「悟志、この荷物は何処に置けばいい?」
Tシャツにオーバーオール姿の里佳子が段ボール箱を抱えてアパートの階段を上がってくる。
「ああ、それはキッチンに置いといて。」
「了解。」
額にうっすらと汗を浮かべて部屋の中に入る里佳子と入れ替わりに、俺は次の荷物を取りに階段を駆け下りていく。
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◇◇◇◇
以前住んでいたアパートが老朽化による立て直しのために住めなくなり、京王線沿いにようやく新しいアパートを見つけた。
新しいと言っても築15年が経ったそれなりのアパートなのだが、築40年を超えていた前のボロアパートに比べると部屋が綺麗になった分、家賃もずいぶん高くなった。
それは築年数だけの問題ではなく、恋人である里佳子の引っ越すならもう少し広い部屋にしてくれという強い要望があり、これまでの六畳1Kの間取りから、1LDKとちょっと贅沢な間取り、かつ二階の角部屋という好条件の部屋へ引っ越すことになったのだ。
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これまでは家賃3万5千円で学生時代から住んでいたボロアパートだったのだが、27歳になる今では仕事も安定し、家賃補助も出ることから、分相応と思われる家賃8万円という物件に決めたのだ。
それでも里佳子は1LDKという間取りにまだ不満そうであったが、それは将来的に同棲か結婚を心の中に思い描いているのだろう。
そもそも住んでいたのが狭い六畳一間であり、前日までに荷造りを済ませると、レンタカーのトラックを借り、朝から里佳子とふたりで引っ越しを始め、距離的にそれほど離れていないこともあってお昼過ぎにはほとんど完了してしまった。
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「なんだか、家の中がスカスカだな。家具とかを少し買い揃えないと。」
居室だけでも八畳と広くなった上、リビングにダイニングキッチンと部屋数が増え、完全に引っ越しを終えたのにまだ荷物の運び入れを待っているかのように部屋の中はガランとしている。
「家具を買いに行くときは私も一緒に行くからね。絶対に悟志ひとりで買いに行っちゃだめだよ。」
取り敢えず必要だった部屋のカーテンと照明も里佳子が買って来たものであり、まるで自分がこれから住むアパートのようだ。
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里佳子はずっと自宅のため、このようにイチから自分の思い通りに部屋のコーディネイトをするのが楽しいのだろう。
俺自身はインテリアにあまりこだわりがないため、少女趣味にならない程度に里佳子が好きなようにやらせるつもりだ。
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「じゃあ、明日の日曜日は一緒に買い物に行こうか。あんまり高い家具は買えないけど、当面ベッドとダイニングテーブルは買わないと。それからキッチン用品なんかも一緒に見てくれる?」
「もちろん。あとはカーペットも欲しいかな。それからダイニングに食器棚は絶対必要よ。だとすると食器も買い揃えないとね。それからトイレとお風呂の用品なんかも。明日は午前中から一日お買い物ね。」
「ああ、じゃあ遅くなったけど、駅に行ってトラックを返したらお昼ご飯にしようか。」
「うん。」
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◇◇◇◇
新しいアパートは駅から徒歩十五分程のところにあり、閑静な住宅地の一角に建っている。
そしてアパートの目の前にはおおよそ五十メートル四方の小さな児童公園が隣接しており、簡単な遊具といくつかのベンチが置かれているのが見える。
この景観もこのアパートに決めた理由のひとつだ。
駅の近くで昼食を済ませた俺と里佳子は、アパートの近くまで戻ってくるとこの公園の中に入ってみた。
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意外に人は少なく、砂場で小さな子供が数人遊んでおり、その母親と思しき女性三人がその横のベンチに座ってお喋りをしている以外に人はいない。
「静かな公園ね。」
里佳子が周りを見回しながら呟いた。
「そうだね、土曜の午後ならもっと小学生がたくさんいてもいいのに。みんなテレビゲームで公園には遊びに来ないのかな。」
「アパートの前がうるさいよりもこのくらいがいいけどね。」
部屋の公園側にはベランダがあり、そこから公園を見下ろすようになる。確かに休日は静かであるに越したことはない。
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「ちょっと座っていきましょうよ。」
里佳子はそう言ってすぐ脇にあったベンチに腰を下ろし、俺もその隣に座った。
気持ちの良い五月晴れの空とそよ風が心地良い。
公園のベンチに座るのは久しぶりだ。
のんびりと明日買いに行く家具の話をしていると、サッカーボールを抱えた小学三、四年生くらいの男の子がふたり公園に入ってきた。
最近はキャッチボールやサッカーなどの球技は禁止されている公園も多いのだが、この公園には特にそのようなルールはないのかもしれない。
