政樹と三奈は三十歳で同い年の夫婦だ。
高校時代の同級生であり、政樹は文具メーカーに勤めるサラリーマン、三奈は薬剤師をしている。
出会って十五年、結婚して五年。
ふたりの仲は良く、子供は欲しいと思っているのだが、なかなか恵まれない。
それでも子供が出来た時の為にと、それまでのアパートから郊外に新築のマンションを購入したばかりだ。
都心へ通勤する政樹の通勤時間は長くなったが、三奈は運良く近場の薬局で仕事が見つかった。
そのため三奈が先に帰宅して夕食の支度をしながら政樹の帰りを待つのが常だ。
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その日、三奈が仕事を終えて帰宅し、さて夕飯は何にしようかとリビングでひと息ついた時だった。
床に何か小さな光るものが落ちている。
「何かしら。今朝出掛ける前に掃除したはずだけど・・・」
拾い上げてみるとそれはピアスだった。周りを見回しても他に落ちてはいない。片方だけのピアス。
それは三奈の物ではなかった。
そもそも三奈はピアスの穴を空けていない。
高校時代に白い糸の都市伝説を聞いてから何となく恐怖感があり、開けてもいいかなと思いながらずるずると現在に至っている。
もちろん政樹もピアスなどしない。
何故ここにピアスが落ちているのだろうか。
三奈は女性ばかりの職場に勤めていることもあって、自分の服かカバンのどこかに引っ掛かっていたのだろうと思うことにした。
しかし翌日の朝、チェストの上に置いたはずのそのピアスが無くなっていた。
この家の中には、政樹と三奈しかいない。
自分でなければ、誰がピアスを取ったのか聞くまでもない。
「政樹、ここにあったピアス何処へ持っていったの?」
しかし政樹は出勤の支度の手を止めることなく聞き返してきた。
「え?お前、いつからピアスなんかしてるんだ?それとも、友達のか?」
「私のじゃないし、友達を呼んだりもしてないわ。昨日仕事から帰ってきたらリビングに落ちていたの。それをここに置いておいたんだけど無くなってるのよ。」
「なんだそれ。ここに誰かがこっそり入ってきたって言うのか?しかも昼間にピアスを落として、それを夜にまた取りに戻ってきたってこと?」
「ええ?やだ。気持ち悪い。」
「とにかく他に変わった様子もないし、たぶん三奈の勘違いだよ。」
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しかしその三日後、今度はリビングのソファの上にレースの縁取りの付いたハンカチが落ちていた。
どう見ても女物だが、これも三奈の物ではない。
朝は政樹よりも一時間遅くマンションを出るのだが、鍵は確実に掛けている。
三奈が帰ってくるまで、誰かが鍵を開けて勝手に入ってきているのだろうか。
そこで三奈はふと政樹の仕業ではないかと思い始めた。
昼間、仕事を抜け出してここに女を連れ込んでいるのではないか。
そして翌朝チェストの上に置いたハンカチが無くなっているのを見て、三奈は政樹のポケットやカバンを調べた。
「何やってんだよ。」
いきなり、自分の持ち物チェックをされた政樹がむっとした顔で三奈に詰め寄った。
「だって、あなた以外に考えられないじゃない。昼間、ここで誰かと逢っているんでしょ?」
「何馬鹿なこと言ってるんだ。会社からこのマンションまで一時間半もかかるんだぞ。誰かと逢うのに何でここまで戻ってこなきゃいけないんだ!」
政樹の持ち物からハンカチは見つからず、疑われた政樹は怒りながら出勤していった。
よく考えれば政樹の言う通りなのだ。しかし他には考えられないではないか。
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その日、三奈は仕事から帰ってくるとリビングに何か痕跡はないか目を皿のようにして見回した。
何も落ちていないし、朝出掛けた時から特に変わった様子も見られない。
ほっとして着替えをしようと寝室へ入ったところで、全身が強張った。
朝、簡単に整えていったはずの寝具が乱れている。
やはり政樹しか考えられない。
しかしシーツだけでなくゴミ箱の中までも調べたが、寝具が乱れている以外に何の痕跡も見られない。
一体どういうことなのか。
夜、三奈はもう一度政樹に詰め寄ったが、政樹は相変わらず頭から否定してくる。
険悪な雰囲気になったところで、政樹が防犯カメラの設置を提案してきた。
防犯カメラというよりも、赤ん坊や老人を見守るための室内カメラだ。
