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長編14
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山崎さんへ

1・俺達のこと

「ひのう、ひっほひへひはひほ、ふぁいひんはんらって」

 同居人がまた、急に素っ頓狂なことを言い始めた。その同居人の端正と言えなくもない顔を見下ろし、俺、こと大須田 徹(おおすだ とおる)は僅かに眉をしかめつつ溜息を吐く。

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「口にもの入れたまま喋るな、って教えただろうが」

「そうよ。お食事中にお行儀が悪いわよ」

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 後ろで内職に勤しんでいた同居人・その2が、すかさず援護射撃をする。

「ごめん、ごめん」

 同居人・その1は慌てて俺の首筋から唇を離すと、唾液と混じって糸を引く血の筋を細い指先でぬぐい取った。

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 俺の同居人・その1。クレイヴ・パーカーは吸血鬼だ。食事はもっぱら俺の血液なので、食費はタダみたいなもんだ。

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「昨日、引っ越してきた人、外人さんだって」

 赤い舌で鋭い牙に付いた血を舐めとりつつ、クレイヴはそう言い直した。

「外人さん? へえ、そうなんだ」

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 同居人・その2……夜子(やこ)が顔を上げる。名前の通り、髪の毛も目も真夜中の闇のように真っ黒だ。

「随分遠くから来た人なんだろうな、ってのはわかったけど」

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 夜子が、『内職』で作っているものは小さな人形……の、ように見える。百円ショップの粘土と調味料各種、近所で摘んだ雑草と泥。全部を混ぜ合わせてこね回して作った人形は、何とも言えない異様な臭いがする。

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「依頼料、はずんでくれるって言ってたし。うまく行ったら、焼き肉ね」

 夜子お得意の『内職』の内容を、俺は深く知りたいとは思わない。

 思わないが、先月どこぞのマンションの屋上から億万長者が飛び降りた後で、皆で寿司を食いに行ったことは覚えている。

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 ひらり。六畳ほどの狭いアパートの畳に、小さな紙切れが落下した。俺が慣れた調子で拾い上げると、紙切れには丸っこい字で、次のような文が書かれていた。

――クレイヴだって、外人じゃん――

思わず俺が吹き出すと、部屋の真ん中の空気がふわふわと泡立った。泡立った中に、ピンク色の女性下着一式が現れる。

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ブラジャーとパンティ、ベビードール。身に着けている主の姿を、残念ながら俺は見ることができない。

「確かに、ここは日本だもんな」

 宙に浮いているようにしか見えない女性下着が、笑っているみたいにくるくると舞う。

「ちょっと霊愛、大人しくしてよ。集中できないわ」

 夜子が文句を言うと、女性下着はぴたりと大人しくなって、うなだれたように天井付近に張り付いた。

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 同居人・その3。地縛霊の霊愛(れいあ)。

「良い人だといいな、徹」

「だな。こないだみたいなシャブ中のヤクザとか、ゴミ屋敷の住人とかは正直勘弁だよな」

 クレイヴの言葉に俺が頷くと、クレイヴは再び俺の首筋に噛みついた。喉を鳴らしつつ、ごくごくと美味そうに血を飲み始める。

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 事故物件。俺たちが住んでいるのは、言わずもがな、立派な事故物件である。

 こういうところでなければ、住むことができない。経済的にも、社会的にも。

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「その外人さん、何て名前なの?」

 夜子が尋ねると、クレイヴは今度はきちんと牙を開放してから口を開いた。

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「山崎さん」

「やまざ……えっ?」

 ヤマザキさん、とは随分と和風な名前だ。日系の方なのだろうか。

「山崎さん。そう、良い人だといいわね」

 夜子が、少し不穏そうに赤い唇を歪めた。

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2・山崎さん

 チャイムが鳴ったのは、真夜中の2時を過ぎた頃だった。何故そんな時間まで起きていたのかと言うと、クレイヴに起こされたからだ。

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「痛むのか?」

 俺の問いに、クレイヴが虚ろな目で頷く。

 腰まで長い金髪に青白い肌、長い睫毛。その美貌を裏切るかのように、クレイヴの顔は滅茶苦茶な傷痕で汚されている。

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 片方の耳からもう片方の耳にかけて、細い鼻筋を割るように真横に一本。右目を縦に割って、顎にかけて一本。右の頬に斜めに二本、うち一本は花弁のようだった唇を切り裂いて、首筋にまで達している。

