を作って待っていたりする姿を、信也は可愛らしく感じたのではなかったか。

 ――信也も、いつかは女の子なんか連れて帰って来るのかしらね――

 お帰りなさい、と出迎えた後、『母さん』は少しだけ冗談めかして、そう言って笑った。

 『母さん』が、本当に望んでいたのは。

 信也が望んでいたのは。

「……意地悪だな……本当に」

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 か細い声で呟いて、信也は振り上げた手を降ろした。

「ミホちゃんから家族を奪うなんて……本当は僕にできるわけが無いって、わかってるくせに」

 力は抜けているのに、握りしめた骨を取り落とすことはなかった。いっそ、圭介を刺し殺してしまえば良い。そうすれば、全て望み通りだ。

 でも。

「そうかもな」

 圭介が微かに笑った。まだ警戒を解いたわけではなかったが、声は前よりも幾分柔らかくなっていた。

「ありがとう。ミホを、好きになってくれて」

 永遠に兄妹だけで生きて行こうと思っていた。互いに別々の道を歩むなんて、できるわけが無いと思っていた。

 図書館に現れたゾンビ。今思えば、きっかけはあの時だったように思う。逃げても良かったはずなのに、ミホを助けようと圭介を呼びに来てくれた。ノーマルでありながら、ミホの友達になってくれた。

 意志の強い瞳も。華奢な肩に重いものを背負って、それでも泣くことさえせずに歩いて行こうとする姿も。

明日香。自分がただの感謝とは異なる感情を抱いていることに気付いたのは、いつだっただろう。

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「俺の代わりに、ミホの傍に居てやってほしい」

 圭介が信也の顔を見た。

「俺は……ミホを、裏切ってるのかもしれない。だけど……」

「今更、馬鹿なことは言わないでください」

 信也は尖った骨を握り直すと、切っ先を『母さん』の顔に向けた。涙が零れ落ちて、学生服の襟を濡らした。

「僕のことを認めないのなら、圭介さんも自分の気持ちを諦めたらいい。だけど、そっちは選びたくないんでしょう?」

 手が震えた。だが、どちらかを選択しなければならない。『母さん』が今何を考えているかなんて、本当はわかるはずも無い。汗と血が混じり合って、骨のナイフを滴る。

『母さん』はとろんとした目でこちらを見つめていた。最高の息子にはなれなかったかもしれない。それでも、母子だったと思う。

「母さん……ごめんね」

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 そんな勇気は、今まで無かったけれど。放課後、一度はミホを誘ってみたかった。こんな汚れた北区ではなく、母さんと信也が一緒に住んでいた元の家に行って。母さんはきっと、喜んでくれる。喜んでお帰りなさい、と言ってくれる。そして……。

 圭介の視線を感じた。信也は大丈夫、と言うように微笑んでみせると、先端を『母さん』の淀んだ目に近付けた。『母さん』は、逃げようともしなかった。

「さようなら……母さん」

 骨のナイフが眼球を貫き、腐った脳に突き刺さった。信也はナイフを何度も動かして、脳を滅茶苦茶に掻き回した、痙攣する手足が動きを止める寸前、ゾンビは『お帰りなさい』と呟いた。

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《7》

空の青色に、オレンジ色の縞が入り始めていた。こんなに夕陽が赤い日なんて、滅多に無い。

 明日香は、嘘を見破るだろう。ミホには、最初からわかっていた。

 サクラ市立第二東中学校。白線を引いた校庭のトラックに、桜の並木。明日香と一緒に勉強した図書室も、日誌を書いた教室も、皆で話をした屋上も。何も変わってはいないはずなのに。

 未来は、簡単には変えられない。悪い『景色』を見るたびに、ミホはそれを変えようとして来た。結果はいつも同じだ。小さな嘘ひとつで何もかもが変わるほど、世界は単純にできていない。

 行かなきゃ、とミホは思った。

 でも、何処へ。

 病院で待っていても、兄はなかなか迎えに来なかった。待ちかねた医師が警備隊基地に連絡すると、電話に出た警備隊員は、戸惑った声で竜一も阿方も戻っていないと答えた。幸也と晃が、優を連れて探しに出かけたらしい。その行先は……。

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「北区」

 その言葉を耳にした途端、医師の顔から表情が消えた。

「ミホ君。さっき、夢を見たと言ったね」

 いつになく真面目な顔の医師が、青白い顔のミホに向き直る。

「君が見た未来のヴィジョン。あれは、そんなに遠い日のことじゃないと思う」

ミホは制服の袖を掻き抱いた。呼吸が早くなる。心臓が破裂しそうで、叫び出してしまいたい衝動に駆られた。あの夢は間違いであって欲しかった。それが、こんな急に。

医師は、明日香の元へ行けと言っていた。居場所はもう、わかっている。ミホは罅だらけのコンクリートの建物を見上げて、乱れた呼吸を整えた。学校。馴染んだ場所が、これほど冷たく見えるなんて。

ミホは今、独りだ。でも、明日香も独りだ。瞬きをすると、いつか見た最悪の未来が蘇って来る。

明日香の前には、勇がいる。でも、勇も明日香も、もう最初に会った時のような仲の良い姉弟には見えない。

 オレンジ色の夕日。

 学校の屋上。

 散りかけた桜の花。

 周りには誰もいない。

 明日香の唇が動く。勇が、しどろもどろに何事か答える。少年の足が後ずさった。明日香がその細い腕を掴む。長い指。初めて会った時の明日香は、ミホと変わらない年だったのに。

 いつからか、こんなにも落ち着いた笑みを浮かべられるようになったのだろう。明日香は、何に気付いた? 一体、何に……。

「……わからないよ」

 卑屈に笑った勇が、蚊の鳴くような声で呟く。

「俺、まだ、子供だもん……」

 夕日が嫌に赤い。校庭が同じ色に染まる。いや、それは夕日の所為ばかりなのだろうか。それとも……。

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「ミホちゃん、どうしたの?」

 懐かしい声が、白昼夢を破った。振り返ると、ミホの良く知った姿がそこにあった。後ろで束ねていた髪がほどけ、学生服もあちこちに裂けたような痕がある。

息が止まりそうな程驚いた。ミホは急いで駆け寄ると、震える手でそっと学生服の袖に触れた。

「怪我したの?」

「少しだけだよ。大丈夫」

 信也は血の滲んだ唇で笑って、乱れた髪をかき上げた。傷だらけではあったものの、大きな怪我はしていない。

「どうして……」

「だって、ミホちゃんが待ってるから」

 信也が照れたように笑った。

「圭介さんが心配してたよ。ミホちゃんが、また何か『見た』んじゃないかって」

その胸に取りすがって泣き出したいのを堪えて、ミホは小さな拳を握りしめた。

自分にできることは、『見る』ことだけだ。何かを変えられたことは一度も無い。しかし、このまま何もしないで居たら、きっともっと後悔する。

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「……一緒に、来てくれる?」

 夕日が傾いていた。屋上には何度も登ったはずなのに、今日はやけに後ろめたい。赤く染まる階段は、血の絨毯を敷いたようだ。ゾンビの鳴き声は聞こえない。足音だけが、鈍く響く。

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 屋上の真ん中で、明日香はこちらに背を向けて立っていた。影が長く落ちている。名を呼ぶと、明日香は振り向いて、にっこりと笑った。取り乱した様子は、少しも無い。ミホは、なぜだか却って不安になった。

「やっぱり来たのね、ミホ。あなたには、他人が何をしようとしているのか、全部わかるのね」

 長い黒髪が、匂い立つように靡いた。羽織った白いシャツが、明日香の体にまとわりつき、輪郭をくっきりと浮かび上がらせている。

明日香の隣には、勇が居た。戸惑ったような、怒ったような顔で、きょろきょろと落ち着きなく辺りを見回している。

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明日香が何をするつもりなのか、ミホにはわかっていた。けれど、なぜあんなことをしなければならなかったのかは、わからない。

「考え直して、明日香」

 それだけの言葉を、ミホはやっとの思いで搾り出した。

「勇君とは、仲が良かったのに。弟なんでしょう?」

「弟……? ああ、」

 明日香が微笑んだ。

「確かに今は、そういうことになっていたわね」

 戸惑った顔で後ずさる勇が、酷く子どもっぽく見えた。明日香と勇は、これほどまでに年が離れていただろうか。桜の花が、散る。今年は、何度目の薄紅の景色だろう。

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「ミホたちには、勇が普通の子どもに見えているんでしょう?」

 初めて会った時に比べて、明日香の顔つきが大分変わっている。やせて尖った顎はやや面長のふっくらとした輪郭に変わり、一重まぶたの目つきもやわらかくなったようだ。目鼻周辺の肉は程よく落ちて、全体の彫りも深くなっている。

 でも、目の前にいるのは明日香なのだ。

 明日香であることに、間違いは無い、はずなのに。

「ミホ。ひとつだけ、聞いても良い?」

 明日香は、勇の腕を掴んでいた。ただしそれは、弟を心配して、というよりは。逃がすまいと、留めているように見える。

「最後に日曜日が来たのは、いつかしら」

明日香は笑みを崩さなかったが、その笑みはどこか淋しそうに見えた。明日香はシャツの下に隠していたものを取り出すと、ミホの方へ差し出した。教室にある、学級日誌。明日香も、ミホと一緒にこれを書いたことがある。

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 ミホは日誌を受け取った。震える指が、勝手にページを捲っていた。授業の内容やテストの予定、生徒達の適当なコメントの脇に、その日の日付と天気を書き込む欄がある。

 日付は、一日も記入されていなかった。誰も、それを疑問には思っていなかった。明日香の書いた日だけ、その部分を丸く囲んで、鉛筆で『?』マークが記入されていた。

「最初にこれを見たときに、思ったわ。あなた達と私は、やっぱり違うんだ、って」

 学校には、行っても行かなくても良いことになっている。でもミホは、毎日休まずに通っている。昨日が土曜日だとしたら、今日は日曜日のはずだ。それなのに、ミホと信也は、今日も制服を着ている。

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 ミホは口を開きかけたが、何も言えなかった。信也が、ミホの手を強く握る。

 本当はわかっていた。

 ミュータントとノーマルは、時間の流れが違う。ノーマルの暦は、ミュータントには用を成さない。ミュータントがどれだけ正常なつもりでいようと、どれだけノーマルの真似をしようと。

