長編18
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山崎さんへ2

4・焼き肉屋にて

 店に足を踏み入れた瞬間、「いらっしゃいませ」と言いかけた店長(らしき)人物が顔を曇らせたのがわかった。

「予約していた大須田です」

 夜子が落ち着いた調子で言った。

「個室なんですけど」

真っ黒な目で、怯むことなく店長を見上げる。

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「個室は、四名様からとなっていますが」

 腹の出た店長が、「ふん」と鼻を鳴らして横柄に言った。

「あら、それはおかしいわ」

 夜子が小さな頭を傾げて、赤い口元に指先を当てた。ご丁寧に、爪の先までが真っ黒いマニキュアで毒々しく染められている。

「ホームページには、確かに三名から個室利用可、って」

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 夜子が、後ろにいるクレイヴにちらりと目をやった。フード付きのパーカーとサングラスに大きめのマスクで、傷だらけの顔は完璧に隠されている。でも、成程確かに胡散臭い。

「ご希望頂いた『特製牛タン』も、四名様からのご注文となっておりまして」

 夜子の質問には答えようともしないで、店長は馬鹿にしたように言って口の端を歪めた。

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 だから俺は、チェーン店にしようって言ったのに。こういうことがあるから、個人経営の店というのは苦手なんだ。

 黒ずくめのワンピースに派手な化粧の夜子、目付きが悪くて茶色い頭の俺、顔を隠したクレイヴ。

どう見てもちぐはぐな三人組。確かに、こういう高級志向の店にとって招かれざる客かもしれない。そう言えば、客層も何となく上品だ。妙な客を受け入れたら、まともな常連が寄り付かなくなるかもしれないし、店のイメージにも関わる。

 店側の言い分も、一応は理解できる。

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「あちらの席でしたら、どうぞ」

 店長が視線で示した『席』は、トイレのすぐ隣にあった。椅子もテーブルも他の席より明らかに古く、店にそぐわないと判断した客を早くに追い出すために敢えて設置している席のようだ。店長はにやにや笑っているし、店員や客までもが、面白がるみたいに俺達を観察しているのがわかる。

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 店の言い分も理解はできる。でも、こんなのはあんまりじゃないか。

 俺が、「もう出よう」と言いかけた時だった。

 夜子が大きく溜息を吐いて、困ったように眉根を寄せた。

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「そう、わかりましたわ。あそこのお席で、通常のメニューでしたら、私達でもお食事をさせて頂けるのね?」

 まさか、そう返されるとは思わなかったのだろう。店長が驚いたように「ええ、まあ」とか何とか言うのを確認して、夜子はにっこりと微笑んだ。

「あら、嬉しいわ。私達が他のお客様に迷惑を掛けたり、暴れたりしない限りは、あそこのお席で、通常メニューで、誰にも邪魔されず、不当に追い出されもせず、食事を提供されない、などということもなく、明朗会計で、三人とも最後までお食事をさせて頂けるのね?」

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 ……夜子の奴、何か企んでいやがる。こいつが妙に丁寧な口調になる時は、大抵、相手を完膚なきまでに叩きのめそうとしているに決まっている。

「ええ、それは……」

 余りにしつこい夜子の問いに、店長が口ごもる。

「聞きましたわね、皆さん」

 夜子がにっこりと笑って、ちらちらとこちらを伺っていたお上品なお客様たちに向き直った。

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「ここに居る皆さんが証人です。私達三人は、この店でお食事をする権利を得ました」

 ぺこり、と、芝居がかった仕草で一礼。黒くて短いスカートが捲りあがり、お上品なお客様方の視線がそこに集中した。

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「クレイヴ!」

 夜子がぱちんとが指を鳴らすと、クレイヴがパーカーのフードをおろした。長い金髪が流れ落ちるより早く、サングラスとマスクも同時に外す。

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「ばぁ」

 そんな言葉と共に舌まで出して見せたのは、クレイヴなりの抗議なのか。それとも、単なる悪ふざけか。

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 引きつった瞼。白く濁った眼球。深く抉れた四本の傷は強引な縫合で赤黒く盛り上がり、表情を作る度に巨大なミミズのようにぐにゃりと歪む。裂けた唇は完全に閉じることが無く、右側の捲れ上がった上唇の隙間からは鋭い牙が絶えず覗いていた。

