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長編15
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千日紅

圏央道から東北自動車道に乗り換え、羽生パーキングエリアで一旦休憩を取った。

日曜日の昼下がり、上り東京方面は延々と車の列が続いているが下りは順調だ。これから一気に宮城県の村田インターチェンジを目指す。

今日は伯父、岩谷健蔵の七回忌の法要なのだが、仕事の都合で昼前に都内を出発するのが精一杯だった。

俺、佐川正弘は今向かっている村田町出身で、都内の不動産会社で営業の仕事をしている。

今日が伯父の法事だということは前々から分かっていたのだが、大事な顧客から今日の午前中に打ち合わせをしたいという申し入れがあり、昼からの法事には出席できなくなってしまったのだ。

しかし早くに父を亡くし女手ひとつで俺と妹を育ててきてくれた母、友恵をずっと援助し、甥、姪である僕ら兄妹に対しても、とてもよくしてくれた伯父であり、法要に間に合わないとしても花と線香を手向けるだけでもと思い、訪れることにしたのだ。

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◇◇◇◇

かなり太陽も西へ傾いてきたところでようやく村田インターチェンジを降りた。

母は二年前に癌で他界し、妹も半年前に結婚して町を出てしまったので、村田町に直接の肉親はもう誰もいない。

伯父は村田町役場からそれほど離れていない場所にある龍谷寺というお寺に眠っており、携帯で連絡を入れてあったからだろう、寺の駐車場に車を停めるとすぐに本堂の方から喪服姿の妹が駆け寄ってきた。

「お兄ちゃん、お帰り。」

妹の早苗の嫁ぎ先は隣の石川町であり、今日の法事には最初から出席したはずだ。

「お兄さん、ご無沙汰しています。」

妹の旦那、つまり俺の義理の弟になる石川孝明も早苗の後からついてきてぺこりと頭を下げた。

役場に勤める公務員で礼儀正しく性格も穏やかで、妹は良い旦那を選んだと会うたびに思う。

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「今日は三人で鎌倉温泉に宿を取ってあるから、伯父さんのお墓参りを済ませたらすぐに移動しましょ。」

早く喪服を脱いでくつろぎたい妹に急かされ、背中を押されるようにして細い通路を抜け伯父の墓の前に来た。

ここの墓地は古い墓も多く、石で一段高く積み上げている墓はまばらで、多くが地面に直接墓石が置かれている。それでも墓の間の通路は幅一間ほどの石畳になっており、他人の墓に足を踏み入れることはない。

「私ももう一度挨拶したいからお線香を分けて。さっきは人が多くてきちんと伯父さんにご挨拶できなかったの。」

伯父の墓の前で、後ろを歩いていた早苗が俺の手から花と線香の半分を取って俺の前に出た。

その時俺は一歩後ろへ下がって早苗に道を開けようとしたのだが、背後にある墓の端に置いてあった石に足を取られてバランスを崩してしまった。

「お兄ちゃん、危ない!」

「おっと!」

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倒れそうになり、思わず身体を反転させるようにして後ろのお墓に手をついてしまった。そしてそのはずみに墓の前に置いてあった石の香炉を蹴飛ばしてしまったのだ。

俺は慌てて転がった香炉を拾い、特に割れたり掛けたりしていないことを確認すると丁寧に基の位置に戻した。

その墓は何年もの間、誰も訪れていないのだろうか、雑草が生え、花立てにも溜まった雨水が緑色に変色して枯葉が浮かんでいる。

棹石には家名が彫られておらず、戒名が直接刻まれている。

「ごめんなさい。」

俺は墓に向かってそう謝ると、伯父のために持ってきた花の中から真っ赤な花を数輪抜き取ると、そのお墓に供えて手を合わせた。

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「お兄ちゃん、やめなさいよ。見も知らぬ人のお墓に花を供えるなんて。」