 不自然で不気味な『日常ごっこ』に過ぎない。

「ミホ。もう一度、帽子を取って。私を、見て」

 恐る恐る、ミホは顔を上げた。会った時とは変わってしまった明日香が、すっかり大人になって、もうミホの兄ともそう変わらない年ごろになった明日香が、そこに居た。

明日香だけが、ミホたちを置いて何処か遠くへ行ってしまったような気がした。

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《8》

 阿方が病室に入ると、優は弾かれたように立ち上がった。茶色い髪はぼさぼさで顔にも疲れが浮かんでいたが、それでも綺麗な少女であることに変わりは無かった。

「あの」

ようやく絞り出した声は、少し掠れている。

「竜一が……その、ごめん」

 ちらりと、傍らの寝台に目をやる。麻酔を打たれたためか、竜一は静かに寝息を立てていた。こうして見ると、竜二とはまるで別人だ。似ているには似ているのだが、雰囲気も気配もまるで違う。

「それと……ありがとう」

 優はそう言って、深々と頭を下げた。鉄の義肢を付けた優は、ただの十代の少女にしか見えなかった。

阿方の日焼けした口元に、笑みが浮かぶ。

「俺は何もしていないさ。此処に来てから、警備隊には世話になりっぱなしだな」

 警備隊にも、この病院の医者にもだ。阿方や明日香の変化に戸惑っているのは、彼らの方だろうに。

「あんた、怪我は?」

「脇腹を掠っただけだ。怪我のうちに入らない」

 皮一枚、といったところか。傷口からゾンビウイルスが入り込まないように普段よりも強い抗体を打たれたが、それだけだ。

「それより、竜一の具合はどうなんだ?」

「浅い傷じゃないけど、骨まではやられてないから大丈夫だってさ」

 何を言えば良いのだろう。阿方は、いつの間にか白いものの混じった髪に手をやった。

「優。ひとつだけ、頼みたいことがある」

 寝台の竜一にもう一度目をやってから、阿方は静かに口を開いた。

「これからも、竜一の傍に居てやってくれ」

 馬鹿を言っている自覚はあった。優が、驚いたように阿方を見返す。

「俺のエゴかもしれない。でも俺は、竜一に幸せになって貰いたいんだ。そうじゃなきゃ、竜二が死んだ意味が無い」

 自分勝手だとはわかっている。それでも、証拠が欲しかった。竜二の死は無駄ではなかったという証が、必要だった。

「今だって、十分幸せなんだけどなあ」

 優がぎこちなく笑った。過去は変えられない。忘れることさえ、苦痛かもしれない。

 シーツが僅かに動いて、青白い手がそっと優の義手を握り返した。麻酔が切れたのだろう。つくづく、ミュータントとは丈夫にできている。

「良い相手を見つけたな」

 阿方が声を掛けると、竜一はふいと顔を背けてシーツに潜り込んでしまった。だが、不思議と全く腹は立たなかった。

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《9》

 言う通りにするしかなかった。他に、何ができただろう。繰り返すだけの毎日に、疑問を抱いたことなど無かった。それが当たり前だと思っていた。明日香だけが、変わって行く。

 当たり前が、崩れて行く。

「ミホちゃん、駄目だ!」

 信也の声は、聞こえていた。それでも、自分を止められなかった。現実から目を逸らすために、ミホは帽子を取った。

 明日香の視線が、記憶が。

 頭の中に流れ込んで来る。

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 鏡を見ていた。小さな少女の顔が映っている。黒い真っ直ぐな髪の毛と、切れ長の一重瞼の目。七歳か、八歳くらいだろうか。唇を軽く尖らせ、少しでも大人っぽく見えないかと色々試してみる。

 これは、明日香の記憶だ。

「明日香、もたもたするなよ」

 明るい声がして、明日香は振り返る。十才くらいの少年が、きらきらと瞳を輝かせて、こちらを見つめていた。

「今日行くって、約束だろう」

 少年が、明日香の手を取った。

「でかい建物なんだよ。誰も住んでいないんだ」

 声を潜めて、少年は続ける。どうやら、二人きりでささやかな冒険に出るつもりらしい。ここは、ノーマルのキャンプだ。生き残った者たちが住処を作り、ひっそりと暮らしている。テントや即席の釜戸が並んだ野原を、明日香は用心深く見回した。廃墟探検は魅力的だが、阿方に見つけると面倒だ。まだ三十を過ぎたばかりの阿方は、他の大人たちと何やら話し込んでいる。

 大人たちの一人、かなり若い顔立ちの青年と目が合った。青年は明日香に手を振って、親しげに微笑んでくれた。

「竜二なんてほっとけよ」

 少年は明日香の手を引っ張って、走り出す。明日香よりも背が高い。

「待ってよ、勇にいちゃん」

 明日香は、慌てて少年の名を呼んだ。

 記憶が、巨大な眼球の中で揺れた。

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時間が経過したことを、ミホは悟った。

明日香はまた、鏡を見ている。これは、今の明日香……いや、初めてミホたちと出会った頃の明日香だ。

「サクラ市に行こう」

 以前の記憶よりも年を取った阿方が、疲れた顔で言った。竜二の姿は無い。周りにたくさん居たはずの大人たちも、消えてしまっている。

「ふん。そんなところへ行ったって、竜二兄ちゃんが帰って来るもんか」

 口を尖らせて言ったのは、勇だった。

 勇は。

 勇の姿は。

 明日香よりも年上で、頼もしく見えていたはずだったのに。

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「ミホちゃん!」

 肩を揺すぶられて、ミホは正気に戻った。今まで見えていた記憶が薄れ、急激に視界が暗くなる。信也に帽子を被せられたのだと、ミホははっきりしない頭で悟った。

「最初はね。私が、妹だったの」

 明日香が、静かに言った。ミホはもう、明日香を見ていなかった。帽子のつばを引き下ろしたまま、勇の顔を見る。信也は勇の腕を捕まえると、古びた子ども服の袖を捲った。

「やめろ! 馬鹿! 化け物!」

 勇は喚いたが、子どもの力で敵うわけもない。勇の腕はすべすべとしていて、傷のひとつさえ見つからなかった。

「違う……違う……!」

 少年が、泣きそうな顔で首を振った。ミュータントは、見た目でそうとわかる者ばかりではない。ジェームズ医師も、あきこの恋人も。最初は、自分がミュータントであることに気付いてもいなかった。

「ノーマルは、抗体注射が無いと生きられないの」

 明日香がシャツを捲り上げた。白い腕は、注射の痕で赤黒いまだら模様に変わっていた。

「ノーマルはウイルスに弱いから。抗体のあるミュータントには平気なことでも、ノーマルにとっては命取りになるわ」

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 ゾンビの肉を食べることも、ゾンビに噛み付かれることも……ゾンビの体液を体内に入れてしまう行為は、全て危険だった。竜二も阿方も、ゾンビ化した仲間の処理には相当気を使っていたはずだ。

「竜二さんは、ゾンビ化するような年齢じゃなかった。まだ、二十歳くらいだったはずなのに」

 勇が、目を逸らした。顔が真っ青だった。ミホは帽子を取ろうとしたが、辞めておいた。

もっと酷いものを、見てしまう気がしたから。

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「ミホ。私はもう、二十歳なの」

 唐突に、明日香がミホの顔を見て言った。覚悟はしていたつもりだが、それでも心臓の辺りをぐっと掴まれたような気になった。

「もう、子供なんかじゃない。この町に来てから、四年も経つの」

ミホも信也も、出会った頃と何も変わっていない。彼らは、全く年をとっていないようにみえる。桜は、四回咲いた。季節は、移ろった。ミホは口を開きかけたが、声にはならなかった。最初はミホと変わらなかった明日香の背が、今は頭ひとつ分も高くなっている。

「ゾンビの血に触れても……」

 ミホが、掠れた声を出した。

「ミュータントなら……」

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 勇の着ている服は、一度も取り換えていないせいでぼろぼろだった。持ち主の代わりに、年を取ってしまったように見える。

 若い年齢でのゾンビ化は、あり得ないことではない。ただの偶然かもしれない。いや、偶然であるべきだ。ウイルスには、誰もが感染している。発症するか、しないかの違いがあるだけだ。

「違うよ」

 青ざめた顔を強張らせて、勇は無理な笑顔を作った。子どもであることを示しながら許しを請うような、嫌に作り込んだ笑みだった。

「竜二兄ちゃんは……俺、そんな、つもりじゃ……」

 あれは、ほんの冗談だったはずだ。竜二と明日香が、いつも二人だけで楽しそうにしているから。明日香を独り占めする竜二を、少しだけからかってやるつもりだった。

「竜二さんは優しかったわ。ノーマルに対してだけ、かもしれないけど」

 明日香が前に出る。

 竜二の両手はまめだらけで、血が滲んでいた。ゾンビ化した仲間たちを埋葬するために、一晩中墓を作っていたためだ。

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 子どもだった明日香や勇に、手伝いができるわけも無い。それでも何かしら役に立ちたくて、明日香は清潔な布を裂いて包帯を作った。傷を洗う透明な水が血に染まる光景を、明日香は今でも鮮明に思い出すことができる。傷口に染み込んで行く、水。

「あの水を」

 明日香が淡々と続ける。表情の無い明日香とは対照的に、勇の頬は色を失って行った。

「汲んで来たのは、勇だったわね」

 熱でも出せばいいと思った。傷が悪化して竜二が痛がれば、いい気味だと思っていた。それだけだった。

「大したことじゃないだろ」

 勇が震え声で叫ぶ。

 ほんの冗談だった。深い意味なんて無かった。阿方や竜二がゾンビに触れることさえ恐れるのを、陰で笑っていたくらいだ。勇は、何度ゾンビの血に触れても、決して発症することが無かったから。

 ゾンビの体液が誘発剤になるなんて、本気で信じてはいなかった。

「水に……ゾンビの血と唾を、ほんのちょっぴり、混ぜたくらい……」

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 否定の言葉を待った。勇のせいではないと、誰かが言ってくれるはずだった。子どもの自分は、庇われて然るべきだ。それなのに。

 ミホが、耐え切れずに目を逸らした。信也は、どうして良いかわからない顔をして、震えるミホの肩を抱いていた。明日香はしばらくの間、表情の無い顔で黙り込んでいたが、やがて声を上げて笑い出した。病的な笑いは、かなり長い時間、続いていたように思える。目元の涙を拭って、明日香は咳き込むように笑い続けた。

