「いや。あの頃は本当にしんどかったよ。僕は本当に自殺をしようとしていたんだ」
Sさんはそう言って珈琲をすすった。
私はSさんの言葉にとても驚いた。Sさんは明るくて朗らかな人だったから、そんな深刻な悩みを抱えてたいたなんて意外に思った。
「その頃は仕事がトラブル続きで本当に疲れていたんだ。僕は自殺をしようとして、樹海に入った」
私は言葉に迷って、それでも慌てて応えた。
「でっ、でも……引き返してくれて本当によかったよ」
「引き返したというか追い返されたというか……」
そう言ってSさんは苦笑した。
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6年前、Sさんは自殺を考えて樹海に入った。リュックの中には、来るまでの交通費が抜かれた空の財布。樹海で思うように死ねなかったときのために首を吊る用のロープ。それだけだった。
樹海に入るまでの林道でSさんは、ただの登山客を装った。しばらくして、辺りに人がいないことを確認すると、Sさんは登山ルートを抜け、適当な場所から森の奥へと進んだ。
森の中は思っていたよりも暗く、昼間であったことが嘘のように感じられた。
Sさんはここまで来ると、引き返すという意思もなく、ただ適当に何となく樹海を歩き回った。
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時間がどれだけ過ぎたのかは分からない。
次第に足が重くなり、歩き続けるのは無理だと感じた。それに、Sさんは樹海の薄暗さよりも、風で揺れる木々の音が怖かった。
風が吹くと幾重の葉が擦れ、悲鳴のように聞こえた。
このまま、ずっと死ぬまで待つのは無理だ。
Sさんは、立ち止まったこの場所で死のうと考えた。頭上にちょうどいい高さの太い枝があったので、Sさんは持ってきたロープを枝にかけた。ちょうどよい大きさの木の瘤もある。ここに足をかければよいだろう。
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Sさんは木の瘤の上に自分の足を乗せた。
そのとき、Sさんは瘤の斜め下の太い根と土の間に、白いぶよぶよとしたものがあることに気がついた。
それは目だった。
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白いぶよぶよの塊の中央に赤黒い瞳が見えた。
あっ、ここで死んではならない。
Sさんはそう感じたそうだ。
Sさんは、ロープを回収すると思い足を引きずりながら、次の場所を探した。
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Sさんは恐怖よりも、ここで死ねなかったという焦りの気持ちが大きかった。
次に理想に近い木を見つけたときにSさんは絶句した。
目が、目が、地面に虫の卵のように密集している。気がつくと、その目はSさんの足元の地面にも集まっていた。
Sさんは、その目を踏まないように小走りになった。後ろを振り返えると、じゅくじゅくとした白目が泥に混じっておぞましかった。
Sさんは足が痛むのを我慢しながら走り続けた。
ここで死んだら、救われない。
Sさんはそう思ったそうだ。
背後に無数の視線を受けながら、Sさんは必死に走った。気がつくと、Sさんは暗い樹海を抜け、登山ルートに出ていた。
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登山ルートを歩いていた登山客が、ただ事ではない状態のSさんを見つけ、Sさんを登山ルートの入り口まで連れていってくれた。
Sさんはその後、警察に保護され、家に帰宅した。Sさんはもう自殺をしようとは思わなくなったという。
作者鯛西