中編7
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本を持ち歩く男

 私の話です。

 仕事、私生活共に行き詰っていた時期が過去にはありまして。褒められたものではありませんが、連日の飲み歩きが癖になっておりました。

 流石にお金が続きませんので、自然と安いお店に足が向くことになるのですが。

 良く利用するお店の中に、街中にぽつんと佇む立ち飲み屋さんがありました。

 立ったまま、一杯でも良し。つまみは、頼んでも頼まなくても良し。

 そんな気安さ故か、お客さんも癖のある方が多かったような気がします。

 ある晩のこと、私の隣に立ってお酒を呑んでいたのは、スーツ姿の男性でした。三十代半ばほどの、どこにでもいそうな、ごく普通の会社員のようでした。

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「お仕事帰りですか?」

 私に話しかけて来た時も、別段変わった点は見受けられませんでした。

イカのフライにチーズとサラミ、生ビール。注文していた品もありふれていて、私は正直、面白くなさそうなのに捕まったなと思いました。

「ええ、まあ」

 私は気の無い返事をすると、ホッピーのグラスに口を付けました。

 女一人で呑んでいると、こうして話しかけられることは稀ではありません。

「どうですか? 最近」

 スーツの男が食い下がります。

 私は日々のストレスの所為もあって大分腐っていたので、飲み干したグラスを音を立ててカウンターに叩きつけました。

「どうもこうもありませんよ。上は無茶な仕事ばっかり押し付けておきながら『やれない、じゃなくてやってみよう!』とか、『間に合わないじゃなくて、間に合わせるんだ!』とか寝言をほざくし。大昔の体育会系じゃあるまいし、根性論で何とでもなるならお前の母親の認知症も妹の大病も治るだろ、って言ったら泣き出しちゃって、まるで私が悪者ですよ」

 ……大抵の男は、ここまでのことを言えば黙り込みます。こちとら一人で酒を楽しみたい気分なのに、にやにやと下心満載で話しかけられても迷惑です。

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 しかしスーツの男は、見た目以上に図太い精神……と、いうか、口汚く罵りながら酒を煽る私が、本気で心配になったようで。

「そうですか。それは大変だったでしょう」

 神妙な顔で頷くと、私が何も言わないのに、勝手に自分のビールとホッピーのお代わりを注文いたしました。

「これは、僕にご馳走させてください。相談には乗れませんが、愚痴を聞くくらいは私にもできますから」

 こう言われては、流石に無視するわけにもいきません。私は不本意ながらもグラスを差し出しました。

「さあ、今日くらいは存分に吐き出してください」

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 男はにこにこと笑っています。

 多少の警戒心が、無かったわけではないのですが。日々のストレスと酔いも手伝って、気が付けば私は彼に向って延々と愚痴をこぼしておりました。

 職場の上司や先輩の事。別れたのにしつこい元恋人の事。アドバイスと称して余計なお世話しか言って来ない同期の事。顔を見ればとにかく結婚しろ、しろと五月蠅い両親の事。

 大多数の殿方は、いらないお節介と自分が上の立場で居たいという傲慢さから、はた迷惑極まりないうざったいご忠告を、こちらが辞退したにも関わらずありがたくもくださるものなのですが。

その男性は、決して不快なことを口にしませんでした。

 なんだこいつ、なかなか良い奴じゃないか。

 私は単純にも、そんな風に考えを改め始めてはいたのですが。

 同時に、性格に難ありの私は、この男性が羨ましく、また妬ましくなって来たのでありました。

「そんな風に、にこにこ頷いていられるってことは」

 私は、ホッピーのグラスを『お酌しろ』とばかりに男性に突き付けながら言いました。

「あなたは、仕事も家庭も、さぞ上手くいっているのでしょうね」

 全てがうまく行っているからこそ、私の愚痴も笑って聞いていられるのだろう。酔った頭のまま、私はそんな嫌味ったらしいことを口にしていました。

 こんな風だから、友達が少ないのです。

 しかし、その男性はというと。怒るどころがやはりにこにこと頷きながら、自身の仕事鞄を探って、何か四角くて重そうなものを取り出しました。

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「私だって、ストレスだらけですよ」

 微笑みながら、男性は言います。

「上司には無理難題を吹っ掛けられるし、手柄は横取りされるし。残業代もほとんど出ないくせに、少しでも意見を言うと給料泥棒呼ばわりです。帰ったら帰ったで、僕の夕飯が無い、なんてことはザラですよ。妻は夜遊びに出かけていて、酔っぱらって帰ってくるのは日付が変わってからです。何か言おうものなら、ヒステリックに怒鳴り散らされるか、ものを投げられます。職場は妻の両親の紹介だし、見合い結婚な上に、僕の両親は他界していて僕の味方は誰もいない。最近では信頼していた友人まで妻の側に付くようになって……僕達に子供がいないのが幸いですが、八方ふさがりですよ」