「だってお墓を蹴飛ばしておいて知らぬ顔はできないだろう。」

そして改めて伯父の墓に花を供えようと振り返った瞬間、洋服の背中を誰かに引っ張られたような気がした。

振り向いても誰もいない。

おかしいなと思ったが、そのまま伯父の墓に挨拶をし、まだ寺に残っていた親戚達に挨拶を済ませると、東北自動車道を挟んで村田インターチェンジの反対側にある、鎌倉温泉へと向かった。

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◇◇◇◇

鎌倉温泉は宮城蔵王にあり、平沢という町から川沿いに山の中へ入って行ったところにある秘湯と呼んでいいような温泉場で、自然に囲まれた環境と傷によく効くという効能が人気の温泉だ。

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宿にチェックインを済ませると、まず義弟の孝明とふたりで露天風呂へ向かった。

日曜日の夕方だからなのだろうか、風呂には数人しか入っておらずガラガラだった。そしてふたりでのんびり露天風呂に浸かって近況を話している時だった。

「お兄さん、向こうでお湯に浸かっている人、女の人じゃないですか?」

孝明が顔を寄せて小さな声でそう言って指した方を見ると、こちらに背を向けている人影が湯気の向こうに見えた。十メートルほどの距離なのだが、頭の上にまとめた髪の毛と白く細いうなじはどう見ても女性だ。

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周りを見回すと他には誰もいない。

ちなみにこの露天風呂は混浴ではない。入り口で男湯と女湯に分かれていた。

「ここは男湯だよな。」

「間違いありませんよ。さっきの脱衣所にいた人もみんな男だったじゃないですか。」

そう言うと孝明は近くに寄って確かめようとしたのか、腰を低くしたまますっとその女性の方へ動いた。

その時、どこからともなく冷たい一陣の風が吹き、湯気が白く舞い上がった。

「あれ?」

湯気が収まった向こうには誰もいなかった。

湯面は穏やかで波立っている様子はなく、湯から上がった気配もなかった。

周りを見回してもそれらしい姿はない。

「いなくなっちゃった。今確かにここにいましたよね。」

孝明はそう言って女性のいた辺りに湯の中を移動して周りを眺めたが何の痕跡も見当たらない。

「湯気が一瞬そんな風に見えたのかな。」

「ふたり揃って、ですか?」

そのまましばらくその女性を見かけた辺りを気にしながら湯に浸かっていたが、その姿は現れなかった。

俺と孝明は首を捻りながらもこれ以上はどうしようもなく、のぼせてしまう前にと風呂を上がり部屋に戻った。

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◇◇◇◇

「随分長風呂だったわね。」

部屋に戻ると既に風呂から上がって待っていた早苗が口を尖らせた。

「いや、ごめん、ごめん。実はね・・・」

孝明が先ほど風呂であった出来事を簡単に説明した。

「それで延々とふたりで湯舟に浸かったまま、そのうなじの綺麗な女の人を待っていたの?ばっかみたい。さあ食事に行きましょ。」

大広間に移動して指定されたテーブルに座るとそこには豪奢な山菜料理が並んでいた。

「おお、随分張り込んだね。すごい御馳走だ。」

「そうでしょう?全部お兄ちゃんに付けてあるからよろしくね。」

「え・・・」

「嘘よ。ちゃんと割り勘にしてあるわよ。心配しないで大丈夫。さあ食べましょ。」

仲の良い身内三人での食事であり、気兼ねない会話に花が咲く。しかし俺は何気なく大広間の他のテーブルを見渡し、あの露天風呂で見かけた女性らしき人がいないか目で探した。

しかし俺たち以外は年寄りばかりで、後ろ姿しか見ていなくともこの中にあの女性はいないという事ははっきりと分かった。

「お兄さん、さっきの女の人を何気に探していましたね。それらしい人はここにいましたか?」

孝明も気になっていたのだろう、俺が首を横に振ると自分でもぐるっと周りを見回した。

「何よ、ふたりとも。そんなに美人だったの?でもここにいるのはお年寄りばっかりじゃない。幻でも見たんじゃないの?