「何だよ。俺、悪くないよ。なあ」

 勇が再び、例の嫌に大人じみた、卑屈な笑みを浮かべた。

「だって、まだ、子ども、なんだし……」

 明日香は何も言わなかった。ただ、白い手の中で何かが光ったのが見えた。夕日を反射する鏡面。黒い銃身の輝きは鈍い。

「明日香、駄目!」

 ミホは叫んだ。足がすくむ。明日香は能面のような顔でミホを一瞥すると、にっこりと微笑んで、腕をミホの方に伸ばした。

 銃口が、ミホの心臓を捉えていた。

「ミホちゃん……!」

 信也の叫び声に被さるようにして、銃声が響いた。鮮血が飛び散るのを見て、ミホは、未来が望まない方向へ変わったことを知った。

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《10》

 北区に感じた禍々しさも、得体の知れない気味の悪さも、今は消えうせている。絡み合う蔦植物をかき分けて進みながら、圭介はそんなことを思った。主の信也を失って、ゾンビ達はどことなく大人しくなったように見える。実際は大人しくなったわけではなく、統率者が消えた分、連携が無くなったと言うべきか。一度に掛かって来られたとしても、今なら簡単に蹴散らせる。

 明日香。勇。……阿方。

 知った名前が頭に浮かんで、圭介は焦燥を打ち消すように頭を振った。

 銃声は、確かに聞こえた。信也と取っ組み合っている間に、二度も。

竜一と阿方は、馬が合うとは言い難かった。いや、竜一の方が阿方を敵視していたというのが正しい。本当なら、今すぐにでも信也を追って明日香と、ミホの元へ行きたい。

「阿方さん」

 圭介は、薄暗い北区の森に向かって声を張り上げた。

「阿方さん。居たら、返事してくれ」

 阿方がいなくなれば、悲しむのは明日香だ。

 ――ぐぁ……――

 吸い込まれた声に応えるように、呻き声がすぐ近くで聞こえた。圭介が振り返ると、ゾンビが一匹、じっとこちらを伺っているのが見えた。

――アスカ……――

 全身の神経が総毛立つ。圭介は息を飲んでベルトを手探りしてから、そもそも銃を持っていないことに気付いてもう一度舌打ちした。

 ――シ、ニ、タク、ナイ……――

 言葉を呟いているのは、顔も体も半分以上腐りかけたゾンビだった。腐敗した体液で衣服が汚れ、どこの誰だったのかは全く判別が付かない。    

だが。見覚えがある、気がした。

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その口ぶりに、歩き方に、腐った指先の僅かな仕草に。既視感が、あった。こいつは、圭介の知る誰かに似ている。

「竜二」

 確信があった。圭介は、迷わずゾンビに近付いた。竜二は、本当に竜一に似ていたらしい。ゾンビは引きずる足を止めて、少しの間、不思議そうに圭介を見つめていた。

 北区で、明日香は何を見たのだろう。

 死にたくない、と呟くゾンビ。竜二の形見の指輪。

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脳を食らったゾンビに記憶が乗り移ったなんて、そんなことを言ったらジェームズ医師に笑われる。だが、竜二の死体を喰らったゾンビは、一匹ではなかったはずだ。圭介はゾンビの汚れきった胸ぐらを掴むと、腐敗臭の漂う耳元で言った。

「答えろ、竜二。お前らノーマルは、どうして勇を連れ回したりしたんだ?」

ミュータントに居場所を追われたノーマルは、少数のグループを作って各地を渡り歩いていた。明日香は幼い頃にひとつのグループに拾われ、そのまま成長して行った。

「どうして仲間から外さなかった? どうして、勇に本当のことを教えてやらなかった?」

 明日香と同年齢か、下手をすればそれ以上だ。しかし、勇はどう見てもただの子供だった。圭介自身、医師に検査結果を見せられるまでは疑っていなかったくらいだ。

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「あいつは……勇はミュータントを憎んでいたし、自分がノーマルだって思い込んでいた。その方が、ノーマルにとっては都合が良いからな」

ジェームズ医師は外見こそ圭介と変わらないようにも見えるが、中身がそうかと言われればそれは違う。彼自身が自分の特性を自覚し、年月と共に様々なことを学んで来たからだ。

「竜二。お前は、本当はあのガキをどうしたかったんだ?」

ゾンビは、何も聞こえなかったかのように立ち尽くしていた。半開きの口から、わけのわからない音が漏れる。潰れた眼球から一筋だけ零れ落ちたのは、涙なのか。それとも、ただの腐敗液か。

ゾンビがふらふらと腕を伸ばした。みしみしと音をたてながら、ゆっくりと歯の欠けた口を開ける。

 ――ユウ……――

 歯がばちんと閉じられた。身を引くのが遅れていたら、圭介の腕のうち一本は食い千切られていただろう。

明日香の存在が無ければ、竜二と勇は仲の良い兄弟のままで居られたのだろうか。ゾンビの淀んだ目に一瞬宿った光は、裏切った『弟』への殺意か。それとも。

 圭介は踵を返すと、ゾンビが指した方向に向かって走り出した。

何をすべきなのかはまだわからなかったが、間違ったことはしていないという確信があった。

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《11》

 信也の肩を貫いたのは、鉛だった。血を纏った弾丸が、ぬらりと光りながら地面に転がる。

「ミホちゃん……」

 苦痛に顔を歪めて、信也がその場に崩れ落ちた。ミホは抱きとめようとしたが、セーラー服も両手も、あっという間に血に染まった。

「邪魔しないで」

 明日香の笑みが、引きつっていた。竜二が優にナイフを向けた理由も、今の明日香にはわかっていた。男なんて、単純な生き物だ。目の前で愛おしいものを傷つけようとすれば、自分から当たりに来る。

 阿方の銃は、今日に限って下水に置きっぱなしだった。肩の傷を押さえて、信也が蹲る。弾丸は、命中した。初めて使ったにしては、上出来と言って良い。

「明日香……」

 信也を抱きかかえるようにして、ミホは泣きそうな声で言った。泣いていたのかもしれない。赤い帽子のつばに隠れた目から、透明な滴が流れ落ちる。ゾンビに襲われた時も、ミホは泣かなかったのに。

「明日香、もうやめて……」

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 胸が痛んだ。ミホはなぜ、明日香を止められると思ったのだろう。ミホにだけは、こんな姿を見せたくなかったのに。明日香は、まだ硝煙を上げる拳銃を勇の方に向けた。見た目だけは十歳の少年が、泣き声を上げて咳き込んだ。

「俺、悪くないよ」

 か細い脚を震わせて、勇が声を絞り出す。おどおどとした目つきは、とても成人のものとは思えない。

「俺は、悪くないよ。だって……まだ、子ども、だし……」

 媚びた笑みが、明日香の神経を逆なでした。明日香の目から、感情が消える。涙がつっと頬を伝った。

「勇。あんたなんて……」

 先ほどの反動で、右手が痺れている。弾は後五発。明日香は慎重に狙いを定める。

「あんたなんて……いなければ、良かった」

 二度目の銃声。

「信也!」

 怒ったような明日香の声と、泣きそうなミホの声が重なった。

校庭が、夕日以外の赤色に染まる。

ミュータントの血。

やはり、未来は。簡単には、変わらない。

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《12》

サクラ市唯一の病院の、殆ど使われない病室はしんとしていた。元より会話の弾む者同士でも無いのだから、当たり前だ。信頼する医師から、あまり聞きたくない真実を聞かされた後であれば、尚更。

「先生。今言ったことは」

 ベッドに上体を起こした竜一が口を開く。

「本当なんですね?」

 大した傷でもないのに、やけに顔色が悪い。ジェームズ医師が平然と頷くと、竜一は大げさに溜息を吐いて口を噤んだ。

 竜一はいつも、分厚いカーキ色の作業着を着ている。優は、丈の短いタンクトップに短いスカートを履いている。一年中、同じ格好と言っても良い。季節は何度も移り変わるが、誰も格別疑問には思っていない。

「もし、ゾンビ化しなかったとしても。明日香も阿方さんも、僕達よりも先に死ぬ。それは、確かなんですね」

 ジェームズ医師は曖昧に微笑んだ。ぴんと来ないのも無理は無いが、こればかりは、流石にどうにもならない。開いた窓から、風が桜の香りを運んでくる。

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「君たちは、進化の途中に居るんだよ」

 ジェームズ医師は、自分の書き溜めたノートの一番新しいページを開いた。

「ニュータイプだけじゃない。信也君の怪力も、竜一君の空間把握能力もそうだ。君たちはそれぞれが、毎日少しずつ、進化し続けている」

 ほんの十数年ほど前には、ノーマルもミュータントも、それほどの違いは無かった。竜一と竜二は、少なくともある時期までは同い年の双子だったはずだ。

「環境は変わるんだ。それに合わせて、生物も変わって行かなきゃならない。絶滅を防ぎたい種族は、進化する。旧世代は死に絶えるけれど、生物としての歴史は続いて行くからね」

 進化は時として、とんでもない方向へ進んで行く。誰にも予想が付かない。高いところの葉を食べたがったキリンは、首を伸ばした。食料としていた海藻が減り、絶滅に瀕したイグアナは、陸の種族との間に子供を作った。ハチドリは、花の蜜を吸うために極端に身体を小型化させた。どの生物も、遥か昔に、本当に死に絶えてしまったが。

「適応できなきゃ、死ぬだけだ。種族として消え去りたくなければ、変わるしかない。個々の意志なんて、無視してでもね」

 医師が、皮肉な笑みを浮かべる。

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 どこかで、何かの歯車が狂ったのか。凶悪なウイルスの出現で、全生物の歴史は変わった。ゾンビウイルスに感染した動物は狂ったように暴れ、とろけた脳を耳や鼻の穴から噴き出して死んで行った。一度に多くの生物が消えると、他の生態系にも影響が出る。死骸を餌としていた昆虫は、感染した動物の血肉を啜って、ウイルスの媒介者となった。ウイルス交じりの死肉を肥料とした植物も、次第に異様な姿へと変わって行った。

