ゴン!ググッ!
カウチに腰掛け、ビールを飲みながらテレビを見ていた時に、突然洗面室から大きな音がした。
金曜の夜であり、平日に溜まった洗濯物を一気に片付けようと積みあがった衣類を洗濯機の中に押し込んで回していたのだが、まだ開始してから5分程しか経っていない。
慌てて洗濯機へ駆け寄って見ると洗濯機は自分の仕事を突然忘れてしまったように静かに沈黙していた。
しかし特に外観でどこか壊れているとか、煙を出しているという事もなさそうだ。
電気は流れているようで、操作盤のタイマー表示やスイッチ類のランプなどは点いている。
何が起こったのか理解できないまま一度電源を落とし、恐る恐るもう一度主電源を入れると、操作盤の各表示はちゃんと点灯した。
よしっ、続けて洗濯のスタートボタンを押す。
しかしウンともスンともいわない。もう一度同じことを繰り返しても駄目だった。
「まいったな。」
この洗濯機は大学に入りひとり暮らしを始めた頃に買ったものだからもう十二年、干支がひと回りするだけ使っている。
そろそろ、というよりももういつ壊れても仕方のない状態だったのだろう。逆によくここまで持ちこたえてくれた。
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しかし、すぐに買い直すのも躊躇われた。
今年三十になり、そろそろ付き合っている彼女との結婚を真剣に考えたいと思っているのだが、結婚を前にして今から新品の洗濯機を買うのか。
しかしまだ彼女にプロポーズもしていないのに、いきなり新しい洗濯機を選ばせるのもおかしな話のような気がする。
でも彼女にそれとなくプロポーズする気があるのだという事を匂わせるいい機会かもしれない。
洗濯機を買い替えることになったから、結婚してくれってか?(笑)
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にやけている場合ではない。
とにかく、今夜この動かない洗濯機の中で泡まみれになっている大量の衣類をどうするかを考えなければ。
このまま風呂場に運んで手で洗うか。
もしくは濡れて重たい洗濯物を担いで近所のコインランドリーへ行くか。
どちらも億劫だが、後者にすることに決めた。
多少の金は掛かるが、洗濯物にはワイシャツなどもあり、手で綺麗に、かつ傷まないように洗い上げる自信はない。
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それにもう午前零時を過ぎており、コインランドリーに行けば乾燥まで一気に片付くのだ。
コインランドリー自体は出張先や旅行先で何度も利用したことがあり、自宅のあるこの場所では必要がなかっただけで使うことに抵抗はない。
濡れた洗濯物を軽く絞りながら黒いビニール袋へ移すと、乾燥させた後のことを考え、更に大きい紙袋に入れて近所にあるコインランドリーへ向かった。
駅からアパートまで帰宅する時に前を通るので、そこが24時間営業であることは知っていたが実際に使うのは初めてだ。
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◇◇◇◇
ガラス戸を開けて中へ入ると、大学生らしきTシャツ姿の男がひとり本を読んでいるだけで他には誰もいない。
少しくたびれた店の外観とは異なり、それなりに新しいランドリーマシンが並んでいる。
容量などにより何種類かあるが、今稼働しているのは三台だ。
この大学生が一度に三台使っているのだろうか。それとも誰かが終わった頃に取りに来るつもりなのか。
空いている中型の洗濯機の中に絞った皺を伸ばしながら洗濯物を放り込むと洗剤を入れてスタートボタンを押した。
洗濯時間は二十分、乾燥時間は三十分と表示されている。
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****************
隅に置いてある本棚から面白そうな漫画本を数冊持ってくるとテーブルに座り、アパートから持ってきた缶ビールをバッグから出して栓を開けた。
プシュ!