あ、そうだ、それはきっと、昔この鎌倉温泉のある場所を教えてくれた出羽三山の女神様じゃない?きっとそうよ。」

しかし実際はそのようなありがたい女神様ではなかった。

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◇◇◇◇

ビールをかなり飲んでいたためか、食事の途中で孝明がトイレに立った。

しばらくして俺もトイレに行きたくなり、大広間を出てトイレに向かう途中で、戻ってくる孝明とすれ違った。

「お兄さん、あとでまた風呂に入りに行きましょうか。」

「ああ、いいね。」

そのままトイレで用を足し、大広間に戻るとふたりが心配そうな顔でじっと俺の顔を見ていた。

「お兄ちゃん、トイレで何事もなかった?」

早苗が不安そうな顔で聞いてきたが、俺には何を尋ねられているのか理解できなかった。

「何事って何?普通に用を足して戻ってきたけど?」

「お兄さんとさっきすれ違ったでしょう?そのあと大広間に入る時に何気なく振り返るとちょうどお兄さんがトイレに入るところだったんです。」

孝明がそう言って俺の方に身を乗り出してきた。

「そしたら、お兄さんのすぐ後ろに女の人が立っていて、お兄さんの浴衣の背中を掴むようにしてそのまま一緒にトイレへ入って行ったんですよ。」

もちろん俺にそんな認識はない。ひとりでトイレに入り、用を足して出てきただけで、女の人どころか周囲に誰一人いなかった。

「廊下ですれ違った時にはお兄さんの後ろにそんな女の人はいなかったし、そもそも男性用トイレに入ってしまうなんて普通じゃないから、様子を見に行った方がいいかなって早苗と話をしていたところだったんです。」