 店長が息を飲んだのがわかった。弛んだ頬が見る見る青ざめる。実際に悲鳴を上げなかったのは、流石プロと言ったところか。

「個室を、ご用意させていただきます……」

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 青ざめた顔が、今度はしおしおと沈んで行った。唇の端がぴくぴく震えている。文句を言われない範囲内で、精一杯、クレイヴの顔から視線を逸らそうとしているのだろう。

「特製牛タン……」

「そちらも、すぐにお持ちします」

 かたん。食事をしていた客の何人かが、箸を置いて俯いた。店長と同じくらいに青ざめている。薄暗い店内ではあったが、運悪くクレイヴの顔を見てしまったらしい。

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 店にとって一番の痛手は、悪評が広まってしまうことだ。夜子に何度も条件を確認されているから、今更俺達を追い出すわけにはいかない。刺青やピアスの類だったら、それでもまだ言い訳の仕様がある。でも、クレイヴの場合は傷痕だ。

 障害を理由に入店を断ったと知れたら、店の評判に関わることになる。だが、誰が見ても悲鳴を上げそうな顔の男を、他の客の目につく場所に置いておくわけにもいかない。

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「あの店長、結構物分かり良いじゃん。vip待遇ってやつ?」

 人目の無くなった個室で、クレイヴが上機嫌でハイボールを煽った。

「隔離、に近いわね。この場合は」

 夜子が赤ワインを片手にメニュー表を捲る。

「私は、特製牛タンさえ食べられたら何でも良いんだけどね」

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 こういうやり方が褒められたものではないことはわかっている。でも、クレイヴが顔を隠して生きても、顔を晒して生きても、否定する奴は絶対に否定する。

 世の中全てに認められる生き方なんかあるわけがない。だったら俺は、本人が一番楽だと思う生き方をしたら良いと思う。 

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「あーあ。私、何であんなに悲しかったのかしら」

 夜子が溜息を吐いて、手酌で赤ワインを注いだ。

「今思えば、そんなに気が合う子でもなかったのよね。独善的ってやつ? 優しいのかもしれないけど、恩着せがましい、っていうか、息が詰まるって言うか」

 昼に夜子のせいで命を絶った、あの友達のことを言っているのだろう。

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 いつもこうだ。

夜子は、自分が誰を死なせることになるのかわからないまま『内職』をしている。そうして、死ぬ予定の相手を好きになる。

 相手が死んだ時は、この世の終わりかのように泣き叫ぶ。泣き叫んだ後は、相手への興味を完全に失う。

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「ちょっと吞みすぎたかな。私、お手洗いに行ってくるわ」

 店長がサービスで大盛にしてくれた『特製牛タン』を一人で八割がた平らげた後、夜子は鼻歌を歌いながら個室を出て行った。

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「夜子のお相手って、これで何人目だっけ?」

 既に何倍目かわからないハイボールを喉の奥に流し込み、クレイヴは氷の入ったジョッキを顔の傷に当てた。酔うと、傷が熱くなるらしい。

「さあなぁ。『内職』の度に変わるから、もうわかんねえや」

 俺も何倍目かわからないビールのジョッキを傾けつつ、おざなりに答えてやる。

 恋人、なら、どれだけ紹介されたかわからない。夜子の恋人は毎回変わるし、毎回絶対に死ぬ。

 だから、『友達』を紹介された時は驚いたのだけれど。結局、いつものパターンと何も変わらなかった。

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「夜子って、どこから来たんだろ」

「ああ。気が付いたら居たもんな、あいつ」

 ある日突然、「ただいま」と言って、アパートにある俺たちの部屋に入って来た。それが夜子だ。

「クレイヴ。お前、今日酒しか飲んでないだろ。少し食っとけ」

 個室だから、遠慮はいらない。俺がTシャツの襟を引っ張ると、クレイヴは嬉しそうに首筋にしがみ付いて来た。

「丁度、おつまみが欲しかったんだよね」

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吸血鬼は、消化器官が未発達で固形物を消化できない。血を吸うための牙は立派だが、それ以外の歯はかなり退化していて、子供の乳歯より小さいくらいだ。顎の力も弱い。だから、咀嚼ができない。