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 吸血鬼にとって、銀は猛毒だ。銀のナイフで斬りつけられた傷は、治癒した後もしつこく痛み続け、傷痕が消えることも無い。

「痛み止め、あったかな。ちょっと待ってろ」

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 ぴんぽーん、と、間の抜けた音が鳴ったのは、丁度俺がベッドから立ち上がりかけた時だった。

「な、何?」

 クレイヴが、顔の痛みも忘れて怯えた声を出す。夜中の2時。人間が訪問するには、遅すぎる時間だ。

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「また、誰か死んだのか?」

 事故物件、木造2階建て、駅から徒歩30分。経済的にも社会的にも余裕のある人間なら、まず寄り付かない物件だ。ついこの間も、一階の住人でギャンブル中毒の男が腐乱死体で発見されたばかりである。

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「見て来る。お前はここで待ってろ」

 俺はそっと立ち上がると、枕元のバットを握ってゆっくりと玄関に近付いた。ボロアパートの防犯なんかたかが知れている。鍵なんてその気になれば壊せるだろうし、うまくすれば思い切り蹴るだけでドアが壊れるかもしれない。

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 ぴんぽーん。

 再び、チャイムが鳴った。

「誰だ?」

 できる限り、低い声で言ってみる。二十六歳の男にそこまで迫力ある声が作れるとも思えなかったが、この際仕方ない。

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 かたん。

 ドアに取り付けてある、郵便受けが鳴った。ぎくりとして、思わず飛びのく。が、何も起こらない。

「誰なんだよ……」

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 繰り返しながら、そっと郵便受けを開けてみる。

 小さな紙片が、指先に触れた。

「やま、ざき……?」

 名刺、という呼び方を思い出すのにも、少しだけ時間が必要だった。画用紙よりも固い、艶のある質感。山崎、という黒々とした文字だけが、薄暗い部屋の中でも妙に浮き上がって見える。

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「なーんだ、山崎さんか」

 いつの間にか後ろに居たクレイヴが、安心したように気の抜けた声を出した。

「ほら徹、あの人だよ。外人さん」

 金髪碧眼のクレイヴから『外人』という言葉を聞くのは妙な感じがするが、今は笑っている場合ではない。

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「引っ越しってさ、ほら、日本だと挨拶とかするじゃん? 外人さんだけど、わざわざ来てくれたんじゃないかな」

 だからと言って、夜中の2時に来るか?

「大丈夫。山崎さんなら、俺、昨日会ってるから」

 クレイヴはすっかり警戒を解いてしまったらしく、今にもドアを開けようとしている。

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「凄く紳士的な人だったし、平気だって!」

 気休め、とは言え、今この場では命綱とも言えるドアチェーンを外そうとするクレイヴ。やめろ、と言いたいのに、声を出すことができない。

 嫌な予感がする。

 何だか、物凄く、嫌な予感がする。

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 とんとん。

 山崎さんが、ドアをノックしている。

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「山崎さーん、俺! クレイヴ! 今、開けるから」

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 がちゃり。

 鍵に手を掛けたクレイヴを、俺はどうにか後ろに押しのけた。

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「やめろ! 俺が出る……!」

 ドアが開いた。開いてしまった。

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 俺の目の前に、『山崎さん』が居た。

 真っ黒いスーツのネクタイは、180センチ近い俺とクレイヴの頭部よりも遥か上にある。身長は二メートル以上あるだろう。スーツの肩や胸板は、分厚く盛り上がった筋肉ではちきれそうだ。ぎょろり。血走った眼球が、値踏みするように俺を見下ろす。

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 『山崎さん』が、両手……らしき部分を、差し出した。何か、四角い箱のようなものを抱えている。

