給食の時間を目前に控えた四時間目の授業の途中、急に腹痛を覚えた僕は、先生にことわって、クラスメイトたちにひやかされながらトイレに立った。
手早く用を足し、急いで教室に戻る途中、奇妙なものを見た。
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僕のクラスである6年4組の教室前の廊下には、すでに給食の配膳ワゴンが横付けされていた。
今日の献立は、皆の大好きなカレーライスだった。空腹を刺激する良い匂いが、遠くから漂ってきている。
そのワゴンの横に、クラスメイトの伊藤くんが立っていた。
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伊藤くんは太っちょで食いしん坊な男の子だった。運動が苦手で肌が色白く、気が弱くて泣き虫な、そんな子だ。
彼は、配膳ワゴンに積まれた大きなカレー鍋をぼんやり見つめていたが、おもむろに蓋を外すと、その鍋の中に頭を突っ込んだ。
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どぶん。
ずる……、ずる……、ずる……。
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銀色の鍋の中に、伊藤くんの頭、肩、胴体が飲み込まれていく。下半身がそれに続き、やがて彼の身体は完全に見えなくなってしまった。
いくら大きな鍋だとはいえ、小学6年生の男の子が入れるほどじゃない。まして身体の大きな伊藤くんが、すっぽり収まってしまうだなんて……。
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やっぱり……。
伊藤くんはもう、以前の伊藤くんではないのだ。
彼はちょうど一月前、クラスでのイジメが原因で、自殺してしまっていたのだから。
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ずずず……。
かぽん。
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最後に、鍋の内側から伸びた手によって蓋が閉められ、すべてが元通りになった。
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授業が終わり、給食の時間になった。皆、待ちに待ったカレーライスに大騒ぎだ。
特にクラスのリーダー的存在である木下くんや、その仲良し連中は、カレーを何杯おかわりできるか競争している。
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僕はというと、配膳されたカレーに一向に手が出せないでいた。
それはもちろん、さっき廊下で見た光景が原因だった。
今も、目の前のカレーライスには、バラバラに砕けた伊藤くんの一部が浮かんでいるのが視えている。
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ぱちぱち。
半透明の左目がまばたきしながら、じっと僕のことを見上げていた。
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「食べないの?」「どうした? 早く食えよ」
同じ班の友だちから催促される。カレーを残すなんて、僕らの中では重罪なのだ。
意を決して、目をつむってカレーを頬張る。
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ぐに。
肉でもない、ニンジンでもじゃがいもでもない気味の悪い食感が口の中に広がった。その瞬間、思わず吐き戻してしまう。
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「うわ、きたねっ!」
吐き気に続いて、激しい目まいと猛烈な悪寒が押し寄せてきた。身体中から冷や汗が吹き出し、手足が痙攣して、僕は椅子からずり落ちてしまった。
その時――。
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「おい、木下! 木下ってば!」「山崎、しっかりしろ! 大丈夫かよ!」「先生、野崎くんが! 野崎くんが!」
教室のあちらこちらで悲鳴が上がっていた。
薄れゆく意識の中、僕は、伊藤くんの気配をすぐ近くに感じていた。
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後になって母親から聞いた話だと、あの日は本当に大変だったそうだ。
6年生の各クラスで、カレーを食べた生徒たちが次々と嘔吐し、中には意識を失い倒れた子もいたそうだ(僕もその中のひとりだ)。
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学校には救急車が呼ばれ、症状が重い子はただちに病院に搬送されたらしい。うちのクラスでいえば、大食い競争で何杯もおかわりをしていた木下くん、山崎くん、野崎くんなんかがそうだ。
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ちなみに彼らは、伊藤くんイジメの中心メンバーで、筆箱に虫の死骸を入れる、上履きを隠すなんてことから、多額のお金を巻き上げるなんてエグいことまで、色々とやっていた。
そのことは、ことなかれ主義の先生や学校がいくら隠そうが、クラスの誰もが知っていた。
それでも伊藤くんに手を差しのべられなかったのは、木下くんたちに逆らえば、自分が新たなイジメの標的にされるだろうことが、目に見えていたからだ。
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それはともかく、気になるのは生徒たちが倒れた原因だと思う。
僕が視た伊藤くんの幽霊のせい……なんて、非科学的なことではもちろんなく、校外の給食センターから6年生のクラスに届けられたカレーの中に、毒物が混入されていたからだった。
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毒物の正体は、毒キノコだった。
毒キノコを入れたのは、給食センターのおばさんだった。
給食センターのおばさんは、伊藤くんのお母さんだった。
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毒キノコの量がそれほど多くなかったため、生徒たちに深刻な影響は出なかった。
僕の場合もそうだったけど、あの日、泡を吹いて病院に担ぎ込まれた木下くん、山崎くん、野崎くんにしても、翌週にはピンピンして登校していたくらいだ。
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ただ、給食のおばさんが給食に毒物を混入したこと、その原因がイジメで自殺した子供の復讐であった事実は、世間の注目を集めた。
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連日、テレビ局の報道車が学校の周りを取り囲み、僕らはマイクを持った大人たちに追いかけ回されることになった。
学校は、保護者に対して何度も説明会を開くことになったし、それらは毎回紛糾したそうだ。
やがて、イジメを隠蔽していた事実が明らかになると、クラス担任、学年主任、教頭先生、校長先生、教育委員長が次々と辞めさせられた。
そして、ネットの特定班とかいう人たちが、イジメの主犯格だった木下くんたちの、顔や、住所や、家族構成なんかの情報をネット上にさらしあげると、彼らは皆、どこかに転校していった。
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そうしてようやく、僕らの学校は静けさを取り戻した。
カレー事件から半年が過ぎていた。
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ふと思う。
あの日、カレーを口に含んだ時に僕が気づいた妙な食感は、きっと毒キノコのかけらだったんだろう。
でも、廊下で視た鍋に入っていった伊藤くんは、そして、カレーの中に浮いていた半透明の左目は、いったいなんだったんだろうか。
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あの日以来、僕はすっかりカレーが苦手になってしまった。
作者綿貫一
「先生」「空腹」「筆」。
それでは、こんな噺を。