「いや、全然気がつかなかった。でもトイレに一緒に入ってくればイヤでも気がつくだろ?孝明君の錯覚じゃないの?」

そう言うと孝明は多少むっとしたように絶対見たと言い張った。

俺の後ろに立っていたのは、俺たちと同じこの旅館の浴衣を身にまとった髪の毛の長い女性で、年齢はよく分からなかったが、決して老人ではなかったそうだ。

「だから早苗と、トイレでお兄さんについていたのは、この世の存在ではない幽霊か何かじゃないかなって話していたんです。」

「やめてくれよ。」

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◇◇◇◇

大広間を出ると、妹夫婦の部屋で引き続き飲み始めた。

山の中の小さな温泉にしては小綺麗な旅館で、窓の外からは沢を流れる水の音が聞こえる。

「この温泉は、昔、伯父さんによく連れてきてもらったのよね。」

「ああ、あの時はまだ古い建物だったけどね。この新しい建物にして随分客足が増えたらしいよ。」

早苗は立ち上がって掃き出しの縁側に行くと窓を開けて庭を見渡した。

山の中で街灯などないが、建物からの光と月明りで庭の様子はよく分かる。秋口の山のそよ風が心地よい。

「この庭の感じは変わってないわね。なんとなく憶えているわ。」

この庭の風景には確かに見覚えがあった。

傍には母と早苗、そして伯父さんと伯母さんがいたような気がするが、はっきりとは思い出せない。

あれはいつの事だったのか。

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◇◇◇◇

「ちょっと風呂に入ってくる。」

一応新婚の妹夫婦に気を使って、俺はひとりで露天風呂へ向かった。

酒にあまり強くない孝明は結構酔っぱらっていたから、おそらくこのまま寝てしまうだろう。

時計を見るとまだ十時前だ。

露天風呂に行くと、もともとあまり客がいないこともあり、俺以外には誰もいなかった。広い露天風呂が貸し切り状態だ。

湯船に身を沈めて空を見上げると、満天の星空だ。

月がなければもっと美しいのだろうが、それでも東京ではこんな星空は望めない。

じりじりと動いて行く人工衛星を探しながらぼんやりと星空を眺め続けていると、ふと胸元の湯が波立つ感触を覚えた。

目線を湯舟に戻すとすぐ目の前には髪の毛を頭上でまとめた綺麗な女の人が首まで湯に浸かってこちらを見ていた。

年齢的には四十歳くらいであろうか。

目が合うとその女性はにっこりと微笑んだ。

「正弘くん、大きくなったね。」

誰だろう、その顔に見覚えはなかった。しかしこの女性は俺の事を知っているらしい。

「あなたは誰ですか?」

「小夜子よ。」

その名前を聞いて、昔の母親の姿が俺の脳裏を過った。

(小夜子さんが亡くなったんだって。)

続いて喪服姿の母親が俺の手を引いて言った。

(小夜子さんのお葬式に行くのよ。)

伯母だったような気がする。

しかしよく知っている伯父の奥さんはこの人ではない。

いったいこの小夜子という女性は誰なのだろう。

そして俺のつたない記憶によれば、彼女はもう亡くなっているはずだ。

ということは、いま目の前にいる女性は小夜子の幽霊という事になる。

その女性は俺の心の中を見透かしたように、すっと首まで湯に浸かったまま俺の横に移動してくると俺と並んで座った。

触れあった彼女の肩はちゃんと実感があり、とても幽霊とは思えない。

「正弘くんが小さかった頃は、こうやってお風呂にもよく一緒に入っていたわね。」

そう言われても、彼女が誰なのか思い出せない。

「小夜子さん、ごめんなさい。小夜子さんのことを全く思い出せないのだけど、伯母さん、ですよね?」

「そう。あなたと私は直接の血のつながりはないけれど。でも、健蔵さんの甥っ子だけあって若い頃の健蔵さんにそっくりになってきたわね。」

小夜子はそう言うと湯の中で腕を組んできた。柔らかい胸が二の腕にあたる。

そうやって小夜子は俺の耳に口を近づけると、囁くように語ってくれた。

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****************

小夜子は今の伯母の前に伯父と結婚していた先妻だった。

彼女は子宝に恵まれず、どうしても岩谷家の跡取りが欲しい伯父はやむなく小夜子と離縁し、すぐに後妻を迎えたのだ。

伯父は小夜子と離縁した後も、身寄りのない小夜子に家を買い与えて面倒を見続けていた。

仲違いをしたわけではなく、伯父の都合で一方的に離縁したことに対する謝罪の気持ちだったのだろう。

元来優しく思いやりに溢れた伯父なのだ。

今から思えば伯父が俺たち兄妹にとても良くしてくれていたのは、もし自分に子供が出来なければ実の妹の子である俺たちを養子に迎えて跡を継がせるつもりだったのかもしれない。

小夜子への援助は新しい伯母との間に跡取り息子が出来てからも変わらず、そのことは伯母も理解したうえで小夜子が死ぬまで続いた。

俺の母は義理の姉であった小夜子と仲が良く、離縁した後も付き合いはずっと続いていた。

俺たち兄妹も小夜子にとって、甥姪にあたるべき存在であり、こよなく可愛がってくれていた。

そんな小夜子はできるだけ伯父に負担を掛けたくないと言って、女手ひとつで俺たちを育てていた母と一緒に同じ職場で働いていたのだが、身体がさほど丈夫ではなかった小夜子は四十歳手前という若さで体を壊し、息を引き取ってしまった。

