俺は宮原雄介。大学三年生。
ゴールデンウィークも終わり、新入生達も随分馴染んできたこの時期、
サークルや大学仲間での飲み会やイベントが続き、バイトも追いつかず金銭的にかなり苦しい。
夏には少し落ち着くかなと大学のカフェテリアで安いカレーを食べていると、入り口のところに前嶋優子が立っているのに気がついた。
優子は辺りをきょろきょろ見回していたが、窓際にひとりで座っている俺を見つけると、スマホをかざして駆け寄ってきて俺の隣に座った。
「ねえ雄介、見てよ、見て。このアパートめちゃくちゃ安くない?」
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◇◇◇◇
前嶋優子は同じ大学、学科の友人なのだが、入学以来ずっと妙に俺に懐いてくる。
他の友人達は俺と彼女が付き合っていると思い込んでいるようなのだが、ふたりの間で明確にそれを確認したことはない。
何となく気がつくと優子はいつも俺の傍にいるのだ。
大学内にいる時はもちろん、大学を出た後や週末は、特に用事がなければ優子の誘いに乗って買い物に行ったり、映画を観たりして一緒にいることが多く、ふたりで歩くときに優子は俺の腕にしがみつくようにして歩く。
優子は小柄でルックスはまあまあ、なにより性格が明るくて優しい。
ちょっとせっかちでおっちょこちょいなところはあるが、俺自身も優子が傍にいることを特に不愉快に思うことはないし、彼女を拒絶する気など毛頭ない。
しかし、ずるい話なのだが、お互いの関係を言葉にして明確に確認してしまうと、優子に対するいろいろな事がすべて義務になってしまうような気がして、現状を変えることなくそのままにしている。
だから優子とは肉体関係どころかキスもない。
現時点では子供の頃の友達か、仲の良い兄妹のようにただ一緒にいるだけなのだ。
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◇◇◇◇
優子が俺の前にかざしたスマホの画面には、不動産物件案内のページが表示されており、内容を見ると東北沢駅から徒歩八分、築六年、2LDKで月6万8千円と、相場の2/3程の家賃であり、確かに驚くほど安い。
俺は今、世田谷代田の1DKのアパートに住んでいるのだが、このアパートは年内一杯で取り壊されることが決まっており、引っ越し先を探していたのだ。優子はそれを知っていて何気に探してくれていたのだろう。
「ねえ、早くしないときっとすぐに決まっちゃうよ。今日これから見に行こうよ。」
確かに優子の言う通り非常に安いのだが、今住んでいるところは家賃5万9千円だ。
俺に2LDKは必要ないし、1万円近くも家賃が上がるのは痛い。
「ねえ、見るだけ見に行こうよ。」
午後は授業もなく、バイトまでは時間がある。取り敢えず暇潰しに見てみようかと優子と一緒に出かけることにした。
いずれにせよ早々に不動産屋へ行って住むところを探さなければならないのだ。
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◇◇◇◇
「ここです。」
不動産屋の女性の案内で、その物件に入ってみた。
玄関を入ってすぐダイニングキッチンになっている。
「へえ、キッチンは綺麗ね。」
優子は靴を脱いでさっさと中へ入ると、さっそくキッチンの前に立って流しや棚をチェックし始めた。
まるで自分のアパートを探しているようだが、これからもちょくちょく遊びに来るつもりなのだろう。
ダイニングスペースの横に風呂とトイレがあるが、トイレが別になっているのがちょっとうれしい間取りだ。
ダイニングから引き戸を開けたその奥が六畳ほどのリビングになっており、ダイニング、リビング、居室と縦に並んでいるためここに窓はないが、白壁で部屋は明るく、フローリングの床も綺麗で問題はない。
「このリビングの奥がふた部屋の居室になっています。」
営業の女性が奥にあるふたつの扉を指差した。
居室はふた部屋とも洋間で、中に入ってみるとベランダに出入りできる掃き出しの大きな窓のおかげで日当たりが良い。
中に入るとドアの横にクローゼットもある。
なかなか良い物件なのだが、やはり学生のひとり暮らしには広すぎる。
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「私、こっちの部屋にするから、雄介はこっちね。」
優子がリビングから見て右手のドアから体半分を出し、そう言って隣の部屋を指差した。
「は?なにそれ。」
優子が悪戯な笑みを浮かべて俺の腕を掴んだ。
「ふたりでルームシェアすればひとり3万4千円だから全然OKでしょ?ねえ、一緒に住もうよ。」
突然の提案だったが、確かに3万4千円の家賃となればかなり魅力だし、二年以上付き合いのある優子と同居することに大きな抵抗はない。
優子との関係もそろそろ腹を括る時期かとも思っていたところだ。
部屋も申し分なさそうだし、いい機会かもしれない。
