22年11月怖話アワード受賞作品
長編9
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善意が呼ぶ悪意

ある日の通勤時間のこと。

自宅の最寄りの駅は始発駅なので、都心まで座ったまま通えるのが大きな利点だった。

今日も今日とてロングシートの端っこ、ドア横の定位置の席に腰を降ろすと、僕は早速、鞄から文庫本を取り出した。読みかけの推理小説がいよいよ佳境なのだ。

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しばし読書に没頭していると、いつの間か車内は混雑していた。

ふと顔を上げると、目の前に、腰の曲がったお婆さんが杖を持って立っている。

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「あの、よければどうぞ」

手元の文庫本を閉じると、すぐさま席を譲る。

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僕はこういう時、ためらわずに行動することにしている。人によっては善人ぶっているように映るかもしれないし、声を掛けられた側も、かえって気を使ってしまうかもしれない(すぐ次の駅で降りるつもりだった、なんてこともあるからだ)。

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ただ、気にしつつも行動しないでモヤモヤするくらいなら、「えいや」とやってしまった方が気持ちがいい。そして、だいたいの場合はちょっぴり感謝されたりするのだ。

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人から感謝されたら嬉しい、だからそうする。それでいいじゃないか。その程度の小市民なのだ、僕は。

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「ありがとうございます」

お婆さんは笑顔を浮かべて小さくお辞儀をすると、それまで僕が座っていた席におさまった。

僕は、立ったまま読書の続きに戻った。

そこから約十分。そろそろ乗り換えの駅が迫ってきた頃だった。

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(あ~?)

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混雑した車内。その隣の車両から、小さく男の叫び声らしきものが聞こえた。

電車には色々な人が乗り合わせる。僕ははじめ、さして気に留めていなかった。

しかし。

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「あ~?」

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その声は近付いてきた。

見ると、人の壁を強引にかき分け、誰かがこちらに向かってきている。

だが、その姿はまだ見えない。

なんだろう。危ない奴だろうか。

やがて。

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「あ~? あ~? あ~~~!?」

(おい!)

(押すなよ! ちょっと!)

(痛いって!)

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周囲から次々に迷惑そうな声が上がるが、それらを気にするでもなく奇声は動き続け、ついにその主が人垣からぬっと姿を現した。

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それは、タコのような赤ら顔をした禿頭(とくとう)の男だった。

その顔は若いようにも、歳がいっているようにも見える。

上下黒のパーカー姿で、身長は180を越えているだろうか。大柄だがヒョロリと痩せていて、手足は異様に細長い。

昆虫のような印象の男だった。

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気味悪さを感じ、正直「あまり近くにいたくはないな」と思っていると、

(プシュー)

ちょうど電車が僕の降りるべき駅に到着し、ドアが開いた。

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「どうも、ありがとうございました」

降りようとする僕に気が付いたお婆さんが、座ったまま再び頭を下げてくる。

小さく会釈してそれに応え、ドアの方に向かった――その時だった。

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「あー! あー! あーーー!!!!」

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突如起こった絶叫。

すぐ側まで来ていたその赤ら顔の男は、どこからともなく刃渡りの長い出刃包丁のようなモノを取り出すと、それを大きく振り上げた。そして、例の杖の老婆目掛けて凶刃を振り下ろしたのである。

一瞬の出来事だった。

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周囲から悲鳴が上がった。同時に、人の壁が大きく蠢いた。誰もが、突然目の前に現れた未知の危険から逃れようと、我先にと動いたからだった。

その波に押され、ものすごい力で僕は駅のホームへと吐き出される。慌てて足を踏み出し、なんとか転倒を免れた。

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と、背後のドアから大きな黒い影が獣のような素早さで飛び出してくると、猛然とホームを駆け抜けていった。

ホームにいた誰もが、呆気にとられてその場を動けずにいた。

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緊急停止ボタンが押されたのだろう。電車はいつまでも動き出さず、ドアも開いたままだった。

