同級生に、アリスという女の子がいた。
親が資産家という令嬢だが、見た目は庶民と大して変わらず、言われなければ分からない。それ位、浮きも沈みもせず溶け込んでいた。
しかし、アリスの姉、エリサは違う。
この学校に通う人間で、彼女の振る舞いを知らない者はいない。
「ねえ…あの子、結局辞めたって…」
「他の所に転入したらしいよ?」
もう何回聞いただろうか。同期、もしくは後輩の、休学や退学の話。
学力の差や金銭的な理由も勿論あるが、殆どがエリサの手によるものだと、皆知っている。
なのに、学校側も家族も、止めようとしない。野放し状態なのだ。
多分、何かの病気だと思う。そう、アリスは言っていた。子供の時から癇癪が酷く、そのせいか、お付きの教育係がしょっちゅう変わっていたそうだ。
だが、父親は仕事で不在。母親は、「付き合い」と言って毎日出掛けては、夜遅くに帰って来る、という生活。
更には、使用人も次第に冷たい態度に変わり…安心して信頼出来る、甘えられる大人は、姉妹の周りから消えていった。
あんな環境で育てば、姉が暴走するのも仕方が無い…
アリスは時々、こんな話をしてはエリサを憐れみ、お金だけをバラまいて、ロクに子供を見ようとしない両親を軽蔑した。
そして、そんな環境から少しでも離れる為に、実家を出た自分自身さえ…時折責めていた。
けど私からすれば、想像するだけでも胸が痛くなる境遇でありながら、いつも穏やかで、賢くて優しいアリスは、誰よりも格好良く、美しいと思えた。
だからこそ…
「あいつの妹、この学校に居るらしいよ?同じ性格だったりして…怖っ(笑)」
…姉妹と言うだけで、アリスまでこんな言い方をされるのは、本当に納得出来なかった。
それだけ、アリスは本当に良い子で、親しみを向けるにふさわしい人間だったのだ。
「ねえ、今日飲もうよ!私の部屋で良い?」
どこからか聞こえた嫌味をかき消すべく、私はわざと大きな声で言った。
幸いな事に、アリスがエリサの妹だという事は、まだバレていない。
ありふれた苗字なのに加え、誰も妹の名前を知らないし、仮に知っていたとしても、同姓同名が、このマンモス校には意外に多くいたからだ。
…知っているのは、今の所、私1人だけ。彼女と私だけの、特別な秘密だ。
「うん、良いよ!講義終わったら、そっち行くね。泊ってもいい?」
「もちろん!」
お互いの部屋を行き来きして、お酒を飲みながら他愛の無い会話をする。どこにでもある、大学生の日常の風景だ。
ある1つを除けば…
「気を付けて。エリサに、遭わないように…」
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片付けを終え、テレビの電源を付ける。数分後、インターホンが鳴り、アリスがモニター越しに手を振った。
急いでオートロックを解除し、部屋に招き入れる。某高級ブランドのボストンバッグと、近所のお高めなスーパーの紙袋を手に持つ姿に…私は改めて、彼女は令嬢なのだと知る。
「お疲れ~。ちょうど片付け終わった所!大丈夫だった?」
「うん!今の所…大丈夫」
そう言いながら、アリスは窓の方に身体を向け、外の音に耳を澄ませた。
時刻は午後7時過ぎ。自宅のあるマンション周辺は、遠くの救急車のサイレンが微かに聞こえるだけで、閑静そのものだ。
「ね、大丈夫でしょ?」
「あ…ごめん!」
冷蔵庫からワインを取り出し、カップに注ぐ。総菜とお菓子をテーブルに並べた後は、ひたすら、ダラダラと飲み明かす…至福のひと時。
「あ!そうそう、韓流映画のDVD借りてきたから、一緒に見よう!」
「良いねそれ、楽しみ!」
「じゃあ、乾杯!」
ドラマやしょうもない話を肴に、時間は進んでいく。たらふく飲み食いし、風呂に入り…また飲み直す。
そして、夜もだいぶ深くなってきた頃…ふと沸いた恋愛話をきっかけに、真剣な話へと流れが変わり…私は、酩酊した勢いで、ある疑問を口にした。
「アリスぅ、エリサは~、なんであんなことばっっっかり、するんだろ~ね~」
「ん~~~?」
「バカみたいじゃん私達!1人の女にビクビクしちゃって~しょうもないよね!」
本音だった。
エリサが病気だとしても何だとしても、私達がそのせいで、神経を尖らせる必要なんて無い。
なのに、触らぬ神に祟りなし…とでも言わんばかりに、何の対策も講じない学校や親達が、同世代の子達に世話を押し付けている…そんな感覚が、入学してからずっと纏わりついて、モヤモヤしっぱなしだった。
腹立つ。
「あいつら!ど~いう頭してんだっつーの!」
「………」
「ありす~っ、聞いてる~?ねぇ、って────」
「スープだよ」
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アリスが、切り込むように言った。スープ?
