長編10
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裏路地のスナック

それなりに酔っていたのは間違いない。

ボーナス直後の金曜日ということで五時に仕事を終え、同僚三人で飲みに出かけた。

三人とも四十を超え、仕事と家族サービスの両方に対して息抜きをしたい年頃だ。

スタートが早かったこともあり、二軒、三軒とハシゴして、ふと気がつくとビルの間の裏路地にいた。

車も通れない、幅二メートル弱の薄暗い路地であり、路と呼ぶのもはばかられる。

両脇には空き瓶や段ボールなどが積まれ、人ひとり歩くのがやっとだ。

おそらく酔った頭でこの裏路地を抜け、ビルの向こう側の大通りへ出ようと思って足を踏み入れたのだろう。

時計を見るとまだ夜十時を過ぎたところで、慌てて帰るような時間ではない。

一緒にいたはずの同僚の姿も見えず、とにかくこの狭い裏路地を抜けようと歩き始めたところで、目の前にピンク色の照明が灯った高さ七、八十センチの立看板が現れた。

『すなっく 未来』

こんな裏路地では客なんか入らないだろうと思いながら看板に近づいて行くとそこには鉄の扉があり、『未来』と黒い太文字で書かれた木のプレートが貼り付けられている。

一応立看板にはスナックと書いてあるから性風俗系の店ではないようだ。

このようにひと通りの少ない場所でぽつんと営業しているような店は、ママさんひとり、もしくはもうひとり女の子がいる程度の小さな常連客目当ての個人営業の店が多く、ぼったくりの店のような雰囲気もない。

酒の勢いもあったのだろう、こんな場所でたまたま通りかかった以上、何となく立ち寄らないといけないようなお人好しの気分になり、店のドアを開けた。

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***************

「いらっしゃいませ。」

案の定、二坪ほどの狭い店の中には他に客はおらず、ママさんと思しき三十代後半くらいのドレス姿の女性がカウンターのスツールで脚を組み、暇そうに腰掛けているだけだった。

栗色のセミロングの髪が良く似合う美人だ。

「お客さん、うちの店は初めて?」

カウンターの中へ移動したママさんが、スツールへ腰を下ろした俺にそう言いながら、おしぼりを差し出した。

「ええ、たまたま通りかかったので、寄ってみようかなって。」

「そう。じゃあ今後はご贔屓にお願いしますね。何をお飲みになりますか?」

「それじゃ、ハイボールをください。」

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「私も何か頂いていいかしら?」

ハイボールとお通しを出しながらママさんが微笑んだ。

「いいですよ。でも今日は財布の中に三万円くらいしか入っていないから、その範囲でよろしくお願いしますね。」

「あら、うちの店はよっぽどの飲み方をしない限り、一万円もあればお釣りが来るわ。」

「それは嬉しい。安心して飲めるね。」

お通しは、やや大きめの器に入ったレンコンやニンジン、こんにゃく、サトイモなどの野菜と豚バラが入った煮込みだ。

こんな和風のお通しは、この手のお店にしては珍しい。

「美味しい。」

美味しい以上に、何故か非常に懐かしい味だ。

おふくろの味とは違う。

俺の母親は洋風の料理ばかりでこのような煮込みなどは作ってもらった記憶はない。

祖父母の家だったのだろうか。

「何だか日本酒が欲しくなっちゃいますね。」

「あら、あるわよ。冷やでいい?」

ママさんが冷蔵庫から出してきたのは『夫婦橋(めおとばし) 』という銘柄の純米吟醸酒だった。

「へえ、珍しいお酒を置いているんだね。俺の地元のお酒だ。」

「信濃大町のお酒ですよね。私も一緒に頂きます。」

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徳利ではなくワイン用の大きめのデカンタに日本酒を移し、ガラス製の涼しげなぐい呑みをふたつ並べた。

そしてお通しの煮込みをさらに大きな器に盛ってカウンターに置いた。

「もうこの後にお客さんは来そうにないから、全部食べちゃって貰えますか?」

「いいんですか?嬉しいな。頂きます。」

ママさんもカウンターから出てくると、俺と並んで座った。

「それじゃ、かんぱ~い。」

ママさんとぐい呑みをかちりと合わせて、お酒を口に運んだ。

洋風の料理を好む母親に対し、父親は信州の育ちらしく日本酒が好きで、盆、正月に実家へ帰ると必ずこの『夫婦橋』だった。

五年前に両親が他界してから実家に帰ることもなくなり、このお酒を飲む機会もなくなってしまった。

辛口の酒で、母親の作る洋風のソテーやフライなどとも不思議とよく合っていたことを憶えている。

「料理は美味しいし、お酒も口に合うし、ママさんは綺麗だし。これからこの店に通ってもいいですか?」

「ダメと言う訳がないじゃない。もしよろしければお名刺頂いてもいいですか?」

ポケットから名刺入れを出すとママさんに渡した。

「雄二さん・・・○○産業の総務次長さんか。幸せな生活を送っていらっしゃるんでしょうね。」

渡された名刺を見ながらママさんがぼそっと言った。

スナックのママさんにしては少し違和感のある言い方だ。

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「いや、我儘で金使いの荒い女房と、言うことを聞かない子供達に手を焼きながら、忙しい仕事に追われる毎日ですよ。だから逆にこうやってママさんみたいな人と穏やかに飲む、このひと時をすごく幸せに感じます。」