人間だけが、運命を免れるはずが無かった。

「先生。あんたは、ミュータントこそが、人間の……ノーマルの、進化の結果だと。そう考えてるわけだな」

 阿方の言葉に、ジェームズ医師は鷹揚に微笑んだ。世が世なら、決して認められなかった考えだ。

「ミュータントだけじゃないよ。ゾンビもだ」

 あきこが自分の恋人を閉じ込めていた部屋に、今ではゾンビの子どもたちも同居している。

「ゾンビはウイルスの被害者だって言うけど、俺は違うと思う。彼らだって、ひとつの進化の形さ」

彼らはゾンビとして生まれ、ゾンビとして死ぬ。牛馬に代わる食料として、犬に代わる人間の共として。或いは、敵として。

「人類はまだ、これから先どう進化したものか迷っているのさ。だから俺達は、有能でありながら不安定なんだ」

 医師の隣で、包帯を片づけていた看護師がにっこりと笑った。全身に、長い金色の体毛が生えている。絶対零度の寒さにも耐えられる代わり、暑さには弱い。だから、この進化は彼女一世代で終わりだ。

 ものに触れなくても、動かすことのできる力。

 未来を見通す目。

 今後、何が人間の『正しい形』になるのかはわからない。

「種としての生存本能が、生き残るのに最適な形を決める。優君みたいなのが一番良いってことになれば、将来人類のスタンダードな形は、優君になるかもしれない」

 優には手足が無い。だが、それが普通になるかもしれない。手足を使ってものを動かしたり、歩いたりする者の方が、奇異の目で見られる時代が来るのかもしれない。

「それと、ノーマルと。一体、何の関係があるんですか」

 竜一がじれったそうに言う。

「これはひとつの過程の話。もうひとつは、既に過程のものじゃなくなった話だ」

 医師は、竜一の首筋の目をじっと覗き込んだ。

「考えてごらん、竜一君。ゾンビは食料になるけど、世界規模で考えれば十分な量じゃない。他の動物はもういないし、野菜も今の環境じゃ育ちにくいんだ。食べ物が少ないことを考えれば、むやみに増えすぎることは合理的じゃない」

 竜一にこんな話をするのは、酷かもしれないと医師は思う。優は、既に子どもを望めなくなっている。

「この町に来てから、ミュータントの赤ん坊が生まれたってニュースを聞いたかい?」

 この十年の間、医師は一度も子どもを取り上げなかった。保温器で温めた卵すら、すぐに死んでしまう。

「出生率を下げ、代わりに寿命を延ばす。知性ある新人類に相応しい、合理的な進化だ」

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《13》

未来は、簡単には変えられない。過ぎ去った過去は、最早変えることができない。

帽子を外して、ミホは勇を『見た』。どれだけ長く一緒に居たとしても、明日香と勇の過去は、同一ではない。

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「置いて行こう。これ以上は、無理だ」

 難しい顔つきで腕を組んでいるのは、今よりも少し若い阿方だった。髪の毛は黒々としていて、顔に刻まれた皺も今より少ない。

「無理だって? 綺麗ごとを言うな」

 阿方の隣で薄笑いを浮かべている青年は、間違いなく竜二だろう。竜一の目がまともな位置に付いていたら、多分こんな顔だったはずだ。

「勇がいなけりゃ、俺もあんたも長くはもたない。勿論、明日香もだ」

 明日香の名を出され、阿方の眉が動く。

「あいつを連れて行くのは明日香の為だ。あんたこそ、くだらない罪悪感は捨てることだな」

 かなり一方的な言いぐさだったが、阿方は何も言い返せなかった。

「俺が何の為に、あいつのくだらない『兄弟ごっこ』に付き合ってやってると思ってやがる」

 不快そうに『兄弟ごっこ』と言い捨てた竜二は、明日香の言うような優しい存在にはとても見えなかった。

「それよりも気を付けろよ、阿方。勇の野郎、最近明日香を妙な目で見てやがるぜ。ガキの癖に色気づきやがって、薄気味悪い」

 勇と明日香。

 視点が切り替わるだけで、こんなにも違って見えるのか。

 勇はいつ、この会話を聞いたのだろう。兄替わりだったはずの竜二の本性を知った時、何を思ったのだろう。

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 気が付くと、両手で顔を覆っていた。ミホの傍らに居たはずの信也が、明日香の腕を捩じって屋上の柵に追い詰めている。黒い学生服から血が滴り、屋上のコンクリートが夕日とは別の赤で生々しく染まっている。

学生服が黒いせいで傷口が良く見えないが、弾丸が二発とも命中したことは確かだ。夕日の真下だというのに顔は青白く、呼吸の度に胸や背中が上下するのがわかった。

「何で」

 明日香が、硝煙を上げる銃を握りしめて歯噛みした。

「何で、信也が邪魔するのよ」

 信也は、左手で明日香の手首を掴んでいた。これほどの傷を負っても、あの怪力は健在らしい。銃を握った明日香の手が、ぴくりとも動かない。

「わからないよ」

 右手を持ち上げて、信也は明日香の銃を取り上げようとした。右肩の傷穴から血が噴き出し、寒気のような痛みが全身を貫く。

「でも、明日香が勇を殺したら、ミホちゃんが嫌がるから」

わからない。たったそれだけで、命さえ危険に晒す意味が。ミュータントの考えることは、やっぱり明日香にはわからない。

明日香は自由になる方の手を持ち上げると、信也の右肩に指を突き刺した。銃創に指の先が沈み、ずぶりと生暖かい感触が伝わる。

 咳き込むような呻き声と共に、信也の手から力が抜けた。明日香は素早く身を捩ると、拳銃を再び勇の方へ向けた。

「やめて!」

 ミホは悲鳴を上げると、握りしめていた帽子を放り出した。風が長い髪を浚う。顔を上げた。瞬きすら、するつもりは無かった。

「明日香!」

カエルのように飛び出した眼球。ほっそりとした顎に桜色の唇、小さな鼻の上の額が不自然に盛り上がり、絡み合った血管が握り拳大の眼球を取り囲んでいる。濡れた球体がぎらぎらと夕日を反射して、血の涙を流しているようだ。

「明日香、『見て』」

 赤い眼球が水晶玉のように煌めく。明日香が息を飲んだ。思わず、目を奪われた。明日香の意識は、あっという間にミホの中に飲み込まれて行った。

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 何かが変だ、と気付き始めたのは、いつからだっただろう。明日香の身長が、勇を越えた。女の子の方が、身体の成長は早い。だから何もおかしい事は無い、と言って笑っていた大人たちの顔が、やけに引きつって見えたのは何故なのか。

「明日香も、もう十二歳か」

 父親代わりの阿方は、そう言って笑った。笑った後で勇が隣にいることに気付き、しまったという顔つきになった。

「俺は?」

 勇が首を傾げると、阿方はますます困った顔になる。

「俺は、幾つになったの?」

 初めて会った時、明日香はもっと小さかった。勇の方が兄らしくしなければならないと教えられて来た。明日香がもう十二歳ならば、勇も大きくなっていなければおかしいのではないか。

「何言ってるんだ。お前は十歳だろう」

 竜二が笑って、勇の髪をくしゃくしゃと撫でる。

「お前の誕生日は、まだずっと先じゃないか」

 明日香の誕生日は、一年に一回来る。大人は皆、嬉しそうにお祝いをする。勇の誕生日は、一度も来ていない。

「俺も明日香も同じように食べ物は貰えたし、着るものだって貰えた。でもさ、何か違うんだよ」

 明日香の目の前には、勇がいる。あの時と、何も変わらない姿で。

 親の記憶も、自分の誕生日も、ゾンビ化の恐怖さえ知らない少年は、今も変わらない歪んだ笑みを浮かべている。

「明日香の方がたくさん貰えた。俺は汚いシャツなんかも平気で渡されてたのに、明日香は女の子だからって、髪飾りやスカートまで貰ってた。明日香の為に、皆わざわざ探しに行くんだもんな」

 明日香の方が、大切にされている。大人たちは、勇のそんな気付きにさえ無頓着だった。明日香の食器は神経質なくらい何度も洗ってあるのに、勇の食器は汚れたままだ。明日香が怪我をすれば大慌てで手当てして貰えるのに、勇が膝をすりむいた時は絆創膏さえ貰えなかった。

「皆、俺は子供なんだって言ってた。だから、大人の言うことを聞けって。全部任せておけば、間違いないって」

 永久に変声期の来ない声が震えている。

「……だから、ずっと子供で居ることにしたんだ。大人がそうしろって言ったんだぞ」

 ミホの目の中で、勇の像が歪む。

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 阿方たちのグループは、各所を転々としていた割には長く持った方だと思う。大人は次々ゾンビ化して行ったが、それでも他のノーマルの集団よりも寿命は長かった。その辺のミュータントに頼んでも抗体を分けてくれるとは限らなかったし、抗体注射が無ければ、大体三十歳前後でゾンビ化する。もっと早い場合だって、珍しくはない。

 大人がやけに引きつった笑顔で話しかけて来る時、勇は決まって嫌な気分になった。遊びを中断されるから、というのもあったが、痛みを伴う上にしばらくは気分が悪くて立ち上がれなくなる。

「あれだけ血を取っても平気なんだ。やっぱり、化け物だ」

 半分眠っているような気分で、勇は大人たちの会話を聞いていた。鏡が無いのでわからないが、きっと自分は真っ白な顔をしているのだろう。

「普通のガキなら、とっくにくたばってるぜ」

「俺達は皆、勇に生かされてるんだ」

 阿方は横目で仲間を睨むと、自分の腕に注射器を突き立てた。勇の血から取り出した透明な抗体が、血管の中に吸い込まれて行く。

「わかってるよ。ご機嫌取りも楽じゃない。なあ、竜二」

 勇の血がたっぷり詰まったビニール袋を掲げて、大人たちが目配せし合った。

「臍を曲げてミュータント側に寝返るのも、知恵を付けて出て行かれるのも困る。此処でなきゃ生きて行けないって、うまく思わせておけよ」

 共犯者同士の、歪んだ結束。勇はずっと子供で居続けた。それを望まれているのは知っていたし、単純にその方が楽だったからだ。

「明日香の為、だけじゃないんだ」

 竜二が消えた後、阿方は勇の目を見てそう言った。

「勇。お前が生きられる場所を探そう。だから、明日香を自由にしてやってくれ」

 どいつもこいつも、自分勝手だ。

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「……黙れ」

ミホの眼球が揺れ、勇の顔が歪む。

泣いているような、怒っているような。子供のような、大人のような。

「黙れ、黙れ、黙れ!」

 明日香の両足から力が抜けた。

「勇……」

 拳銃は離さなかった。ただ、視界がぼやけている。自分が泣いていることにさえ、気付いていなかった。

「明日香はずっと俺の傍に居なきゃ駄目なんだ。俺は子供なんだぞ。大人が守らなきゃ駄目なんだ」

 勇がきっと前を睨んだ。

「俺が居なきゃ、明日香も阿方も生きて行けないくせに!」

 廃病院から盗んだ器具で、何度も血を抜かれた。注射針が不足して、不衛生な針を使われて傷が膿んだことがあった。抗体を作るのは闇医者の仕事だったが、報酬に倍の量の血を要求された。