「え?スープが…どうかしたの?」
「ママ、パパ…エリー…ひこうき、すごいねぇ」
アリスは、背後のソファに身体をうずめて、すっかり眠りについていた。
なんだ…寝言か。でも、寝言にしては流暢に…次々と、言葉が出てくる。
オアフ…コテージ…イルミネーション…どうやら、家族でハワイ旅行した時の思い出を、夢に見ているらしい。
私は気になって、アリスにそっと近付いた。
…実は、友達になってからまだ1度も、アリスが家でどんな暮らしをしてきたのか、聞いた事が無い。
何しろ、経済的な苦労とは無縁な生活。悲惨な思い出が多いけど、経済的な面で楽しい経験もあった筈だ。
旅行か…金持ち一家のハワイ旅行…きっと、自家用飛行機とかクルーズとかで、豪華な感じなんだろうな…
寝言と会話するのは良くない…と、知りつつも、私は、好奇心に抗えなかった。
「ねえ、ハワイでどんなことしたの?」
「…海に行ったの」
「それから?」
「夜…パパとママの友達が…いっぱい来た…」
「そこで、スープを飲んだの?」
「うん…パパの友達が…くれたの」
「パパのお友達が作ったの?」
「ううん…もっとおいしくなるって…くれたの」
「何を?」
「エリーが…泣いてたから…スープに入れた…」
「そっか…」
「エリー…すっごく怒るの…ぐちゃぐちゃにするの…」
「…何を?」
「ぐちゃぐちゃになる…ぐちゃぐちゃに」
「大丈夫?アリス…何がぐちゃぐちゃになるの?」
「全部!!!」
寝言とは思えない声の大きさに、思わず仰け反った。
一体私、何を聞いてしまったんだろう…いや…これは夢の中だから、ごちゃ混ぜになっているだけだ。だとしても、怖い…
酔った勢いとは言え、寝言と会話してしまった事を後悔した。ソファでは、さっきまで色々喋っていたアリスが、静かに寝息を立てている。
私もそろそろ寝てしまおうと思ったが…さっきの大声で、完全に意識が覚めてしまった。と、言うより…突然、胃袋から気持ち悪い感覚がこみ上げ、眠る所では無くなった。
トイレに駆け込み、便座に向けて頭を下げ…口から吐瀉を噴出する。
「…ごぼっ…げほっ!」
散々吐いて、もう何も出ないのに、何故か、食道から気管支が詰まっている感じが取れず…無理やり指を突っ込み、思い切りえづいた。
「…ゴエッ!うぐっ…うええええっ!」
ボチャン!
喉の詰まりが抜けると共に、便器の中に何かが落ちた。
水溜まりに浮かぶ「それ」は、ピンクや黄緑色のぐちゃっとした塊になっていて…鼻をつく臭いを放っていた。
そんな色の付いた物は、昨夜食べた物の中に1つも入っていない。あるとすれば…何かに混ざっていたとしか考えられない。
…誰かが。
「うううっ…」
嘔吐の反動で、目の前の景色が渦を巻き始める。呻きながら、私はトイレのドアをどうにか開け、四つん這いで廊下に出た。
その途端────目線の先に、両足が揃って並んでいるのが見えて、顔を上げた。
「…アリス…?」
違う。「彼女」だ。
立っていたのは、ぐにゃぐにゃに身体が曲がった、ワンピース姿の女。
口から、「ヒュッ」「プスッ」…と息を吐きながら、ひん剝いた目でこちらを見つめ…
両手にぶら下がっている大きな包丁を、私に向けて振り下ろした。
「キャアアアアアッ」
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「後輩が、絶対ここに進学したいって言ってるんだけど…どう反対すればいいか悩んでるの」
「知らない人には、憧れの場所だもんね、私もそうだったよ…後悔してるわ、あんな奴がいるなんて…」
何かあると、すぐ皆、エリサに纏わる話で持ち切りだ。
何だかんだ言って、退屈な大学生活に、適度な不安と刺激をもたらす存在に…エリサに、依存しているだけ。
でも、彼女の姿を「ちゃんと見た人」は…1人もいない。
「お~い、食堂行こ!」
同級生の1人が、私に声をかける。昨日の夜吐いたせいで、胃の中は空っぽだった。
食堂の入り口に向かい、メニューを見る…その時、奥の厨房で、世話しなく動くアリスがいた。
学食でバイトをしている、と聞いていたが、その姿を見るのは初めてだった。鍋をかき回し、調味料を混ぜ…エプロンのポケットから、何かを出して加えた。
黄緑色の…何か。
「ねえ、決まった?」
「え、あ…まだ…ごめん」
「そういえばさ、最近私…目の調子が悪いのか…エリサの顔が更に歪んで見えてさ…めっちゃ凹む」
「…そうなんだ…」
鼻をつくあの臭いが、厨房の奥から漂い始める。
ふと見ると…アリスが口の前に人差し指を添えたまま、こちらをじっと眺めている。
微笑みながら…
「ひ み つ だ よ」
また1つ、アリスとの約束が増えた。
作者rano_2
毎月お題の掲示板より。