そして伯父は小夜子が亡くなると、岩谷家の墓の傍に小さな墓を建てて葬ったのだ。

将来自分が入るであろう墓の傍に置いておくという事は、小夜子の事を伯父がずっと愛していたことに疑う余地はないだろう。

「健蔵さんには感謝しているわ。跡取りを産むことができない、役立たずの私を最後の最後まで面倒見てくれたのだから。」

小夜子の幽霊は俺の肩に頭を乗せてしみじみと言った。

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そのとき露天風呂の入口の方から声が聞こえた。

「お兄さん、大丈夫ですか?溺れてない?」

浴衣姿で露天風呂に出てきた孝明の方を向いた瞬間、横から存在感が消えてなくなった。

「どうしたんですか?きょろきょろして。風呂から戻ってくるのが遅いから様子を見に来たんですよ。」

「ああ、綺麗な星空を見ながらぼっとしていただけだ。もう出るよ。」

俺はそう言って立ち上がり、もう一度周りを見回したが小夜子の姿はどこにもなかった。

しかし、ふと思い出した。

子供の頃にこの温泉へ来た時に伯父と一緒だったのは小夜子だった。

風呂から上がると、俺は妹夫婦にお休みを言ってそのまま自分の部屋に戻り、すぐ寝てしまうことにした。

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布団の中に入るとすぐに眠気が襲ってきた。午前中は東京で仕事をし、宮城まで移動して叔父の墓参り、そして今は宮城蔵王の温泉にいる。

長い一日だった。

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◇◇◇◇

朝、目を覚ますと、枕元に何かが落ちているのに気がついた。

手に取ってみると、それは赤い千日紅(センニチコウ)の花だった。

「やっぱり・・・あの墓だったのか。」

昨日、蹴飛ばしたお墓にお詫びとして備えた花が、この千日紅だった。

それまで紫系の花しか見たことがなく、こんな真っ赤な千日紅があるのかと思いながら墓に供えたことをはっきりと憶えている。

あのお墓は小夜子の墓だったから、戒名だけで家名は彫られていなかったのだ。

とりあえず気を取り直して朝風呂を浴びようと大浴場に向かった。

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他には誰もいない脱衣所で浴衣を脱ぎ、手拭いを片手に浴室の扉をがらがらと開けた。

「健蔵さん」

浴室に響き渡る声がしたかと思うと、背中に少し冷たく柔らかいものが抱きついてきた。

まさか夜が明けてからも来るとは思っていなかったのでかなり驚いたが、昨夜のように金縛りの状態ではなかったため、すかさず振り返った。

しかしそこには誰もおらず、無人の脱衣所があるだけだった。

小夜子の仕業であることは分かりきっている。

俺はそのまま浴室に入ると湯船に身を沈めた。

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こうやって誰もいないところで小夜子の幽霊が出てきても、悲鳴も上げず、逃げ出しもしないのは、小夜子がごく自然な姿で現れることもその一因であるのだろうが、なにより小夜子は俺に対し酷いことはしないという絶対的な信頼が心の中にあるのだ。