政樹は自分ではないと否定しながらも、三奈の言うことはある程度信用していた。
三奈の言う通りならば、実際この部屋で何が起こっているのかを確認しなければならないと思ったのだ。
もちろん三奈はその提案に合意した。
その夜に三台のカメラがついたモニターを注文すると、翌日の夕方には届いていた。
政樹はそれを玄関、リビング、そして寝室に設置し、自分と三奈のスマホでその映像を確認できるようにセットした。
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そしてその翌日から三奈は仕事の合間に時間があるとスマホで画面をチェックしていたが、特に何も起こらない。
カメラをセットした途端に何も起こらなくなったとすると、やはり政樹が怪しいのではないかと思い始めた三日目の午後、政樹からラインで映像を見ろとのメッセージが入った。
仕事中の三奈はすぐにスマホを確認できなかったが、一時間ほどして休憩時間になると急いで映像を確認して見た。
スマホの画面には、三か所のモニターの画面が縦に並んで表示されている。
それぞれ見慣れた自宅の映像なのだが・・・
「え、何これ。」
一番下に映っている寝室の映像だ。
朝、整えたはずの掛布団が、足元の辺りでひと塊りになっているではないか。
そしてマットレスに掛けられたシーツの表面が動いているように見える。
まるでベッドの上に誰かがいるようだが、そこに人の姿は見えない。まるでベッドが生きているかのようだ。
三奈はここで初めて今回の出来事は人間の仕業でないということに思い至った。
その時だった。
いきなり一番上の玄関の映像に映っているドアが開いた。
そして開いたドアから飛び込んできたのは政樹だ。
先程ラインのメッセージを三奈に送り、すぐに会社を出たのだろう。
政樹の姿はすぐに玄関の映像から消え、寝室の映像にその後ろ姿が映った。
そしてベッドの横に立つとベッドに向かって、顔や手を小刻みに動かしている。
映像だけで音声はないのだが、その様子からすると、ベッドの上の何かと言い争っているように見える。
政樹にはその姿が見えているのだろうか。
三奈は、急用ができたと言って薬局を早退して飛び出した。
マンションまで自転車で十分ほどの距離だ。
「政樹!」
寝室に飛び込むとベッドの横に政樹が座り込んでいた。
ベッドを見つめ、何やらぶつぶつと呟いている。
一体何が起こったのだろう。
「政樹!どうしたの?しっかりして!」
三奈が政樹に駆け寄り、その肩を揺さぶると、政樹はぼんやりと視線を三奈へ向けた。
「ああ・・・三奈・・・」
「どうしたの?何があったの?ここに誰かいたの?」
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政樹の話によると、それは二週間ほど前の事だった。
政樹が会社を出てマンションへ帰る途中、路肩に見覚えのある女性が立っていた。
その女性は取引先の購買担当で、五年程前、政樹の会社の担当だった。
かなり引っ込み思案のおとなしい女性であり、よく購買担当などという仕事が務まるなと思いながらも、その会社は政樹の会社の主要な取引先のひとつであるため、政樹は精一杯の社交辞令を以って彼女に接していた。
彼女の性格の悪い上司が、取引先である政樹の目の前で彼女に対してねちねちと嫌味を言うのを政樹が取りなしたことも多々あった。
そんなこともあって彼女は勘違いをしたのだろう。
三奈と結婚する直前、何処からか噂を聞きつけた彼女は政樹の帰りを待ち伏せしていた。
そしていつものおどおどした口調ながら、はっきりと文句を言ってきたのだ。
自分のことを好きなのではなかったのかと。
政樹は、ここで場を取り繕うような曖昧な事を言うよりも、はっきり言った方がお互いの為だと思い、その女性に対し自分はあくまでも取引先の担当として接していただけで恋愛感情など一切ないことを告げた。
すると彼女は口を一文字に結び、目に涙を浮かべてくるりと踵を返すとどこかへ走り去って行った。
可哀そうだと言う気持ちは一切湧かず、逆に社会的な常識に欠ける勝手な思い込みを不愉快に思ったくらいだ。
後日、気まずいなと思いながらも政樹が仕事でその取引先を訪ねると、別の購買担当が彼の前に現れた。
そして彼女が消息不明になっていることを聞いたのだ。
いきなり会社に出てこなくなり、彼女の住んでいたアパートはもぬけの殻だったそうだ。