 両腕に化膿した注射の痕をいくつも残して、貧血で死んだように眠っている勇にずっと付き添ってくれたのは、明日香と阿方の二人だけだった。

「なあ、明日香。俺、ノーマルだよな」

 勇が嗚咽を漏らした。あれほど酷かった採血の痕は、綺麗に消えている。サクラ市に来てからは、検査以外で血を取られていない。

「ノーマルの俺が大丈夫なんだから、竜二兄ちゃんも大丈夫だと思ったんだ。それだけだよ、なあ」

悔しかった。力の無い自分が。明日香はいずれ、勇とは違う大人の男を選ぶということが。

「わからない」

 明日香がふらりと後ずさった。

「あんたをどうして良いか、私にはわからない」

 拳銃が明日香の手から滑り落ちた。すすり泣く勇の姿は、本当にただの小さな子供にしか見えなかった。明日香は勇の肩にそっと触れると、そのまま寄り掛かるようにして抱き締めようとした。

「そいつから離れろ、明日香」

 沈黙を破ったのは、圭介の声だった。

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《14》

 腕を隠すマントのような上着に、カーキ色の制服。長身の影が、挑むように勇を睨んでいる。いつの間に来たのだろう。階段を上がる音が聞こえなかった。

「勇。お前今、何をする気だった?」

 圭介の声は冷たかった。子供に対する態度ではない。

「お兄ちゃん……」

「ミホ。お前が『見た』のは、本当にこれなのか?」

 ミホは首を振った。小さな唇が震えている。

「最初は屋上で……明日香と勇が居て、最後は校庭が真っ赤になってて……」

 圭介が頷いた。明日香は、視線だけを動かして圭介を見た。勇に触れる直前で、手が止まっている。歩き出そうにも、足が釘付けにされたように動かない。

「ミホの能力は完全じゃない。それは、俺が一番良く知っている」

 明日香を前にして、勇もぴくりとも動かなかった。驚いたように、目だけが大きく見開かれている。

「明日香は、もう銃を捨てたんだ」

 血塗れの肩を押さえて、信也が掠れた声で呻いた。

「もう、未来は変わって……」

「変わってない。まだ、な」

 圭介が勇の肩に手を置いた。勇は、やはり動かなかった。足を一歩踏み出したまま、背を丸めて俯いている。

「明日香。ゆっくりで良い。勇から離れて、後ろに下がれるか?」

 圭介の声が、幾分穏やかなものに変わる。明日香は視線だけで頷くと、そろそろと足を動かした。固まっていたのが嘘のように、足は素直に動いてくれた。

「ミホ。悪いが、もう一回明日香を見てくれ」

 兄がミホにそんなことを頼むなんて、滅多に無い。

「見たものを、俺に教えてほしい」

 ミホの目の中で、明日香が揺れる。

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 明日香が、勇の肩を掴んで何事か叫んでいた。勇の口元に笑みが浮かんでいる。明日香が吐き気を堪えるように口を押さえ、直後に喉を掻きむしった。勇の小さな身体が、明日香の細い腕に引きずられて行く。

 勇を抱きかかえたまま、明日香は屋上の手すりに手を掛けた。

 二つの身体が柵を乗り越え。校庭が、赤く、染まる。

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「やっぱりな」

 圭介が呟いた。明日香には、事情が呑み込めなかった。確かに、少し前まではそのつもりだった。しかし、銃はもう手放している。勇を殺して自分も死ぬなんて、できるはずも無いのに。

「明日香が勇を殺すんじゃない」

 圭介の『左腕』は、二本とも勇を抑えている。

「逆だ」

 明日香は、初めて勇の手元を見た。明日香に向かって伸ばされていた手の中に、細長く光るガラスの筒が握られている。

「抗体用注射器だ。ジェームズ先生が配ってる」

 中身は、透明な抗体ではなかった。やけにどす黒く、どろりとしている。正体に気付いた瞬間、明日香の肌が泡立った。

体内に入れば、明日香も竜二と同じ道を辿る。ゾンビ化していく竜二を間近で見ていた明日香に、耐えられるわけも無い。

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「明日香に、ゾンビの血を注射する気だったな」

 圭介が憎悪も露わに吐き捨てた。勇の顔に何とも言えない厭な表情が浮かぶのを、明日香は悪夢の中にいるような思いで見つめていた。

「観念しな、勇。動けねえだろ」

 階段に通じるドアの影から、茶髪に義肢の少女が顔を覗かせる。左の義手だけが外され、色の薄い瞳が光っていた。

「声は出せるはずだぜ。何でこんな真似しやがったか、答えて貰おうか」

歩き出そうとした、その姿勢のまま。明日香に向かって、注射器を握った手を突き出したまま。

勇は金切り声を上げた。目を見開き、口を裂けるほど開け、喉から血が噴き出すような甲高い声が屋上の空気を震わせる。

優の目に一瞬、動揺が走った。瞳の色が、変わる。

「しまった!」

 注射針が、圭介の手を引っ掻いた。赤いひっかき傷にどす黒く粘着質なゾンビの血が注がれ、今度は明日香が悲鳴を上げる。

「圭……!」

「来るな、明日香!」

 一瞬の隙を、勇は逃さなかった。小さな身体を丸め、転がるようにして逃れると、今度は優に狙いを定めた。

 拳銃。さっき、明日香が落としたものだ。

「優、逃げろ!」

 信也が叫ぶ。弾丸が優の義足を跳ね飛ばした。バランスを失った優が、尻餅を付くように倒れる。屋上へ続く階段。重い義肢を付けた身体が転げ落ちる音に、悲鳴と怒号が重なる。明日香は、自分の身体が素早く引き寄せられたのを感じた。支える腕は、四本。一本は、肘から分かれている。

「今度は、お前が竜二兄ちゃんの代わりってわけかよ」

 硝煙を上げる銃は、十歳の手には大きすぎる。勇はぎらぎらとした目を圭介に向けた。

「ゾンビの血でゾンビ化するなんて、嘘だ。竜二兄ちゃんは運が悪かっただけだよ。だって……」

 子供の身体で、射撃の反動に耐えられるわけもない。勇の右腕は、肩からだらりと垂れ下がっていた。関節が外れたらしい。辛うじて動く左手で血の入った注射器を持ち上げると、勇はその針の先を自分の肌に突き立てた。

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「……ノーマルの、俺が平気だったんだから」

 血が滴る。明日香は声を上げようとしたが、言葉にはならなかった。圭介は明日香の身体を左の腕二本で抱き締めると、右の一本で勇を殴り付けようとした。空振りだ。勇がまだ注射器を手にしているため、明日香を連れたまま迂闊に近寄ることができない。

「待て! 勇!」

 圭介が怒鳴ったが、勇の身体は既に屋上の柵を乗り越えていた。小柄な影が、宙に身を躍らせる。

 そのまま、落下していくかと思われた。しかし、勇は校庭に叩き付けられることも、地面で潰れてしまうことも無かった。外壁に取り付けられた金属の柵に飛び移り、古い金属の段を蹴って駆け下りていく。

「しまった。非常階段か!」

 舌打ちするように、圭介が言った。

 屋上へ出るには、室内の階段を使うしか無い。しかし外壁には、それとは別に非常用の金属の階段が取り付けられている。非常階段は最上階までの高さしか無く、屋上へは続いていなかったが、ほんの数メートル低くなっているだけなので、高い方から飛び移ることはできる。

「子供のくせに、あんな」

 信也が呟いて、口を噤んだ。

「子供の身体能力だからだ」

 圭介が言って、素早く非常階段を駆け下りていく影を見つめる。

「あの子、昔から身軽だったから」

 明日香が、青白い唇を噛み締めた。

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「私が子供の頃、ゾンビに囲まれた時も……私を置いて、自分だけは逃げられたのよ」

 廃墟でゾンビに囲まれた時の恐怖。小さくなる勇の背中と、駆け付けてくれた竜二の姿。圭介は、明日香の肩を離さなかった。

「畜生、舐めやがって」

 室内の階段から、優が毒づきながら戻って来た。

「義足に罅が入ったじゃねえか。クソガキが」

 埃っぽい階段を落ちたせいで、髪も服も汚れている。義肢は元通り装着されていたものの、成程右足には弾の痕が付いていた。

「勇、待って!」

 屋上から身を乗り出して、明日香が叫ぶ。勇は、物凄い速さで非常階段を駆け下りていた。金属的な足音が嫌に大きく響く。錆びた手すりが軋んでいる。

「勇……!」

 異変に気付いたのは、ミホだった。

「勇君、駄目! 戻って!」

 非常階段の踊り場に、人型の影が見えた。いつもの幻視ではない。その証拠に、兄にも、他の皆にも見えている。

「おい、聞こえるか? 早く戻れ!」

 非常階段は、建物の外に付けられている。万が一、学校が火事にでもなった時、すぐに脱出できるようにするためだ。しかしその反面、普段は使えないように、屋上以上に厳重に封鎖されている。理由は、明白だ。

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「ゾンビが来てる!」

 明日香が声を振り絞った。両手で圭介のマントにしがみ付いたまま、それでも勇に向かって必死に呼びかける。

「ゾンビが居るの! 早く逃げて!」

 悪になり切れないように育ててくれた阿方に、感謝すべきなのだろうか。本当なら勇を殺そうとまで思っていたはずなのに、明日香は自分の気持ちが理解できなかった。

 勇の影は、どんどん小さくなって行った。それに近付く大きな影は、段々と増えているようだった。

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 竜二がいなくなったら、今度はあの圭介という男か。勇は走りながら、悔しさでもう一度叫び出したい衝動に駆られた。

