7・三木診療所
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目が覚めると、もう午後の七時を過ぎていた。夏が近いせいか、異様に日が長い。夜じゅう霊愛のドラマ鑑賞とお喋りに付き合わされていたから、十時間以上寝たのに起きた傍から疲れている。
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ちゃぶ台の上には、夜中に霊愛にお供えしたケーキとチョコレートがそのままになっていた。地縛霊の霊愛はお供えを味わうことはできても、物理的に食べることはできない。
俺はケーキの皿を取り上げると、台所に行って生ごみ用のダストボックスに放り込んだ。この時期、昼の間中放置された生クリームというものは、いくら何でも危険すぎる。
「……で、……なんだ? ……へー……」
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薄い壁を通じて、声が聞こえた。部屋の鍵が開いていた。クレイヴの奴だろう。俺は文句を言う為にジーンズを履き直すと、スニーカーを突っかけて外の廊下に繋がるドアを開けた。
「おいクレイヴ、外に出る時は鍵かけろって……」
「あ、徹。起きた?」
俺たちの部屋の、すぐ隣の部屋。クレイヴと一緒に、山崎さんまでが顔を覗かせる。
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「徹が全然起きないからさ。山崎さんとこ、遊びに来ちゃった」
お隣さんである以上、付き合いは大切にしたいものである。しかし、少しは相手を選んでほしい。
夕日は、とうに沈んだ後だった。まだ空に光は残っていたが、吸血鬼が活動するのに問題ない程度の明るさだ。
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「お前、山崎さんと何話してたんだよ?」
ぼとぼとと床に落ちる山崎さんの体液(?)や、顔(?)の中を泳ぐ巨大な眼球から目を逸らしつつ、俺は小声でクレイヴに訪ねた。
「仕事の話だよ。山崎さん、地球には出張で着てるんだって」
クレイヴが、少し癖のある長い金髪を掻き上げる。
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「何か、『調査』とか『侵略』とか言ってたけど。専門用語多くてさ、俺には良くわかんないや」
それは、地球人に言ったら駄目な内容なんじゃないか?
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「ああ、そうだ、クレイヴ」
俺は、何も聞かなかったことにして話題を変えた。
「今日、三木先生の日だぞ」
三木先生の名前を出した途端、クレイヴがあからさまに顔を曇らせた。
「……明日じゃ、駄目かな?」
「駄目だ。夜勤のバイトがある」
たかがコンビニのアルバイトだが、俺は昼のシフトに他に夜のシフトも入れている。理由はふたつ。稼ぎを増やすためと、クレイヴの退路を断つ為だ。
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「でも俺、最近調子良いし」
「月一で通うって約束だろうが」
約束、という言葉を使ってもまだ渋るクレイヴの耳元で、山崎さんが何事か呟く。蛍光グリーンの口元(?)がごぽりと泡立った。
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「え? 本当?」
クレイヴの顔がぱっと輝く。
「山崎さん、出かけるなら送ってくれるって!」
お前は、どうして山崎さんの言いたいことがわかるんだ?
