現れる少女[後編]〜ハッピーエンドの場合①〜

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現れる少女[後編]〜ハッピーエンドの場合①〜

[前編のつづき]…公園の前を通り過ぎようとした時、目の前の電信柱の影に、一人の少女の姿が見えた。

彼女は白のワンピースを着ていて、その白に負けない透き通るような肌が、まるで彼女を絵画の中の人に思わせた。

真っ直ぐな黒髪は塀にわずかに触れただけで傷ついてしまいそうで、僕は思わずこっちにおいでよと声をかけたくなった。

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しかし、端正な顔立ちのなかでも一際目立つ、大きくて綺麗な瞳と目が合うと、僕は頭が真っ白になってしまった。

その時僕の頬は、自分でもわかるくらいに真っ赤に染まった。頭上の空がせめて夕焼けに焦がれていたら、僕は自分の頬の言い訳ができたのに。

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何を隠そう、僕はその少女を見て、はじめて恋に落ちてしまったのだった。

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実は、彼女にはおかしなところがあった。

それも、もしかしたら僕は最初から気づいていたのかもしれなかった。

彼女は、透き通るような白い肌なのではなく、本当に少しだけ、透き通っていたのだ。

そして、足元のサンダルは、わずかに地面から浮いていた。

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僕はこの少女は、きっと幽霊なんだと思った。でも、怖いとは全然思わなかった。

それどころか、こんなにも綺麗な人がすでに死んでしまっているということに対して、同情の気持ちがわいた。

彼女は何も言わずに、ただこちらを見つめていて、そんな彼女の視線が、なんだか寂しそうに思えた。

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僕はお父さんが死んでしまった時の悲しい感情を思い出した。いまの気持ちも、それと全然変わらなかった。

僕はお父さんが大好きだったから、お父さんの死と同じくらい彼女が幽霊であることを悲しんでいる自分は、きっと彼女のことも、大好きなのに違いなかった。

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「君のお家は、ここなの?」

僕は悲しみの感情をひた隠しにして、明るく彼女に話しかけてみた。

しかし、彼女からの返事はなかった。彼女はただ、僕を見てわずかに微笑むだけであった。

それでも僕は、そんな彼女の表情の変化に、飛び跳ねたいほどの喜びを感じていた。

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彼女の声が聞こえなくても、僕の声が届いていることがたまらなく嬉しかった。

そして、僕の彼女への質問は、とても意地悪なものであることに気づいた。

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幽霊の中には、あるひとつの場所から動けないものがいると聞いたことがある。

だから、僕は目の前の豪邸が彼女の家なのかを知りたかったつもりでも、彼女はこの電信柱から動けないのだとしたら、それを指摘されたと捉えてしまったかもしれない。

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そういうつもりじゃなかったんだ。僕は慌てて言葉をつけ足すと、彼女はさっきよりも少しだけ顔を綻ばせて笑った。

僕がその顔にまたどきりとしたのは当然であった。

そして彼女が全然怒っていないことを知って、それからの僕は魅力的な公園なんかそっちのけで、日が暮れるまでひたすらに、彼女に話しかけていた。

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僕の知らなかった街は、1日にして、僕の大好きな街になった。あの日から僕は、放課後になると、すぐに彼女のところへと駆け出した。

その駆け足は、まるで羽が生えたみたいに軽かった。走ることしかできなかった僕の唯一の得意が、彼女に会うために乗り越えなければいけない使命と重なって、僕をまるで勇者の心持ちにさせた。

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それまで仲の良かった数人の友だちからは、放課後の付き合いが悪いことをからかわれたが、彼女に会えるならそれでも全然よかった。

また母からは帰りが遅いことを聞かれても、友だちの家で遊んでると嘘をついて、なんとか彼女のことは言わずに済んでいた。

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もちろん僕だって、彼女のことをいろんな人に言いたくて仕方なかった。でも、それと同じくらいに、彼女のことを僕だけが知っているという、いまの状態が嬉しかった。

