中編5
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たらい舟

 中部地方に遊びに行った智子さんの話である。

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 興味を引く観光業があった。たらい船に乗って沖をぐるっと周る体験ができるらしい。

 それに乗って願い事をすれば縁起の良いことが起こる。と言われたが、信じてはいなかった。いなかったが、これはもうすぐ結婚を控えていた私の、女子旅の締めくくりとしては丁度良かった。

 旧友と1人ずつ、その人の出身地を旅する。そんなに友達は多くなかったので、今回であっけなく最後の一人になった。

 彼女の名前は皇子。初対面で美しい、上品な名前と言われるが、性格はそれなりである。部屋がいつも散らかっていたり、突拍子の無い行動をしたり。

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「え?終わり?」

 私は呆気に取られた。

 港にやってきた私達の前に映ったのは、船頭さんたちが引き上げてゆく光景だった。

 今は午後3時。まだ閉める時間じゃないはずだ。

「すみません。もう終わるんですか?」

「ええ、まあ、しきたりで」

「しきたり?」

「今日の夜はみんな、ウチで過ごすんです」

「はあ」

 慌ただしくしているので、それ以上は追求しなかった。皇子は変わらずニコニコしながら言う。

「ごめんね。せっかく来たのに」

 私は手を左右に振った。別に乗れないからどうということはない。

「大丈夫。お酒買ったし、ここで海を見ながら飲もうよ」

「彼も海が好きなんだって?」

 婚約者と皇子に面識はない。

「そうみたい、私とはまだ行ったことないけどね」

 あまり見ない、紫色の夕焼けだった。少々不気味だったが、海は大層静かで、さらさらした小粒の光を反射している。

「綺麗だね」

 そのへんを散歩するうちに夕方になり、頬に当たる風が冷たくなってきた頃だった。

「あ」

 と、皇子が指をさした。船頭さんが一人、小さなたらい舟の中で腰掛けている。

 笠で顔は見えない。皇子が腰を上げる。

「まだできるんじゃない?行ってみようよ」

「え」

 戸惑った。すでにたらいのことはどうでもいい気分になっていたからだ。そのまま皇子は船頭さんに話しかけ、こちらを向いて腕を輪っかにし<大丈夫>の合図を送った。

皇子はこんな風に、相談もなく行動に出る癖があった。

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「一人しか乗れないみたいだから、私は待ってるね」

 皇子が微笑む。船頭さんは海の方を向いて、準備を終えているようだ。

「わかった」

 床がぐらついて緊張した。こんなところに人が乗れるのかと感じたが、やめるわけにもいかないので思い切って体を預ける。

 乗り込むと小さな揺れを起こしたまま、舵が取られた。

「これけっこう怖いね」

 少しずつ陸が離れてゆく。

「智子。気をつけてね」

 皇子が笑って手を振る。私は海ではなく彼女を見ていた。彼女が離れていくことに、不安と、わずかな安心を覚えた。その理由を考えようとしたところで、櫓を操る船頭さんの口から何かが聞こえた。

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<みまかり、さぶし>

 今この人は何を言ったのか。

<げに、やをらたゆ、たゆ>

 何かがおかしい。喉が締め上げられるように苦しくなる。

 ぐらんぐらんと視界が煽られながらも、陸の方を見た。

 そんな馬鹿な、と思った。ほんのわずかな時間で、皇子に声が届かないくらいの距離になっていたのだ。

 私は首を横に振った。何か合図をしようとしたが、手が強張り、縁を掴んだ手が動かない。

<そらうそぶく、か>

 皇子がずっと笑っている。あんな、いつまでも笑って手を振れるものだろうか。

 見晴らしは良いのに周りには誰もいない。広大な海の真ん中まで来てしまった。たちまち恐怖がやってきた。

「あの」

 ここまで言って、続きが言葉にならない。

 水が跳ねる。

 木が軋む。

 服が擦れる。

 それらが絶望という形に代わる。

「返してください」

 やっと喉がまともになった。そして手を擦り合わせて頭を垂れた。

「ごめんなさいごめんなさい」

 櫓を握る手がぴたりと止まった。

<さらふ、ぞ>

 首をこちらに回そうとしている。そこで私の理性が極限に達したのだろう。上半身が逃げるように後ろに倒れ、そのままバランスを崩して海に落ちてしまった。

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 途端に別の苦しみが襲ってきた。全方向からやってくる水。凍てつくように冷たく、油のように重たい。

 いくらもがいても気力を奪われ、沈んでゆく。体を飲み込もうとする。

 離れなければ。

 そう考えながら意識を失ってしまった。

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 目が覚めたのはホテルの一室だった。なぜか衣服が濡れておらず、着の身着のままベッドに転がり込んだようだった。外は完全に真っ黒な夜だった。

 隣のベッドには皇子が眠っており、私の物音に気づいて目を覚ました。

「おはよう」

 ゆっくりと起き上がる。

「ここまで連れてくるの大変だったよ」

「どうして?」

「二人とも酔っ払ってたもん」

 そうだったか?と記憶を辿る。

「それより、無理に乗らなきゃ良かったね」

 私は小さな嫌味を込めてそう言った。皇子はきょとんとする。

「何が?」

「たらい舟のことよ」

「何言ってるの?この寒さでそんなの乗るわけないでしょ」

 皇子はくすりと笑った。

「皇子こそ何を言ってるのよ」

 では自分たちは何のために近場にホテルを手配したのか。

「私たちは旅行で」

 皇子は首をかしげて言葉を遮った。

「私たち?彼との時間を邪魔しないでよ」

 目を細くし、眠たそうにしている。彼とは私の彼のことを言っているのか?

 そんなはずはない。ただの寝言だろう。それ以上聞くのが怖くなり、無理やり眠ることにした。

 それから帰路に着いて別れるまで、皇子はなぜかずっと不満そうにしていた。ホテルまで運んでもらったこと以外に心当たりがない私には、ただ謝ってみることしかできなかった。

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 帰宅して1週間ほど経った頃、皇子さんとは突然連絡が取れなくなってしまい、今に至る。

 旅行先について調べたところ、その地域の伝承として、決して夜に外出してはいけない日があるらしかった。

 智子さんは無事に結婚したが、あれから二度と海へは行っていない。

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