10・水面下の進行
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夜の八時。仕事に行く時間だ。俺は欠伸を噛み殺すと、シャワーを浴びてから新しいTシャツに着替えた。
ついさっき日中の熟睡から目を覚ましたばかりのクレイヴは、夜子の新しい『内職』のことを聞くと、コーヒーのカップを抱えたまま勢いよく身を乗り出した。
「本当に? 本当に山崎さんの体液、使ったの? うわ、俺も見たかったな」
あんな不気味な粘土人形、別に見なくても良いと思うが。
ダストボックスを開けると、腐ったケーキや野菜屑に混じって、ぼろぼろに朽ちかけた粘土の塊が入っていた。焼き肉屋で夜子をお持ち帰りしたオヤジの分だろう。
夜子の『内職』……事が済むまで、夜子は人形を後生大事に持ち歩く。が、いざ夜子が相手に夢中になって、相手が死んで、夜子が泣き叫んで……という、一連の儀式のような出来事が終了すると、夜子はぼろぼろになった人形を惜しげも無く捨ててしまう。
そしてまた、新たな依頼人が夜子を訪ねる。夜子は新しい人形を作り、同じことを繰り返す。
他人の生き方に口を挟むつもりは無い。俺達だって、夜子がそうやって稼いだ金で飯を食っているんだから。
「でも、今度はゲイか。乱暴な奴みたいだし、夜子も無事だといいけどな」
クレイヴが心配するのは最もだし、本音を言えば俺だって心配だ。
いかに夜子に『内職』の才能があるとは言え、それ以外はごく普通の女である。怪力の持ち主でもなければ、特別逃げ足が速いわけでもない。その上、恋をしている時の夜子は完全なる陶酔というか、一種のトランス状態にも似た精神に陥っているため、殴られようと蹴られようと相手からは絶対に離れようとしない。
――だいじょうぶじゃない? 山崎さんが付いてるんだし――
ひらり。畳の上に、ピンク色の便箋が落ちる。
確かに、夜子は山崎さんの体液(?)を人形作りに使ったけれど。それはあくまで、依頼者である朋美を守る為で、夜子自身のことも本当に守ってくれるのか?
「ただいま」
噂をすれば影、とやらで。夜子が、玄関の呼び鈴を鳴らして帰って来た。
「夜子……!」
ドアを開けた俺は、言葉を失った。
肩口で切り揃えた綺麗な黒髪はぼさぼさで、目元は化粧という言い訳が効かないくらいに真っ黒に腫れ上がっている。普段の夜子は人一倍身なりに気を使うのに、黒いスカートもブラウスもよれよれで、ストッキングに至っては派手に破れて血が滲んでいた。
「大丈夫かよ」
俺が手を貸そうとすると、夜子は首を振って笑いながら脇を擦り抜けた。香水の匂いに血が混じっている。赤い唇の脇に、口紅とは違う濃い染みができていた。
「彼ってばもう、ちょっと照れ屋なのよね。これだけ奪って来るのが精いっぱいだったわ」
差し出された夜子の手には、一塊の髪の毛が握られていた。
おそらく毛の根元であろう部分には血が滲んでいる。
「良いのよ。彼が私をどう思おうと、私が彼を想っていることに変わりは無いんだから」
くすくす笑いながら血の付いた髪の毛に頬ずりする夜子を見て、俺とクレイヴは顔を見合わせる。
この場合。
被害者、と呼べるのは、一体どっちなんだ?