 自分は、子供だ。それはわかっている。でも、明日香だけが大人になるなんて。いつまでも、勇を選んではくれないなんて。

 どこに行くつもりかは、自分でもわからなかった。ただ、この場から逃れたかった。明日香が圭介と一緒に居るところなんて、見たくもない。その上二人して勇を悪者に仕立て上げ、この町から追い出そうとしている。阿方なら、何と言うだろう。そうだ、阿方のところへ行ってみよう。阿方も明日香のことばかり考えていることに変わりは無いが、何しろ勇の方が子供なのだ。勇が苛められているとわかれば、いつものようにどうにかしてくれるに決まっている。

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 誰かが呼んでいる気がしたが、振り返ろうとも思わなかった。戻ってやるつもりも無い。後で後悔させてやれば良い。足の下で、金属の階段が耳障りな音を立てる。早く下に着けば良い。早く。

 踊り場は休憩には最適な場所だが、座って休む気にはなれなかった。止まらずに走り続けたせいで、前方への注意が散漫になっていたのも確かだ。正面から歩いて来る影に、ぶつかるまで気付きもしなかった。

「あっ……!」

 向こうが上り、こちらが下りだったのが幸いした。逆であれば、体重の軽い勇の方が、階段を転げ落ちていたかもしれない。

「誰だよ、おい……」

 文句を言いかけて、はっとした。階段を上って来ていて勇とぶつかったのは、身体の腐り始めたゾンビだった。

「何だよ、もう」

 別に驚きはしなかった。外付けの階段なんて、ゾンビが侵入し放題だ。万が一噛み付かれたとしても、勇は感染しない。勇はそっと身を屈めると、ふらふらと踊り場に近付いて来るゾンビの脇を、さりげなく通り抜けようとした。

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――……ナイ……――

 ゾンビの声が耳に入ったのは、その時だった。

 ――シ、ニ、タク、ナイ……――

 聞き覚えのある言葉だった。いや、忘れたくても忘れられない言葉、というべきか。勇が、恐る恐る振り返る。腐りかけの死体は、腐った目玉でこちらをじっと見つめているようだった。

 ――ユウ……――

 あり得ない。ゾンビに名前を呼ばれるなんて。何かの間違いか、偶然に決まっている。黙って走り去ろうとした勇の行く手を、別のゾンビが塞いでいた。腐敗は激しくなかったものの、両目がすっかり腐り落ちて、鼻の穴から蛆虫が這い出している。

 ――シニタクナイ……――

 ――アスカ……ユウ……――

 最悪なことに、勇が一番聞きたくない言葉を呟き続けるゾンビが増えていた。階段を伝って、徐々に距離を詰めて来る。徐々に、しかし確実に、踊り場に追い詰められて行くのがわかった。

「竜二兄ちゃん」

 勇が例の卑屈な笑みを浮かべる。ゾンビたちの顔が、竜二の顔と重なった。

「あの、久しぶり。だけど、俺は……」

 ゾンビの口から、唸り声が響いた。

「俺、あの時はまだ子供で……」

 大切な誰かが、勇の名前を呼んでくれているような気がした。しかし、勇にはもうそれに応えるだけの時間は残されていなかった。

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 勇がゾンビに囲まれている。気付いた瞬間、明日香はもう一度叫んだ。

「勇!」

 ゾンビの数は、三体以上に増えていた。今から非常階段を上がろうとする奴らを合わせれば、六体以上か。

「なあ、優」

 非常階段から目を離さずに、圭介が言った。

「死体を喰ったゾンビに、喰われた奴の記憶が移るなんてことは……」

「ありえねえ」

 優が苛立たし気に大きな目を光らせた。ニュータイプの念力を使うには、距離が開きすぎている。

「だったら、北区で拾ったゾンビがもうちょっと賢くても良いはずだろうが」

 優の言う通りだとは思う。けれど圭介は、勇を取り囲むゾンビに『竜二』の面影を見ていた。北区で出会ったゾンビ。明日香の名を繰り返し呟いていたゾンビと、今非常階段に居るゾンビは、良く似ている。

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 追い詰められた勇が、こちらを振り返った。目が合った、気がした。

「待ってろ」

 低い声で呟くと、圭介は屋上の手すりに手を掛けた。

「すぐに……」

 飛び移れば、間に合う。小柄な勇のように、身軽に動くことができれば、だが。

「馬鹿、やめろ」

 手すりを乗り越えようとした圭介を、優が止めた。

「お前じゃ体重があり過ぎる。明日香の前で死ぬ気か?」

 圭介が明日香を見下ろした。

「行かないで」

 青ざめた唇が震えている。

「私に行かせてくれないなら、貴方も行かないで」

細い指先が、上着の端をしっかりと握りしめていた。

 非常階段が軋む。学校の外壁を背にした踊り場で、ゾンビの影がぐらりと揺れた。

 ――ユウ……――

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 あり得ない。大人は誰も教えてくれなかったし、勇もこんなものは見たことが無かった。旧人類は死んだらお終いだ。竜二がもう一度勇の前に現れるなんて、あって良いはずが無い。

 ゾンビの口が開いた。顎が外れている。ところどころが欠けた汚い歯と、腐りかけて半分に裂けた舌が見える。千切れた足を引きずって前に出たゾンビの右目が、眼窩を抜け出してぼとりと落ちた。持ち主を失ったその目玉にすら、勇は睨まれていると感じた。

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 殺す気なんて無かった。いなくなって欲しいとは思っていたけれど。

 『竜二』が腐った両手を前に伸ばす。遅い動作だ。簡単によけられるはずなのに、何故か足が動かない。

 ――ユウ……――

 また、名前を呼ばれた。勇はひっと息を飲むと、学校の壁に背中を押し付けた。『竜二』達の顔が近づく。一体何匹のゾンビが、竜二の身体を食べたのだろう。こいつらは、どれだけの間、復讐の機会を待っていたのだろう。あの冷たくて暗い、北区の森の中で。

 大丈夫。自分は、大丈夫だ。

 勇は必死に自分に言い聞かせながら、ゾンビの歯や口から目を逸らした。固く目を瞑り、荒くなる呼吸を抑え込む。

 自分は、死なない。死ぬものか。旧人類の大人が言っていたように、勇は特別な身体を持っている。少しくらい痛い思いをしたって平気だ。ある程度腹が満たされれば、ゾンビはいなくなる。そうだ、こいつらが竜二であるはずが無い。ただの、腹を減らしたゾンビの群れだ。少しだけ我慢していれば、すぐに明日香たちが助けに来てくれる。

 大丈夫。

 次に目を開けたら、きっと全部終わっている。ゾンビ程度に、勇がどうこうできるわけが無い。明日香だって、あの圭介という男にすぐに飽きてしまうかもしれない。大丈夫、全部元通りだ。

 歯が腕に当たる感触にぞっとした。ゾンビに喰われるなんて、何度経験したって慣れるわけが無い。勇がゾンビに噛まれた時、心配してくれた大人は何人居たのか。「何で、勇ばっかり」傷だらけになった勇を見て、泣いてくれた明日香は。勇を利用するのは辞めろと、他の仲間たちの前で声を荒げてくれた阿方は。

何故今頃、こんなことを思い出すのだろう。痛みとも熱とも違う衝撃の後で、意識が急激に沈んで行くのがわかった。

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踊り場でゾンビの群れが蠢いている。一瞬、小さな手がゾンビの群れの中から覗いて、すぐにまた見えなくなった。

「見るな、明日香!」

 骨ばった手が視界を塞いだ。圭介は二股に分かれた腕で明日香の背を抱くと、上着で顔を隠して何も見えないようにした。

 何か固い、湿ったものが、一段一段、階段を転がり落ちていく。

 校庭は奇麗なままだった。血の一滴も落ちていない。ただ、バスケットボールのような丸いものが、非常階段の下にぽつんと転がっていた。

 

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《15》

 ミュータントの考えることは、やはり明日香には良くわからない。この医者はノーマルを憎んでいるのか、いないのか。

「生まれつきの子ゾンビ共の血の中で、ウイルスが変化しているのが見つかったんだ。お陰で新しい抗体ができた。こいつは、ノーマルの体内でも二十時間は活動できる」

 明日香のシャツを手慣れた様子で捲り上げると、医師は赤い鬱血痕に侵されていない血管を探し出して、素早く注射を済ませた。すっかり慣れ切った痛みが、丸い血の玉となって皮膚の上に溜まる。

「これで、眠っている間も安心だ。注射さえさぼらなければ、後六十年くらいは生きられるよ」

 六十年。ノーマルにとっては、夢のような時間だ。

「阿方さんも?」

 明日香が言うと、医師は少し驚いたように青い目を瞬いた。

「ああ。旧人類としての寿命があるから、後二、三十年ってとこだけど」

世が世なら、医師は世界中から称えられる存在になれたかもしれない。だが、明日香にはわかっている。明日香の六十年と、ミュータントたちの六十年は、全く違う。

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「竜二さんがいなくなったのは、十年近く前なんです」

 ミュータントとノーマルの違いは、大きく分けて三つある。

「生きていれば、三十歳くらいのはずなのに……双子の竜一さんは、全く年を取っていませんでした」

 外見、精神構造、そして、細胞の老化速度。

「ほんの十年くらい前までは、ミュータントもノーマルと同じ速さで年を取っていたからね。変化が現れたのは、最近なんだよ」

 季節が物凄い速さで通り過ぎて行く。過ぎ去る時間の流れの中に、ミュータントたちは置き去りにされた。彼らの細胞は、老化を止めたわけではない。ただ、その速度が極端に遅くなっただけだ。

「ノーマルにとっての一年が、ミュータントにとっては数か月程度に感じられるんだ。暦は意味を成さなくなった」

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ミュータントたちの体感時間と、実際の時間の流れには大きな差ができてしまった。大人のミュータントたちは、この異質な進化をなかなか受け入れられることができなかった。けれど、次世代のミュータントたちは……若者たちは、意外なほどあっさりとこの新たな事実を受け入れた。と言うより、指摘されるまでは変化に気付いてもいなかった。

「幸か不幸か、彼らの世代は寒暖の差にも異様に強かった。この辺は雪も降らないし、季節が変わって行くことにもなかなか気付かなかったんじゃないかな」

 学校に暦は無い。今日が何月で、何曜日なのか、確かめる術は無い。

「第二中学校の校長とも随分話し合った。だけど、古い暦に従って生きる必要がどこにある? 俺はそんなことよりも、彼らがどんな時間の感覚を持っているのかを、詳しく調べたかったんだ」