 喉を通るのは液体か、プリンやゼリーなどのごく柔らかい食べ物だけだが、それだって栄養にはならない。

「徹の血って、結構ウィスキーに合うんだよな」

「褒めてんのか? それ」

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血管に牙を突き立てられているのに、痛みは感じない。吸血鬼の唾液には麻酔成分があるとかで、下手に動いたりしなければ、むしろ少し気持ち良いくらいだ。

「夜子はさ。もし俺達がいなくなったら、どこに行くんだろう」

 しばらく血とハイボールを交互に楽しんでいたクレイヴが、ふと口を開いた。

夜子が俺達と一緒に暮らすようになって、まだ日は浅い。

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「だって徹。お前が明日死んだら、俺も死ぬしかないだろ?」

「そうだな。餓死するよな」

吸血鬼は、血液からしか必要な栄養を取れない。つまり、血を提供する俺の寿命が尽きたら、自動的にクレイヴの人生も終了、ということになる。

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「霊愛ちゃんもさ。あの子、成仏するのが怖い、って言ってたけど。何だかんだ徹のこと好きだし、徹が死んだら一緒に成仏してくれるんじゃないかな」

 俺は、この場にはいない霊愛の姿を思い浮かべた。と言っても、霊愛本人の姿を見ることはできないのだが。

 ほとんど透明人間というか、本体の姿は見えない癖に、霊愛は毎日違った柄の派手な下着を身に着けている。元・風俗嬢のたしなみ、というやつだろうか。成仏したくない理由は、『赤ちゃんをいっぱい死なせちゃったから、地獄に行くのが怖い』そうだ。

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「でも、そうやって俺ら三人がいなくなっちゃっても。何か、夜子は夜子のまま、っていうか。どっか他の場所で、普通に生きてそうな気がする」

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 それは有りうる。

 俺は、少しの間考え込んでしまった。夜子は、今までもそうやって生きて来たんだろうか。俺達みたいな世間の除け者達の間を渡り歩いて、『内職』を繰り返して。

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「ただいま」

 個室の暖簾をくぐって、夜子が戻って来た。牛タンの脂で大半落ちていた口紅は、綺麗に塗り直されている。

「ちょっと二人とも、こっち来てみてよ」

少し興奮した顔つきで、じれったそうに俺達を手招きした。

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 夜子に続いて、個室を出た俺達がみたものは。

「あ……」

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 山崎さんが、店の中心のテーブルに座っていた。

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5・山崎さんの勝負

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山崎さんが、店の中心の、一番大きくて一番派手な装飾のテーブルに腰かけている。大勢の観客と、山もりの肉の入った皿に囲まれて。山崎さんの向かいの席には、紙エプロンを付けた若い男が、不敵な笑みを浮かべて座っている。

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「さあ! 今回、王者に挑戦するのは! 海外からの刺客! 山崎さんです!」

 先ほど俺達に失礼な態度を取った店長が、マイクを片手に頬を上気させて叫んだ。

 わっと歓声が上がる。見れば、カメラを構えている従業員や、スマートフォンを掲げている一般客まで居る。

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「あ、これ、生配信やってる。大食い一本勝負、だって」

 クレイヴが自分のスマートフォンを操作して、俺に見せてくれた。

 素人も投稿できる、国内最大級の動画サイトだ。大食い勝負にチャレンジする客の様子を、全国に向けてリアルタイムで生中継するつもりらしい。

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正直、俺はこういうイベントに興味が無い。普段なら、すぐにでも個室に戻っていただろう。

 王者とやらの対戦相手が、山崎さんでなければ。

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 山崎さんは、相変わらずのスーツ姿だった。ただし、引っ越しの挨拶で着ていたのとは異なる、深いワインレッドのダブルスーツだ。同系色のネクタイを合わせていて、とてもお洒落だとは思う。