ふたりはすぐに向い合せに立ってボールを蹴り始めた。
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◇◇◇◇
「おばちゃん!ボール取って。」
突然男の子の声が聞こえたかと思うと、里佳子の足元にサッカーボールが転がってきた。
「おばちゃん?こんな可愛い私のどこがおばちゃんなのよ!」
「いやいや、もう27なんだから、あの子たちの母親とそれほど違わないでしょ?」
「そんなことないわよ!」
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里佳子は、多少憤慨しながらベンチに座ったままでボールを拾うため前屈みになり手を伸ばした。
「あら?」
足元へ手を伸ばした里佳子は何かを見つけたようだが、それでもそのままボールを拾うとすぐに子供達へ投げ返した。
「ありがとう、おばちゃん!」
「あの子、わざとおばちゃんを強調して言っていない?」
「まあまあ、気のせいだよ。」
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そして里佳子は、もう一度ボールを拾った時のように前へ屈むとベンチの下から何か光るものを拾い上げた。
ベンチは公園内の外周遊歩道沿いに置かれており、遊歩道は白い砂が敷かれている。
人が通るためかベンチの下はその砂が盛り上がっており、その中に半分埋まるように落ちていたのは指輪だった。
付着している砂を手で払い除けると、プラチナだろうか、光り輝く銀色のシンプルな太めの指輪であり、
そのトップには直径五ミリほどの薄いブルーの石がひとつ埋め込まれている。
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「ふ~ん、トルマリンかな?」
「あらよく知っているわね。私に買ってくれたことなんかないのに。」
里佳子が嫌味半分で笑いながら言ったが、俺はいつものことだと気に留めずに里佳子の手から指輪を取った。
見た感じの径は小さめで女性用と思って間違いないだろう。
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「小学生の頃、鉱物にはまっていた時期があったんだ。実家に帰ればその頃のコレクションがまだあるはずだから、欲しければいろいろ持ってきてあげようか?原石だけど。」
「石ころなんかいらないわよ。でもこの指輪、砂の付き方からするとつい最近落とした感じじゃないわね。お巡りさんに届ける?」
俺の知る限り、ここから一番近い交番は駅前になってしまい、また十五分歩いて駅前まで戻らなければならない。
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「面倒だから元のところに戻しておけよ。落とし主が探しに来るかもしれないし、別の人が拾って交番に届けてくれるかもしれない。」
「誰かが持っていっちゃうかもよ。」
「それはそんな良心に欠けた人に拾われたその指輪の運命さ。俺はそういった誰ともわからない人の、何らかの思いが入っていそうなものは持っていきたくないね。」
「それは私も同じだわ。私は新品じゃなきゃ嫌よ。」
里佳子の何気ない催促に苦笑いして、俺は里佳子が拾い上げたあたりの地面にその指輪を戻した。
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その時ベンチの下を覗き込んだ視界の隅、遊歩道の砂の上に黒いものがあるのに気がついた。
それに焦点を映すとそれは黒い蛇皮模様のパンプスを履いた女性の脚だ。
おやっと思い顔を上げたが、俺と里佳子の前にはもちろん誰もいない。
目の錯覚かなと思ったところで、里佳子が俺の背中に手を置いた。
「ねえ、急に寒くなったと思わない?アパートに帰ろ。」
俺は別に寒いと思わなかったが、Tシャツ姿の里佳子は汗が渇いて少し肌寒くなったのだろうか。
「そうだね、戻ろうか。」
「ねえ、明日は朝から一緒に買い物に行くんだから、今夜は泊まってもいいでしょ?」
「もちろん。」
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◇◇◇◇
居室のフローリングに直接敷いた布団の上で、里佳子に腕枕をして横になり微睡んでいると、里佳子が突然話し始めた。
「何だかさっきの指輪の事が気になって頭から離れないのよね。
私、昔から多少霊感みたいなのがあるんだけど、あの指輪にはかなりの思いが染みついているんじゃないかしら。悟志がベンチの下に戻した時も寒気がしたし。」
「実は俺もあの時黒いパンプスを履いた女性の脚を見たような気がしたんだ。気のせいだと思っていたけど。」
「なんか怖い。」
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そう言いながら里佳子は布団から抜け出し、カーテン越しに入ってくる公園の街灯による薄明りの中、裸のままダイニングテーブルへいくと
喉が渇いていたのか置いたままになっていたワインをグラスに半分ほど注いで一気に飲み干した。
「ああ、美味しい。さあ、もう遅いし、寝ましょ。」
そう言いながら里佳子は布団の横を通り過ぎ、窓に近づくとカーテンを少しだけ開けて外を見た。
