これは私、泉田慎一(いずみた・しんいち)の体験した御話。
酒は強い訳で無いが、じっくりチビチビ頂くのが好きで、スナックバーでたまに過ごす。
その日も、少々残業に追われながらもスナックバー「であい」に辿り着き、マスターがシェイカーでカクテルを作るのを見ている。
「御客さん、此処も長くなりましたね」
髭を蓄えた初老のマスターが、穏やかに話す。
「転勤族ながら10年近く居るね。でも、万が一の異動でも時間見付けて、泊まり掛けででも訪ねるだろうさ」
「誠に嬉しい話です」
瞳の奥にも穏やかな笑みを浮かべていたマスターの目が、一瞬ピシンとなったのを私は見逃さなかった。
ふと、彼の視線の向こうにこちらも目をやる。
何も居ない。だが、明らかに誰か居る雰囲気を感じる。
ぼうっと何と無く雰囲気を感じる。
うつむいた長い黒髪、何処か上品なスーツ姿がうつむいている様に見えて来た。
「うわっ」とは何故か思えない。
「………見えましたか」
ゆっくりとマスターが訊く。
私は静かに頷く。
「何だろう………不思議なんですよ。怖くない」
素直な気持ちを言いつつ、私は暫し思案する。
「あの御嬢さんの好きな御酒は有りますかね」
「と、おっしゃいますと」
「ちょっと、あちらには迷惑を掛けてしまうかもだけど、少々やって見たい事が」
少々強めの酒が好みらしいと聞きながら、ジンライムをマスターに作って貰う。
私は焼酎の水割りを少しずつ頂いている。
『………?』
マスターは、私の御願い通り、ジンライムのそそがれた小さなグラスをうつむく黒い長髪のスーツの前に置く。
「あちらの御客様より」
黒い長髪スーツは、私の方をチラリと見た様である。
ゆっくり弱めに会釈した様に見えるが、グラスには手を伸ばさない。
(もしかしたら………)
凝視している自分が無礼千万だとふと感じた私は、食のエッセイの文庫本を勤務用鞄(カバン)から取り出して、パラパラと御気に入りの頁(ページ)を見付けて、数分間読みふける。
文字の列挙された場所から目を離すと、心なしか誰も居ない筈の席に置かれたジンライムの量が、減っている様に思われた。
「天雲寺(てんうんじ)の住職も来られるんですがね」
そう言えば、法事の席に住職が来たりするし、酒も肉も頂く姿を見たな………と、私は父親と御坊さんが話している光景を見る自分を思い出す。若造故に蚊帳(かや)の外ではあったが。いや、今もか。
彼等からすれば、年輪を重ねた私であれ年端も行かぬ子どもなのだろう。
「天雲寺の住職も怨霊特有の暗さや毒気を感じないって話ですよ」
そう言えばそうだ。悲しそうな横顔だが、酷い別れ方をした感じや、好き勝手生きる男に暴力を振るわれ、身ぐるみ剥がされた様な悔しい最後を引きずる感じも無い。
「………で、あの人はマスターの店の御得意さんでしたか」
マスターは「うーん」と何だか迷った末に、私になら話しても良いだろうと言う感じの決意の見える表情で、こちらを見た。
「先代のマスターの頃から居るみたいなんだ」
「?!」
むしろその話の方が意外である。てっきり、マスターが一代で持った良い店だと感じていた故だが。
「ういっす」
「いらっしゃい」
「おう、慎坊も来てたか」
太い腕と、少々古傷の目立つスキンヘッドのサングラス姿の男が来店する。
「又学生時代みたいに、坊主刈りにすっかな、ガハハハ」
太い腕に関わらず、優しく私の肩をポンと叩きながら、床屋の店主がサングラスの奥の瞳を細めて上機嫌に話し掛けてくれる。
「何だ慎坊、奥の方見て」
焼酎のロックを流し込んだ店主が私を見て怪訝な顔をする。
「あっ、その………」
「あー、あの姉ちゃんな。昔髪を切った事の有る女学生そっくりってのか、むしろその子の成長した姿に見えて仕方無いんだよな」
「そんな事が………」と噛み締めながら、私は床屋の店主の言葉に軽く数回頷く。
「だが、髪も伸びたろうが、枝毛っぽく見える。整えたくなるんだよな」
「職業病ですかな」とマスターが穏やかに割り込むと「確かになァ」と頭頂部を掻く床屋の店主。
申し訳無さそうな顔で、長髪のスーツが頭を下げる様に見えた。
亡霊特有の濁った鋭い目付きとは程遠い、透明感の有る穏やかな表情の美女………いや、幼さやあどけなさの残る童顔の美少女にすら見える。
「亡くなった理由はどうあれ、嫌がる人も怖がる人も此処には居ないし、皆、気の良いおじさん連中だ。貴女が若い男が良いならそれで良いし、此処を離れたとしても、私は今宵の出会いを忘れない」
目を閉じて、敵では無いし危害を加える気も無いと意思表示を試しに私はやって見る。
すうっと頬にヒンヤリ冷たい空気を感じつつも、柔らかい頬の感触と、「有、難、う」と久方振りに声を出したら上手く喋れなかった時の様なたどたどしい御礼を述べる声が聞こえた様に思われた。
「いらっしゃい、………?」
入り口を見ると、中高年の夫婦と青年───およそスナックバーには似つかわしく無い家族連れが立っている。
何故か、彼等は店の奥を凝視しながら、無言で涙を流している。
「あの子が………」
「居た、あそこに………俺だ、分かるか、美亜(みあ)」
「美亜、俺だよ、茂之(しげゆき)だよ」
「母……さん………?御、父、さん………?茂君………?」
言葉を辿りながら、ハっとした長髪のスーツが、ぶわっと白い煙みたいに飛んで行って、父親や母親、そして彼氏と思われる青年の元にふわりと着地し、彼等を包み込み、涙を流している様に見える。
ハっとして、父親がマスターに頭を下げる。
「失礼を致しました………娘を亡くしたのはとうの昔でしたが、何故か近くで娘の気配を感じて、こちらに辿り着きまして………」
「娘が、いつか連れて来たい連れて来たいって………」
「やっと………逢えました。皆さん、有難う御座いました」
「気を付けて帰りなーっ。あれ?」
床屋の店主が、彼氏や夫婦に声を掛けようと、店から出ると、長髪のスーツの亡霊とおぼしき存在は勿論、彼等も既に居なくなっていた。
「うわうわうわ、嘘だろ………」
(彼等も又、あの人を失ったショックで、自分達が成仏出来ずにいたのを認識出来なかったのかな………)
カラン!
私の持った、先程の焼酎の次に注文していた、ウイスキーの入ったグラスの氷が、静かに音を立てる。
雨がゆっくり降り始めて、私は彼等が雨の降る直前に成仏していて欲しいと、祈りを込めながらゆっくりとグラスの中身を飲み干した。
作者芝阪雁茂
酒が飲めず下戸でありますが、スナックバーに先輩に連れて行って貰って、カラオケを唄わせて貰い絶賛されたのは、今でも精神的な宝物です。
怖いとも変な話とも違う、不思議話を御送り致しましょう。