「あら、ありがとう。」

何故だろう、お世辞ではなくこのママさんと話をしていると非常に落ち着いた気分になる。

「雄二さんはお酒を飲んで昔のことを思い出したりしないの?あの頃は良かったな、とか。」

「あまりないんだよね。過去の幸せな思い出って。子供の頃はそれなりに楽しい思い出はあるけど、自分がその時間を生きていて心の底から幸せだって実感できたような思い出ってないかな。」

「そうなんだ。学生の時なんかは?」

「大学へ入るのに浪人して、東京に出てきてからは生きるのに必死だった。学生時代は少ない仕送りの埋め合わせでバイトに明け暮れ、なんとか就職して、職場の上司の紹介で今の女房と結婚して。何だか流されるままだったな。」

言われてみれば、改めて自分の幸せなど考えたことがなかった。

しかし、幸せを噛みしめることがなかった分、不幸を感じることもあまりなかった。

つまるところ、つまらない人生だということか。

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「ふ~ん、そうなんだ。」

「ママさんは、幸せって感じる時ってどんな時だった?」

「19歳の時、それまで大好きだった人と結婚できなかった時からずっと不幸の連続だったわ。」

ママさんは遠い目をして言った。

「19歳?随分若い時だったんだね。」

「うん、高校二年生の時に出会って、その人が大学に進む時に東京へ行ってしまってそれっきり。」

思い出した。

俺にも似たようなことがあった。

同じように高校二年から一年浪人して大学に入るまでの三年間付き合っていた女の子がいた。

東京の大学に進学することが決まり、実家を出ていくときに必ず迎えに来るからと彼女に言い残して東京へ出てきた。

しかしその年の冬、正月休みで実家に帰省してその子に連絡を取ろうとしたのだが、彼女の実家の稼業がうまくいかずに倒産し、一家全員で夜逃げをして行方が分からなくなっていた。

俺は必死で友人や近所の人に聞き回ったが、夜逃げをした家族の行先などそう簡単に分かるはずもなく、結局そのままになってしまったのだ。

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「その子のことを探したんだ・・・」

「ああ、それから二、三年ぐらいの間は帰省するたびに聞き回って、でも見つからず・・・いつの間にか諦めてしまった。」

「嬉しい。」

ママさんは意味の分からない短い言葉を呟くと自分のハンドバックを開けて小さなプラスチックのケースを取り出した。

その中には小さなピンク色の石がついた指輪が入っていた。

「これ、憶えている?」

ママさんの手から指輪を手に取ってみた途端に思い出した。

それは俺が東京へ行くときにその女の子、新見智香子に必ず迎えに来るから待っていてくれと言って、なけなしの小遣いをはたいて買ったピンクトルマリンの指輪に間違いない。

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「なんでこれを・・・まさか、ママさん、智香子なの?」

あの頃、智香子はショートカットで、陸上部に所属していつも浅黒く日焼けしていた。

あれから二十年。

もちろん四十になっている智香子が高校生の頃のままの日焼けした顔でいる訳がない。

しかしママさんの顔を見ると確かに智香子だ。

じっと俺を見つめるその目を見つめ返すと、智香子はにっこりと笑った。

何故だかわからないが、その笑顔を見て目から涙が溢れ出てきた。

智香子の行方が分からず、必死に探していた頃の感情が蘇ってきたのかもしれない。

思い出した。

この豚バラの煮物は智香子の母親の得意料理だった。

智香子の家に遊びに行くと、よくご馳走になっていた。

大好物だった。

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************

「どこにいたんだ。あんなに探したのに。」

「阿佐ヶ谷・・・」

「は?いや俺のことじゃない。智香子がどこにいたのか聞いているんだ。」

「だから阿佐ヶ谷にいたのよ。大学の頃に雄二さんが住んでいた下宿から歩いて十分くらいのところ。雄二さんの傍にいたかったの。でも夜逃げしてまともな生活も出来ていない私は、恥ずかしくて、情けなくて雄二さんの前に姿を見せられなかった。」