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「この公園の街灯は一晩中点いているのかしら。
あれ?えっ、何あれ、ちょっと悟志、こっち来て。」
ふたりきりの部屋なのに意味もなく押し殺した声で俺を呼んだ里佳子は、そのままじっと窓の外を見ている。
「何、どうしたんだ?」
「いいから来て。」
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布団から出て里佳子の傍に寄り、頬を付けるように顔を並べて里佳子が開けているカーテンの隙間を覗き込んだ。
窓の外には街灯が照らす児童公園が見えている。
「あの街灯の向こう側、さっき私達が座っていたベンチのところを見て。」
その場所は、ここからの距離は三十メートルくらいだろうか、街灯の光によりベンチの影が長く伸び向こうの闇へとつながっている。
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よく目を凝らして見るとそのベンチの前に黒か濃紺の事務服を着た女性が立っていた。
黒髪のロングヘアで眼鏡を掛けており、やや面長な顔立ちだということまでは分かるのだが、薄暗いため顔の詳細は確認できない。
やや俯いてベンチをじっと見ているように見える。
「こんな時間に何をやっているんだろう。」
壁に掛かっている時計に目をやると午前一時を過ぎたところだ。
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「悟志、よく見て。あの女の人、影がない・・・」
言われてもう一度よく見てみると、長く伸びたベンチの影の横には同じようにあの女性の影がなければいけないのだが、里佳子が言う通り、彼女の足元から向こうにはどう見ても影がない。
それで窓の外を見た時、すぐには女性の存在に気づかなかったのかもしれない。
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「やっぱり幽霊?さっき感じた悪寒はそのせいだったのかしら。嫌だ、怖い。」
「でも、どう考えても俺達には関係のない幽霊だろうから、見なかったことにしてさっさと寝ちゃおう。」
深夜の公園に立つ幽霊と思しき姿を見て怖いと思うのは霊感のない俺も同じだ。
そしてこのままじっと見ていて、もしあの女性がこちらを振り向いたらと想像するだけで鳥肌が立つ。
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眉をひそめてカーテンの隙間をじっと見つめたままの里佳子の肩を抱いてカーテンを閉めると、布団へ戻って里佳子を抱き抱え眠る体勢に入った。
「あの女の人、ベンチをずっと見ていたけど、あの指輪を探していたんじゃないかな。」
俺の胸に頬をつけて里佳子がそう呟いた。
「そうかもしれないけど、もう考えるのは止そう。考えていると呼び寄せちゃうかもしれないよ。」
「そうね。おやすみなさい。」
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◇◇◇◇
アパートの部屋はほぼ里佳子の趣味でまとめられたが、カントリー調の雰囲気は悪くない。
里佳子とのデートもこれまでは外に出かけることが殆どだったが、最近はアパートにいることが多くなり経済的にも助かっている。
そしてあの日以降、夜になるときっちりカーテンを閉じて公園を見ないように意識して過ごした。
彼女もあの夜の事が気になっているのだろう、ベッドは公園に面した窓から離して置かれ、カーテンは公園の街灯が透けて見えない厚手のものに買い直された。
そして里佳子がここに泊る時も、俺がそうであるように、彼女も暗くなってからは決してカーテンを開けないのだ。
そうして何事もなく数週間が過ぎた。
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◇◇◇◇
その日は昼過ぎまで順調に仕事をしていたが、納品前日にアプリケーションの最終チェックで同僚が犯した失敗に気がつき、
夕方からプログラムを突貫で修正したため帰りは終電になってしまった。
駅を出て住宅地に入り、ひと気のない道を足早にアパートへ向かっていたのだが、ふとあの児童公園の幽霊のことを思い出した。
このまま歩いて行くとあの児童公園の脇を通ってアパートへ帰ることになる。
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普段帰宅する時はまだ疎らに人通りがありそれほど気にしていなかったのだが、時計を見ると午前一時を過ぎたところであり、先日のあの時とほぼ同じ時刻だ。
今日もあそこに立っているとは限らないのだが、あの幽霊に関わって得することは何もないだろう。
俺は児童公園の少し手前を曲がって、ひと区画分遠回りしてアパートに戻った。
公園にあの幽霊が本当にいるのかどうか窓の外が気になったが、思い止まって着替えるとすぐに寝てしまった。
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朝は何とか普段通りの時間に起きて出かけたのだが、前日に突貫で直したはずの問題が直り切っておらず、