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アパート前の月極駐車場にあったのは、巨大な銀色の円盤だった。
多分、地球上に存在しないというか、存在してはいけない代物だ。
「これが山崎さんのマイカーなのか。でかいな」
クレイヴが、感心したように頷いた。
楕円形の銀色。窓も無ければ、ドアも無い。そののっぺりした、本当は何でできているかもわからない『マイカー』は、駐車場のスペース三つ分を占領し、何と地面からは数センチも浮いていた。
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「……」
俺の予想が正しければ、こいつはきっと飛ぶだろう。それも、物凄いスピードで。山崎さんがどうかは知らないが、俺もクレイヴも、宇宙空間で呼吸ができる程器用ではない。
クレイヴの説得に十五分近く掛かった。ようやく、今日だけ俺の言う通りにしてくれたら次こそは乗せて貰う、ということで了承を得た。
「約束だからな。山崎さんが証人だから」
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クレイヴが、恨めし気に俺を睨む。
「UFOに乗る機会なんて、滅多に無いのに」
そんな機会、俺は一生無くても構わない。
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三木先生の病院は、俺達のアパートから少し歩いたところにあった。五階建てで、昭和の遺物のようにも見えるが、階段の前には確かに『3・4階 三木診療所』の表示があった。
一階と二階は空きテナントで、五階は他所の会社が倉庫として借りている。エレベーターは動かない。三階までの階段を登りきると、俺達のボロアパートと大差ないような、錆びついたドアが現れる。
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『三木診療所 P.M.18:00~A.M.6:00 木曜・日曜・祝日定休』
時間帯が変わっているのは、普通の病院と客層が異なるからだ。
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三木診療所の中はいつもひんやりしている。黄ばんだ壁の色褪せたポスター達は、ひょっとして俺達の年齢よりも長く貼ってあるんじゃないだろうか。待合室の漫画本も然り。
『歯を大切にしませう』
『月間〇〇 昭和〇〇年〇月号』
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看護師はいない。三木先生が一人でやっている。クレイヴが、無人の受付に診察券を置いた。隣に、俺の分も並べる。俺は人間だから、保険証も一緒に。
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「おや、君たちですか。そろそろ顔を見せてくれる頃だと思っていましたよ」
受付のカーテンがふわりと開いて、色の白い丸顔の男が顔を覗かせた。少し傾いだ眼鏡は、折れた弦の部分をセロテープで止めている。年の頃は三十代の前半……いや、もっとずっと上かもしれない。
「クレイヴ君に徹君、それから」
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三木先生が言葉を切った。不思議そうに、俺たちの後ろに立つ人物(?)を見上げている。
「ええと、貴方は」
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クレイヴの奴、そう言えば山崎さんが証人だとか言っていたっけ。真面目に付いて来てしまう山崎さんも律儀だ。
「この人は、その」
「山崎さん。俺らのアパートの、隣に越して来た人」
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俺より先に、クレイヴが後を継いだ。本日の山崎さんは、何の冗談なのか体の色と同系色のダークグリーンのスーツを着ている。袖やズボンの裾から蛍光色の体液が流れ出すから、綺麗に磨かれていた診療所の床はべとべとになっていた。
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どうせ気化するから、問題無いと言えば無いんだが。べちゃべちゃにされてしまった俺たちの部屋の畳も、時間が経つごとに勝手に乾いて行って、今では何故か前より綺麗になっているくらいだ。
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「日本語、通じますかね」
三木先生が、少し不安そうに言う。三木先生に山崎さんがどう見えているのかは知らないが、日本人だとは思っていないようだ。
「患者じゃないよ。付き添いで来てもらっただけ」
クレイヴが言って、憂鬱そうに眉根を寄せた。
「どうせ、俺達しか患者いないんだろ? 早く済ませちゃってよ」
主治医に対する言葉遣いとは思えないが、付き合いが長いからこそ、というのもあるのだろう。
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三木先生の後に続いて、俺達も診察室に入る。
「それじゃあ、始めましょうか。クレイヴ君、そこに寝てください」
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クレイヴが溜息を吐いて、診察台の上に横になった。
通院と言っても、別に痛い思いをするわけではない。体の各箇所を触って痛みや炎症が無いかを確認し、注射器で少し血を採取して、銀による毒素がどれだけ減少したか確認する。最後は問診と歯科検診と顔の傷の撮影、薬の処方。それでお終いだ。
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「銀による毒素は、時間を掛けて少しずつ分解するしかありませんから」
吸血鬼を診てくれる病院なんて、そう何件もあるわけではない。
世の中には、表向き『無い』ものとされている存在が多すぎる。
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吸血鬼とか、幽霊とか。
……呪い、とか、宇宙人、とか。
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ごぼごぼ、と、山崎さんの口元(?)が泡立つ。途端に三木先生が笑い出し、クレイヴがばつが悪そうに顔を背けた。
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「山崎さん。俺、そんなに子供じゃないってば」
山崎さん、何て言ったんだ?
