中編4
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人魚の涙

 僕がひとり、バイクで日本海側の土地土地を、北を目指して旅していた時のことである。

 そのときは、新潟県のとある浜辺で夜を迎えた。

 バイクでとめ、海を眺める。雲間から漏れた月の光がさびしく、波の上を照らしていた。どちらを見ても限りない、物凄い波がうねうねと動いていた。

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 ふと、浜辺に自分以外の誰かが佇んでいることに気がついた。それは、車椅子に乗った少女だった。夜風を避けるためだろう、脚を膝かけで包んでいる。少女はこちらに顔を向けることなく、ただ暗い海を見つめていた。

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「こんばんは」

 彼女に声をかけたのは、自分でも意外なことだった。普段の僕なら、見知らぬ女性に気軽に話しかけるなんてことはしない。きっと、月の光に照らされた夜の浜辺があまりに幻想的だったからと、彼女の横顔があまりに美しかったからだろう。

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「こんばんは」

 彼女はそこでやっと私を見ると、鈴を転がすような声で応えた。

「きれいな浜辺ですね」

 僕がそういうと、彼女は浜辺の名を教えてくれた。雁子浜、というのだそうだ。

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「大正時代、小川未明という方が、『赤い蝋燭と人魚』というお話を書いたんです。ここが、その舞台だそうです」

「ああ。昔、教科書で読んだことがありますよ。へぇ、ここが」

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 人間のエゴが人魚の怨みを買い、ついにはすべてが滅んでしまう、そんな悲しい話だったように思う。人魚はただ真っ直ぐに、人間の慈愛を信じていたのに。

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「子供心に不思議でした。お話の冒頭、あれだけ信心深く、優しかったおじいさんとおばあさんが、いくら香具師に騙されたとはいえ、人魚の娘を売り飛ばすなんて。泣いてすがる娘に、しかし老夫婦は『鬼の心になっていた』なんて、あまりに人が変わり過ぎじゃないか、って。まるで、そう――」

 ニセモノにすり変わったみたいじゃないか。

 作者に文句をつけるかのように、僕は言った。

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 車椅子の少女は、海を見ながらしばらく黙っていたが、

「――変わってしまったのは、少女の方だったんです」

と、不意につぶやいた。

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「『いろいろの獣物等にくらべたら、どれほど人間の方に心も姿も似ているか知れない』。それでもやっぱり、まったく『同じ』ではなかったんです。例えばそれは、大人になる前のある時期に、どうしようもなく『人の肉が食いたくなる』衝動に襲われることとか――」

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 いったい何を言い出すのだろう。僕は黙って言葉の続きを待った。

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「見知らぬ男が彼女を連れていこうとした時、彼女は不意に、何もわからなくなりました。ただ、途切れそうになった意識の中で、自分の指が、見慣れた白い蝋燭が、赤く染まっていくのが見えました。赤く赤く、血が飛び散ったかのように赤く。気づけば男も、おじいさんもおばあさんも、そして街の人たちさえも、誰もいなくなっていました」

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「彼女が再び正気を取り戻したのは、それから長い時間が経ってからでした。それでもまだ朦朧としていた彼女は、当て所もなくさまよい、例の小説家に出会ったのです」

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「『皆はどこに行ってしまったのか』と問う彼女に、事情を聞いた彼は、ある『お話』をしてくれました。あとから考えれば、おじいさんとおばあさんが香具師に騙されて彼女を売り飛ばしたことも、いえ、そもそも香具師の存在自体も、すべてニセモノ、嘘ばかりでした」

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「香具師として語られた男は、人魚の『人食い』の習性を知り、彼女を隔離しにきたのでしょう。おじいさんとおばあさんは、泣く泣く彼女と別れようとしたのだと思います。そんな優しい彼らを、彼女は食べてしまった――」

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「彼は、真実を知った彼女の心が『壊れぬよう』、あんな残酷な嘘をついてくれたのだと思います。そんなことにも、彼女はずっと後になって気がつくのですが。彼女はそれから、長い長い時を過ごしてきました。多くの醜い姿も見てきました。しかし、それでも人は。彼女と、彼女の母が信じた人間というものは――」

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 そこで彼女は小さく笑った。

「――私、小説家を目指してるんです」

「だから、即興でもお話を作れるように、練習中で。どうでした? 今のお話」

 僕は肩の力が抜けるのを感じた。そしてため息をつきながら、

「悪くないんじゃないですか」

と応えた。

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 彼女の、膝掛けの下がどうなっているのか。気にはなったが訊くのは野暮だと思って、僕はただ黙って海を見た。

 遠くの波間に、月の光に照らされながら、何かが跳ねたように見えた。

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