納品直後のクレームにより、その日も作業に追われ、結局二日続けて終電になってしまった。
また昨夜と同じ時刻に公園の手前に差し掛かり、同じように遠回りをしようかと思ったのだが、
クレームへの対応と二日連続のプログラム修正で疲れ切っており、五分以上余計に掛かる回り道を使う気になれなかった。
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(公園の方を見なければいいんだよな。)
そう思い、回り道を止めて真っ直ぐアパートへと歩き始めた。
しばらくすると前方に公園の植栽が見えてきた。
俺は顔を伏せて自分の目の前の路面だけを見ながら足を進める。
それでも路面の明るさであの街灯の近くまで来たことが分かった。
するとベンチはこの辺りだなという思いと同時に、あの女性がいるのか確かめてみたいという強い好奇心が湧きあがってきた。
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もちろん見ない方が良いという思いも強かったが、万が一そこにいたとしても里佳子と一緒に部屋から彼女の姿を見ても何も起こらなかったじゃないかという楽観的な考えが勝り、少し顔を上げて歩きながら上目遣いでベンチの方を伺った。
(いた・・・)
彼女は先日と同じ位置に同じ服装で立っていた。
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しかし俺が戦慄したのは、先日と異なり彼女はベンチではなくじっとこちらを見ていたのだ。
距離は十メートル程だろうか。明らかに彼女と目が合った。
慌てて視線を路面に戻し、アパートへと足を速めた。
しかしそこから十歩も歩かないうちに立ち止まらざるを得なくなってしまった。
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路面を見つめる視界の前方に見覚えのある蛇皮模様のパンプスを履いた足が見えたのだ。
たったいまベンチの前に立っていたあの女性が、俺のすぐ目の前にいる。
このまま進めばぶつかってしまう。
俺は反射的に立ち止まり、思わず顔を上げて女性と向き合ってしまった。
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ロングヘアにえんじ色の縁の眼鏡を掛け、半袖の開襟ブラウスに濃い紺色のベストとスカートの事務服姿。
面長で整った顔立ちは美人と言っていいだろう。
しかしその顔は無表情で青白く生気が感じられない。
数十秒だったのか、数分だったのか、蛇に睨まれた蛙のように女性と見つめ合ったまま、ひどく長く感じられる時間が過ぎていく。
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すると女性は表情を変えずになぜか左右に首を振ると(さわい・・・)と小さな声で呟いた。
そして左手を挙げて俺を指差した。
「うわぁ~っ!」
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俺の目の前に突き出された左手は、俺を指差しているわけではなかった。
中指、薬指、小指の三本の指がなく、それらの指がついていたところからはだらだらと血が流れているではないか。
深夜にも関わらず思わず大きな悲鳴を上げた俺は、咄嗟に踵を返して来た道を逆に走り出し、
昨日と同じ回り道を使って振り返ることなくアパートまで逃げ帰った。
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部屋に戻っても、今閉じたドアの向こう、もしくは閉じた公園側のカーテンのすぐ向こう側にあの女性が立っているような気がして、
着替えもせずに頭から布団を被って震えていた。
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◇◇◇◇
いつの間にかそのまま眠ってしまったようだ。
肩を揺さぶられて目を覚ました。
寝ぼけた頭で布団から顔を上げると、何とベッドの横にあの女性がいるではないか。
「うわぁ~!」
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悲鳴を上げて飛び退き、壁に背中をつけてもう一度よく見ると、
そこにいたのは里佳子だった。
「なに?いったいどうしたの?いきなり悲鳴を上げたりして。
それに着替えないでそのまま寝ていたの?」
厚手のカーテンをかけているため部屋の中は薄暗いが、それでも窓に朝日が差しているのは分かる。
「ああ、里佳子。驚かせてごめん。」
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怪訝そうな顔をしながらもコーヒーを淹れるわねと言ってキッチンへ向かった里佳子に、服を着替えながら昨夜起こったことを話した。
「怖~い。そんなことがあったのね。でも悟志に何事もなくて良かった。」
里佳子はダイニングテーブルに座った俺の目の前にコーヒーマグを置き、自分も腰を下ろした。
しかし里佳子は何か考えている様子で、そのまま黙って手に持った自分のマグカップを見つめている。
「どうした、里佳子?」