 七日間に二度、授業を午前中で切り上げさせることを提案したのは、ジェームズ医師だった。生徒たちは皆、自分は正常に毎日を過ごしていると思い込んでいた。

何年も同じ学年を繰り返しても。何週間も、日曜日が来なくても。彼らは誰一人、疑問を口にしなかった。

「直に、一日は二十四時間じゃなくなるかもしれない。一年は三百六十五日じゃなくなるし、季節の感覚も変わって行く。新しいカレンダーが作られるんだ」

時代は変わる。ノーマルの時代は終わり、ミュータントの時代がやって来る。ゾンビウイルスが蔓延し始めた時、ノーマルたちは世界の終末が来たと思った。地球という星は、一度全てをリセットすることにしたのかもしれない。旧生物は消え、新生物が新しい世界を支配する。ゾンビは人類とは別の種族として、少しずつ栄えて行くだろう。

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「あの……先生?」

 診察室のドアが開いた。金色の毛並みの看護師に連れられて入って来たのは、腕が四本もある青年だった。

「ミホが、心配してるんだ。明日香は、大丈夫かって……」

 圭介が、脇腹から生えた腕で頭を掻いた。明日香がじっとこちらを見ているのに気付いて、慌てて目を逸らす。

「心配しているのは、ミホ君だけかな?」

 医師はにやにや笑いながら二人を見比べると、わざとらしく伸びをして、革張りの古い椅子から立ち上がった。

「俺はこれから、もう一人の患者の回診に行かなきゃならないんだ。だからまあ、後はごゆっくり」

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 医師が出てしまうと、急に、辺りが静かになった。圭介は明日香の向かいに腰を降ろすと、一旦口を開きかけてからまた閉じた。明日香が目を伏せる。何から話せば良いのだろう。

「最初は、私が妹だったの」

 目を伏せたまま、明日香が言った。

「勇がいつから一緒に居たのか、阿方さんにもわからないみたい」

 勇は、明日香が保護されるよりも大分以前から、ノーマルのキャンプに居たのだと聞いている。大人たちに囲まれていた時は、まだ良かった。中年が更に年を取っても、子供の目には違いなどわからない。ただ、明日香が仲間に加わったことで、保たれていたバランスが一気に崩れた。

「ノーマルの集団が、勇を囲っていた理由は二つあるわ。一つは、抗体を取るため。もう一つは……」

「あれ、だろ」

 圭介が病室の外に視線を走らせる。あきこの『元・恋人』の低い唸り声が響いて来て、明日香は溜息と共に小さく頷いた。

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「そう。非常食よ」

 勇は、ニュータイプの中でもかなり特殊な体質だった。進化型、というのはジェームズ医師が勝手に付けた呼び名だが、本当に新人類の理想形と呼んでも良いような身体だったらしい。

「ゾンビに腕を食い千切られても、何日か経つとまた生えて来たわ」

 年を取らないだけで、ジェームズ医師は決して不死身というわけではない。白衣の下に幾らかの傷痕が残っているのは、圭介も知っている。

「死なないし、年も取らない。旧人類にとっては最高だったわ。流石に、本当に食べるところまでは行かなかったけれど」

 抗体が幾らでも取れる。何年も、何年も利用し続けた。

「それ以上の目的が他の皆にあったのかどうか、私にはわからない。でも……」

 非常階段の下に、勇の首は忘れ物のように転がっていた。身体の他の部分は、どうしても見つからなかった。過剰な再生能力も、首だけにされては発揮できなかったようだ。眠るように固く目を閉じたまま、勇は二度と目を覚ますことが無かった。

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勇は、警備隊基地の裏に埋葬された。全てゾンビの餌にしてしまうことは躊躇われたし、勇の記憶が他のゾンビに引き継がれてしまうことも避けたかった。

「血は繋がってない。でも、俺の子だった」

 埋葬の瞬間、拳を震わせて阿方が言った。

「竜二にも、勇にも半端な態度しか取らなかった。それがこの結果だ。最低の父親だな」

 随分小さくなってしまった勇を、明日香は自分の手で棺桶代わりの箱の中に入れた。竜二の指輪と、ミホが摘んでくれた花を添えて。

「私は、あの子の気持ちには応えられなかった。竜二さんのことも、嫌いにはなれないの。私に優しかったのは本当なんだもの」

 明日香が、静かに言った。

「でも。これが最善だったなんて思いたくない」

 圭介は、明日香の手の上に自分の手を重ねた。手のひらの重なった、不格好な形。竜二とは違う。それでも、明日香の震えは収まった。圭介の目を見つめて、明日香は宣言するように言った。

「私は、ミュータントが信じられない。ミホのことは好きよ。他の皆も。でも……」

「俺のことも、信じられないか?」

 普通のミュータントならば、怒り出していたかもしれない。しかし、圭介の声は落ち着いていた。奇形の腕とは正反対に整った顔は、少し寂しげですらあった。

「ミュータントは、ノーマルに比べたら違うところも多いかもしれない。俺もゾンビの肉は食うし、ミュータントだって何人かは殺してる」

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 ミホを守ろうと必死だった。ミホに危害を加える者を許せなかった。北区での信也の顔が思い出される。圭介も、ゾンビに餌をやってしまったことは何度もある。きっかけを与えたのは、圭介なのかもしれない。だけど、傷つけるだけでは誰のことも守れない。

「でも、人間は変われるだろう。ミュータントも同じだ。俺は、ジェームズ先生と何度も話したよ。冷静に考える練習もした。怒ったり暴れたりするだけじゃ、ゾンビと変わらないからな」

 圭介が微笑んだ。明日香は、彼の顔を見ているのが辛かった。勇のことを、もっと早くジェームズ医師に相談するべきだったのかもしれない。永遠の十歳。勇の生き方だって、サクラ市で変えることができたはずだ。

「明日香。お前がミュータントを信じられなくても、俺はお前の傍にいるよ」

 閉じた瞼の奥に、阿方の顔が浮かんだ。お父さん。心の中だけで呼びかける。彼は、明日香よりも先に死ぬだろう。それでも。阿方は、明日香の未来に何を望んでいるのだろう。

「ミホも、先生も、他の皆も同じだ。お前を一人にはしない。阿方さんとも、約束したからな」

 あれほど大人に見えた圭介も、今では明日香とあまり変わらない年頃に見える。明日香は、彼らとは違う。彼らを置いて、あっと言う間に年を取ってしまう。でも。

 残された六十年の時間を、ほんの少しでも幸福だと、信じることさえできたなら。

「圭介さん。ひとつだけ、答えて」

竜二の脳を食べたゾンビは、死にたくないと繰り返していた。あんな言葉に、意味は無い。ゾンビの言葉は、ただの鳴き声だ。

「竜二さんは……最初から、竜一さんに、心臓をあげるつもりだった。そうよね?」

 もう助からないということは、竜二が一番良く知っていたはずだ。圭介は少しの間、考え込むように口を噤んだ後、明日香の頭に重なった手のひらを置いた。温もりが、明日香を満たした。

「ああ、そうだよ。竜二は、竜一を助けるためにサクラ市に来たんだ」

 明日香は、小さく頷いた。膝の上に涙をこぼしながら、何度も。

 嘘でも良い。嘘が救いになることもある。この嘘が、自分の中で本当になって行けば良い。

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《16》

 少し前まで竜一が使っていたベッドは、今も変わらず病室に据えられている。シーツは大分古びて薄くなっていたが、看護師が頻繁に洗濯するお陰で、純白の輝きを保っていた。血を付けたら怒られるな、と思い、信也は包帯の巻かれた肩に手をやった。鈍い痛みが走ったが、傷口は開いていなかった。

「大丈夫? 熱は?」

 ミホの白い手が、額に触れる。

「もう平気。後二、三日したら、起きて良いって」

 ノーマルに比べ、ミュータントは身体が頑丈だ。弾丸が奇麗に貫通していたのも幸いで、最初の予想よりも回復は早かった。

「それより、さ。『変えられた』よね?」

 上半身だけ起こして、信也が意味ありげに笑った。ミホは俯いて、少しだけ寂しそうに微笑んだ。

「うん。勇君は残念だったけど……」

 ミホの『見た』光景は、現実にならなかった。明日香は、柵を乗り越えなかった。明日香の身体は、虚空になど落ちて行かなかった。

「明日香のこと、怒ってる?」

「全然。大した怪我じゃないし。明日香が生きていて良かったよ」

 信也も変わったと、ミホは思う。どこがどうだとは、うまく言えないのだけれど。

「かっこつけたこと言ったけど、僕は全然役に立たなかったね」

 信也が、寂しそうに目を伏せた。

「そんなこと……」

 ミホが、慌てて首を振った。明日香は、本気でミホを撃つつもりだったわけではない。それはわかっている。けれど。

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 生き残ったことで、明日香は却って苦しむかもしれない。それでも、ミホは明日香に生きていてほしいと思う。やはり、自分は利己的だ。

「信也。私、……」

 言葉を続けられずに、ミホは俯いた。

「ミホちゃん?」

 信也の顔が近づく。ミホは、顔が熱くなるのを感じた。

兄とは違う。けれど、いつもミホの味方だった。ミホのことを、いつでも見ていてくれた。それが当たり前になりかけていたことを、今では恥じている。彼に、離れて行って欲しくない。この先も、ずっと、ミホは信也に傍に居てほしいと思う。

「信也のお母さんは……私の事、気に入ってくれるかな」

 ミホは顔を上げた。傷に触れないように、両手を信也の腕に掛けた。

「……私で、いいの?」

 ぎこちなく触れ合った唇が、柔らかな余韻だけを残して、すっと離れる。しつこく居座っていた肩の痛みも忘れて、信也は呆けたように自分の唇に触れた。ミホが真っ赤になって俯いているのを見て、これが夢ではないことを悟った。

「キスには、モルヒネの十倍の鎮痛効果がある。知ってた?」

 出て来る頃合いを見計らっていたらしいジェームズ医師が、病室を覗きながら笑って言った。

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《17》

 警備隊員たちは、今日も変わらず仕事に励んでいる。誰かが消えようと、逆に新しい人員が入って来ようと、彼らの毎日に変わりは無い。

「あれ? 優ちゃん、久しぶり」

 休憩室に入ると、警備隊の晃が、間の抜けた声で言って右『足』の手のひらを上に上げた。

「珍しいな。竜一の彼女が、警備隊基地に来るなんて」

 警備隊は、ただでさえ女が少ない。物珍しさから、次々と人が集まって来る。群れの中に、優はすぐに目当ての顔を見つけた。白い杖と一緒に松葉杖を付いた恋人は、優の肩に手を触れると、たちまち嬉しそうに口元をほころばせた。