「あれ? 何、これ」
何処かとろんとした目つきで夜子が持ち上げた髪の毛には、血と頭皮の他に何か別のものが付着していた。
鮮やかな緑色のドロドロ。
蛍光色に発光している。
「山崎さんってさ。結構なフェミニストだと思うんだよね」
クレイヴがぽつりと言った。
「その暴力野郎、これからどうなるのかな……」
少なくとも、死にはしない。それが依頼人の望みだから。いや、死なないから良い、ってものでも無いだろうが。
「もう、何よこの緑のやつ! 綺麗に洗って標本にしなきゃ。あの人の髪なんだから」
相変わらず、夜子には自分が死なせる予定の相手に恋をしている自覚が乏しいみたいだ。
山崎さんの体液(?)を使って人形をこしらえたのは夜子自身なのに、まるで他人事のようにぷりぷり腹を立てている。
「あの髪の毛もさ、全部終わったらゴミ箱行きだよね」
「だな」
良くて燃えるゴミの袋に直行、悪ければ台所の三角コーナーに放り込まれる。
「あのさあ……」
片方しか機能していない青い目が、異様に輝いていることに気が付くべきだった。俺が嫌な予感たっぷりで振り返った時、クレイヴは既にしっかりと俺の右腕を掴んでいた。
「そいつのこと、見に行こうよ!」
悪趣味にも程がある、とか。いくら悪人でも可哀そうだ、とか。
そんな常識は、こいつらには通用しない。
――そうしよ! 霊愛もしりたい! ――
好奇心は猫をも殺す。こいつらが猫なら、多分百回は死んでいる。
いや、霊愛は既に死んでいるから、その理屈はおかしいのか?
「無理だよ。俺、今日もバイトだし」
俺がやんわり否定すると、クレイヴは不満げに眉をひそめた。
「徹、夜子が心配じゃないのか?」
それはそうだけれど。
言葉に詰まった俺の前に、ひらりとピンクの便箋が落ちる。
――朋美ちゃんって子に、れんらくとってみたら?――
霊愛の奴、たまにはまともな提案をするじゃないか。空中に浮かぶ水色のキャミソールが、得意げに『ふん』と胸を張った。
「ねえ徹、裁縫箱ってどこ?」
こちらの気も知らず、夜子はがたがたと戸棚を漁っている。
「二段目の引き出し……ってか、何するんだよ?」
ファッションは金なり、をモットーとする夜子は、服が破れたら潔く捨てる。俺のように、みみっちく繕ったりはしない。
「何って、作るのよ。オムツと涎掛け」
「オム……え?」
知人に、親になる予定の人間は居ただろうか。いや、斎藤はそうかもしれないが、夜子にそこまでしてやる義理は無いはずだ。
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「夜子、お前まさか妊娠……」
「違うわよ。大人用。彼が使うの」
傷の手当てもせずに畳に座り込んだ夜子は、不器用な手つきで針に糸を通し始めた。
「可愛い布、無い? ああ、好きな人の為にものを作るって、何て素敵なのかしら」
恋愛中の夜子に、正常な判断力を求めてはならない。
おそらく、現在夜子が交際中(?)と思われるゲイの暴力野郎は。
今まさに、オムツと涎掛けが必要な状態になっているわけだ。
ポケットのスマートフォンが鳴った。のろのろと取り出すと、画面には『朋美』の文字が点滅していた。
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「あ、大須田さんですか? 実は、お知らせしたいことがありまして……」
まるで宝くじに当たったことを報告するみたいな、やけに弾んだ声だ。俺は溜息を吐くと、二つ折りの財布をジーンズのポケットに突っ込んだ。
「バイト行ってくる。クレイヴ、来たかったら付いて来て良いぞ」
同情はしない。女に手を上げるような輩に人権は無い。
でも。
例え連続殺人鬼であっても、臓物排泄物まき散らして死んだ挙句、腐り散らかして蛆がたかっている姿を目の当たりにはしたくない。
人間の感情なんて、そんなものである。
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11・駅前にて
俺の職場であるコンビニは、駅の裏側にある。絶妙に汚れた、元繁華街の端っこだ。品ぞろえも悪ければ店員の質も悪い、店長は滅多に店に顔を出さないし、来たと思えばバックヤードでエロ本を読んでいる。唯一の利点は、立ち読みに寛容なところと、イートインスペースで長居しても文句を言われないところだろうか。