 東京もなか。

 ありきたりだな、とか、無難だな、とか、そういう感想は今は出てこない。

 銘菓を差し出しつつ、山崎さんはゆっくりと頭……らしき部分を、下げる。スーツの袖からはみ出す真っ白いシャツに、蛍光色の緑の染みが散っていた。

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「……!」

 俺は、勢いよくドアを閉めた。近所迷惑にならないよう、悲鳴は押し殺した、つもりだ。

「何で閉めちゃうのさ。山崎さんに失礼だろ」

 クレイヴが、不満げに眉をひそめる。

「お前、あれ……! あっ、あっ……!」

 どっと冷や汗が沸いた。クレイヴに掴みかかろうとするのだが、両手が言うことを聞かない。

「……! ……!」

 呼吸を整えつつ、どうにか立ち上がる。頭を左右に振って、たった今見た光景をどうにか納得の行くものに作り替えようと、無駄な努力をしてみる。

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 山崎さんの身長。体格。そんなものは、どうでも良い。

 でも、袖から覗く山崎さんの両手は。スーツの襟やネクタイを汚しながら滴っていた、山崎さんの顔は。

 顔が滴る、なんておかしな表現だ。でも、それ以外に言いようが無い。

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「と、溶けてた。溶けてたじゃねえか」

 ようやく声を出せるようになってから、震えながら呟いた。

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 発光する緑色のドロドロ、それがスーツを着て、挨拶用の菓子を差し出している。何の冗談だ? あんなものは見たことがない。そのドロドロした頭(らしき部分)に埋め込まれた、人間の拳大はありそうな眼球。青と赤の血管がはっきりと透け、どくんどくんと脈打ちながらドロドロの顔の中を動き回り、俺を見下ろしているのだ。

「大丈夫だよ。あの人の住んでたとこじゃ、あれが普通なんだから」

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 クレイヴが笑いながら言って、汗でぐっしょりと湿った俺の肩を叩く。

「だから、言ったろ? 地球外人なんだよ、山崎さんは」

 がたん。郵便受けが、また鳴った。さっきよりも大きな音に、俺はびくりと全身を震わせる。

「あーあ。山崎さん、帰っちゃった」

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 クレイヴは呑気な声を出しながら郵便受けを探ると、『東京もなか』の箱を取り出した。

 華美な装飾が施された包装紙は、暗闇でもてらてらと光る緑色の染みで汚されていた。

「食べる? 明日になったら、夜子が全部食べちゃうよ」

 いつの間にか痛みが治まったらしいクレイヴを見て、俺は深い溜息を吐く。

「甘いもんはいい。酒をくれ」

 シャブ中のヤクザと、果たしてどっちがマシだろう。あれが隣人なのかと思うと、先が思いやられて仕方が無かった。

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3・夜子のこと

 言わずもがな、人間は働かなければ食べていくことができない。二十六歳の定職の無い男だって、それは同じである。

「大須田先輩、どうしたんすか?」

 暇なのを良いことに、レジに立ったままうとうとしてしまっていたらしい。後輩に声を掛けられ、俺ははっと顔を上げた。

「あ、ごめん。ちょっと寝不足で……」

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 欠伸をかみ殺しつつ、客がいないかどうか周囲を見回してみる。大丈夫だ。元々、こんな辺鄙な場所にあるコンビニなんて、立ち読み目的の不良か、煙草や競馬新聞を目当てに来る輩しか来ない。

「昨日、俺の隣に引っ越して来た奴がいたんだけどな。夜中の2時に挨拶に来やがってよ」

「うわぁ、そりゃ常識無いっすね」

「外国の人だって言うし、仕方ないのかもしれないけどよ」

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 二十代の後半にもなってコンビニバイト、というのも情けないが、悲しいかな、世間は一度道を踏み外した者に優しいようにはできていない。

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「先輩、俺、結婚しなきゃかもしれないっす」

 沈痛な面持ちで、後輩が突然とんでもないことを言い出す。

「はぁ?」

「今付き合ってる彼女が、妊娠したとかで……」

「お、おい待て、斎藤」

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 とにかく、吐き出せる相手を探していたのだろう。堰を切ったように、後輩、こと斎藤は話し始めた。

「彼女、もう三か月も生理が無くって。医者に行ったら、ほとんど確実だって言われたみたいで。俺以外心当たり無いって言われて、責任とれって、でも俺どうしたらいいか」

 挙句、ようやく吐き出せた相手が単なるアルバイト仲間……と、いうのはいささか寂しすぎる気もするが。

「先輩、元ヤンっしょ? 女孕ませたことなんて、いっぱいあるでしょ? ねえ大須田先輩、俺どうすれば」

「いや、だから待て斎藤! 俺も経験無いんだよ、そういうの!」

 見た目で良く誤解を受けるが、この俺、大須田 徹に女性経験は無い。髪の毛が茶色みがかっているのは生まれつきだし、筋肉質な体は肉体労働中心のアルバイトを数こなして来たためだ。