そして、母に彼女のことを隠し通す僕は、少しだけ大人の気分を味わってもいた。

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嘘をつくことが大人になるために必要なんて、僕はこれっぽっちも思ってないけど、それでも彼女のためについている嘘だと思うと、僕はなんだか彼女のことを守っているような、そんな気がしてしまうのだった。

それは、ちょうど母にしてあげたかったことを、代わりに彼女にしているのであった。

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僕は大切な人を守ることこそ、大人になるために備えるべきもののような気がした。大人になったから誰かを助けてあげられるのではなく、誰かを助けようとすることで人は大人になるのだと思った。

僕が彼女を独り占めしている気分でいるのも、彼女の姿は僕にしか見えていないからであった。

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僕は何かの歌の歌詞で聞いた、「運命」という言葉を思い出した。

その歌は夏の歌か冬の歌か忘れたけど、なんだか聞いているだけで胸がどきどきするような軽快なメロディーを耳が覚えていた。

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僕はいまの自分の気持ちと重ね合わせて、きっと夏でも冬でもない、春の歌だったのだと勝手に結論を出した。

僕の足音は、そんな春のメロディーに乗って、彼女のいる街へと向かっていた。

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彼女は今日も、公園前の電信柱に隠れていた。

電信柱に隠れてしまうくらいに小さな彼女の体は、透き通っているので余計にか弱く見えた。

「今日も暑いね」

僕がそう言うと、彼女はいつものように微笑んだ。

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最近は春の不安定な気候も落ち着き始め、初夏並みの暖かい日が続いていた。でも、僕の体温がいっそう熱くなるのは、決して天気のせいだけではなかった。

僕が今朝登校中につくしを見つけたことや、給食の献立がわかめご飯で嬉しかったことなどを彼女に話すと、彼女は相槌の代わりにさまざまな表情で返事をしてくれた。

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算数の宿題を家に忘れて先生に怒られたことを話した時には、彼女は少しだけむっとした顔になった。

でも、ちゃんと問題は解いてきたことを黒板の式を解いて証明した時には、先生はなぜか嬉しそうに僕の肩を叩いたと慌ててつけ加えると、彼女もなぜか嬉しそうに、とびっきりの笑顔で笑うのだった。

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そんな彼女は僕よりもずっと大人にみえた。それに対して、僕は随分と子どもであった。

妙に見栄を張ったり、変に格好つけて大人ぶるくせに、彼女が僕の話に笑ってくれるとたまらなく嬉しくて、わざと大げさに身振り手振りをしてみたり、友達との喧嘩の話なんかは、馬鹿みたいに大きな声を出してパンチの真似をしたりなんかした。

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好きな人の前だからどうしても大人っぽく振る舞ってしまう一方で、好きな人の前だからこそ、子どもっぽい自分を曝け出してしまうのは、大人子どもに限らず、好きな人がいる人みんなに共存する当然の気持ちだと僕は思った。

でも、大人ぶる僕も、子どもの僕も、彼女と話すのに夢中になって、他の人には彼女のことが見えていないことを忘れていた。

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「ちょっと」

声のした方を振り向くと、むらさきの服を着たマダムっぽい女性が、しかめ面をして僕を見ていた。

彼女の手には大小様々な宝石の指輪がはめられていて、ひと目で目の前の豪邸に住んでいる人だとわかった。

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「最近いつも、人の家の前で何やってるの?」

僕は一瞬、むさらきの服のマダムに白いワンピースの少女のことを言うべきか迷った。

しかし、咄嗟に口に出た言葉は、決して彼女のことは誰にも教えてやらないという強い意思のあるものだった。

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「実は、飼っていた犬のポチが先月死んじゃって、こうやって会いにきてるんです。」

マダムはしかめ面を強張らせて、ますます訝しげに僕を見た。

僕は背筋に冷や汗が流れるのを感じたが、それでも同じ口調でこう続けた。

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「この電信柱は、ポチのいちばんのお気に入りだったんです。だからこの場所にくると、なんだかポチに会える気がしたんです。」