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しかし、たった今まで契約する気がなかったので聞いていなかったが、優子の意見に従ってここに住むとなるとやはり確認しておかなければならないことがある。
「すみません、なんでこの部屋の家賃はこんなに安いんですか?あの精神的なんちゃら・・いわゆる事故物件ですか?」
これだけ相場とかけ離れた物件だ。何も理由がないはずはない。
俺と優子のやり取りを横で黙って聞いていた営業担当の女性は、俺の問い掛けに対し全く表情を変えずに淡々と説明してくれた。
「そうですね、もし契約されるのであれば、必ず説明しなければならない事項ですのでお話ししますが、このお部屋の前の契約者は20代後半の女性で、その方がこの部屋で亡くなっています。
自殺とか事件性のある死因ではなく、流行性感冒による病死だったそうです。
ただ、発見されたのが亡くなられて五日後ということがちょっと引っ掛かっているので家賃を安く設定しているのですが、でももし次に入居された方に何も起こらなければ、その次の契約からは相場通りの家賃、10万を少し超える位に戻すことになりますね。」
俺は優子と顔を見合わせた。
「少し相談させてください。」
そうではないかと思っていたが、実際に精神的瑕疵のある物件だと言われると、すぐには決心がつかない。
とりあえずこの物件を保留して貰い、一旦不動産屋の女性と別れてアパートを出た。
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◇◇◇◇
「私は雄介と一緒に住みたいな。この間取りなら、ルームシェアするのにもってこいでしょ?」
俺と優子は近くのファミレスに入り、どうするか相談を始めた。
優子がとにかくあの物件にこだわっている理由は、その間取りもさることながら、やはり家賃の安さだった。
「でもルームシェアするのなら、今の家賃の二倍として月12万でもいいってことだろう?」
「私、今の家賃、3万2千円・・・」
「はあ?どんなところに住んでいるんだよ?それこそ事故物件じゃないのか?」
「違うわよ。築四十年の六畳一間なの。単に古くて狭くて駅から遠いだけよ。」
二年以上一緒にいるのだが、考えてみれば優子がどんなところに住んでいるのか知らなかった。
いつも遊びに来るのは優子であり、俺は優子のアパートへ行こうと思ったことがなかった。
敢えて優子がそれを避けていたのかもしれないが。
「だから引っ越したいのよ!今とあまり変わらない家賃で、きれいなアパートで、駅から近くて、雄介と一緒に住めるなんて夢のようだわ。雄介だってもうすぐ今のアパートを出なきゃいけないんでしょ。それに雄介は2万5千円も家賃が安くなるんだから、ふたりで美味しいものを食べに行けるじゃない?」
「・・・ちょっと待て。ふたりで?俺の金だぞ。まあいいけど。」
しかし、やはり気になるのはその部屋の精神的瑕疵だ。
不動産屋からは具体的にこんなことが起こるというような説明はなかったが、前の住人が亡くなったすぐ後であり何の情報も持っていないと言うことなのだろう。
「私は何も感じなかったけど、雄介はあの部屋に入って何か変な感じがした?」
「いや、俺はもともとそんな霊感みたいなものはないと思うよ。」
「私も同じ。だったら、もしあの部屋に幽霊がいたとしても、ふたりとも認識できなければ、いないのと一緒よね。」
「まあそれはそうだけど。」
結局優子に押し切られる形でそのアパートへ引っ越すことにした。
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◇◇◇◇
契約を済ませ、レンタカーのトラックを借りると数人の大学の友人に手伝って貰い、午前中に俺の荷物、午後は優子の荷物を運んで一日で引っ越しを完了した。
「いいなあ、優子はとうとう宮原君と同棲か~」
引越しの手伝いに来ていた優子の友人である美咲が、リビングに置かれたカウチに腰掛けてにやにやしながら言った。
「おいおい、同棲じゃない、ルームシェアと言ってくれ。」
これを機に優子を彼女として認知しようと思っていたが、これまでの流れの中でなかなか素直に言い出せない。
「宮原君はこの期に及んでまだそんなことを言ってるの?いい加減に優子は自分の彼女だって公言したら?」
「大きなお世話だ。」
「まったく。ルームシェアとか言ったって一緒に住むんだから、どうせ毎日エッチするんでしょ?」
「美咲ったら。何言っちゃってるの?雄介とはそんなことしたことないわよ。」
優子が顔を赤くして慌てて否定した。
「そんなことより、みんなで引っ越し蕎麦でも食いに行こうぜ。俺のおごりだ。」
この話題をこれ以上続けたくない俺は、そう言って立ち上がりみんなで近所の蕎麦屋へと出かけた。
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◇◇◇◇
結局、蕎麦屋で飲み始め、二時間程飲んで騒いで解散となった。
俺と優子はアパートに戻り、まだ段ボールの箱が積み上げられた部屋を見てため息を吐いた。
「これからまだ片付けする?」
優子がリビングの中央に立って部屋の中を見回して俺の顔を見た。