その音で大学生がちらっとこちらを見たがすぐに本へ目を戻した。よく見ると彼の手元にも缶ビールが置いてある。
皆考えることは同じだ。
おもむろに漫画本を開いて読み始めたところで、ブザー音が鳴り響いた。
完了の合図だが、大学生が立ち上がる様子はない。
数分してからジャージ姿の中年男性が急ぎ足で入ってくると、出来上がった洗濯物を畳むことなく紙袋に押し込んで出て行った。
何か急ぎの用事の合間なのだろうか。それとも一刻も早く帰って眠りたかったのだろうか。
それからまた十分ほどしてブザー音が鳴り響いた。
今度は前に座っている大学生が呼んでいた本を閉じて立ち上がり、持っていたバスケットに洗濯物を放り込んだ。
背は高く髪の毛がやや長めで色白な、どこかひ弱な感じがする。
洗濯物を詰め終わると、彼は出入り口ではなくこちらへ近づいてきた。
「このあと、一時十五分になるとここに女が現れますが、決して相手にしてはいけません。」
いきなり声を掛けられて、よく意味が分からない忠告にどう反応すれば良いのか戸惑った。
「死にますよ。」
大学生は黙って見上げている俺にそう言うと、くるりと向きを変え外へ出て行った。
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******************
時計を見ると零時五十分。
洗濯があと残り五分程で、乾燥まで終わるのが一時二十五分頃になってしまう。
大学生の言葉をそのまま受け止めると、一時十五分に女が現れ、その女に関わると死んでしまうという事だ。
幽霊話か都市伝説みたいなもののようだが、あの大学生の顔つきは真剣だった。
しかしあの言い方によれば、現れた女の相手をしなければいいと受け止めることもできる。
本当に現れるのだろうか。
どんな女なのだろう。
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その時、俺の他に残っていた一台のブザーが鳴った。
午前一時ちょうどだったが、すぐに誰かが取りに来る様子はない。
誰か来るのかと店の前の通りに目をやっても街灯が道路を照らしているだけで人影は見えない。
また漫画本に目を落としてしばらくした時だった。
いきなり大きな音をたててガラス戸が開くとスウェット姿の男が店に飛び込んできた。
「あぶねえ、あと五分かよ。」
大きな声でそう呟いて俺の方をちらっと見たが、慌てた手つきで洗濯機から洗濯物を掻き出し、紙袋に押し込んだ。
「あんた、もし知らないのなら忠告しておくが、一時十五分前にここを出て、明るくなってから洗濯物を取りに来た方がいいよ。とんでもない目に遭うからね。」
男はそれだけ言うと、時計にちらっと目をやり、急ぎ足で店から飛び出していった。
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この男も同じことを言っている。
あの大学生が言ったことはどうやら彼の妄想ではなさそうだ。このコインランドリーの常連達には周知のことなのだろう。
店のカウンターに置いてある大型のデジタル時計を見ると一時十三分。
しかし乾燥機は大きな音をたててまだ回っている。
その女というのがいったいどのような存在なのか見てみたい。
しかしあの大学生の“死にますよ”という言葉も頭の中で鳴り響いている。
忠告してくれた二人の表情は真剣だった。
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*******************
時計の分表示が十三から十四に変わった。
―信じるか信じないかは、あなた次第です。―
どうする?頭の中で自問自答したが、やはり“死”という言葉には勝てず、椅子を蹴って店を飛び出した。
しかしその女に対する好奇心は強く、通りに出て道路の反対側、真正面を避けて少し斜め横の電柱の陰から店の中の様子を伺った。誰もいない明るい店の中で俺の使用している洗濯機だけが動いている。
ここからでもカウンターの上のデジタル時計が見えているが、時刻はすでに1時15分になっていた。
何も起こらないじゃないか。
そう思い、店へ戻ろうかと思った時だった。
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俺の使っている隣にある洗濯機の扉がゆっくりと開いたのだ。
店の中は空調の風が流れていたのは確かだが、洗濯機の扉はかなり重たく、その程度の風で自然に開いたり閉まったりするものではない。
何が起こっているのかとじっと見ていると、店の中の反対側、ここからは陰になって見えない壁の裏からすっと女が現れた。
この角度だと顔はよく解からないが、茶髪の荒れたロングヘア、モスグリーンのラメのシャツに黒のレザーのミニスカートというちょっと水商売的な雰囲気の女だ。
彼女が彼らの言っていた女なのだろうか。
それほど恐ろしい存在には見えないが、しかしこの時間に突然現れたのだから尋常な存在でないことは間違いないだろう。
そもそもコインランドリーの中には誰もいなかったし、ここから見ていて後から中に入っていったわけでもない。
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女は先ほど自然に開いた洗濯機の前に立ち、手を突っ込むと派手な色のシャツや下着などを取り出し始めた。
先ほど俺が洗濯を始める時、あの洗濯機は間違いなく空っぽだった。
どういうことだ。
女は俺が見ていることなど気づいていないように、目の前でひとつひとつ衣類を広げて確認しては紙袋にしまっていく。
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その時、店の中から洗濯機の完了ブザーが鳴るのが聞こえた。
俺の使っている洗濯機だ。
女は手を止めると隣の洗濯機の方を振り向いた。
ドラムがゆっくりと停止し店内が静かになると、女は横に移動して俺の洗濯物が入った洗濯機の前に立った。
(何をする気だ?)