「あっ、先輩! 先輩も今からすっか?」
駅に辿り着いたところで、斎藤と出会った。夜勤のメンバーは他にもいるのだが、どういうわけか俺は斎藤と一緒になることが多い。
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「あれ、クレイヴさんも一緒?」
「おう、ちょっとな」
吸血鬼だって、コンビニは利用する。売り上げに貢献する為か、単に俺の仕事ぶりを茶化したいのか、クレイヴは良く俺の職場を訪れるので、当然ながら斎藤とも顔なじみである。
「クレイヴさんって、夏でもあの恰好なんすね」
声を潜めて、斎藤が言った。外出の時のクレイヴはマスクにサングラス、それにフードのパーカーを目深に被っているから、確かに目立つと言えば目立つ。そんなクレイヴの方をちらちらと伺いつつ、斎藤は更に声を小さくして言った。
「実は、凄い美人なんじゃないかって、店長ともちょっと噂になってて……」
クレイヴは男だぞ。法を犯さない限り誰が誰に興味を持とうと勝手だが、お前には好きな女が居て、結婚までする予定なんだろうが。
「金髪で長髪の外人なんて、日本じゃ注目の的だろうが。面倒だからああやって隠してるだけだ」
嘘は言っていない。本当のことも言っていないのだが。
俺が会話を切り上げて、さっさとバイト先に向かおうとした時だった。
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「あ、見ろよ、徹」
クレイヴが俺の袖を引いた。
「こんな時間なのに、遠足かな?」
クレイヴが指さした先に居た集団は、確かに異質な存在だった。
下は未就学、上は大きく見積もっても十一、二歳だろうか。親らしき大人に手を引かれているとは言え、酔っぱらったサラリーマンやホームレスに混じって、小学生やそれ以下の子供に夜の駅前というのはいかにも似つかわしくない。
「ああ、あれ。親子レクってやつですよ。レクリエーション」
斎藤が笑いながら言った。
「親子で何か楽しいことをやろう、っていう、市が主催するイベントっすよ。懐かしいな、俺も良くお袋と参加したっす!」
成程。楽しそうに談笑する親子連れの先頭で、引率らしき女性が旗を振っている。『夏の肝試しツアー』の文字が読めた。
「夜の学校とか倉庫を借りて、大人が子供向けのお化け屋敷を作るんです。確か、怪談の読み聞かせなんかもありましたよ」
何だ、まっとうなイベントか。そういうものとは無縁の人生を送って来たので、俺には理解できないわけである。
「あれ? あの人」
サングラスをずらして、クレイヴが少し遠くへ目を向けた。
「その、親子レクってさ。大人だけでも参加できるわけ?」
「いや、それは流石に……」
言いかけた斎藤も、クレイヴの視線の先を見て言葉を詰まらせた。
「何すか? あれ」
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見たところは、三十代の前半か、それ以下か。小太りで下膨れの男が、ふらふらと親子連れの集団に近付いている。飲み会帰りの会社員だろうか。しかし、それにしては様子がおかしい。
足元がおぼつかない、というのではなく。目つきがおぼつかないと言うか、明らかに酔っぱらっているのとは違うような、妙に空っぽな表情をしている。
親子たちは、男の存在に気付かないようだった。『肝試し』と書かれた冊子を捲ったり、親や友達と話しこんだり、これから始まるお楽しみ以外何も目に入っていない様子である。
「あいつ……」
何か、まずいことが起こる予感がする。
小太りの男は、ふらふらしながら肩に掛けたボストンバックに手を伸ばすと。何度も練習した、としか思えない素早さで、バックから何かを取り出した。
「う、うご、うご、動くな……!」
どもりながら、男が叫ぶ。青白い肉の乗った両手に抱えられていたのは、映画に出てくるような真っ黒い銃身だった。
マシンガン。
銃社会アメリカに生きていなくたって、映画やドラマなんかでは何度も見たことがある。
「て、て、て、手を上げろ……!」
銃を構える練習はしていても、台詞の練習はしてこなかったのだろうか。しかし、今から夏のイベントに出かけようとしていた親子たちには十分すぎる衝撃だった。