何ということだ。

あれだけ必死で探していた彼女は俺のすぐ傍にいたのだ。

当たり前かもしれないが、東京で智香子を探そうなどという意識は全く持っていなかった。

「でもふと気がつくと雄二さんはまだ大学を卒業していないはずなのにいつの間にか阿佐ヶ谷からいなくなってた。」

そう、俺は大学四年になるとすぐに就職を決め、通勤に便の良い埼玉の所沢に引っ越しそこから大学に通っていたのだ。

「悲しかった。」

目の前の智香子も目に涙を浮かべている。

「智香子、抱きしめてもいいかな。」

酔いも手伝ってか、俺は心の中に湧きあがってくる衝動を抑えきれず、隣に座る智香子の肩を抱き寄せると固く抱きしめた。

智香子も俺の背中に腕を回し、ゆっくりと力を込めてきた。

「ねえ、ここじゃなくて向こうのボックス席に移りましょ?」

智香子の言葉に従い、そのままボックス席のソファに移動した。

体を密着させるように智香子を抱きしめ、唇を重ねる。

あの頃はまだ肉体関係はなく、こうして抱き合ってキスをする程度だった。

こうやって再び唇を重ねると、その感触も匂いもあの頃の感情がまざまざと蘇ってくる。

酒のせいなのか、その懐かしさのせいなのか、絡めてくる智香子の舌の感触に昨今感じたことがなかったうっとりとした気分に浸った。

そして・・・・・

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◇◇◇◇◇◇◇◇

気がつくと裏路地でゴミの間に座り、ビルの壁に寄り掛かって寝ていた。

周囲はもう薄明るくなってきている。酔っ払ってここで眠ってしまったようだ。

あれは夢だったのだろうか。

唇を重ね、舌を絡めた後の記憶がない。

慌てて体を起こし、ビルの壁を振り返るとすぐ横にスチール製の扉が見える。

しかしそこにはあの店の名前が記された木のプレートは無く、ドアノブだけが突き出したベージュ色でのっぺりとしたドアがあるだけだった。

そのノブに手を掛けて見ると鍵は掛かっておらず、ドアは難なく開いた。

しかし覗き込んでみると、そこは単なるビルのゴミ置き場だった。

中に入ってみたが、幾つもの黒いゴミ袋が転がっているだけで、あの店の面影は全くない。

やはり夢だったのだ。

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しかし何故に今更二十年も音信不通になっている彼女の夢なんか見たのだろう。

あまりにリアルな夢だった。

路地裏から大通りに出ると今いる場所はすぐに分かった。新宿と新大久保の中間あたりだ。

新宿南口で飲んでいたはずだから随分歩いたことになる。

最寄りの駅は西武新宿駅辺りだろうか。

駅の改札へ向かう階段を昇りながら、ポケットに手を入れて財布を探した。

するとポケットの中で指先が小さな硬いものに触れた。

何だろうと取り出してみると、それはピンクトルマリンの指輪だった。

「智香子・・・」

夢ではなかったのか?

昨夜、俺は何処に行っていたのだろう。

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◇◇◇◇

数日後、指輪を握りしめてあの日と同じ夜十時過ぎにあの場所へ行ってみた。

しかしあるのはやはりゴミ捨て場のドアであり、あのスナックは何処にもない。

「智香子・・・また消えちまいやがった・・・馬鹿野郎。」

俺は小さくそう呟くと、泣きそうな気持でその裏路地から日常の待つ大通りへと戻って行った。

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◇◇◇◇

それから半年後、俺は妻と別れた。

もちろんあの夜、智香子に愚痴ったように女房に対し日頃から不満はあった。

しかしそんな事よりも、今のような中途半端な煮え切らない人生を過ごしていると、もう二度と智香子に逢うことは出来ないという気持ちになってしまっていたのが本当の理由だった。

家も貯金も慰謝料として全て女房と子供に渡した。

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そして俺はまた阿佐ヶ谷に小さなアパートを借りて暮らし始めた。

時折、新宿のあの場所を覗いて見たりするのだが、未だ智香子に逢うことは出来ていない。

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一体俺は何をやっているのだろう。

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高校、大学時代の想い出に引き摺られ、四十を超えて家族を捨てた。

指輪のことは解らないが、あの夜の出来事は酔った上での夢、俺の妄想だったのかもしれない。

妄想じゃないとすれば、あれは智香子の亡霊が俺に逢いに来たということなのか。

そうだとすると智香子はもうこの世にはいないということになる・・・

どちらにしても俺に望むような結末は待っていないという事だ。

俺は家族を捨て、そして何を求めているのか。

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妄想にしろ、亡霊にしろ、何故に智香子は表面だけでも平穏な暮らしをしていた俺の前に現れたのか。

いずれにせよ、馬鹿だよな、俺は・・・

◇◇◇◇ FIN

Concrete
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