「大人しく診察受けていて偉いね、なんて……ははは……山崎さん、クレイヴ君はこう見えても……」
こいつらやっぱり、山崎さんの言葉(?)がわかるのか。
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「山崎さん。徹君とクレイヴ君、どちらが年上に見えます?」
三木先生の質問に、山崎さんが袖から滴る手(?)を持ち上げた。
ぼたぼたと液体の零れるゼリー状のそれで、黙って俺を指さす。
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「あははは……やっぱり! ははははは……!」
笑いすぎだろう、先生。
だが、こればっかりは仕方が無い。俺とクレイヴの見た目の差は、今後もどんどん開いていくわけだし、それはどうしたって防ぎようが無い。
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「山崎さん。残念ながら、俺の方が五歳も年下だ」
俺の日本語が通じるのかと不安ではあったが、仕方なく説明を試みる。
「吸血鬼は、年を取らないんだ」
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見た目だけは。
吸血鬼は、二十歳を超えた辺りで外見の老化が止まってしまう。ただし、あくまでそれは見た目の話だ。内臓や骨は相応に老化して行くから、寿命も人間と大差ない。
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三木先生によると、人間という種族に寄生して血を貰うしか生きる道が無い為、より受け入れられやすいように進化した結果なのではないか、とのことだ。容姿も人間よりは大分恵まれている奴が多いし、吸血鬼が絶滅していない現状を見ても、その作戦は成功しているのだろう。
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後五十年もしたら、見た目だけは若いクレイヴを、見た目もジジイになった俺が介護することになるのだろうか。
想像すると悲しくなってくる。
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「それじゃあ、次は徹君の番ですね」
クレイヴが終わると、次は俺の診察……と、言うか、健康診断だ。
現状、クレイヴは俺の血しか飲めないので、俺の健康が奴の健康に直結するのである。
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「血中アルコール濃度が高いですね。昨日、呑みに行きました?」
とは言え、クレイヴは多少不健康な血が好きだから、悩ましいところではあるが。
ごぼり。山崎さんの巨大な眼球の下で、口と思われる部分が泡立った。
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「持ちつ、持たれつ。山崎さんは、良い日本語を知っていますね」
三木先生がにっこりと笑った。
三木先生は、山崎さんを敵ではないと認定したらしい。俺もクレイヴも、山崎さんが地球侵略の話をしていたことは黙っていた。
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アパートに帰ると、霊愛が山崎さんのスーツを洗濯機で洗ってしまっていた。見事な仕立てだったワインレッドの上着は、化学洗剤と遠心力によりすっかり型崩れしていた。
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三人で山崎さんの似顔絵を描いた。俺とクレイヴは緑色のドロドロ。霊愛だけは立派な髭を蓄えた、いかにも金持ちそうな大柄な紳士の絵を描いていた。
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――ふたりとも、ふざけてるの! (# ゚Д゚)――
ポルターガイストで飛び回る湯呑や座布団から、俺達が逃げ回ったことは言うまでもない。
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8・夜勤明け
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どうやら、山崎さんがドロドロの不定形物体に見えている奴は少数派らしい。俺とクレイヴ、それに夜子。現時点で三人だ。俺はコンビニの制服のポケットから、折りたたんだ紙を取り出して見つめた。
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昨日、霊愛が描いた山崎さんの絵だ。霊愛はそれほど絵が上手い方ではないけれど、何を描きたかったのかはどうにかわかる。
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広い肩幅に長い脚、日本人離れした高い鼻。がっしりした顎、透明感のある緑色の目。口元と顎には形の良い髭が生え、いかにも上流階級の紳士と言った風情だ。
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唯一気がかりなのは、その立派な髭もふさふさとした髪の毛も、全て明るい緑色で塗られていることである。
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「大須田先輩、補充終わりました!」
ペットボトル飲料の補充に行っていた斎藤が、腕を振り回しながら戻って来た。こいつは最近、やけに生き生きとしている。
「いや、働くって素晴らしいっすね! 父親になるんだし、俺ももっと頑張らないと!」