 山崎さん自身が、蛍光グリーンでさえなければ。

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「始め!」

 店長が怒鳴ると同時に、ゴングが鳴った。

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 山崎さんは、俺の知っている山崎さんだった。緑色のゼリー状にとろけた体が、スーツの襟や袖から流れて、テーブルクロスに滴り落ちている。スーツの襟から上、本来なら首と顔のあるはずの部分もやはりゲル状で、例の拳大の眼球が生き物のように泳いでいた。

胸板や胴体は相変わらず分厚かったけれど、それだって衣服の中でゲル状物体である緑の体を変形させて筋肉に見せかけているのだから気味が悪い。

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「どうした山崎さん! 遅れを取ったか!」

 店長がマイクに向かって絶叫する。キィン、と割れた音が響き渡った。

 先手を打ったのは、王者の方だった。物凄い勢いで生肉を焼き網の上に乗せ、焼ける傍から口の中に放り込む。噛む音は豪快で、口の端から唾液交じりの泡が滴った。

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「がんばれ、山崎さん!」

クレイヴが叫んだ。途端に、さっきまでお上品だったはずの観客たちまでが野次を飛ばし始める。

「行け!」

「負けるな!」

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 山崎さんは、しばらくの間、赤い生肉の山をじっと観察しているようだった。それから、不思議そうに、目の前で肉を頬張る王者を見つめた。

 そして。

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 緑色の染みだらけの袖を、割りばしの方へ伸ばした。袖から飛び出した緑色のドロドロが、ぐにゃんと飛び出して割りばしを掴み取る……いや、割りばし自体が、ドロドロの中に半分以上飲み込まれた感じだ。

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「山崎さん、今、箸を手に取りました!」

 あれは、手なのか?

 俺に『東京もなか』を差し出して来たのも、あの袖から飛び出した『手』らしきゲル状物体だったけれど。

 山崎さんに手だとか足だとかは関係あるのか? 全身がゼリーみたいな何かが、人間用の衣服の中に無理矢理納まっているだけじゃないのか?

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「さあ、ここからが勝負だ!」

 額に汗して、店長が叫ぶ。

山崎さんが、箸で肉を掴んだ。枚数が半端じゃない。掴めるだけ、というか、真っ赤なカルビを十枚近く拾い上げている。

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あんなに沢山、一度に焼けるのか。

 だが、そんな心配は杞憂だった。

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「山崎さん、一気に追い上げにかかりました!」

 肉は、焼かない作戦らしい。

 山崎さんは、十枚ほどの生肉を襟の上……人間ならば、口が付いているはずの部分に押し込んだ。じゅ、と音を立てて、薄緑色の煙が上がる。深紅の肉がみるみる小さくなって、山崎さんの緑色の体に吸い込まれていく。山崎さんの口(らしき)部分で、緑色の泡がこぽこぽと膨らんだ。

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「消化液ね。あっという間にタンパク質を溶かしているわ」

 夜子が、俺の耳元で囁く。

「あれが、山崎さんの故郷での『お食事』なのね」

 次の肉も、その次の肉も、山崎さんは一気に掬い上げては『口』に押し込んだ。衣服の襟の上は口、そのまた上は目玉。位置を忠実に守って『口』部分だけで食べているのは、地球人に対する配慮なのか。

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「食べ方、綺麗ね」

「外人さんなのに、お箸が上手」

 観客から声が上がる。俺には緑色の不定形物体が生肉を溶かしているようにしか見えないのだが、こいつらには一体何が見えているのだろう。

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 歓声の効果か、王者が目に見えて焦り始めた。一度に肉を焼いて頬張ろうとするのだが、王者が飲みこむ前に山崎さんは倍の量を溶かしているのだから勝負にならない。

「どうした!」

「差がついてんぞ!」

 王者はきちんと網で焼いてから食べているから、焼きあがるまでにどうしても時間が掛かる。対して、山崎さんは生で、それも噛んだりせずに直接消化液で溶かしているのだから、差が出るのは当然だ。

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 山崎さんの目の前に盛られた肉は、半分になった。王者の方は、三分の二ほど残っている。

 とうとう王者は、生肉を焼かずに口に運ぼうとした。だが、すかさず野次が飛ぶ。

「肉は焼いて食え!」

「そうだぞ、ズルするな!」

 ……山崎さんは、さっきからずっと生のまま食べ続けているんだが。本当に、こいつらには何が見えているんだ?