車内では大勢の悲鳴と、そして怒号が上がっている。

ドアの陰からちらりと、血に染まった老婆の左腕が見えた。

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僕はただ呆然と、それを眺めていた。

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僕の遭遇したその事件は、しばらくの間テレビやネットを騒がせていたが、「重体の被害者女性のその後」や「犯人逮捕」といった続報はなく、直後に報じられた「大物芸能人の不倫」という話題にすっかりかき消されてしまった。

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そんなある日のこと、僕はオフィス街を歩いていた。会社を出て、取引先に商談に向かう最中だった。

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「エクスキューズミー?」

不意に背後から声をかけられ、小さく飛び上がりかけたが、なんとか平静を装おって振り返る。

見ると、ブロンドヘアの若い男性が立っており、スマホをこちらに差し出して、しきりに何かをうったえていた。

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言葉は聞き取れなかったが、どうやら急いで駅に行きたいのだが、道がわからないので教えてほしい、ということらしい。

彼の目的地は、僕が今まさに向かっている駅であるようだった。

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「あー……その、ゴーウィズミー?」

「オー! サンクス!」

若者の顔が、パッと明るくなる。

思わぬ道連れを得たものの、会話ができるわけでもないので、そのまま先に立って駅を目指した。

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間もなく目的地に着くというところで、靴の紐がほどけかけていることに気が付いた。

「ステーションイズ、ニア、ニア」

僕はしゃがみこんで靴紐を直しながら、駅の方を指差して若者を促した。

こちらの意図が伝わったようで、「オゥ、セーンキュー! バーイ!」と言いつつ、若者は去っていった。

慣れない異文化交流から解放されて、ほっとため息をついた――その時である。

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(あ~?)

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雑踏の彼方から、小さく、その声が聞こえた。

はじめは空耳かと思った。

つい半月ほど前に地下鉄の車内で遭遇した、猟奇的な事件。

いくら近頃世の中が物騒になったとはいえ、この広い東京で、短期間に二度もソレと出くわすわけがない。そう信じたかった。

ところが。

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「あ~~?」

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聞こえる。

近付いている。

通行人をかき分け、こちらに迫っている。

アイツだ。いや、まさか。

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「あ~? あ~? あ~~~???」

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はたして、目の前に現れたソイツは、タコのような赤ら顔をした禿頭(とくとう)の男だった。

若いようにも、歳がいっているようにも見える顔。

上下黒のパーカー姿。

180を越えているだろう長身で、ヒョロリと痩せていて手足が異様に細長い。

昆虫のような印象を与える、あの男だった。

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背中に冷たい汗が流れ、動悸が激しくなる。

僕は、しゃがんだまま動くことができなかった。

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「あー! あー! あーーー!!!!」

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男はひときわ大きな奇声を上げたかと思うと、不意に猛然と駆け出した。

そして、僕の前を通りすぎると、ついさっき別れたばかりの、あのブロンドヘアの若者の背中に張り付いた。

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そのあとは前回と同じだった。

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再び振るわれた凶刃。

血まみれで崩れ落ちる若者。

パニックになる群衆。

混乱の中、姿を消す男。

焼き直しの悪夢のような光景を、僕はやはり、呆然と眺めていることしかできなかった。

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今度こそ、テレビもネットもその危険人物の話題で持ちきりになった。

警察も威信にかけてホシを上げると躍起になっている。

しかし不思議なことに、男の素性や行方はようとして知れなかった。

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ただ、僕だけは知っていた。マスコミや警察さえも知らない、ふたつの事件の共通点を。