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話すかどうか悩んでいる様子で里佳子は少し間を置いたが、やがて腹を括ったように俺の目を見て言った。
「悟志、コーヒー飲んだら一緒に公園へ行ってくれる?」
「えっ?まあ、ちょっと怖いけど昼間なら大丈夫かな。でもどうしたの?」
「うん、ちょっと確かめてみたいことがあるの。」
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◇◇◇◇
「確かめてみたいことって何?」
アパートを出て公園へと歩きながら里佳子に尋ねた。
まだ午前中だからか、公園には誰もいない。
「ううん、具体的には言い難いんだけどね。私の勘違いだといいけど。」
そして公園に入ると真っ直ぐにあのベンチへ向かい、里佳子はベンチの前まで来るとその前にしゃがんだ。
「まだ指輪はそのままね。」
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里佳子の肩越しにベンチの下を覗き込むと、数週間前に俺が置いた指輪はまだそこにあった。
ベンチの下とはいえ、こんなに長期間、誰も気付かないものだろうか。
里佳子は再びその指輪をつまんで拾い上げるとベンチの上に置き、
指輪の落ちていた辺りの砂をまるで怖がっているようにゆっくりと指先で数回払い除けた。
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「ねえ、悟志、見て。」
里佳子が砂を払い除けたところをよく見ると、細長い薄茶色の物体が見えている。
「何それ?骨か?」
「たぶんね。この指輪を拾い上げた時にほんの少しだけ見えていたんだけど、あの時は小石かなってそのまま気にしなかったの。
でもさっきの悟志の話で女性の指がなかったって聞いて、何故かふと思い出しちゃったのよ。」
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確かに人間の指の骨だとするとあの女性の指としか思えない。
しかし誰かがこのベンチでフライドチキンを食べただけなのかもしれない。
「里佳子、ちょっとどいて。」
里佳子と場所を入れ替わると、俺は里佳子と同じように指先で少しずつ骨に沿って土を払っていった。
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所詮人間の指など十センチほどの長さしかない。
すぐに乾き切った軟骨を挟んだ関節部分が現れ、
そこからさらに数センチ進んだところで濃いピンク色の曲面を成した物体に行き当った。
「うわっ・・・」
マニキュアを施した爪だ。
どの指なのかはわからないが、女性の指に間違いない。
俺はスマホを取り出して警察へ連絡した。
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◇◇◇◇
駆けつけた警察が調べた結果、やはりそこには三本の指が埋まっていた。
そして俺と里佳子は信じて貰えないと思いながらも、調べに当たった警察官に対し指の欠けた幽霊について正直に話した。
案の定、警察官は怪訝そうな顔を浮かべていたが、特に否定することなく最後まで話を聞いてくれた。
そして何かあればまた連絡するからと言われ、その日は解放されたのだが、その翌日の夕方にふたりの警察官が部屋を訪ねてきた。
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その警察官の話によると、あの後の調査でベンチ周辺の遊歩道の砂からかなりの量の血痕が確認され、
その量と範囲からすると指を切り落としただけではなさそうだということだった。
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そしてここから二キロほど離れたところに住む皆川千夏という女性が三か月ほど前から行方不明になっており、
その女性の風貌が俺の話と完全に一致すると話し、その女性と俺達の関係についてしつこく聞かれた。
しかし俺も里佳子もその名前を聞くのは初めてであり、全く知らない女性だ。
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「そうですか。おふたりがその女性と直接的には何の関わりもなさそうだということは理解しますが、
あなたが女性の風貌をあまりに的確に捉えているということを我々もどう解釈していいのか困っているんです。」
「でもそう言われても俺にとってはそれが事実なんです。他にどう話せば彼女とは無関係だと信用してもらえるんですか?」
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「もちろん聞かせて頂いた話によれば被害者の幽霊に会ったということになるのですが、
我々が個人的に心の中でそういう事もあるのかもしれないと思っても、
それを表立って事実として認知しにくいというのはご理解ください。」
ひょっとすると警察は第一発見者である俺達のことを疑っているのだろうか。
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そうするともうひとりの警察官が別な質問を投げかけてきた。
「これまで話して頂いたこと以外にその幽霊に関して何か気付いたことはありませんか?