子供より先に、母親から悲鳴が上がる。子供連中はと言えば、これもイベントの一種かと勘違いして歓声を上げる奴まで居る。
あの銃は本物か? いや、流石にそれは無い。日本であんなものを手に入れるのは簡単ではないだろうし、あんな汗染みの浮いた小汚いポロシャツ姿の男に、それほどの経済力があるとも思えない。
「改造エアガンかもしれません」
斎藤が震えながら言った。
「だとしたら、やばいっす。体に穴くらい空いちゃうっすよ」
嘘だろ。どうすれば良いんだ、そんなもの。
何が目的なのか、小太りの男は親子たちに狙いを定めたようだった。膝は上下に震えていたし、正確な狙いも定められないようだったけれど、斎藤の言う通りの威力なら油断はできない。
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「おい!」
泥酔して額にネクタイを巻いたサラリーマンが、ヒーロー気取りで小太り男の肩を掴んだ。
「子供にそんなもの向けて、これだから若い者は……」
残念ながら、ネクタイ鉢巻オヤジのお説教は数秒で終わってしまった。小太り男が、ネクタイ鉢巻の喉元を銃身で突いたからだ。
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ぐえ、とカエルのような声を上げて、ネクタイ鉢巻が道路に転がる。その無様な姿に、銃口を向けて。
小太り男は、引き金を引いた。
たたたた、と、それこそ映画でしか聞いたことの無いような、それよりももう少し弱弱しいような音が鳴り響き、ネクタイ鉢巻は文字通り『ハチの巣』にされてしまった。
ひい、とか、きゃあ、とか、こういう場面に相応しい悲鳴がそこここで上がる。傷はそこまで深くは無い、斎藤の言う通り、改造をほどこしただけの玩具の銃だ。でも、本物のマシンガンだった方が幾らかマシだったんじゃないか。
ネクタイ鉢巻の白いシャツは、真っ赤な水玉模様に変わっていた。酔いもすっかり冷めただろう。うめき声と悲鳴の入り混じった咆哮を上げながら、汚れた歩道をのたうち廻っている。
一瞬見えた背中に、赤い水玉は無かった。威力が中途半端なので、貫通しなかったらしい。と、いうことは。
撃たれたら体の中に異物が残るということか。嫌だな、それは。
「け、警察……」
スマートフォンを取り出そうとした斎藤を、小太り男の血走った目が捕らえた。
「う、うごくな!」
斎藤が「ひぃ」と弱々しく叫んで、スマートフォンから手を放す。令和の精密機械はアスファルトの歩道に転がり落ち、哀れな音を立てて静かになった。
「お、おい! 犯人に継ぐ!」
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鉢巻オヤジとは別の方向から声が上がった。俺が振り返ると、青い制服を来た男が、震えながら拳銃を構えているところだった。
真打の登場。しかし、駅前の駐在所のお巡りなら、もう少し早く来ても良さそうなものである。
「犯人に継ぐ! い、今からでも遅くない! 話し合おう!」
この警官野郎、随分威勢が良いじゃないか。犯人に継ぐ、なんて映画かドラマみたいな台詞、言える機会があって良かったな。
俺のいるコンビニで、夜子の友達が自殺した時なんか、勝手に俺を悪者に仕立ててネチネチ尋問しやがったくせに。
「は、話し合い、だと」
小太りの男は、震える声でそう言うと。一度銃を降ろした、ように見えた。
正確には、銃を降ろすと見せかけて再び構え直しただけだったんだが。
たたたた、と音が鳴り、警官の青い制服は目出度く深紅の水玉模様に衣替えされた。
使えねえ。
今ここに居る全員が、同じことを思っただろう。
「ははは……警官ゴロシだ。ざ、ざ、ざまみろ……」
小太り男が引きつった笑い声を上げる。
「コロす! コロしてやる!」
銃を構え直した。
不味い。
体格の良い大人ならまだしも、小柄な子供があんなものを食らったら死んでしまう。
俺は地面を蹴ると、なりふり構わず男に飛び掛かろうとした。
俺がほんの少しでもびびっていなかったら……足が震えたりしていなかったら、きっと間に合ったのに。
たたたた、たたたた、という連続した音。
単調で耳障りなその中に、子供特有の甲高い悲鳴が混じる。