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 お互いの皿に山盛りだったはずの肉が、どんどん無くなって行く。王者も頑張ってはいるのだが、山崎さんのスピードには適わない。

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 突然、山崎さんが上着を脱いだ。いや、上着の方が弾け飛んだ、ように見えた。ぷちぷちと音を立てて襟元のボタンが外れて行き、筋肉のように固めていたゲル状の肉体がテーブルクロスに溢れ出す。

 そして、残りの肉を皿事包み込んでしまった。

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「山崎さん、一気に掻き込んだ!」

 掻き込むと言うか、残りを一度に溶かしているだけに見えるのだが。流れ出した胸板(?)のゼリーの下で、更に残った肉が泡立ちながら消えて行く。ごぼごぼ、と、粘着質な泡は甘ったるい匂いの湯気を上げながら弾けて行き、店中が淡い緑の煙で包まれた。

 王者の顔が絶望に変わった。

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「勝負あり! 勝者、山崎さん!」

 店長の怒鳴り声と、マイクの割れた音に負けないほどの歓声が上がる。いつの間にか、店中の人間が勝負を見守っていたらしい。

割れんばかりの拍手の中、山崎さんははだけた胸元を正すと、立ち上がって優雅な身振りでお辞儀して見せた。

山崎さんの肉体が流れていたテーブルクロスは緑色の染みだらけだったが、気付いている者は誰もいないみたいだった。

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「非常に綺麗な召し上がり方で、思わず魅せられてしまいました!」

 そうか? 俺には、グロテスクにしか見えなかったが。

「聞いたんだけど、山崎さんって全身が口みたいなものなんだって」

 夜子が小声で言って、面白そうに笑う。

「体のどこでも、くっついたタンパク質は溶かせるみたいよ」

 そうか。山崎さんには、握手を求められても断るようにしよう。

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「っていうかこの店、上品ぶってるくせに大食いイベントか。結構経営厳しそうだよな」

 良い加減酔いの回ったらしいクレイヴが、思っていても心に留めておいてほしいことを口にする。

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「ワインも大したことなかったわね。私、ちょっと呑み直してくるわ」

 いつの間にか、夜子の隣には俺たちの知らない男が立っていた。

「私、この人ともう一軒行くから。これで適当に払っといてね」

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 三枚の一万円札を、無造作に押し付ける。今更だが、夜子の金遣いは結構えげつない。

「その人、って」

「新しい彼氏よ。決まってるじゃない」

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 夜子がうっとりと見つめる相手は、どう見ても四十過ぎの中年男だった。別段、魅力的でもない。でれでれと相好を崩しながら、夜子の腰の辺りを嫌らしく撫でまわしている。

「ごめんね。霊愛には、代わりに謝っといてくれる?」

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 ……霊愛以外に同姓の友達がいないくせに。この女は、何回約束を破れば気が済むんだろう。

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「今度は、何日持つと思う?」

 夜子と中年男の後姿を見送ると、クレイヴが言った。

「一週間だ」

 俺の答えに、クレイヴも頷く。

「じゃ、俺は三日。千円賭ける」

 多分、あの彼氏とやらの命はあと僅かだ。俺は絶対に御免だが、夜子みたいな女と最後の時を過ごせるなら、それも幸せなのだろうか。

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 山崎さんは、賞金の受け取りを拒否したらしい。俺達が山崎さんの知り合いだ、とでも聞いたのか、店長がやけに媚びへつらった様子で、俺たちの食事代を無料にすると言ってきた。

 そういうわけで、夜子の三万円は俺たちの臨時収入となった。

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6・霊愛のこと

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 地縛霊というのは、死んだ場所を離れられない。地に縛られる霊、と書いて地縛霊だ。大体はその土地に未練があったり、死んだ状況が特殊だったりで、そうなってしまうらしい。