「コンビニバイトじゃたかが知れてるだろ。他の仕事を探せ。お前の年なら、就職できるからよ」

 斎藤には申し訳ないが、俺には月並みなことしか言うことができない。

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「いらない子供ならさぁ、帰しちゃえば?」

 斎藤の剣幕に押されていたからだろうか。俺は、客が来ていたことに気付かなかった。

「い、いらっしゃいませ!」

 お決まりの台詞を言った後で、俺の顔が青くなる。

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「や、夜子じゃねえか! 何でここに」

「あら。コンビニにお客が来たらいけないのかしら?」

 肩までできちんと揃えられた黒髪と真っ黒な瞳を持つ女が、赤い唇でにやりと笑う。黒いレースのワンピースに黒いヴェールまで合わせているのだから、こんな空間では相当に場違いだ。

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「だからさ、帰しちゃえば良いのよ。良く言うでしょ、七つまでは神様の子、って。知らない?」

 黒いハイヒールでつかつかとレジに歩み寄り、夜子は斎藤の前に身を乗り出す。

「七歳までは、不慮の事故で亡くなっても、神様に連れていかれたんだ、ってそう考えるの。死んだんじゃなくって、神様が気に入ったから持って帰ったの。わかる? 七歳までは、神様のところへ帰って幸せに暮らせるの」

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 めかしこんだ夜子と対照的に、俺と斎藤はアルバイト用のちゃちな制服を着ている。斎藤の制服のポケットに、夜子は喋りながら無断で手を突っ込んだ。

「七歳までなら良いのよ。だから、生まれる前の子供なら。猶更」

 斎藤がポケットに隠していた煙草の箱をするりと抜き取ると、夜子は一本だけ取り出して真っ赤な唇に咥えこんだ。

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「火」

 夜子に顔を近づけられ、真っ赤になった斎藤がレジ横に置いてある百円ライターに手を伸ばす。

「は、はいっ!」

 売り物だったはずのライターをおぼつかない手付きで操って、斎藤は夜子の咥えた煙草にどうにか火を点けてやった。

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 ふうっ、と煙を吐き出し、夜子が続ける。

「貴方の恋人がどうしても生むことを選択しているなら、私がどうにかしてあげる。百万……いえ、初回サービスで五十万でいいわ。必死にかき集めたらそのくらい安いし、それに」

 夜子が煙草から唇を離した時、フィルターには真っ赤な口紅の跡がべったり付いていた。

 一緒に暮らしておいて何だけど、俺、この女は苦手かもしれない。

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「ガキ一匹育てるのに、家一軒買えるくらいのお金が掛かるのよ? 五十万で済むなら、破格だと思わない?」

 斎藤の顔色が、青くなったり白くなったりする。

「え、あ、でも、その」

 場の空気に耐えられず、俺は助け舟を出すことにした。

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「夜子。お前、何しに来たんだよ。斎藤いじめに来たわけじゃねぇんだろ」

 俺がそう言ってやると、夜子はお得意のにやり顔で煙草の燃えさしをレジに押し付けた。

「ねえ、徹。私、友達できたんだ」

「えっ?」

 意外だった。こいつには、一生できないもんだと思ってたから。

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「霊愛、とかいうオチじゃねえよな?」

 俺がこっそり耳打ちすると、夜子は苦笑しながら首を振る。

「あの子とは仲良しだけどね、違うの。生きている友達。今日、これからランチなの」

 何だ、ただの自慢か。仕方ない、こいつにはずっと居なかったし、居ても長続きしなかったから。

「でも、大丈夫なのか? お前の内職って、ほら」

「ああ、それは大丈夫」

 夜子が、二本目の煙草に勝手に火を点ける。

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「恨まれるような子じゃないし、全然平気よ。お金入ったら、一緒に焼き肉行く約束もしてるしね」

 夜子の奴、前に俺達と焼き肉行くって約束したのに。この分じゃ、すっかり忘れている。

「写真、見る? もう、本当に良い子で……」

 夜子が、嬉しそうに自分のスマートフォンを取り出した瞬間だった。

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 コンビニの半透明の自動ドアに、ペンキをぶちまけたような赤色が飛び散った。

 一拍だけ間を置いて、外から悲鳴が上がる。斎藤は何が起きたか理解できていない。夜子もだ。

 俺は慌てて、制服のまま外に飛び出す。

「お客様? 大丈夫ですか、お客様?」

 正確には、自動ドアの真ん前で死んでいる『そいつ』がお客様になったのかどうかは不明だが。こうしておけば、善意の店員であるということを周辺の皆様に理解して貰えるわけだ。