「優。どうしたの?」

「別に。顔、見に来ただけ」

 優だけに見せる優しい笑みも、優しい声も、出会った時と少しも変わらない。十年以上も時が経過したなんて、優には到底信じられないのだが。大人になった明日香の姿を見てしまうと、疑うこともできなくなる。

「何か、今日は賑やかだな」

「ほら、あれ」

 竜一が杖で示した先には、巨大な灰色の檻があった。横並びに三つ、並べられている。中には、汚れた裸の子どもが入れられていた。

「ジェームズ先生のところの子どもゾンビだよ。年を取るスピードはノーマルと同じみたいだ。もう、大分人に慣れている」

 今後は、ゾンビの調教と研究も、警備隊の仕事に加えられる。問題は、誰があの子ゾンビの世話係となるか、だ。

ミュータントは子どもを作りにくくなっているが、彼らの食料たるゾンビは、かなりの勢いで増えては死んで行く。ゾンビとの付き合い方が、ミュータントの未来を決めると言っても良い。

『晃、お前も餌のやり方くらいは覚えておけ。今後は、ゾンビは完全な敵ではなくなるんだ』

 幸也が、ホワイトボードに字を書いた。檻から離れて座っていた晃が、恨めしそうに幸也を見る。

「お前こそ、いい加減デパートの張り紙変えろよ。読みづらいんだよ、あれ」

 ミュータントたちの会話を背に、優は竜一と並んで廊下を歩いた。かつてのノーマルたちにとって、この世界は理想ではないのかもしれない。

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「竜一。お前、子ども欲しいか?」

 正面を向いたまま、優がふいに言った。竜一は少し面食らったように口を噤んだが、困ったように微笑んで優の背に手を回した。

「何? いきなり、どうしたの?」

「別に。たいしたことじゃないんだけど……」

 暫くの間、ミュータントたちは子孫を残せないだろうとジェームズ医師は言っている。今のミュータントは、言わば新人類の試供品だ。新世界の土台ができるまでは、野放図に増えることはできないらしい。

「私たちの間に子どもができたら、とか……もしも、竜一の目が見えるようになったら、とか……もしも、竜二とお前が、一緒に生きられたら、とか……」

 どの道、優は赤ん坊を産むことができない。更生施設で数回に渡る中絶を経験し、今後一生妊娠は不可能だと告げられた。

「最近、さ。結構、考えちゃうんだよな」

 おかしいよな、と言って明るい笑い声を上げた優がどんな顔をしているのか、竜一には手に取るようにわかった。返事をする代わりに、竜一は優を強く抱き締めた。

「何もいらないよ」

 この手が、どれだけ汚れても。どれだけのものを、失っても。竜一は、優と二人きりが良い。間に入る邪魔なものなんて、何もいらない。

「優。愛している」

 余計なことばかり考えてしまうのは、今が余りに幸せで、却って欲張りになっているからだろう。優は目を閉じて、竜一の薄い胸に顔を押し付けた。心臓の規則的な鼓動が、未来を祝福しているような気がした。

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《18》

 空が高く、桜の葉が赤色に色づき始めた。季節で言うと、今は秋らしい。ミホたちと一緒に北区に忍び込んだ時も、同じ時期だったことを思い出して、明日香は懐かしそうに口元をほころばせた。

「先生にも聞いたけど、今のところは順調だって」

 白衣を着たミホが、帽子越しに明日香のカルテを見て言った。卒業以来、ミホは病院でジェームズ医師の助手を務めている。明日香は少しほっとしたように溜息を吐くと、自分の平たい腹部を見下ろした。実感はまだ無い。体調にも、目だった変化は訪れていない。嬉しいはずなのだろう、本当は。

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「サクラ市で久しぶりに生まれる子が、ミュータントとノーマルのハーフだなんて……」

 何だか夢の中に居るみたいだ。圭介は、明日香以上に喜んでくれたけれど。生まれてくる子供は、ミュータントである確率が高いらしい。どんな姿なのかは、まだわからない。

「ミホちゃん、ただいま!」

「明日香、元気だったか?」

 騒々しい足音を響かせて、病室に友人たちが駈け込んで来た。信也も優も、揃いのカーキの制服に身を包んでいる。

「お前ら。病院じゃ静かにしろって言っただろ」

呆れ顔の圭介が後に続く。この二人の進路は、最初から決まっていたようなものだ。警備隊長の幸也は卒業前からもう制服を用意していたし、圭介という教育係も用意されていた。隙あらばべたべたとくっつきあう竜一と優を分けて働かせる辺り、幸也隊長も流石と言うか何と言うか。

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「圭君、今日はもう終わり?」

「ああ。早く帰ってやれって、幸也も晃も五月蠅くて」

 圭介が苦笑して、明日香の隣に腰を降ろした。

「なあなあ、名前もう決めた?」

 相変わらず派手な化粧をした優が、嬉しそうに身を乗り出す。

「昨日竜一と一緒に考えたんだけどさ、やっぱ格好良いのが良いよな。ムサシとかマサムネとか、ノブナガとかどうよ?」

 碌に教科書も読まない学生だったくせに、わざわざこのために勉強し直したらしい。明日香は、元は同じ年頃だった少女を愛おしそうに見つめた。ミホも優も、今は年の離れた妹と呼ぶ方が相応しいくらいになっている。

「有難いけど、実はもう決めてあるの。ねえ、阿方さん?」

「ああ」

 阿方が、昔より穏やかになった顔つきで言った。

「男なら勇介、女なら勇香。どちらでも無いなら、好きな方を選ばせる」

 ベッドの傍らには、ミホが手作りした産着や、看護師たちが病院中を回ってかき集めた哺乳瓶や乳母車などが置かれている。まだまだ先の話だというのに、皆何処かしら浮かれているのは確かなようだ。

「何だよ、名付け親はお爺ちゃんか……って、ああ」

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 笑いかけた優が、ふと真顔になった。明日香が寂しそうに笑う。

「うん。あの子の事、忘れたくないなって」

 明日香が泣かずに思い出を語れるようになるには、時間が必要だった。警備隊基地の裏には、小さな墓標がある。誰かが花を植えたらしく、周辺はちょっとした庭のようになっていた。

「ミホと信也も、暫くはこっちに居るんでしょう?」

 気を取り直すように明日香が言うと、信也がミホと顔を見合わせて頷いた。

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「うん。向こうの受け入れ準備もあるし、次の次に桜が咲く頃かな。勇介君か、勇香ちゃんの顔は見られるよ」

 ゾンビ狩りの得意な優とは逆で、信也には別の仕事を任せている。ゾンビを家畜にすることが決まったとは言え、ただ狩るのに比べれば面倒な仕事だ。共食いを辞めさせなければ数が減ってしまうし、体力を付けさせなければ将来の労働力にならない。肉としての味も落ちる。ただ、信也にはゾンビ飼いの才能があった。

「だけど、ジェームズ先生も急だよなあ。いきなり故郷に帰る、なんて言い出して」

「仕方ないよ。怖がられるから、ずっと帰れなかったみたいだし」

 ジェームズ医師は年を取らない。消化器官も未熟で、すり潰して液状にしたゾンビの内臓や、血を啜ることで空腹を満たしている。医師の故郷では、主に宗教的な理由で、このような体質の者を異様に恐れるらしい。ノーマルたちからの迫害を避けるため、医師は馴染みの薄いこの国に百年以上滞在することになってしまった。

 故郷のミュータント達から、船で手紙が届いたのは最近のことだ。

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「もうノーマルはほとんど残っていないから、帰って来ても良いって。向こうのミュータント達も、それなりに上手くやってたみたい」

 サクラ市には、海が無い。けれど、明日香たちの知らない場所では、既に船を使った物資のやり取りが行われているのだと言う。海の向こうの世界では、ゾンビとの共存に関する研究も盛んらしい。

「式はあっちで挙げるのか?」

「そう思ってたけど……やっぱり、サクラ市でやりたいかな、って」

 ミホが照れたように笑うと、帽子の下で白い頬が薔薇色になった。信也に至っては、未だにその話だけで耳まで赤くなっている。

「義兄さんと明日香の時は、僕らまだ学生だったから……」

 その辺の花で花束を作るくらいがせいぜいで、結婚式と呼べるほど大それたものでもないのだが、皆に祝福して貰えるのは嬉しい。ミホと信也にとっては、サクラ市での最後の思い出になるかもしれない。

準備が整い次第、医師は信也とミホを連れて船に乗る。海を渡った先で、新しい役割が待っている。ミホは、ジェームズ医師の片腕たる研究者として。信也は、ゾンビのブリーダーとして。

「明日香には、しばらく会えなくなるね」

 その『しばらく』は、明日香にとってはかなり長い時間になる。帰って来た時、明日香がどうなっているのかは、わからない。

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「ねえ、ミホ」

意を決したように、明日香が口を開いた。

「私を、見て」

ミホは、驚いて明日香を見つめた。明日香は真面目な顔で、ミホの帽子に隠れた目をじっと見つめ返して来る。

「ミホに、私を『見て』ほしいの」

 不安は沢山ある。それでも、明日香は未来を信じたい。

「お兄ちゃん。あの……」

「良いんだ。見てやってくれ」

 圭介が明日香の肩を抱いた。

「嫌な未来なら、変えれば良い」

 ミホと信也が遠くへ行っても、明日香の傍には圭介がいる。優もいる。たまには、学校に遊びに行ったって良い。病院はあきこが継ぐことになっているし、心配することなんて何も無いのだ。

「時間はたっぷりある。明日、二人で考えよう」

 新しい時間を生きるミュータントたちに、相応しい暦はまだ作られていない。けれど、町中で話し合って、休日を決めた。

明日は、サクラ市に日曜日が来る。誰も働かない日だ。新しい世界に向けて、少しずつ。色々なことが、変わって行く。好ましい変化ばかりでは、ないのかもしれないけれど。

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 大丈夫。一人なんかじゃない。

 ミホは、そっと帽子を外した。

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