 とはいえ、我が家の霊愛にそれほどの悲壮感があるとも思えないのだが。

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「霊愛、帰ったぞ」

「ただいま」

 クレイヴと二人で交互に呼びかけると、玄関前の空気が泡立つように歪んだ。

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 ――お帰りなさーい! ――

 ピンク色の便せんがひらひらと落ちる。拾い上げるより先に、真っ赤なキャミソールが目の前に現れた。丈は長いが、生地が透けているから黒いブラジャーとパンティが丸見えだ。

 ――ねぇねぇ、夜子ちゃんは? ――

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 姿が透明なことと関係があるのか、霊愛の声も透明で俺たちには聞こえない。だから霊愛は、言いたいことは紙に書いて伝えて来る。

「えーっと……」

 俺が買ってやった百円ショップの便せんを拾い上げ、どう答えたものかと迷った。

 夜子の奴め。とばっちりを食うのは、いつだって俺たちなのに。

「夜子は、その……新しい彼氏と、デートで……」

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部屋の空気が変わった。真っ赤なキャミソールが、空中でぷるぷると震えている。

 ――夜子ちゃんのバカ(T_T) ――

 びゅん、と、台所から飛んできた茶筒が、俺の額に当たった。

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「痛ぇ!」

 茶筒だけじゃない。座布団が、ポットが、ボールペンが、物凄い勢いで飛び交ってはぶつかり合う。部屋の中に竜巻が起こったみたいだ。

 ――一緒にドラマ見るってやくそくしたのに! ――

 テレビが点滅を始めた。誰も操作していないのに、次々画面が切り替わる。冷蔵庫のドアが激しく開閉する。

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 ――バカバカバカ! 夜子ちゃん霊愛がきらいなんだ! ――

 ――やくそくしたのに! 霊愛と先にやくそくしたのに! ――

 ――とおる君とクレイヴもいじわる! ――

 ――なんで夜子ちゃんつれてかえってくれなかったの! ――

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 部屋中を飛び交う道具類に混じって、ピンクの便せんが次々に舞い落ちる。道具が壁や天井にぶつかる度、怒った人間が八つ当たりにものを投げつけているような、凄まじい音が鳴り響いた。

「霊愛ちゃん、落ち着いて……うわっ!」

 縦横無尽に飛び回る座布団に攻撃され、クレイヴが崩れ落ちる。

「やべぇ……ポルターガイストだ」

 俺はクレイヴから買い物袋を取り上げると、霊愛に見えるように高く掲げた。

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「霊愛! お土産あるぞ! ケーキ買って来た!」

 霊愛は既に死んでいるから、物理的に食べることはできない。だが、お供えという形でなら十分味わうことができる。

「チョコレートもあるぞ! な、良いだろ? ドラマなら、俺らが一緒に見てやるから!」

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 霊愛の動きが、即座に止まった。

 ――ケーキ? チョコ? ――

 俺は少しだけほっとしながら、それでも次のポルターガイストに備えて壁に掴まる。ポルターガイストの始末に負えないところは、飛んできたものに当たって怪我をすることでも、ものが飛び散って片付けが大変なことでもない。

 隣人から苦情が来ることだ。

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 霊愛の機嫌を損ねるたびにこれがあるから、ついこの間まで隣に住んでいたシャブ中ヤクザには何度怒鳴り込まれたか……。

「ほら、怒ってたら食べられないだろ? ドラマもあとちょっとで始まるし、な?」

 頼む。頼むから機嫌を直してくれ。現在の隣人は、ある意味ではシャブ中ヤクザ以上に関わりたくない相手なんだ。

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 霊愛は、少しの間大人しかった。だが、残念ながらそれも一瞬だった。

 ――夜子ちゃん霊愛のこときらいなんだバカバカバカ――

 語彙の少ない悪口にまみれた便せんを振らせながら、今度は自分自身が部屋中を飛び回る。

胸と尻の辺りが大きく膨らんだ、派手な女性下着が部屋を舞うなんて、一部の男にとっては夢のような光景だろう。が、当事者にとっては笑い事ではない。

「こら霊愛、暴れるなって!」

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 しかし、無理も無い。

 夜子は友情よりも内職と恋愛に熱心で、霊愛との約束を反故にするのはこれが最初でも最後でもない。

「霊愛、……」

 何も思いつかないながらも、俺が何かしら気の利いたことを言おうと考えていた時だった。

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 ぴんぽーん。

 チャイムが鳴った。

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 霊愛が動くのを止める。キャミソールの線がよじれているのは、玄関の方を注視しているためだろう。