「あ……」
子供用のTシャツに印刷されたキャラクターが、血塗れになった。白い夏用ワンピースまでイチゴみたいな色になっている。手足を押さえて転げまわる、小さな体。首筋を撃たれた子供は、ごぼごぼと小さな口から赤い液体を吐いている。
親のうち何人かは、子供を庇った。何人かは、子供を盾にした。
子供を庇った親は血まみれになって蹲っていた。子を盾にした親は、ぐったりとなった我が子に縋って、白々しく泣き叫んでいた。
小太りの男の笑い声が、悲鳴に塗れた夜の街に吸い込まれる。
その弛み切った頬を、俺は思い切りぶん殴った。
「な、な、何……」
所詮、子供連中しか狙えない男だ。自分がやられると弱い。小太り男は鼻血を流しながら、じろりと俺を睨んだ。その顎にもう一発、鼻にも一発くれてやる。
「お、おまえ、ふざ、ふざ、ふざけんな……!」
肉に埋もれた小さな両目から、ぼろぼろと涙が溢れ出した。
今更英雄ぶって戦ったところで、何の意味も無い。そんなことはわかっている。
小太りが再び銃を構えようとした。だから、それができないように銃身を握ってやった。
「あ、やめろ」
長い銃身を両手で掴み、ぐいと俺の方へ引き寄せる。自動的に、改造エアガンにしがみ付いた小太り男も引き寄せられた。かちかち。引き金を引く太った指が焦ったように動いている。そうか、弾切れか。子供を犠牲にしたことが、皮肉にも俺の命を救ったらしい。
鼻血をまき散らす潰れた鼻、顎を割られて流れっぱなしの涎、弛んだ頬は俺に殴られたせいで赤黒く腫れ上がってきている。
醜い顔が、俺の視界のほんの数センチ先にあった。
俺は、自分でもわけのわからない咆哮を上げると。
テロリスト気取りの野郎の額に、思い切り自分の頭蓋をぶつけてやった。
「すっげ……ヘッドパッド……」
斎藤がまた、余計なことを呟く。俺は他人よりも馬鹿なので、多分脳味噌が小さいのだろう。その分、頭蓋骨は厚い。
小太り野郎も、これは効いたようだ。ごぷ、と口と鼻から同時に血を吹き出すと、白目を向いて崩れ落ちてしまった。
夜空に歓声が上がる。いつの間にか、スマートフォンを構えた奴らが俺達を取り囲んでいた。
Tシャツの裾で拳の血を拭いながら、見物人どもは何処から湧いてきたのかと呆れる。この人数で一斉に飛び掛かっていれば、あれだけの怪我人を出すことも無かっただろうに。
「人殺し!」
歓声を割ったのは、女の悲鳴だった。
「何で、どうして、できたなら、何で」
声を詰まらせながら、化粧の崩れた女が髪を振り乱して俺を睨んでいる。女の血だらけの膝には、首筋を撃たれた子供がぐったりと寄りかかっていた。
言いたいことはわかる。俺が自分可愛さに躊躇わなければ、もっと早くに男を止められた。俺は、男が弾を撃ち尽くすのを待って……子供が大勢倒れるのを待って、ようやく動いた卑怯者だ。
「確かにね」
俺を取り囲んでいた群衆から、ぽつりと声が上がる。
「てか、酷くない? 子供撃たれてから動くとか」
「これじゃ、犯人も可哀想じゃん。やりすぎ」
「これって犯罪だろ?」
いつもこうだ。動かないで口だけは達者な奴らが正しくて、喋らずに動く俺は間違っている。
「ちょっと、何言ってるんすか!」
壊れたスマートフォンを握りしめた斎藤が、大声で叫んだ。
「先輩が頭突き入れてなかったら、今頃もっと酷いことになってたかもしれないんすよ!」
辞めろ、斎藤。お前まで悪者になる。俺を非難の目で睨む群衆の皆様は、もう『子供が可哀想』『犯人が可哀想』の大合唱だった。
既に武器を失った犯人をボコボコに殴ったのは、余りに卑怯で非常な行いであり、子供を大勢撃って大怪我をさせた犯人は気の毒な被害者に分類されるようである。
俺は物凄い脱力感に襲われて、光化学スモッグで濁った夜空を見上げた。
銀色の円盤が、きらりと光った気がした。
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13・過剰とは言えない防衛
夜空が緑色に光り輝き、その輝きが男を包み込んだ。当の本人が驚いたのは当然だ。銃を構えるのも狙いを定めるのも忘れて、ぽかんと空を見上げている。
「え? な、何」
緑色の光を放つ円盤が、静かに下りて来る。
色こそ銀から緑に変わっていたけれど、俺たちがアパート前の駐車場で見たものと全く一緒だった。