着ていた服におかしなところがあったとか、何か言ったとか。」
俺はあの幽霊と対峙した時の事をもう一度最初から思い出してみた。
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そこで彼女が指のない手を挙げた時に何か呟いたのを思い出した。
昨日はその話を警察にしていなかった。
「本当に?何て呟いたか憶えていますか?」
ふたりの警察官は腰を浮かせて俺に詰め寄ってきた。
俺は目を瞑ってゆっくりとあの時のシーンを思い出してみた。
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「彼女と目が合って、じっと睨み合って・・・彼女がゆっくりと首を横に振ったんです・・・
そして・・・カワイイ?
いや違う、カワイ・・・サワイ・・・確か、そんな感じの三文字の言葉だったと思います。」
「カワイか、サワイ、そんな言葉だったんだね。」
「ええ、本当に小さな声だったんで確証はないんですけど。」
その後も警察官は更に質問を続けたがそれ以上の実りはなく、二時間程で引き揚げていった。
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◇◇◇◇
「悟志が無実の罪で逮捕されるなんてことはないわよね。」
里佳子が不安げな顔で俺を見つめたが、それは俺にも判らない。
しかし現時点で身柄を拘束されるようなことがないことからすると、警察も参考人程度にしか考えていないのではないだろうか。
普通に考えて、俺が犯人だとしても死体遺棄を供述するのならともかく、
指の存在だけを自ら警察に通報する理由なんかないだろう。
とにかくすべて正直に話しているのだ。腹を括って成り行きを見守るしかない。
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◇◇◇◇
冤罪に問われる心配は杞憂に終わった。
やはり日本の警察は優秀だ。
その結論は警察官が訪ねてきた三日後にやってきた。
仕事を終えてアパートに戻り、居室に置いたカウチに座ってビールと弁当で夕食を取りながらテレビのニュースを見ていた。
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【・・・今日、杉並区で三か月程前から行方が分からなくなっていた皆川千夏さんの遺体が、自宅から二キロほど離れた公園で発見されました。
警察は皆川さんに対する殺人と死体遺棄の容疑で、同じ会社に勤める澤井信弘容疑者三十六歳を逮捕しました。
警察によると、澤井容疑者は帰宅途中だった皆川さんに対し交際を迫って刃物で脅し、逃げ出した皆川さんを現場となった公園で捕まえ殺害したとみて捜査を進めています。】
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短いニュースであり、概要だけで詳細はわからないが、訪ねてきた警察官が口にしていた女性の名であり、画面に映し出された被害者の顔写真は間違いなくあの女性だ。
あの時女性が口にしたのは犯人の名前であり、サワイが正解だった。
しかし続いて画面に映し出された陰湿そうな犯人の顔には全く見覚えがなかった。
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その短いニュースの内容から推察すると、女性はその澤井という男にこの公園内、おそらくあのベンチのところで刃物により切りつけられ、それを手で防いだことで指を失ったのだろう。
そして彼女はそのまま遊歩道で殺されてしまったということだ。
遺体は犯人によって隠されたが、切り落とされた指と指輪はベンチの下に転がり込んだ。
それは偶然だったのだろうか。
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それにしても女性に交際を迫る時、相手を刃物で脅すというのはどのような神経の持ち主なのか、俺には到底理解できない。
そんな方法で、”はい”と言わせて何になるのだろう。
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そういえばニュースで、皆川千夏の遺体は公園の中で発見されたと言っていた。
あの日以来公園の横を通らないようにしているので、今日の様子は全く分からなかったが、
あの児童公園のどこに彼女の遺体を隠していたのだろうか。
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彼女が行方不明になったのが三か月前だから、俺がこのアパートに引っ越してくる前ということになる。
アパートを決める時、そして引っ越しを終えた時に公園の中に足を踏み入れているし、週末の昼間はカーテンを開けているため公園の様子はよくわかっているつもりだが、そのどこかに遺体が隠されていたのだ。
今日の昼間に遺体が発見されたのであれば、カーテンを開けて公園の様子を見ればわかるかもしれない。
時計を見るとまだ夜の九時前だ。
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俺は立ち上がりカーテンの合わせ目を少し開いて外の様子を窺ってみると、そこには予想と異なる風景があった。