「健蔵さん」

湯船に浸かっているとまたどこからともなく声がした。

「俺は正弘で、健蔵伯父さんじゃないですよ。」

他に誰もいない浴場で、目に見えない小夜子に声を掛けてみたが何の反応もなかった。

その後は何も起こらずゆっくりと湯に浸かったあと、脱衣所で身体を拭いていると再び背中に冷たい身体が抱きついてきた。

もうこうなると特に驚きもしないが、振り返ってみるとやはり誰もいない。

しかし今回は抱きついている感触はそのまま続いている。

脱衣所の壁にある大きな鏡を見ると、全裸で俺の背中に抱きついている小夜子の姿がはっきりと映っていた。

「小夜子さん、俺は甥の正弘で健蔵伯父さんじゃないですよ。」

しかし小夜子はそのまま抱きつく腕にさらに力を込めてきた。

「どっちでもいいのよ。健蔵さんも正弘くんもこうして抱きしめていたいの。」

どうしようかと思ったその時、見知らぬ男性ふたりがパタパタとスリッパの音を立てて脱衣所に入ってきた。

そしてその途端に小夜子が抱きついている感触が消えた。

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◇◇◇◇

朝食を取りながら、昨夜露天風呂で小夜子から聞いた話、そして今朝の大浴場での出来事を包み隠さず妹夫婦に話した。

「だから言ったじゃない、見知らぬお墓に花を供えるのはやめなさいって。」

早苗は眉間にしわを寄せて俺の事をなじった。

「まあ、結果として知らない人ではなかったし、実はあの時誰かに服を引っ張られたような気がしてよろめいたんだよね。」

俺の返事には関心がないように、早苗は黙って箸を動かしながら何かを考えているようだ。

「七年前に健蔵伯父さんが亡くなって、二年前にお母さんが死んじゃってから、そのあとは誰も小夜子伯母さんのお墓の面倒を見ていなかったんでしょうね。伯母さん、きっと寂しかったんだわ。そこへ昔可愛がっていたお兄ちゃんがお花を手向けたのよ。取り憑かれても仕方がないわ。」

「おいおい、取り憑くなんて。」

「だって小夜子伯母さんと所縁のないこの温泉に伯母さんの幽霊が現れるという事は、お兄ちゃんに憑いてきたに決まっているじゃない。このままじゃ東京まで連れていくことになっちゃうわよ。」

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◇◇◇◇

今日はもう出勤だという孝明を送り出して、俺と早苗は再び龍谷寺を訪れた。

墓地に入り伯父の墓に手を合わせると、その背後にある小さなお墓の前に立った。

墓石の前面には戒名と共に『南無阿弥陀仏』と彫られている。

そして墓石の背面を見ると小さく『俗名 小夜子 没年 平成24年9月18日』と刻まれていた。

どこにも苗字が刻まれていないのが不憫だ。

「健蔵さん・・・」

どこからともなくまた声がした。

俺は驚かなかったが、早苗は周りをきょろきょろと見回している。

彼女にも聞こえたようだ。

そして俺と早苗は寺の住職を訪ねた。

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**************

「そうか。小夜子さんがね。」

住職は俺の話を黙って聞くと、袈裟を被り大きな数珠を持って立ち上がった。

そして本堂を出て小夜子の墓の前まで行くと、住職は墓の前で俺に正座するように言った。

「小夜子さんを墓に戻します。」

そう言うと正座した俺の背後に立ち、経を唱え始めた。

そして何度も俺の背中を数珠で擦り上げるようにし、平手で俺の背中をぱんぱんと叩いた。

そうして十五分ほどそれを繰り返した後、経を唱える声が止まるとしばらく沈黙が続いた。

そして住職が大きく深いため息を吐き、俺に立ち上がるよう促した。

「終わりました。小夜子さんは無事にお墓へ戻りました。」

そのあと俺と早苗は住職と共に再び本堂へと戻った。

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◇◇◇◇

住職の話によると、霊がそのままお墓に居続けることはあまりないのだそうだ。

しかし小夜子の場合は健蔵が自分のために建ててくれた墓であり、愛する健蔵のお墓の目の前であることから、あのお墓に彼女の思いがずっと留まることになってしまった。

そして早苗が言ったように母の死後は墓参りに訪れる人もなく、寂しい思いをしているところに愛する健蔵とよく似た雰囲気を漂わせた俺に花を手向けられ、思わず憑いていってしまったのだろうと住職はどこか悲しそうに言った。

「あのお墓から彼女の霊を祓うことはできませんし、そんなことをしても意味はない。これからは健蔵さんのお墓参りのついでで良いから、小夜子さんのお墓にも立ち寄ってあげなさい。」

住職はそう言って俺の肩を叩き、俺と早苗は力強く頷くと早速その帰りに小夜子の墓に寄り、赤い千日紅の花を手向けると静かに手を合わせた。

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◇◇◇◇

「お兄ちゃん、千日紅の花言葉って知ってる?」

「いや。」

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「“色あせぬ愛”よ。小夜子伯母さんにふさわしい花よね。偶然とは思えないわ。」

「そうだね。」

俺と早苗は山門を振り返り、もう一度手を合わせた。

◇◇◇◇ FIN

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