それは、どちらの被害者も「僕が親切にした人間である」ということだった。

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一人目の老婆は、僕が席を譲った。

二人目の若者は、僕が道を教えた。

そこから僕が考えたこと。

それは、「僕の善意があの悪意のタコ男を招き寄せるのでは」ということだった。

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おかしな想像だということは自覚していた。

これではまるで、男がなにか、超常の存在であるかのようだ。悪意が具現化したような、そんな存在。

しかし、二度の遭遇を経て、あの男の持つ「人ならぬ感じ」を肌で感じていた僕にとって、その仮説は奇妙な説得力を持っていた。

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もちろん真実はわからない。

だが僕はそれ以降、行動を変えた。

つまり、誰にも親切をしなくなった。

満員電車で、誰にも席を譲らなくなった。

道がわからず困っている人にも、道案内しなくなった。

これまで聞いていた相談ごとやお願いごとも、スルーするようになった。

あきらかに嫌な人間、不親切な人間になったと思う。

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だけど、僕の善意がアイツを呼び寄せるなら。

その結果、また誰かが傷つくのなら。

はじめから可能性を潰しておいた方がいいのだ。

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またある日のこと。

場所はいつかと同じ、通勤途中の満員電車だった。

今日とて、定位置の席に座り、たとえ誰が来ても親切にしないぞ、席を譲ったりしないぞ、と心に決めていた僕の前に、ひとりの女性が現れた。

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お腹の大きな、若い妊婦さんだった。

連れ添いはいないのか、大きくて重そうなバッグを腕にかけたまま立っている。

そしてまずいことに、一目でわかるほど、彼女は具合が悪そうだった。その顔は真っ青で、額には脂汗が浮かんでいる。

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こんな女性を見て見ぬふりするのは、さすがに心苦しい。

しかし同時に、なぜよりにもよって、と僕は思った。なにも僕の前に立たなく立っていいじゃないか、と。

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いや、なにも僕だけが席を譲らなくてはいけないわけじゃない。そう思って周囲を見渡すが、隣の席の中年のサラリーマンも、さらに隣のOLも完全に寝ているようである。

こうなれば、やはり僕が対処するしかないのか。いや、それでもし、またあの男が現れたら……。

逡巡(しゅんじゅん)している僕の耳に、それは聞こえてきた。

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(あ~?)

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全身に電流が走ったようになり、背中に冷たい汗が流れ落ちる。

空耳か? いや、別人の声という可能性だってある。

だって、僕はまだ、目の前の妊婦に「親切にしていない」。

奴が現れる条件を満たしてないじゃないか。

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そもそも自分が勝手に考えた仮説なのだから、それが正しいのかすら微妙なのだが、その時の僕は「なぜ?」「どうして?」「理不尽じゃないか」と、ただただ混乱していた。

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「あ~~?」

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近付いている。

空耳なんかじゃない。そして、間違いなく奴の声だ。聞き間違いなんかじゃない。

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どうする? 逃げるか? 

いや、電車が次の駅に着くまで、まだ時間がかかる。それに、この混雑で人をかき分けどこまで移動できる? だいたい、僕のところにまで来ないかもしれないじゃないか。

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ぐちゃぐちゃな頭で思考を巡らせている中で、僕はあることに気がついてしまった。

それは恐ろしい考えだった。

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「僕の善意が、あの悪意のタコ男を招き寄せる」のではないとしたら。

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「タコ男が現れるタイミングで、僕がたまたま周囲に親切なことをしていた」のであって。

さらにいうと。

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「親切の見返りとして、僕にタコ男の危害が及ばなかった」のだとしたら――。

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それはもはや、妄想と呼ぶのが正しいかもしれない。

それでも現に今、僕が親切にする前に男は現れた。最初の仮定は、少なくとも崩れている。

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そこでさらに考えた。

もし「親切の見返りとして、これまで僕に危害が及ばなかった」のだとしたら、「今、目の前の妊婦に親切にしなかったら、僕はどうなる?」。

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僕が彼女の代わりに刺されるのか?

一人目の老婆と同じく、このまま席に座ったままで、頭上から出刃包丁が降ってくるのか。

あの日見た、血まみれの腕が記憶の中によみがえる。

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なら僕が今、妊婦に席を譲ったらどうなる?

彼女が、僕の代わりに刺されるのか?

その可能性を知りながら席を譲ることは、もはや善意とは呼べないのではないか?

それなら条件を満たせず、刺されるのはやはり僕になるのか?

いやそもそも、罪のない他人を身代わりにして、僕は自分自身を許せるのか。

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だがしかし、このままなにもしないでいいのか?

座ったまま、なにも起こらないことをひたすら願うのか?

席を譲るのか?

譲らないのか?

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「あ~? あ~? あ~~~?」

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声が近付いてくる。

もう時間がない。

僕は決断をした。

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僕は、

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