女はしばらくの間じっとドラムを見つめていたが、やがてゆっくりとその扉を開いた。
普通は他人が使用している洗濯機をこっそり開けるのならそれとなく周りの様子を伺うと思うのだが、その女はじっと前を向いたまま、まるでそれが当たり前のように扉を開けた。
そして俺の洗濯物の中に手を突っ込んで中をかき回すように動かし、出てきた手には俺のダークグレーのブリーフが握られているではないか。
女は自分のものと同じように目の前でブリーフを広げると、今度は顔につけて匂いを嗅ぎ始めた。
思わず店に飛び込もうかと動きかけたが、再びあの大学生の”決して相手にしてはいけませんよ”という声が頭の中に蘇って、かろうじてその場に留まった。
女はひとしきり匂いを嗅ぐと、そのブリーフを自分の紙袋に入れてしまった。
そしてまた洗濯機の中へ手を突っ込んで今度はアンダーシャツを取り出すとまた匂いを嗅いで紙袋に入れた。
(なんだ、こいつ、女の下着泥棒か?)
別に大事なものではないが、全部持っていかれると当面困ってしまう。
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女がまた洗濯機の中へ手を伸ばしたところで、思わず店の中に飛び込んでしまった。
「それは俺のパンツだぞ。返せよ!」
女は手を止めてこちらを振り向くとにやりと笑った。
年齢は三十後半から四十歳くらいだろうか。美人ではなく化粧は濃い。
水商売に疲れたような雰囲気、というのがしっくりとくる。
その眼つきと唇は異様に妖艶な雰囲気を湛えているのだが、普通の男ならば引き寄せられるよりも一歩引いてしまいそうな妖しい氣が漂っている。
とは言え、そのまま下着を根こそぎ持っていかれては困る。
俺は中央に置かれたテーブルを回り込むと女の傍に駆け寄って、更に獲物を探して洗濯機の中に突っ込んでいる女の腕を掴んだ・・・
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と思ったのだが、俺の手は3Dホログラムを掴もうとしたかのように空を切った。
「えっ?」
驚く俺に向かって女がニヤッと笑う。
そして次の瞬間、俺の真横にある洗濯機の上の段の扉がいきなり勢いよく開いたのだ。
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それは俺の顔面を直撃し、目の前に火花が散って俺は声もなく後ろに仰け反って倒れた。
床で頭を打ち、一瞬気を失ったのかもしれない。
顔面と後頭部の痛みに呻きながら目を開けると、女が俺の腹に馬乗りになっているではないか。
さっきは女に実体がなく、腕を掴むことが出来なかったはずなのに、女の尻にはずっしりと重量感があった。
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一体何が起こっているのか。
よく見ると女の背景は、青白い蛍光灯の光に照らされた深夜のコインランドリーではなく、濃い霧に包まれたように乳白色で塗りつぶされている。
ここは何処なんだ。
あらぬ世界へ連れ込まれてしまったのだろうか。
それゆえに女は実体を持って俺の上に圧し掛かっているのかもしれない。
頬を伝って生暖かい液体が流れ落ちるのを感じる。俺の鼻血だろうか。
すると女は俺の首に手を掛け、顔を近づけるとその流れ落ちる鼻血をぺろりと舐めた。
そして再びニヤッと笑うと凄い力で俺の首を絞めてきたのだ。
「うっ、ぐっ・・・」
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その瞬間、俺はあるニュースを思い出した。
数年前の深夜、このコインランドリーで女性が暴行された上で首を絞められて殺されるという事件が起こったのだ。
この女はその時の被害者なのか。
自分が殺された恨みでこうやってコインランドリーの客を襲うのだろうか。
俺は夢中で女の腕を掴んで振りほどこうとしたが、びくともしない。
無我夢中で女の腕を掴んでいた手を離し腕を前に突き出すと、かなりの大きさがある女の乳房に手が振れた。
決してスケベ心からではない。
単純に圧し掛かってくる女の上体を押し退けようとしたのだが、その豊かな乳房に手が振れた途端、俺はそれを潰れんばかりに力一杯握りしめた。
ラメのシャツの下には下着を着けていないようで、柔らかな感触が両手に伝わってくる。
「ぎゃっ!」
女は悲鳴を上げると俺の首を絞めていた手を離し、力一杯に乳房を掴んでいる俺の手首を握った。
俺は首から手が離れたことで、咄嗟に掴んでいる両腕に力を入れて思い切り上体を起こした。
すると女はその反動で大の字になって仰向けに倒れた。
今だ!