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 やけに明るい口調で返されて、私はぎょっとしました。

 何と、私以上に悲惨な境遇です。

 いや、ひとつひとつは現代日本のあり触れた風景だったとしても、こうも見事に全てを背負わされている人がいるとなると。

「良く我慢できますね」

 今度は嫌味ではなく、素直な賞賛の気持ちでそう言いました。

 私だったら、とっくの昔にぶつんと切れて暴れ狂い、全てを台無しにしているか、でなければ誰にも告げずに遠くへ逃げて、そのまま永久に帰らないでしょう。

「コツがあるんです。ストレスがあるのは仕方ない、でもそれを逃がすための、逃げ道のようなものを作れば良い」

 男性は、自身の鞄から取り出したものを、カウンターの上を滑らせて私の目の前に持ってきました。

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 四角くて分厚い塊。

 それは、何冊かの本を束ねたものでした。

「いつも、持ち歩いています。これのお陰で、僕は爆発することなく、日々を平和に送っているんです」

 外国の有名なファンタジー童話。古びたエッセイ本。歴史小説二冊。軽いミステリー一冊。育児漫画一冊。食べられる植物の図鑑。

 何てことない、古本屋を巡って手に入れたような、あり触れた本の数々。

 なるほど、自分のお気に入りの本を持ち歩いているのか。私は考えました。他人にとってはどうでも良い本でも、自分にとっては大切な一冊ということは、ままある。

 苛立った時にページを開き、お気に入りの台詞や文章、或いは挿絵などを見るだけでも、確かに精神安定の効果はあるかもしれない。

 私の考えを読み取ったのでしょうか。男性は「ふっ」と笑い声を上げると、首を振りながら本を束ねた紐をほどき始めました。

「皆さん、同じ顔をなさいます。きっと、同じことを考えておられるのでしょう。ですが、僕はこれらの本をほとんど……いや、ものによっては一度も、読んだことが無いのですよ」

 本日で二度目の驚きでした。私は、ホッピーのグラスを傾けるのも忘れて、まじまじと男性の横顔を見つめました。

 この頃になると、立ち飲み屋の店主までが、じっと耳を澄ましながら横目で本の束を見つめているのがわかりました。

 何故、重い思いをしてまで、読みもしない本を持ち歩くのか。

 私と店主の疑問を最もだと思ったのか、男性はやはり微笑みながら満足そうに頷くと。

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 本を束ねていた紐を両手で持ち上げ、私の首にしゅるしゅると巻き付けました。

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 きっかり、二周。ぴん、と張った紐の先は、男性の両手の指先に握られています。

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「女性なら二周、よほど体格の良い男性でも、一周と少し」

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 にこにこと柔和な笑い顔のまま、私の首に紐を巻き付けた男性は、嬉しそうに言いました。

 男性が少しでも力を籠めれば、私の首はきゅっと締まっていたと思います。そのくらいに、鮮やかな手際でありました。

「何度も、何度も練習しました。ナイフなんか持ち歩いたら捕まってしまう。だけど、本を束ねて持ち歩く分には、罪に問われることは無いでしょう?」

 店主が何か言おうとしましたが、私は視線でそれを制しました。

 刺激してはならないような気がしたからです。

「この長さが、丁度良いんです。この厚さ、だからこそ、この長さなんです。本の中身なんかどうでも良い。僕の手にとって、この長さが丁度良い。どんな相手だって、きっと丁度良いんです」

 さきほどまでの柔和な口調とはうってかわり、男性はぎらぎらした笑顔で私を見つめながら、早口でそう言いました。

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 無理難題を吹っ掛ける上司。

 ヒステリックな妻。

 妻の味方をする友人。

 頭の上がらない妻の両親……。

 年齢も性別も体格も様々な人々の、全ての首筋に、きっと。

 この長さは、丁度良い。

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「へえ」

 私は、かすれ切った声でどうにか言いました。

 ある程度厚みのある本を束ねて持ち歩くには、当然ながら強靭で細いロープが適任です。考えたな、と、ホームセンターで売っているようなてかてかしたビニール素材のロープを見下ろしながら思いました。

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「私も、本、持ち歩こうかな」

 この台詞が正解だったのか、はたまた不正解だったのか。

 私にはわかりません。

 ですが。

 とにかく、男性の顔から笑顔が消えました。憑き物が落ちたように、すぅっと。

 男性は呆けたような顔で私の首から紐を解くと、ばらばらに崩れた本をてきぱきと重ねて、また再び例の紐で括り直しました。

 ほんの数分……いや、数十秒の出来事だったのかもしれませんが、いやにはっきりと目に焼き付いております。

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「冗談ですよ」

 男性は、言い訳のようにぼそぼそと呟きました。

「使ったことなんかありません。でも、どんな奴だって、きっと僕は……いや、そうすることのできる道具を持ち歩いている、という事実だけで、僕は無事に生きていける気がするんです」

 男性は、本当に憑き物が落ちたようでした。そそくさと店主に会計を申し出ると、分厚い本の束が詰まった重そうなリュックサックを背負って、腰を屈めながらとぼとぼと帰路につきました。

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「ああなる前に、逃げちまえ」

 店主は苦虫を嚙み潰したような顔でそう言うと。ホッピーの『ナカ』である焼酎を、やけに多めに私のグラスに注ぎました。

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