そう言う僕はなぜか本当に涙ぐみそうになったが、それは目の前のマダムの顔が、だんだんと優しい表情に変わっていくのを見てしまったからであった。

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「ポチもきっとひとりぼっちで寂しいだろうから、つい学校の話とか色々してたら、全然周りが見れなくなってました。うるさくしてしまって、ごめんなさい。」

僕は高揚感だか罪悪感だかの入り混じった不思議な気分で、少し早口でそう言った。

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マダムの顔を見るのが後ろめたくて、おそるおそる伺うように顔を上げると、まつげのばちばちとしたマダムの目は真っ赤になって潤んでいた。

「そうだったのね。何も知らずにこちらこそごめんなさいね」

今度はマダムが早口にそう言うと、あがってお茶でも飲んでいきなさいと僕の手首を引っ張った。

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実はこの時の僕は、マダムの話を全然聞いていなかった。だから急に手首を掴まれたと思って、驚いた拍子にまるで嫌がるように振り解いてしまった。

マダムは途端にバツの悪そうな顔になって、周りをきょろきょろと見渡すと、「これからもここに来ていいけど、少しだけ声は小さくしてね」と小声で言って、家の中に入ってしまった。

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僕がマダムの話を聞いていなかったのは、白いワンピースの彼女がこれまでに見たことないくらいに怒っていたからだった。

マダムがいなくなると、僕は小声で彼女に聞いてみた。

「もしかして、さっきの話に怒ってるの?」

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彼女は変わらずむっとした表情をしていて、それは算数の宿題を忘れた話をした時の比ではなかった。

僕は、彼女は自分がポチ呼ばわりされたと勘違いしているのだと思って、彼女に対して何度も謝った。

何度目かのごめんなさいの時、彼女の顔はさっきのマダムのように、なんだかとても優しく、そして、哀しそうな表情をした。

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「もう怒ってない?」

僕がそう聞くと、彼女はいつも通りに微笑んだ。この時初めて、どうして彼女は喋らないのだろうと僕は思った。

彼女は幽霊だから?でも幽霊が喋らないなんて、聞いたことがなかった。

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そもそも、本当に幽霊が存在するなんて、彼女に会うまでは信じていなかった。

僕は幽霊についても、目の前の彼女についても、これっぽっちもわかっていなかった。

そして、僕が一番知りたかったのは、彼女は本当に死んでしまっているのかということであった。

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もしかしたら目の前にいるのは彼女の魂であって、彼女の体は別のところにあるのかもしれなかった。

僕は、そう信じたいだけであった。彼女は本当は生きていて、そんな彼女とこれからの時間を一緒に歩いていけるという希望を、僕はどうしても失いたくなかった。

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しかし、僕は決して彼女に本当のことを聞くことができなかった。もし、真実を知ってしまったら、そしてその真実が悲しいものであったら、この時間は終わってしまうかもしれなかったから。

それならこの場所でずっと、たとえ幽霊であっても、彼女と話せるいまの状態の方がいいと思ってしまった。

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僕はそれから、あのマダムに怒られないような小さな声で彼女とたくさん話をした。

彼女は無言の返事を、僕の話の数だけ返してくれた。

時々横を通る人たちが、僕を指差して笑ったりした。

そんなとき、散った桜の花を踏まないようにふらふらと歩いたあの時と同じ恥ずかしさがこみ上げた。

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それでも、僕は全然気に留めなかった。

僕を見て笑う人のことを気にするよりも、彼女との時間を楽しむことの方がよっぽど大切に思えた。

むしろ、笑われることは、彼女がやっぱり僕にしか見えていないことを確認できて、僕はちょっとだけ嬉しい気分になってしまうのだ。

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でも、決してその気持ちを彼女に知られないように、僕は大人のふりをするので精一杯だった。

そうして、桜の花びらが次々に散っていくように、僕たちに残された時間も、刻々と過ぎていくのであった。

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……後編(ハッピーエンドの場合②)に続く

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