自分のせいかと思ったが、自分は何も悪いことはしていないし、正直、仕事で付き合うことが無くなったことに内心ほっとしていた。
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その彼女が五年も経った今、突然彼の前に現れたのだ。
政樹はもうその存在すらすっかり忘れていたが、その顔を見た途端に思い出した。
しかしその女性は、政樹が近づく前にその姿を消してしまったのだ。
隠れるような場所などない。
その時は自分の見間違いだと思った。
何故に見間違えたのが彼女だったのかという疑問は残ったが、気にすることはないと自分に言いきかせた。
しかし自宅に設置したカメラの映像にその女性の姿がはっきり映っていたのだ。
そしてこのままでは三奈の身に何か起こるかもしれないと慌てて帰宅したのだった。
「私の目には誰の姿も見えなかった。絶対にその女性はこの世の存在じゃないわね。」
政樹の話を聞いた三奈は真面目な顔でそう呟いた。
政樹は幽霊というものを信じていなかったが、三奈には見えていなかったとすると、今回のことは他に説明がつかない。
「私達には特にこれと言って変わったことはないから、その女の人に最近何かあったとしか思えないわ。政樹の事を想いながら病死したとか・・・自殺したとか?」
「おいおい、冗談でもやめてくれよ。」
しかし三奈は真剣な表情で何かを考えているようだ。
「でも、その人の姿は、政樹には見えるけど私には見えなかったでしょ?」
「うん。」
「だから、その人の想いというか意識は政樹にしか向いてないのよ。愛する人を奪った私に怒りの矛先を向けるなんてことはなかったってことね。」
しかし、あの女性がいなくなったのは五年も前なのだ。
そんなに長い間、どこかでずっと政樹のことを想い続けていたということなのか。
「ねえ、さっきその幽霊さんと何を話していたの?」
「もう一度、俺は君のことを何とも思っていないということと、ここは俺と大事な人の住む場所なんだから出て行ってくれって。」
「そしたら?」
「じっと俺の顔を見つめて、いや睨んで、そして消えた。」
「そう、それですんなり納得してくれればいいけど。」
政樹が困ったような表情を浮かべると、三奈はそれに苦笑いを返した。
「幽霊って人間の魂でしょ?」
「うん。知らんけど。」
「だから幽霊になったからって、そもそもの性格ってあまり変わらないと思うの。」
政樹は三奈が何を言い始めたのか理解できずにキョトンとしている。
「その女の人がとてもおとなしい性格をしていたのなら、幽霊になったからっていきなり狂暴になって私や政樹に危害を加えるとは思えないのよ。」
そんなものだろうか。
「だから、部屋にピアスやハンカチを残したり、ベッドに悪戯したり、政樹の浮気を私に疑わせるような痕跡を残して、私達が仲違いをするように仕向けようとしたんだわ。」
なんとなく筋は通っているような気がした政樹は、とりあえず三奈の話に頷いた。
三奈は台所から小皿に塩を盛って持ってくると、それを玄関の両脇に置いた。
「盛り塩が効果あるのか分からないけど取り敢えずね。それから明日は休暇を取ってお祓いに行ってきましょ。」
「わかった。」
「そんだけ政樹の事を想ってくれるその人の幽霊を祓っちゃっていいの?未練はない?」
「あるわけねえだろ。馬っ鹿じゃねえの。」
政樹がそう言って苦笑いした途端、突然ガタッという何かに蹴躓いたような音が聞こえ、何処からか女性のすすり泣くような声が聞こえてきた。
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しくしくしくしく・・・・
しくしくしくしく・・・・
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政樹と三奈は驚き、顔を引き攣らせて抱き合ったまま、何処から声がしているのかと部屋の中を見回している。
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しかしそのすすり泣く声は一分と経たずにフェードアウトするように消えた。
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そしてその後、政樹と三奈の周りで不可思議な出来事が起こることはなかったとさ。
…
◇◇◇◇ FIN
作者天虚空蔵
いまでも、ピアスの穴を空けると失明するって思ってる人いるんですよね。