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 ぴんぽーん。

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 空中を飛び交っていたボールペンやら何やらが、ばらばらと畳の上に落ちる。テレビは点滅を止め、冷蔵庫のドアも無意味な開閉を止めた。

 ピンク色の便せんが一枚、俺の目の前にふわりと落ちた。

 ――だれ?――

 丸っこい文字に溜息を吐きつつ、俺はのろのろと玄関に向かう。

「ほらみろ。お前が五月蠅くするから……」

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 かたん。

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郵便受けが鳴った。中に入っていたのは、白地に黒で名前が書かれているだけの簡素な名刺だった。

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 『山崎』

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 ……食事を奢ってもらいながら夜中に騒いで、流石に怒っただろうか。しかし、地球の謝罪方法が通じなかった場合、どうすれば良いのか。

 俺が怖々とドアを開けると、山崎さんはあの大きな眼球でじろりと俺を見下ろした。

 いや、山崎さんに悪意は無かったのかもしれない。夜分失礼します、といった調子でゆっくり頭(なのか?)を下げると、ちゃんと靴を脱いでからアパートに上がった。

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 緑のドロドロは靴下からも滲んでいる。当然、スーツの袖や襟からも滴って来る。山崎さんが歩いた後には蛍光色の足跡が付いていたが、俺にそれを指摘する勇気は無い。

 山崎さんは、真っすぐ霊愛の元へ向かっていた。霊愛は固まっている。やめろ、霊愛には何もするな。前に出ようとした俺を、クレイヴの右手が押しとどめる。

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「待てよ。大丈夫だから」

 一体何が大丈夫なんだ?

 霊愛と向き合った山崎さんは、しばらくの間、何もしなかった。地球人には透明な奴もいる、とか何とか、そんな風に考えたのだろうか。

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 霊愛が、ちゃぶ台の上の便せんを一枚、ちぎり取った。空中に浮かんだ鉛筆が、さらさらと丸っこい文字を綴る。

――ハロー マイ ネーム イズ レイア――

 ……日本語が喋れない、と仮定したとしても、それは無いだろう。片仮名で書いてどうする。

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 しかし山崎さんは、黙って便せんに目を走らせると。

 緑の体液でべたべたの上着を脱ぎ、霊愛の肩に被せた。

 霊愛本体は透明だから表情は見えないが、顔があるはずの空間がぽっと赤く染まったのがわかった。

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 ごぼ、ごぼ、ごぼ。

 山崎さんの口(?)の部分が軽く泡立つ。霊愛は体液まみれのワインレッドの背広を羽織ったまま、何か頷いているみたいだった。

 と、いうか、霊愛は幽霊だから実態が無いのに、どうやって上着を着せたんだ?

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「あれ? もう帰るの、山崎さん?」

 台所から、クレイヴが呑気に声を掛ける。

「お茶くらい飲んで行けば良いのに」

 来た時と同じように足跡を残しながら、山崎さんは静かに出て行った。帰り際、俺に頭(?)を下げることも忘れずに。

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――レディーって言われた――

 霊愛の便せんが、緑の体液でべとべとの畳の上に落ちる。

――どうしよう。山崎さん、凄く格好良い――

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 どうやら、俺たちが見ている『山崎さん』と、霊愛その他が見ている『山崎さん』の姿には隔たりがあるようだ。

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 緑の汁でじっとり湿った上着を、霊愛は愛おしそうに羽織っている。そんな彼女を見ながら、俺は部屋中のべとべとを掃除するのにどれくらい掛かるだろう、と、そんなことを考えていた。

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@aino 様
ありがとうございます!
待っていてくれる人がいるのが凄く嬉しいです。
何やら不気味な登場人物たちかもしれませんが、早めに続きを生やしたいです。

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おお!!生えましたね!!
また生やし待ちします!!

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