いつもの誰もいない公園のどこかにブルーシートだけが掛けられているような状態を想像していたのだが、実際には公園の入り口、そして周辺には黄色のテープが張られ、周囲には何十人もの野次馬が集まっている。
そして数人の警察官が勝手に公園内へ入らないように見張りとして立っていた。
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野次馬達も夜の住宅地であることを気にしているのだろうか、小さな声で話しているようで、その声は窓ガラスを閉めテレビをつけているとほとんど聞こえない。
それ故にこのような状況になっていることに気がつかなかったのだ。
そして公園の中に目をやると、捜査はすでに完了しているようであり、見張りの警察官以外は公園内に誰もいない。
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ベンチとその周辺の遊歩道には杭が打たれ、外周とは別に黄色いテープが二重に張られている。
そしてそこから十メートルくらい離れたところには車一台分ほどの四角形の大きなブルーシートが広げられ、その四隅が木の杭で固定されていた。
あそこで遺体が発見されたのだ。
あの場所は・・・
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砂場だ。
確かに公園の中で手早く大きな穴を掘るには打って付けの場所だ。
里佳子と公園に行ったときに子供達が砂遊びをし、母親達がベンチで談笑していた様子が思い出される。
あの子供達はずっと遺体の上で遊んでいたということだ。
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ぽん・ぽろ・ぽん・ぽん・ぽ・ぽ・ぽ・ぽ・ぽん・・・
窓から外を見ていた背後で、突然リズミカルなスマホの着信音が鳴った。
スマホを手に取ると里佳子からであり、彼女もニュースを見ていて電話を掛けてきたのだった。
もちろん彼女はまだニュース以上の情報は持っておらず、俺は今の公園の状況を簡単に説明した。
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「うわっ、遺体が埋められていたのは砂場だったの?あそこで遊んでいた子供達やお母さん達はショックでしょうね。」
スマホを片手にカウチに座り直すと、残っていたビールを飲みながら犯人の人物像、そして事件の動機についての話で盛り上がった。
刃物で脅して交際を迫るその思考も理解できないが、それに加えて、そうまでして交際を迫った相手をなぜ殺さなければならなかったのだろうか。
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先日、俺は里佳子に対して、呼び寄せてしまうから彼女のことは考えない方がいいと自分で言ったのに、その時俺は電話で話をしながらどっぷり彼女について考えを巡らせていた。
そしてふっと何かを感じ、公園に面した窓を振り返った。
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先ほど里佳子からの電話を受けた時に閉め忘れたのだろう、カーテンが十センチほど開いたままになっている。
そしてその間から見える窓ガラスの向こうに、えんじ色の眼鏡とその奥にある生気のない瞳がじっと俺の方を見ていたのだ。
「うわ~っ!」
俺は咄嗟に部屋を飛び出すと、俺は関係ない、俺は関係ない、と繰り返し喚きながら、公園とは逆方向に走り、近くに住む友人宅に転がり込んだのだった。
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もうあの部屋で彼女の姿に怯えながら暮らすことはできない。
引っ越したばかりだったのだが、俺はその翌日に不動産屋へ駆け込み、別なアパートを即決しすぐに引っ越した。
そしてそれ以降は、あの幽霊を見ることはなく、あのアパート、そして児童公園の周辺には近づいていない。
しかしやはり疑問に思う。
あの時彼女は何を思って俺の部屋を覗き込んでいたのだろうか。
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◇◇◇◇
あれから半年ほど経ったある日、里佳子との結婚を考えながら何気なく見ていた不動産屋の広告の中にあの部屋が出ていた。
見るとあの時8万円だったはずの家賃が、3万5千円になっていた。
半額以下だ。
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それはあの幽霊が、その後も部屋の中を覗き込み続けているということなのだろう。
脳裏にあの眼鏡の奥の生気のない瞳が蘇る。
やはりすぐに引っ越して正解だった。
しかし公園で殺され埋められていた彼女をあの部屋に呼び寄せ、
そしてあの部屋を瑕疵アリ物件にしてしまったのは俺なのだろうか?
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別に俺自身は何も悪いことをしていないと思うのだが・・・
彼女は何を求めて彷徨っているのだろう。
・・・
◇◇◇◇
FIN
作者天虚空蔵