俺は知らなかったが、このコンビニはアルバイトを続けていれば正社員雇用もあるらしい。斎藤はそれを狙っているようだ。
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「嫁もスーパーでパート始めましたし、負けられないっすよ!」
まだ籍も入れていないのに、良い気なものである。
「いらっしゃいませー!」
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いつも以上に元気の良い掛け声に、自動ドアを潜った客がびくりと肩をすぼめた。小柄な女だった。まだ十代かもしれない。
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「おい、声落とせ」
「い、いらっしゃいませ……」
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びくびくした様子で俺達を見上げながら、それでも出ていく素振りは見せない。不安そうに辺りを見回しつつ、目当ての品を次々と籠に入れていく。
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カッターナイフ、ハサミ、カッターナイフ。
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「工作でもするんっすかね」
斎藤が訝しむのも無理は無い。レジに持って来た籠には、コンビニで買いそろえることのできる刃物が大量に放り込まれていた。
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小柄な女は唇を引き結んだまま、黙って財布を出した。何か文句があるのかとばかりに、きっと俺を睨み返す。怒っているくせに今にも泣きだしそうなような、変な目付きだった。
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「大須田先輩?」
こういう目を、俺は知っている。夜子に『内職』の依頼をする客は、大抵同じ目をしているから。
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「これ、何に使うつもりだ?」
女の目を真っすぐ見つめて、俺は言った。目を逸らさない女は逆に危険だ。
とっくに覚悟を決めているから。
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「俺達だって、犯罪には巻き込まれたくないんだ。警察が聞き込みに来たり、色々面倒なんだよ」
店員と客という立場である以上、本当は余計な口出しなんかするべきじゃない。でも、迷惑なのは事実だ。
このあいだ店の前で夜子の友達が自殺した時だって、人相の悪い俺は色々とあらぬ疑いを掛けられて大変だったんだから。
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彼女が何か言おうとして、口を開きかけた時だった。
息を切らせながら、若い男が店の中へと駆け込んできた。
女の子の目に、じわりと涙が滲む。震える手で、まだ会計の済んでいないカッターを握ろうとした。
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「それで、何をするつもりなの?」
店に駆け込んだ男はにっこりと笑ってそう言うと、困ったように首をかしげてみせた。俺よりも若い。女の子と同じくらいの年頃で、流行の服を身に纏った優男だ。
「ちょっとしたすれ違いなんです。ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」
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喧嘩した恋人を宥めようとする、親切で人当たりが良い男。
そう解釈するのが普通なんだろう。
でも、女の子の目が余りに怯えているのが気になった。
男の方が、女の子が何か粗相をしたと決めつけて一方的に謝って来たのも気に食わなかった。
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夜明け前のコンビニに、女の子がたった一人で大量の刃物を買いに来る。この状況からして何かがおかしい。
「ほら、行こうよ」
男は苦笑しながら女の子に近付くと、固まったようになって震えている女の子の手をそっと握った。
女の子は歯をがちがち言わせながら、涙の溜まった眼で男を睨んでいる。
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「何か、やばいっすよ」
斎藤に言われなくたってわかっている。
女の子は嫌がって首を振っているのに、男は彼女を引きずるようにして連れ出そうとする。
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俺は男の肩を掴んだ。
「何か……?」
そして、男が振り返った瞬間に。
鼻の辺りを、思い切りぶん殴った。
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「え……な、ええ?」
ぼたぼたと鼻血を垂らしながら、優男が鼻を押さえて蹲る。
「帰れ」
俺がそう言うと、優男はよろけながら立ち上がった。そして、俺の方を戸惑ったように見上げると。来た時と同じように、ばたばたと店を走り出て行った。
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「先輩、何やってんすか! やばいっすよ!」
斎藤が血相を変えて俺に掴みかかる。他に方法が思いつかなかったとは言え、店員が客を殴るのは不味い。俺だってそんなコンビニには行きたくない。
