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中編5
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たまよばい

 山で、死んだものの名前を呼んではいけない。

 帰ってきてしまうから。

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 私の夫の田舎は、長野の山深い場所にあった。

 5年前に息子の洋一が生まれてから、義父母は孫の顔見たさに、ことあるごとに里帰りをすすめてきた。

 幼い息子も自由に駆け回れる田舎の環境を気に入っていたので、私たち家族は度々夫の実家を訪れていた。

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 洋一がやってくると、義父母はたいそう歓迎してくれた。

 義母は毎食、息子の好物を山ほど振る舞ってくれた。

 義父は洋一をよく川へ釣りに連れていってくれたし、夏には早起きをして一緒に森へ行き、カブトムシやらクワガタムシやらをたくさん捕まえてくれた。

 洋一は、彼の祖父母が大好きだった。

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 洋一がどんなにワガママを言っても、ひどいイタズラをしても、それらを無条件で許すほど孫には甘い義父母だったが、たった一度だけ、奇妙な対応を見せたことがあった。

 それは、実家で飼われていた犬のコロが老衰で死んだ時のことだった。

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 その時、洋一はたいそう動揺した。

 いつも、帰省する度一緒に遊んでいた大好きな老犬が、唐突に「もういない」と告げられたのだ。幼い息子にはショックだったことだろう。

 すぐには事実を受け入れられなかった洋一は、空になった犬小屋の中を覗いてみたり、小屋のまわりをグルグル何度も回ってみたりして、必死に彼の友だちを探した。

 そして、ついには空っぽの首輪を手に、夕暮れて影になった山々に向け、泣きながらコロの名を叫んだのだった。

 私は、息子の行動を見て切なくなり、同時に胸を打たれていたが、その時である。

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「やめぇっ!」

 義父が不意に、これまで見せたこともないような恐ろしい形相をして、大声で洋一を叱りつけた。

 あまりの剣幕に、息子は思わず駈けてきて、慌てて私の背中に隠れたほどだった。

 私も危うく腰を抜かすかと思った。

 その後、初めて叱られたことで彼はすっかりヘソを曲げてしまい、「今日はじいちゃんと一緒に寝てやんない!」と宣言し、義父をおおいに凹ませていた。

 

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 その晩のこと。

 偶々リビングでふたりきりになったので、私は義父に、昼間声を荒げた訳を尋ねてみた。

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「すまんかったのう。洋一が、お山に向かってコロの名を呼んどったから、つい、のう。ああ……よそじゃあどうかしらんが、ここらじゃ昔から、山で死んだものの名を呼んではいかんことになっとるんだ」

 里で、山に向かって名を叫んでもいけないそうだ。

「なぜなんですか?」

 私の問いかけに、義父は苦い顔で一口茶をすすり、それから言った。

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「――帰ってくるからだ」

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「帰ってくる……?」

「ああ。死んだもんが、帰ってきちまう。だから、名を呼んだらいかんのだ」

 帰ってくる。死んだものが、山から帰ってくる。

 恐ろしい。

 しかし、見ず知らずの人間なら恐ろしいだけだが、相手が親しい人や愛する人ならどうか。

 もう一度会いたいと思う気持ちは沸くはずだ。

 義父は言った。

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「お山はあの世だ。死んだもんは、皆お山に行く。ご先祖さんもそうだったし、儂らもいずれな。……だがな、それは呼び戻したらいけんもんなんだ。一度お山に入った魂は、もうお山のもんなんだ」

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 以前なにかの本で読んだ、「山中異界」という言葉が頭に浮かんだ。

 山は生者が暮らす里とは、異なる世界なのだ。

 一度、彼岸の住人となったものを、みだりにこちら側に招いてはいけない。

 本来、盆の迎え火や送り火のように、適切なプロセスが必要になるのだろう。

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「都会育ちのアンタに、こちらのしきたりを押し付けて悪いんだが、どうか洋一に注意してやってくれ。今日のように、里の中でならまだしも、お山の湖では決して……いや、」

 義父はなにかを言いかけて、慌てて口をつぐんだ。

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「――着いたぞ」

 車に揺られながら、半年前のことをぼんやりと思い返していた私は、運転席に座る夫から声をかけられて我にかえった。

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 私たちふたりが乗った車は、真っ暗な山中で停車した。

 正面には、ヘッドライトの光に湖面の一部が浮かび上がっている。

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 車から降りると、秋口だからというだけでは言い表せない、魂が凍えるような、そんな冷気を感じた。

 ヘッドライトが消え、完全に闇に包まれる。

 ここはもう、山中の異界だった。

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「俺も、ガキの頃からよく言われてきたよ。お山で、死んだもんの名を呼んだらいけないって。特にこの湖の、こちらの岸部からあちらの岸部に向かって、それをしたらいけないってさ……」

 ふたりして、しばらく黙って湖畔にたたずむ。

 そのうちに徐々に目が慣れてくると、闇に奥行きが生まれてきた。

 向こう岸には社があるようで、朽ちた鳥居が立っているのが見えた。

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 不意に、夫が叫んだ。

「洋一ー!」

 つられて、私も叫ぶ。

「洋一、洋一、洋一ー!」

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 ほんの一月前、家の近所で車に跳ねられ、死んだ息子の名前。

 それを、けして呼ぶなと言われた場所で、声の限りに叫んだ。

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 禁忌だと。

 タブーだと。

 わかっていて尚、時に人はそれを破る。

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 もう一度会えるなら。

 帰ってきてくれるなら。

 たとえ、その先にどんな罰があろうと、私たちは。

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 いったい、どれくらいそうしていただろう。

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 ひょこ。

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 不意に、対岸の朽ちた鳥居の陰から、小さな人陰が顔を覗かせた。

 小さな小さな、豆粒みたいな人陰だ。

 でも、私たちは間違えない。

 あれは。

 あれは洋一だ。

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「洋一! 洋一なのか!」

「洋一、おいで! こっち、こっちよ!」

 片田舎の言い伝えだ。正直、信じてなどいなかった。

 科学万能の時代に、死者がよみがえるなど。 

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 でも。

 なら。

 目の前の事実をどう捉える?

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 あまりにも幸せな怪奇を。

 待ち望んだ非日常を。

 目の錯覚だというのなら、すぐにこの眼球をえぐって捨ててやる。

 私は、息子がいてくれる、狂った世界の方を信じたい。

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 だが。 

 それでも。

 やはり世界は残酷だった。

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 ひょこ。

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 ひょこ。

 ひょこ。

 ひょこ。

 ひょこ。

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 鳥居の陰から次々と。

 わらわらと。

 小さな人陰「たち」が顔を出した。

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 あれも洋一。

 あっちも洋一。

 あれも。

 あれも。

 あれも。

 あれも。

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『呼び戻したらいけんもんなんだ。一度お山に入った魂は、もうお山のもんなんだ』

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 義父の言葉がよみがえる。 

 涙がにじんだ。

 夫は静かに私の肩を抱いてくれた。

 その手が、かすかに震えていた。

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 ケタケタケタケタケタケタ。

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 彼岸から、ナニカの嗤い声が、まるでヒグラシの輪唱のように聞こえてきた。

 

 

 

   

 

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