「お客様! お客様!」

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 揺すっても、怒鳴っても、起きる気配は無い。当たり前だ。もう、とっくに死んでいる。

 俺の腕の中でぐったりとしているのは、まだ若い女だった。首筋がばっくりと割れている。力の抜けた右手には、血まみれのカッターナイフがあった。

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「嘘よ!」

 自動ドアから飛び出して来た夜子が、悲鳴を上げた。

「何で? 自分でやったの? 何で……」

 人前での自傷行為。それを超えた自害。そんなもの、今時珍しくも無い、かもしれないけれど。

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 夜子は首筋をずたずたにして死んでいる女に駆け寄ると、黒いレースが汚れるのも構わず、取りすがってわんわん泣き始めた。

「今日、ランチ行くって言ったじゃない! 焼き肉行くって言ったじゃない……!」

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 やっぱり、か。

 俺は、心の中で溜息を吐く。

 今回が初めてでもなければ、きっと最後でもない。夜子は、何回だって繰り返すんだ。

「嘘よ! 嘘!」

 こうやって、夜子が泣き喚く光景を見るのも、何度目だろう。最初のうちは面食らったけれど、もう慣れた。

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 人を呪わば、穴ふたつ。

 他人を呪い殺すことに成功しても、呪いの効果は自分に跳ね返って来る。結局、墓穴は呪い殺した相手の分と、呪った自分の分と両方が必要になる。有名な諺だ。

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 だが、現実はそうじゃない。

 才能がある人間というものは、簡単には死なない。いや、自分が死なないように、無意識に帳尻合わせをしていると言うべきか。

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 夜子は、頼まれた通りに『内職』をこなすだけだ。億万長者がビルから飛び降りた時だって、自分がやったという自覚は無かった。

 でも。あの億万長者と生きているうちに出会えていたら、夜子はあいつを好きになっていたかもしれない。

「なあ、夜子。お前やっぱり、自分が死なせるつもりの相手しか好きになれないんだな」

 俺は小さな声でそう言ってみたけれど、夜子の耳に届いたかどうかまではわからなかった。

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「あ、あの」

背中の辺りで、おずおずとした声が聞こえた。

「斎藤?」

 顔色は真っ青だったけれど、斎藤は斎藤だった。

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「救急車、呼びました。け、警察も……」

 自殺なら事件性は無いだろうけれど、天下の往来なのだから仕方が無い。

「あ、あと、それからこれ……」

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 斎藤が躊躇いながら差し出して来たのは、薄紫色で統一された小さな花束だった。

「さっき、お客さんが来て置いてったんです。亡くなった女性に、って……」

 そんな馬鹿な。俺は驚いて斎藤を見つめた。夜子の友達だった女が死んで、まだ数分も経っていない。何も知らない奴がわざわざ花を手向けに来るなんて、そんな馬鹿な。

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「ヤマザキ、って言ってました。そんで、俺にはこれ、くれました」

 斎藤が、俺の前で閉じていた拳を開いてみせる。

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 おしゃぶりだった。まだ開封されていない、買ったばかりの、赤ん坊用のおしゃぶり。

 斎藤の両目からぼたぼたと涙が滴る。

「大須田先輩。命って、儚いっすね。俺、覚悟決めます。俺、頑張って父親になります」

 山崎さん。いや、それはさておき。たったこの程度のことで、この斎藤がここまで心変わりするなんて。

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「山崎さんって人、凄いっすね。俺、あんな美男子初めて見ましたよ。背が高くって目鼻立ちがくっきりしてて、髭も立派で、貫禄あって……外人さんなんすかね?」

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 本気かよ。

 いや、斎藤。お前が見たのは、本当に俺が知っている『山崎さん』なのか? 割とある苗字だし、別人じゃあないのか?

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「……正しい姿を見ているのは、あんただけかもしれない」

 鼻を啜りながら、夜子が小声で呟いた。

 斎藤が山崎さんから貰ったという花束を手渡すと、夜子は一度だけ香りを吸い込んでから、友の眠る血だまりにそっと置いた。

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「これで、確実にお金は入る。徹、今晩焼き肉付き合って」

 やった。そう思うと同時に、俺は少しだけ憂鬱な気分にもなる。久しぶりの焼き肉は嬉しい、それは事実なのだが。

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 肉を食べすぎると、クレイヴの野郎が血が不味いと文句を言い出すんだ。さて、どう言い訳したものやら。

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@aino 様
ありがとうございます!
できるだけ早く生やします!

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