「女に手を上げる男ってのは、すぐわかるんだ」
俺は自腹で紙コップのコーヒーを買って、女の子に手渡した。
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「あんた、名前は?」
「……朋美」
「そうか。朋美に、紹介したい奴がいる」
確かに金は掛かる。安くはない。が、コンビニで買い集めた刃物を総動員して特攻するよりも、遥かにマシなはずだった。
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9・コラボレーション
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「ふうん、なるほどね」
事故物件のボロアパート、俺達の家。
ワンルームの六畳間に胡坐をかいて座り、真っ黒なドレス姿の夜子は旨そうに煙草をふかした。傍らにはウィスキーのグラス。氷がからんと音を立て、赤い唇から霧のような煙が漂う。
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異様な雰囲気の女を前にして、小柄な少女、朋美は蛇に睨まれた羊のように縮こまっていた。
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「つまり、朋美ちゃんの恋人に横恋慕した挙句、朋美ちゃんを逆恨みしてストーキングするゲイの優男をどうにかしてほしい、と」
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朋美はおずおずと頷きながら、部屋の隅のカーテンで仕切られた一角を訝しそうに見やった。古い畳の部屋に、西洋風の真っ黒いカーテンは似合わない。だが、クレイヴは吸血鬼だから昼間は寝ているし、吸血鬼だから日光に当たると焼け死んでしまう。
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ひらり。
部屋の中央に、ピンクの便箋が落ちる。
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――そいつ、サイテー(# ゚Д゚) ――
――夜子ちゃん、ぶっころしちゃって! ――
霊愛には、昼も夜も関係ないようだ。
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「あの、私、やっぱり……」
鞄を掴んで立ち上がろうとした朋美を、夜子が片手で制する。
「成功報酬で良いわ。十万。うまくいかなかったら、一円もいらない」
うまくいかなかったことなんて、今まで一回も無いだろうに。
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「そのゲイの男の情報はいらない。そいつに何をされたのか、あなたはそいつをどうしてやりたいのか。できるだけ、具体的に教えて」
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夜子は殺し屋とは違う。だから、ターゲットの事は一切知りたがらない。写真も名前も性格も、そんなものはどうでも良いらしい。
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欲しがるのは、恨みの輪郭だ。
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何をされたのか。どういった理由で恨んでいるのか。最終的に、どんな目に合わせてやりたいか。
最終目的は、大体決まっているのだけれど。
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「別に、死んじゃえとまでは思っていないんです」
俯いたまま、朋美は消え入るような声で言った。
「ただ、私達の前からいなくなってくれたら……」
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聞けば、随分酷いことをされたらしい。
ゲイの男は、朋美の恋人の元親友だそうだ。執拗な付きまといや監視に嫌気が差した恋人が、朋美の方が大切だと告げると、今度は発狂して朋美を逆恨みするようになってしまった。
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「大学に何度も電話してきたり、私の交友関係まで調べられて……待ち伏せされて殴られそうになったり、水を掛けられたり……同じゲイの人たちに囲まれて、別れるように恫喝されたこともあります」
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朋美のスマートフォンを見せて貰ったが、最悪としか言いようが無かった。同性愛者に偏見は無いつもりだが、こういう人間が存在している、と思うだけで吐き気がする。
恋人は心配して守ろうとはしてくれるものの、大学が別々ということもあり、四六時中一緒にいるわけにもいかない。
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「警察は?」
夜子の問いに、朋美は目に涙を一杯溜めて首を振った。
それで良いのか、司法よ。
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「本当に、いなくなるだけで良いの?」
夜子が、真っ黒い睫毛とアイシャドウに囲まれた目で朋美を見つめる。
「大怪我をさせるとか、病気になるとか、何かの薬物の中毒になるとか。死なせなくても、方法は一杯あるわよ」
軽く言ってはいるものの、なかなかにえげつない選択肢ではある。