その隙に体を起こすと、女から逃げるように体を捻って猛然と四つん這いの状態で、ダッシュした。
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周りは真っ白で何も見えない。
手をつくように低姿勢のままやみくもに進んだ。
そしていきなり前頭部に衝撃を感じ、何かにぶつかったと思った瞬間、それが砕け散る感覚があった。
ガシャン!
大きな音と共に勢い余って前に転がると、そこは硬いコンクリートの上だった。
背後を振り返るとそこは間違いなく今までいたコインランドリーであり、入り口のガラスが砕け散っている。
厚手のスウェットを着ていたおかげで、手足に大きな怪我はないようだ。
顔も髪の毛のある前頭部からガラスに突っ込んだようで手で触る限り、痛みだけで大きな傷はない。
もう一度店の中を見ると、先ほどの女が奥に立っているのが一瞬見えたがすぐに消えてしまった。
「助かった・・・」
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**********
俺は自分で壊してしまったドアガラスをもう一度見てため息を吐くと、スマホでコインランドリーの入り口の脇に表示されていた緊急連絡先に電話を掛けた。
電話は警備会社などではなくオーナーの自宅だったようであり、なかなか電話に出てくれなかったが、やっと寝ぼけた声で出てくれたオーナーに今あったことを手短に告げると、すぐにこちらに来てくれると言う。
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オーナーの自宅はすぐ傍だったようで、一分と経たずにパジャマ姿のままの初老の男性が現れた。
俺はもう一度今あったことを話そうとすると、彼は疑うような様子は何も見せずそれを制止し、そしてこれまでにも数回似たようなことがあり、ひとりは亡くなったのだが、心筋梗塞という判断でそのこと自体はニュースにはならなかったと言った。
そして一時十五分を過ぎたら店にいてはいけないという噂が広がってからは、しばらく何事もなかったのだが、と呟いた。
「あの女はここで暴行されて殺された被害者なんですか?」
俺の問いにオーナーは顎に手をやって首を傾げ、そして首を振った。
「私自身は見たことがないから解らないが、それ以外に思い当たることはないよ。」
オーナーは警察を呼ぶこともせず、俺が破壊したドアガラスの弁償はしなくていいと言ってくれた。
俺のパンツとシャツ一枚は行方不明のままだが。
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しかし幽霊となったあの女の行動からすると、あの女は単純にここへ洗濯に来て襲われ、殺されたのではないように思える。
女性がそのような事をすることはあまり聞かないが、彼女が他人の下着を盗もうとしたところでその客と揉め、挙句の果てに殺されたのかもしれない。
そう考えるのが、しっくりとくるのだが。
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◇◇◇◇
後日、そのコインランドリーの前を通ると営業時間が午前零時までに変更になっていた。
あの女は、灯りの消えた誰もいないコインランドリーで、未だに店のフロアを徘徊しているのだろうか。
…
あのパンツは彼女からのプレゼントでお気に入りだったのだが、もう戻っては来ないだろうな・・・
…
◇◇◇◇ FIN
作者天虚空蔵
コインランドリーをネタにした怖話も多いですね。
このサイトで検索したらずらっと出てきました。
同じような話がないかをチェックしようとしたのですが、諦めました(笑)