地球には存在しない音を立て、道路から数センチ浮いた状態で円盤が停止する。停止した途端、円盤の色が発光する緑色から艶やかな銀色へと変わった。
「山崎さん……」
クレイヴが呆けたように呟く。子供の血が付いた口元が、赤く荒れかかっているのが見えた。
銀色の円盤には、相変わらずドアも窓も無かった。繋ぎ目のようなものさえ見当たらない。どうやって降りるのかと思っていたら、突然、円盤の中心辺りがぐにゃりと歪んで、一瞬後には真っ黒な穴が口を開けていた。
緑色の粘液が滴る。今宵の山崎さんはダークブルーのスーツで、胸元に白い花まで挿している。一体どこから来て、どこへ行くつもりだったのだろう。優雅、とも言える身振りで円盤から降り立つと、山崎さんはその巨大な眼球で物珍しそうにテロリストを見下ろした。
「な、なんだお前は」
小太りテロリストが甲高い声で吠える。こいつにも、山崎さんがドロドロの不定形物体に見えているのだろうか。
「外人かよ。ち、ちょっと顔が良いからって。そ、そんなデカい外車、見せつけやがって」
違った。確かに、地球外車には違いないが。
「山崎さん、やっちゃってください!」
斎藤が余計なことを叫んだ。
「そいつは悪い奴なんです!」
斎藤の言葉に触発されたのだろうか。小太りの男が、はっとしたように銃を構え直した。
「死ね!」
男が銃の引き金を引くより、山崎さんの方が早かった。
焼き肉屋で見た時のように、スーツのボタンが一度に外れた。むき出しになった胸板(?)の形状が崩れ、緑色の体が大きく広がる。
エリマキトカゲが襟を広げて、それを前に出した感じ、と言えば伝わるだろうか。薄い膜状に変化した胸板が、直径数メートル以上はありそうな円となって広がり、山崎さんとその後ろに控えた群衆たちの盾となった。
向こうが透けるほどに薄い盾だったが、頑丈さは鋼鉄の比ではないようだ。発射される弾丸はことごとく盾の中に吸い込まれ、山崎さん本体(?)も後ろの群衆も何一つ傷つけることができない。
「畜生! 畜生!」
全てを撃ち尽くしたテロリストが、またぼろぼろと涙を流しながら引き金を引く。かちかち、という音は、弾切れの証拠だろう。
「馬鹿にしやがって! 俺の革命……!」
こいつの『革命』とやらが何を意味するのか、子供を撃つことと何の関係があるのか、今となってはわからない。
盾となっていた山崎さんの体が、震えるように弛緩したのがわかった。男の撃った弾丸は全て山崎さんの緑色の体に吸い込まれてしまったが、流石に消化液で溶かすこともできないらしい。
流石に苦しいのか、と思ったが。
山崎さんはゼリー状の体を震わせて、散らばっていた弾丸を一か所に集めると。
小太り男に向って、一気に発射した。
緑の粘液に塗れた弾丸が、男の突き出た腹や短い脚を襲撃する。
「ごぶっ!」
プラスチックの弾丸とは言え、全身を物凄い勢いで撃たれたのだから堪らない。束になった弾丸が脂肪に覆われた肉を抉り、吹っ飛ばされた男はアスファルトの上を転がって駅前の電柱に頭から突っ込んだ。
「げべ……」
スプラッター、というタイトルで写真を撮るなら、今がシャッターチャンスではないだろうか。
汗じみたポロシャツは斑な赤色に染まり、赤色の特に濃い部分からは崩れた肉と血が染み出している。顔中がハチの巣状態になっていて、一見するとニキビ面の学生のようでもあるが、苦痛に身動きする度に傷穴からぽろぽろと弾丸が零れ落ちるのが気味悪い。
「……」
先ほど、俺を『やり過ぎ』と非難した見物人たちの反応はどうだろう。
振り返ってみれば、何と、拍手までしながら大歓声を送っているではないか。
「凄い! 格好良い!」
「ありがとうございます!」
「山崎さんって言うんですか?」
割れんばかりの歓声と拍手の中、斎藤だけが不満顔だった。
「何すか、あれ。単なる暴発じゃないっすか」
なるほど、こいつらにそう見えていたわけか。
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「確かに、盾になろうとはしてくれましたし。説得の為の演説には、ちょっと感動しましたけど……」
盾になろうとした、じゃなくって、本当に盾になってくれていたんだよな。あと、演説なんてしていたっけ?