そのような言葉が出てくるということは、半分やりたくないということだ。
せっかちの優子にしては珍しいが、一日中動いて疲れたのだろう。
「明日にするか。」
蕎麦屋でもそれなりに飲んでいたが、ふたりきりになったところでもう一度乾杯しようと、俺はキッチンの冷蔵庫から缶ビールを二本取り出し、優子と並んでカウチに腰を下ろした。
「かんぱ~い。」
ぺこっと鈍い音を立てて缶を合わせると、一気に1/3程をあけた。
「あ~美味しい。何だかすごく幸せな気分。」
優子はそう言って俺の肩に頭を寄せてきた。
普段から腕を組んで歩いていることもあって、このように寄り添ってくることはあまり特別な事でもないのだが、やはり同居を始めたということで気分はかなり違う。それにこれだけ一緒にいても、朝までふたりきりで過ごしたことはなかった。
「これからいろいろ足らないものを買い揃えないといけないね。」
「うん、それでね、雄介にお願いがあるの。」
「なに?」
「いままで安~い六畳のタタミの部屋に住んでいたでしょ?だからベッドって持ってないのよ。雄介のパイプベッドってセミダブルでしょ?ベッド買うまで一緒に寝かせて貰ってもいい?」
「狭いからヤダって言いたいところだけど、何だか断れないよな。いいよ、一緒に寝よ。」
「わ~い。」
優子は俺に寄り掛かっていた身体を起こすと俺の首に抱きついて頬を合わせてきた。
俺は優子の身体を少し離すように両手で肩を押さえて唇を重ねた。
舌を絡め、優子の身体を抱きしめる。これが優子との初めてのキスだ。
やはりこの同居を機に優子を彼女として認知しようと思った。
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やがて優子が少し身体を離し、潤んだ目をして俺を見つめた。
「このままエッチするの?」
俺は内心この状況でそんなことは口に出して聞かないだろうと思いながらも優子らしいなと思い、声には出さずに微笑みで返事をした。
「私、バージンなの。優しくしてね。」
「えっ、そうなの?じゃあ、あとでベッドに行ってからだな。」
「へへっ♡」
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その時だった。
不意に優子の部屋でドスンと何かが倒れるような音がした。
部屋に積んである荷物が崩れたのかと思い、優子は立ちあがって部屋のドアを開けて中を覗き込んだ。
「大丈夫みたい。何も変わったところはないわ。何の音だったのかしら。やっぱり少し気味が悪いわね。」
優子はそう言いながらカウチへ戻ってくると俺の膝の上に座った。
「おいおい、ここに住むことに拘ったのは優子だぜ。いまさら何を言う。」
「だって、雄介と一緒に暮らしたかったんだもの。雄介が新しいアパートを探しているこのタイミングを逃してなるものかって。ねえ、もう寝ちゃいましょうよ。」
優子の希望で俺が先にシャワーを浴びることにした。
浴室でシャワーを浴びていると、ガラス戸越しに誰かが立っているのに気付いた。
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その影は、薄いピンク色の服を身に纏っているようであり、Tシャツにオーバーオール姿の優子とは違う。
待っている間に着替えたのだろうか?
「優子?」
しかしガラス戸を開けるとそこには誰もいなかった。するとリビングから優子がこちらを覗き込んだ。
「呼んだ?え、やだ、雄介ったら。」
優子は裸の俺を見て慌てて顔を伏せた。優子はオーバーオールを着たままだ。
「優子、いまこっちに入ってきた?」
「ううん、ずっとリビングにいたわよ。誰かいたの?」
「いや、気のせいだな。ごめん。」
俺はガラス戸を閉めるとシャワーを浴び、パジャマ代わりのスウェットに着替えるとリビングに戻った。
「優子、シャワー終わったから続けて浴びちゃって。」
しかし、どうしたのか優子はカウチに座ったまま、自分の部屋のドアをじっと見つめて動かない。
何かあったのだろうか。
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「優子?」
カウチに近づき、優子の肩に手を掛けると優子はそのまま仰向けでカウチに倒れ込んでしまった。
「優子!」
触れた肩が熱い。慌てて額に手を当てるとすごい熱だ。
いきなりどうしたんだろう。
急いで優子を担ぎ上げると俺の部屋のベッドに寝かせた。
「う~、う~、寒いよ~。」
優子は虚ろな目をして唸っている。
急いで体温計を取り出し、熱を計ってみると40℃を超えており、汗びっしょりだ。
こんなに急激に熱が上がることがあるものなのだろうか。
どうしようか迷ったが、どうせこの後エッチしようとしていたのだ、恥ずかしがることはない。
俺は優子の服を下着も含めてすべて脱がせ、濡れタオルで簡単に全身を拭くと俺のTシャツを着せた。
やはり今すぐ救急車を呼んで病院へ連れて行くべきだろうか。
「う~、寒いよ・・・苦しいよ・・・ヨシヒコさん・・・」
ヨシヒコさん?