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しかし、それを聞いた朋美の顔がぱっと輝いた。
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「できるんですか? そんな器用なことが」
会って数時間だが、初めて朋美の笑顔を見た気がする。
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「良かった! 私、どんなクソ野郎でも自分が死なせた! って思うと罪悪感でどうにかなっちゃいそうで! でも、死ぬほどの目には合わせたいし、今後の人生良いことなんかひとっつも無いくらいの、不幸のどん底には叩き落してやりたいんです!」
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二十六年生きて来てわかったが、第一印象なんてアテにならない。
大人しそうな人間が本当に大人しいとは限らないし、そもそも大量の刃物で武装して相手を血祭りに上げようとしていた女である。
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「そこまで行くと、オプションでプラス五万円かかっちゃうけど」
「二十万払います!」
商談成立。
夜子はちゃぶ台の下から百円ショップの袋を取り出し、中身を丁寧に並べ始めた。
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「霊愛、お水ちょうだい」
水道の蛇口が勝手に捻じれ、片手鍋に水が溜まっていく。水で一杯の鍋がすうっと宙を飛んでくるのを、朋美は目を丸くして見つめていた。
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唐辛子、バジル、ニンニク、コリアンダー。
百円ショップの紙粘土を水道水で捏ねまわし、同じ百円ショップのスパイスを慣れた手つきで加えていく。枯れた植木鉢の土と、公園の砂も少し。
「コショウは……もう一振り、いや二振りかな」
まるで料理でもしているかのような呑気さで、時々煙草を吸いつつ、紙粘土を人の形に近付けていく。
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「あっ」
突然『内職』の手を止めて、夜子が思い出したように呟いた。
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「そうだ、そうだ。試してみたいと思ってたんだわ」
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わざとらしく粘土塗れの手を打ち鳴らし、台所の古びた冷蔵庫を開ける。
中身がごちゃごちゃ過ぎて気が付かなかったが、扉の調味料入れの奥に、ジップロックに入った緑色のものがあった。
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ただの緑色じゃない。半透明で、蛍光色に光り輝いている。
物凄く嫌な予感がする。
「夜子、お前、それ」
「密閉しておくと、気化しないのよね」
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間違いない。俺達の隣人、地球外人の山崎さんが、この部屋に来た時に零して行った体液の残りだ。
「消化液は含まれていないわ。山崎さんにとっては、抜け毛みたいなものよ」
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夜子には意外と職人気質なところがあり、得意の『内職』も同じことの繰り返しだと飽きてしまうらしい。様々な客の様々な注文に応じるため、日々研究を繰り返している、とのことだ。
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「他人の抜け毛って、ちょっとまずいんじゃありません?」
朋美が、不安そうに首を傾げた。
「素人ね。憎い奴の髪の毛盗んで、藁人形に入れて五寸釘打ったって、そんなの何の効果も無いわよ」
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夜子がけらけら笑って、緑色の体液を紙粘土の上に垂らした。
しゅわ、と緑の煙が上がり、甘ったるい匂いが漂う。
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「背中と脇腹、後は太腿かしら」
粘土を捏ねながら、夜子が独り言のように呟いた。
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「えっ?」
「怪我してるでしょう? 女の子に暴力、それも見えないところだけを狙うなんてね」
夜子には時々、俺達には見えないものが見えるらしい。『内職』の腕が良いのも、そのせいだろうか。
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「山崎さんは紳士よ。きっと、あなたの力になってくれるはず」
緑色の液体を混ぜ込まれた人形は、不気味なまだら模様になっていて、甘いような、腐ったような匂いを放っていた。
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学生に二十万は痛いかもしれないが、これで朋美は救われる。そして、この世からクズが一人消える。被害者が犯罪者に変わってしまうよりは、よほど救いがある。
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しかし、相手がゲイとは。夜子の次の恋愛は、なかなか前途多難なことになりそうだ。
作者林檎亭紅玉
まだまだ生やすよー