「もういい、斎藤。山崎さんのお陰で助かったんだ」
終わったのなら、もう、どうでも良い。
俺は最早、その程度の感想しか無かった。
テロリスト気取りの馬鹿は倒れた。子供たちも、その他の怪我人も、多分助かる。
今気がかりなのは、ひとつだけだ。
「おい、クレイヴ」
俺はクレイヴに駆け寄ると、その薄い肩を掴んだ。
「大丈夫か……」
細い体が、ぐらりと揺れた。今まさに限界を迎えたかのように……いや、本当はずっと前から限界だったんだろう。俺の腕の中に倒れ込んだクレイヴは、がくがくと震えながら懸命に痛みに耐えていた。
顔の傷が、ただでさえ赤黒く盛り上がった酷い傷痕が、周辺の正常な皮膚も巻き込んで真っ赤に腫れ上がっている。呼吸が荒い。ひゅうひゅうと鳴っているのは、粘膜が腫れて喉が塞がっているからだ。どうにか助け起こそうとすると、身体を九の字に曲げて苦しそうに咳き込み始めた。呼吸がままならないせいで、咳そのものが弱々しい。唇全体も爛れたようになっている。
「アナフィラキシーだ」
どうして、俺はクレイヴを止めなかったのだろう。こうなることは、最初からわかっていたのに。
「斎藤、手伝え」
俺はクレイヴを抱えると、人混みから離れる為に駅の裏へ移動した。服が汚れるとか、不衛生だとか、そんなことは言っていられない。アスファルトの上にクレイヴを寝かせ、ポケットを探る。
二本あって良かった。今までの経験上、ここまで酷いときは一本で効かないことも多いから。
「先輩……」
「足を押さえてろ、斎藤」
ポケットから取り出したプラスチックの筒は、三木診療所で貰ったものだ。中身が変色していないことを確認し、オレンジ色のキャップを開ける。
アナフィラキシー補助治療剤。
使うのは初めてではないけれど、それでもやっぱり手が震えた。
「斎藤、手は離すなよ」
クレイヴの両足を斎藤に押さえさせ、太腿の外側に筒を突き立てる。注射だから、痛くないわけが無い。クレイヴの体がびくりと震えるのを見て、俺は何とも言いようの無い罪悪感に襲われた。
目をつぶり、数を数える。
1,2,3……。
三木先生に言われた通りの時間を置いて目を開けたけれど、クレイヴはやっぱり苦しそうに喉をぜいぜい言わせていた。
「もう一本打つ。斎藤、まだ手は離すな」
ただでさえ真っ青なクレイヴの顔が、ますます青く白くなって行く。プラスチックの筒を、もう一本打ち込んだ。
「嘘だろ」
呼吸が治まらない。ぜいぜいと喘ぐ音だけがずっと聞こえる。
「そんな馬鹿な」
俺はクレイヴの手を握った。そんな俺を見上げながら、クレイヴは俺に向って力なく微笑んでみせた。
作者林檎亭紅玉
続きの生育をお待ちください。
基本的にメインとなる人物は死にません。