誰だ、それ?
とにかくもう一度汗を拭こうとキッチンでタオルを濯ぎ、ベッドへ戻ってくると、なんと優子がキョトンとした顔をしてベッドの上で上体を起こしているではないか。
「雄介、私、どうしたの?なんで雄介のTシャツを着ているの?」
優子の額に手を当ててみると熱はないようだ。
今起こったことを優子に話したが、優子は全く覚えていないらしい。
もちろんヨシヒコと言う名前にも全く心当たりはなく、シャワーから俺が出てくるのを待っているとまた優子の部屋から物音が聞こえた。
何の音だろうと思ったところからぷっつり記憶が途切れ、気がつくとTシャツ一枚の姿でベッドの上にいたのだと言った。
しかし優子はベッドの横に置いてあった自分の服が汗でびっしょり濡れているのを触ってみて俺の言っていることが本当なのだと信じたようだ。
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「体調は悪くない?」
「ううん、少し身体がだるいような気がするけど平気よ。」
その様子を見てもつい数分前まで40℃を超える熱を出していたようには見えない。
一時的とはいえあれだけの高熱を出し、大量の汗をかいていたのだから体にはそれなりに負担が掛かっていたはずだ。
「念のため、今日はこのままおやすみ。」
優子は素直に頷いた。
「雄介、一緒に寝てくれる?」
「そうだね、さっき約束したからね。」
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各部屋の電気を消しベッドの枕元灯だけにすると、すでに横になっている優子の横に潜り込んだ。
驚いたことに優子はもうすでにすやすやと寝息をたてて眠っている。
朝からの引っ越しで相当疲れているところに酒を飲み、その上先ほどの高熱だ。無理もない。
正直、俺もかなり疲れており今夜はすぐに眠れそうだ。
とんだ同棲、いやルームシェア初日になったなと思いながら、優子にそっとキスをして静かに抱きしめると俺も眠りに落ちていった。
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◇◇◇◇
夜中にふと目が覚めた。
優子を抱きしめて眠っていたはずだが、いつの間にか仰向けの状態で普通に眠っていた。
寝ぼけながら隣で寝ている優子の様子を見ようとしたが、なぜか首が全く動かない。
腕に感じる温もりからそこに優子がいるのは間違いないのだが、手も、足も、全身が全く動かないのだ。
これはいわゆる金縛りという状態なのだろうか。
眼球だけはかろうじて動き、枕元灯の薄明りの中で部屋を見回してみると、ベッドの足元辺りにピンク色のパジャマを着た髪の長い女が立っているのが見えた。
その青白い顔はかなりの美人なのだが、全く見覚えがない。
その女はしばらく無言で俺の寝ている姿を見下ろしていたが、やがてゆっくりと俺の横に移動してくると俺の上に屈みこんで顔を近づけてきた。
(ヨシヒコさん・・・・)
女の口が動いたようには見えなかったが、頭の中に女の声がそう響いてきた。
それを聞いて、先ほどの優子の高熱はこの女のせいだったのかと納得した。
この女が不動産屋の女性が言っていた、この部屋で死んだ前の住人なのだろう。
(ヨシヒコさん・・・・)
ふたたび女の声が聞こえた。
「違う!俺はヨシヒコじゃない!」
声が出た。
その声に驚いたのだろう、隣で寝ていた優子が飛び起きた。
すると女は屈んでいた体をゆっくりと起こすと、まるで煙のようにフェードアウトして消えた。
「えっ、えっ、今の何?幽霊?」
怯えた顔で抱きついてきた優子を抱き返すと、部屋の中をゆっくりと見回したが、あの女の姿はもう何処にも見えない。
「いなくなったみたいだね。」
そう声を掛けると腕の中で優子がもそりと動いた。
(ヨシヒコさん・・・・逢いたかった。)
聞こえたのは優子の声じゃない。
背筋に悪寒が走り、優子の顔を見た。
優子じゃなかった。
抱きしめていたのは、髪の長いあの女で、腕の中から俺の顔をじっと見ていた。
「うわっ」
俺は思わずその女を突き飛ばした。
ゴン
その女はベッドから落ち、頭を打ったような音がした。
「痛った~い!」
頭を押さえてベッドの下から起き上がったのは優子だった。
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◇◇◇◇
「しばらく美咲のところかどこかに泊らせて貰えよ。」
大学のカフェテリアで昼食を食べながら、まだ頭のたん瘤を気にしている優子に対し俺はそう提案した。
「昨夜の事を考えると、あのパジャマの女は優子と波長が合うのか優子に憑依しやすいんだと思う。このままだとまた同じことを繰り返すことになるから、優子はあの部屋にいないほうがいいと思うんだ。俺も誰かに泊めて貰う。」
「え~っ、せっかく雄介と一緒に暮らし始めたばかりなのに。」
「今日大家のところに行って話をしてくるよ。場合によってはあの部屋を出てふたりで1DKのアパートでもいいじゃないか。どうせおんなじベッドで寝るんだろ?」
あのパジャマの女を何とか供養できないか、俺はそれを考えていた。
あの女はヨシヒコという男に相当な未練を持っているようであり、それを何とかできれば、面倒な引っ越しなどせずあの部屋に住み続けられるかもしれないと思ったのだ。
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大家のところへ行き、事情を話して前に住んでいた女性のことを尋ねた。
大家も幽霊が出る状態では困ると思ったのだろう、本当はいけないのだが、と言いながら、その女性の名前と緊急連絡先として登録されていた電話番号を教えてくれた。
その女性は江崎加奈という名であり、さっそく連絡先に電話を掛けてみると、その電話は江崎加奈の実家だった。
電話に出た母親に事情を話し、ヨシヒコという名に心当たりはないかと尋ねたところ、彼女の婚約者が中村義彦という名で、同じ会社に勤める男性だということであった。
母親は中村義彦の連絡先を知らなかったが、勤めていた会社は聞き出すことができた。
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そしてその翌日、中村義彦の勤める会社に電話を掛け、昼休みに会社の近くの喫茶店で会う約束をした。
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優子と共に約束の場所へ行くと、中村義彦は既に待っていた。
簡単な自己紹介を交わした後、電話で話した内容をもう一度詳しく繰り返すと、中村義彦はうっすらと目に涙を浮かべながら、その事情を説明してくれた。
不動産屋の話の通り、彼女はインフルエンザをこじらせ肺炎で亡くなっていた。
その時中村義彦は運悪く仕事でベトナムに出張しており、彼女の両親から連絡を受けて帰国したのは告別式の日だった。
「だから彼女が死んだあの部屋にはその後一度も足を踏み入れていないんです。
加奈はまだあそこにいるんですね・・・
あの、お願いです。今夜僕をアパートに泊めてくれませんか?加奈に逢いたい。」
その彼の気持ちはよく解かった。
俺と優子は彼がアパートへ来ることに同意し、江崎加奈の霊と水入らずにしてあげようと、アパートにひとりで泊まらせてあげることにした。
俺は優子と近くのラブホテルに泊まった。
「加奈さん、義彦さんに逢えてちゃんと成仏してくれるといいわね。」
「ああ、そうなるといいね。あの優しそうな義彦さんなら、加奈さんの霊をちゃんと慰めてくれるよ。大丈夫。」
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◇◇◇◇
翌朝、俺と優子は彼が無事に江崎加奈に逢えたことを願いつつアパートへ戻った。
しかし呼び鈴を鳴らしても返事はなく、もう出かけてしまったのかと鍵を使って部屋に入った。
すると驚いたことに中村義彦がにこやかな表情で目の前に立っているではないか。
そして更に驚いたのがその横にはピンクのパジャマを着た江崎加奈が立っていたのだ。
声も出せずに立ちすくんだ俺と優子の目の前で、ふたりは揃って深々と頭を下げ、そのままゆっくりと消えていった。
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◇◇◇◇
中村義彦は江崎加奈が息を引き取った居室で首を吊っていた。
足元には一枚のメモが落ちており、
《加奈のところへ行きます》
そのひと言だけ書かれていた。
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彼をアパートに泊めたのは大きな間違いだったのだろうか。
俺と優子は、強い罪悪感に苛まれながら新しいアパートへと引っ越した。
それでも最後に見た中村義彦の笑顔だけが救いだった。
◇◇◇◇
FIN
作者天虚空蔵